天の仙人様

海沼偲

第146話

 唐突に、あまりに唐突に先ほどまでの黒一色に包まれている景色が変わる。あたり一面が土色に変化したのである。そもそも、空が見える。先ほどまで見えることのなかった空が。だが、その空は違った。紫であった。紫に染まった空が、俺たちの目の前に広がっているのである。下の地面は土色で変わりはないが、空だけが大きく違っているのだ。そのあまりの異常な光景に俺たちは呑まれてしまっているようではあったが、それでもだんだんと冷静になっていく。深呼吸をするとともに、心が落ち着いてくるのである。それと同時に、ここがどこなのかがわかってくる。今まで一度も見たことがないとわかる景色なのだと。そもそも、この世に存在しえない景色なのだろうと。
 今俺たち四人とキメラの亡骸は俺たちの知らない場所に移動しているのであった。何が起きたのかと困惑しているが、このままでいると危険だと直観的に感じる。この周囲の変化が少なくとも、好意的なものではないだろうと予想は出来るのだから。だからこそ、慎重に周囲を見渡している。いつでも、敵が来ても大丈夫なように準備をしていくのである。
 不気味なくらいに静かである。生きているものが全くといっていいほど存在しないのではないだろうか。地面に生えているであろう苔の類すらも見つけることは出来ない。そもそも、水すらも周囲を見渡す限りないのだから、ここいらに生き物が生きていける環境ではないだろうということは想像にたやすいところではあるが。

「ここは……一体どこなんだ? 全く見たことがない。小さいころに、世界各地の珍しい景色を集めた写真集を見たことはあるが、そのどれにもなかったと記憶しているのだけれども……。いいや、あの景色のどれよりも美しくて、どれよりも不気味だ。今すぐにでも逃げ出したいくらいに」
「兄さん、絶対に油断はしないでくれよ。あまりにもこの静けさは不気味すぎる。生き物の気配がしないのだからな。もしかしたら、オレたちすらも生きてはいないのではないかと疑いたくなる」
「何を言っているのか……。確かに、そう言われたとしても疑問には思わないだろうけどね。なにせ、キメラと戦って生き延びているなんて想像はそう簡単に出来るものじゃあないのだからさ。でも、頬をつねってみる限りでは痛みはあるかな」

