天の仙人様

海沼偲

第124話

 静かに目を閉じながら、空気に触れている。隣にはルイもまた同じようにして座っているのである。正座である。背筋をしゃんと伸ばして自然と調和するようにして存在しているのであった。彼女までもが同じ気持ちでいるのかはわからないが。ただ、相対して座っているだけであるかもしれない。だが、お互いが静かにこの空気の流れ一つでも感じているのだということが大事であった。
 すうっと目を開く。目の前には彼女の顔がある。その周囲にも何人か生徒の姿が見えるが、その誰もがお互いに相手のことを見ている。自分と相手だけの世界にいるのである。だから、俺もまた集中していくのである。今存在する相手は彼女だけであると思うほどに。先ほどの精神統一で、より穏やかに緩やかに。心は静かに波をたてているのみ。ルイはそれよりも一切の波すらなく、湖面のような綺麗な心である。精神が極限まで研ぎ澄まされているかのように思えてならない。
 ハルたちもまた別の相手と組んでいる。この授業は武術というか、武道というか、戦うということの授業であった。だからといって、喧嘩の授業というわけではない。精神の成熟と肉体の動かし方を知るための授業であった。お互いがとても重要なものであるために、全学年の必修である。この世界において、そのどちらも出来ていないということはより強大な敵に対処できないことなのである。だからこそ、その技術を身に付ける。
 ゆったりと柔らかな動作で立ち上がる。お互いに構えをとる。にわかにあたりの空気がピリピリと震え始めているようでもあった。近くで休んでいた小さな生き物たちがこの場から逃げるようにしてどこかへといなくなってしまう。観戦するものはいなくなってしまうのであった。いいや、まだいた。ふらりとこちらへ歩いてくるものが一人いるのである。彼女は顔をのぞかせるようにして、俺たちの視界の端へと入ってくるのであった。
 観客一名ばかりの、演武が始まる。崩れるようにして、それでありながらその倒れ込む勢いそのままに動き出す。重力すらも味方につけるように軽やかな動きは俺の懐まで一直線に飛んでくる。さらりと受け流す。柳のように、手ごたえのなく力の抜けたような動きである。彼女の一撃一撃には柔と剛が備わっているが、それを丁寧に一つずつ受け流していくのであった。
 静かである。周囲の生徒たちのように武器をぶつけあい、その音が生じるということは少なく、だからといって避けているわけではなく、俺たちは流すのである。受け止めるのではなく流す。その流れにより動作はより軽やかに、舞うように動くことが出来るのであった。観客は他の生徒のことを忘れてしまったかのように俺たちの戦いに見入っているようであった。中には、あまり戦いが得意ではない組も、俺たちの方に視線を向けているように見える。少しばかりか、嫉妬のような感情がこちらに向けられているような気もする。こちらが静かに落ち着けば、そうなるほどに、周囲の様子が手に取るようにわかる。
 当然のように疲れが見えてくる。力の向きを変えているだけの相手に対して、常に力の放出を行っていれば、いづれは疲れ果ててしまうことだろう。そうなることは目に見えているのである。だが、それでも、あえて続けているのである。彼女の体力はそもそも、常人の数倍である。ここからさらに、長時間戦えることだろう。だが、それでも俺には勝てないだろうが。しかし、これは勝利することを目的としたことではない。だから、勝敗など気にしなくてもいいのであった。だからこそ、俺たちは大きく見せるように戦っているのかもしれない。最小で最大の動きをするのである。おそらく、この学年で最も武道というものに精通しているのは彼女であろうというのがわかるのだ。
 息切れを起こしている。これでは呼吸を読まれて、より戦いは辛くなるだろう。絶対に息が切れていると悟られてはいけないのだから。俺は大きく深呼吸をすることでそれを伝える。呼吸という要素を思い出させてあげるのである。彼女の呼吸音がだんだんと小さくなり、そして聞こえなくなってきている。だからといって、無呼吸でいるわけにはいかない。呼吸しながらも、呼吸をしていないとすら感じさせるほどの無音。または、呼吸における筋肉を見せないようにしていく。それが大事であるのだ。
 立ち直ってからも、攻防は続く。攻撃と防御が瞬間瞬間に変わっていく。そもそも、攻撃、防御に分けることすら必要ないかもしれない。全てが同じときに起きてしまうのだから。攻撃をしているがそれもまた防御であり、今の受け流しも同時に彼女を攻めるための動きである。俺たちは永遠に疲れることなく戦い続けられるような錯覚すら覚えるほどであった。
 それでもやはり、ルイの方が先に力尽きて倒れてしまうわけであるが。それでも、毎日のように続けていれば、それなりに体力は続くようになっているというものである。そもそも、彼女はそういうような肉体に秀でている種族であることは想像に難くない。好んで使う武器が大槌の時点で、そこはわかりやすいこともある。それでありながら、豪快というよりも繊細という方がしっくりくる動きを見せているが。薙刀を振るっているように大槌を振るう人は初めて見た。