 緊張を紛らわせているかのように二人で会話をしている。だが、それでありながらしっかりと周囲を警戒し続けているために、不意打ちを食らうことはないだろう。そんな間抜けな油断をこの場面で出来るほど俺たちの神経は図太くは出来ていないのである。俺は今回ばかりは、かすかに残っている小心者なところを喜んでいる。そのおかげで、どれだけの命を無駄にすることがなかったことか。
 俺たちの予想にはなかったところからそれは起きた。ぼこぼこと死体であったはずの彼の体が動いた。俺たちの視線は一斉にそこへと集まる。なにせ、動くわけがないと全員が思っていたのだ。だからこそ、この状況に俺たちの戸惑いは隠しきれるものではなくなってしまった。どうやら彼が生き返ったわけではないというのは分かったが、それならば、余計に俺たちに混乱を生んでいる。死んでいる存在が突然動き出すのだから。魔力の動きを探っても見るが、そこにも変化はない。ならば、魔術的な要素が絡んでいるわけではない。であれば、今どうして動いているのかが一切わからないのである。
 彼の体が光り輝いて、その光がゆっくりと上に登っていく。俺たちはそれを目で追う。光は神々しく、直接見ているだけで目が焦げてしまうような気がしないでもないが、俺はなぜだか、それを直視し続けても失明することはないだろうという自信があった。力強く、そして優しく感じるのである。そんな光が漂っているのである。それは、段々と形を作っていく。人の形へと変化していく。何か危険なものが出現するという気持ちは一切なかった。むしろ、心が穏やかに、落ち着いていくようにすら感じるほどである。あたたかな光が俺たちに降り注いでいるのだとわかってしまうのだ。だから、俺たちは先ほどまでの警戒をといて、その光をじっと見ているのである。目を離すことなどできない。引き込まれてしまうようであったのだ。
 人の形をとると、段々と色がついてくる。ぼんやりとした姿に輪郭が付き始めてくる。神々しく畏れ多いその光景が質量を持って現れかけているのだ。それと共に、彼がどんな存在かがはっきりとわかってくるのである。俺は前に会ったことがある。直接ではない。本の中でだ。壁画の中でだ。昔に言った美術館の中でだ。彼の姿をこの目で見たことがある。太古の昔から語り継がれる神話の世界で彼と同じ姿かたちをした方を見たことがあるのである。
 俺たちはすぐに跪いた。わかってしまうからだ。明らかに、俺たちは同じ頭の位置で話をしていいような方ではないと。むしろ、会話をすることすらおこがましいとさえ言ってもおかしくはない人と。だからこそ、跪いて首を垂れるのである。彼に対する最大限の敬意を払うために。ほとんど無意識といってもいいだろう。それだけ格が違うのだ。意識せずとも頭を下げなくてはならないと感じさせるだけの圧倒的な格がある。
 彼は獣の大神之御子と呼ばれる方なのだ。俺たちが簡単に顔を合わせていいような存在では決してないのである。その人が、今まさに目の前に出てくるのだから、先ほどまでの緊張とは大きくかけ離れた緊張感というものが俺たちの間に伝わっている。何か少しでも粗相をしたら、家がつぶれるでは済まない。種族がつぶれてもおかしくはない。ヒトという種族が俺たちの粗相で消滅するのだ。逆に笑えて来ることだってあるだろう。これならば、国王陛下に謁見することなど大した恐怖ではない。いいや、比べることすらバカバカしくすらある。それほどに、次元が違うのだから。
 神が世界を生み出して、命を生み出して、おそらくはこの世界になる原型というものが完成したころである。その頃に、神は多く生まれた命を全て管理するということをしなかった。その管理を別のものに任せたのである。神は、自分自身の体のいたるところからの肉をちぎり、それに新たな命を吹き込んだ。その者たちは大神之御子と呼ばれる。偉大なる世界創造の神の子供たちという意味。その中で、獣を管理することを神から命ぜられた御子が今目の前にいる方なのである。獣の大神之御子という名前を表しているかのように、顔が獣の顔をしている。獅子の顔である。だから、獅子は百獣の王と呼ばれるのである。大神之御子と同じ顔をしている種族は獣の王として呼ばれるのは当たり前だろう。

「……貴様らがわしの分霊を暗く苦しい牢獄から救い出してくれた者たちであろうか。なかなかに、優れた者たちである。なにせ、数十年前から捕まったまま逃げ出すことも叶わなんだ。分霊とはいえ、わしが人間程度に捕まっているということは他の御子たちにとっても笑いの的になっていたからの。貴様らを褒めてつかわそう」

 俺たちはさらに深く頭を下げて、感謝を述べる。大神之御子に感謝されたとなれば、その家の末代までの誉れとなることは間違いない。バルドラン家は御子から感謝された一族なのだと後世に名を遺すことは間違いない。気が狂いそうである。あまりの喜びに発狂しそうになってしまうのはそうそうある経験ではないだろう。だから、俺はそれをこらえるのに全神経を集中させているといっても過言ではないのだ。過言であってほしいとさえ思ってしまうほどだ。
 ゆっくりと俺たちの前まで歩いてくる。御子様が今俺の目の前にいるのだ。そして、頭に触れた。優しく撫でられる。父のような温かさを持った、手でもって、俺の頭をなでてくださるのだ。あまりのことに気絶してしまうかと思った。だが、なんとか踏みとどまる。手が離れると一気に果てしない程の重圧から解放されたかのように体が軽くなる。そして、一人一人同じように頭をなでている。兄さんたちも同様に俺と同じ気持ちを味わっているのだろう。だが、それでも、何とか耐えきる。と、思っていたのだが、カイン兄さんだけはこらえきれずに気絶してしまったようである。その様子に俺は驚愕するが、御子様はその姿にこらえきれなかったようで笑ってくださる。それだけで俺たちはほっと一安心するのである。大神之御子様の前で気絶したとなればなんて言われて罰を受けるかわかったものではないのだから。そうではないと知るだけですら、重荷が外れるようだ。
 俺たち全員の頭をなで終われば、御子様はすっと、この場から消えてしまう。それと同時に、俺たちもまた同じように黒く染まった世界へと戻る。キースの張った結界の中に戻ってこれたようである。そして、再びキメラを確認すると、先ほどまでの姿ではなくなってしまっていた。人の姿に戻っているのだ。だが、死んでしまったという事実だけは変わることはない。魂はどこかへと消え去っているのだ。あの世へとたどり着いていくことを祈ることしかできない。俺は静かに彼に手を合わせる。祈りをささげるのであった。
 ぼろぼろとキースの手によって、結界が崩れていく。それと同時に、今までに見たことのある空が広がっていく。戻ってこれたのだと思う。先ほどまでの世界が、どこなのかはわからないが、今いるのは確かに俺たちが十数年もの間過ごしてきた世界なのだとわかるのである。
 結界が完全に消えてなくなると、そこを囲うように、皆が集まっていた。皆一様に心配したような不安そうな顔を見せているが、俺たちが何でもないかのように立っていることで顔色がパッと明るくなる。が、一人だけ倒れている。カイン兄さんが倒れているということに気づいたサラ母さんが名前を叫びながら、近づいてゆすっている。生きているから大丈夫ではある。それに気づくと、先ほどまでの表情から生気が抜けてしまったかのようで、疲れてしまった顔を見せる。そして、目から涙をあふれさせているのである。ほっとしすぎたせいで、緊張の糸が完全に解けてなくなってしまったようだ。またしても、母さんたちを心配させてしまった。申し訳ないことをした。だが、こうでもしなければ、ルイス兄さんは確実に死んでいただろう。そうなれば、もっと悲しく、苦しい事態になっていたはずだ。だからこそ、俺の行動は間違いではなかったのだと、信じたいのである。
 しかし、公爵様が近づいた彼は冷たくなっている。だが、その姿はキメラではなかった。ヒトの姿をしていた。だからといって生き返るわけではないが。そもそも、再生しかけていた首が消滅しており、近くに静かな表情でそれが置かれているのだ。それを確認した時、静かにこぶしを握り締めて涙をこらえるような顔をしている。男としてのプライドが、今の彼の表情を作っているのである。あくまで気丈に振る舞うように、兄さんに彼がどうなったのかということを聞いた。
 兄さんは、そこでごまかしたりはしない人だと知っている。だから、はっきりと事実を述べる。俺たちに確認をするように、見てくるが、俺たちは首を横に振ることはない。だから、それだけで分かったことだろう。今まで起きていたことの全てが。だが、彼はこらえるのである。それが、公爵家の当主としてのプライドなのだろう。静かにありがとうと一言。それだけを言って、息子の亡骸を抱えてこの場から去っていくのであった。やはり、あんな息子でも、息子なのだとわかる。あの悲しみは、俺にはわからない。父さんたちですら、わかってあげられるのか難しいところだ。
 先ほどの話で興味を示していた人たちはいたようだが、息子の亡骸を研究のために解剖させてくれとは言えないだろう。あの様子を見て、言うことが出来るのだとしたら、相当に気が狂っているとしか思えない。たしかに、研究に情を入れてはならないだろうが、少なくとも、公爵様たちの中で、落ち着くまではそっとしておかなくてはならないことだろう。彼らにだって、静かに落ち着くだけの時間を必要とするのだから。だれも、それを邪魔してはならないのだ。それは絶対なのである。

「ルイス殿……」
「ええ、かまいません。彼を殺したのは僕たちなのですから。たとえ、殺さなくては僕たちが死んでいたとしても、生きるための競争なのだとしても、親には泣く必要があるのです」

 それで話は終わりだというように静かにうつむいた。兄さんも何か思うものがあるのだろう。とどめを刺したのは俺なのだから、そこまで悩む必要はないと思うのだが。むしろ、のんきにあくびをしているアオ位に図々しくしたっていいのだから。
 ハルたちはゆっくりと人込みをかき分けて、俺の元へとたどり着く。ぎゅっと力いっぱいに抱きしめられる。三人からである。温かさとほんのわずかな痛みを感じるのである。俺は、生きているのだと実感する。今まではどこか、夢の中のようなそれで、ふわふわと漂ってしまっているみたいだったのだ。だからこそ、こうして二本の足で地面に立っていて、愛する人たちと生きているというこの喜びを噛みしめ合っていることで、俺は生きているのだと、ようやく再認識できたのである。
 これはいつまでも続くだろう。日が変わってもしていたい。だが、それは出来ない。それがただただ残念に思えてならないのであった。

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