「ルイさん、先ほどの動きは無駄を排除できているようでとても素晴らしいものでした。ですが、まだ心のどこかに焦りがあるように見えますね。相手を見ながら全体を見る。最初は、それが出来ていたのですが、途中から相手のことだけしか見えていないようでした。アランくんもそれに気づいたようで、教えていましたが。ですから、焦りをなくし、冷静に周囲を見るようにして穏やかに。それを意識することが出来れば、疲労もだんだんと軽減されていくことが出来るでしょう」

 先生が近寄ってきて、アドバイスとは言いにくいが改善点を指摘してくれている。確かに、彼女に必要なところをしっかりと見ていることは伝わっている。だが、少しばかり抽象的であるから、そこから自分なりにどう解釈できるかということが大事であった。大きくずれたことをし始めたら俺が修正すればいいだろうが、出来ることならば彼女が自分で理解できるほうが良いだろう。
 しばらくの休憩が入る。疲れている状態で無理に体を動かすことがいいことだとは思わないからである。だが、俺は疲れていないのだから適当にいくつかの型を取りながら、無駄をそいでいくように修正していく。体にその形を慣らしていくのである。真に優れた型は見たものに美しさを見出すことが出来るのだ。俺の目標はそれである。そうでなければ、やる意味などないだろう。
 何かしらの歪みがない型は強さと共に美しさもまた内包されたものへと変化されていく。そこへ少しでも近づくように、ほんのわずかなずれですらも修正していくのである。俺の体に最も合った形へと変えていくのである。指先の向き、足の位置、そのすべてが完璧なバランスになるように一つ一つ、確認していくのだ。
 ルイは少しばかり俺の型に見とれてくれたようである。ぽーっと口をわずかに開けて俺から目を離さないとばかりに見つめてくれるのだ。だが、それに気分を良くしてはいけない。精神だけはそれに乗せられないように、森の中にいるかのように静かでなくてはならないのである。
 彼女も再び立ち上がり、真似をするように形を作っていく。一見すればそれもまた同等の美しさをもっているだろう。誰が見たって見とれてしまってもおかしくはない。だが、まだまだぎこちない。少しのずれが、歪みが存在しているのである。俺は肩に手を当てて、少し沈めてやる。少しバランスが整った。腰をどれだけ落とすのかということですらも、大事なのだ。蹴りの威力、突きの威力に大きく左右する要素でもある。それを知りながら、自分の体がどのように動かせるのかを理解していくのだ。
 この授業は人があまりにもあっけなく死んでしまうからこそする必要がある。自分の命を本当に、自分で守らなければならないのだ。だからこそ、女子供だからという理由で逃げることは出来ない。みんなして、一途に取り組まなくてはならないのである。これの差で、生死が決まってしまうことだってあるだろう。無理に体を動かして体を痛め、その隙をつかれて死んでしまってもおかしくはないのだから。
 だからだろう。みんなして真剣な顔をして取り組んでいる。だからといって、むきになって相手を傷つけていいわけではないが。だから、たまに喧嘩のようになってしまう組には先生方からの説教が飛ばされてしまうわけだが。週に一回くらいはそれで怒られる生徒が出てくる。それだけ真剣なのだと思えば、先生もあまり大きく怒ることは出来ないわけであるが。
 ふと、怖気が走る。そちらへと視線を向けると、ハルがこちらを睨んでいるようであった。ルイも気づいたようで俺と同じ方向を見ている。怯えるようにして、彼女は震えてしまっていた。もしかして、俺が彼女の肩に手を乗せたことがいけないのだろうかと思ってしまう。だが、こればかりは仕方ないのではないだろうか。教えるにはこうするのが手っ取り早いのだから。
 俺は大丈夫だと言わんばかりに肩をぽんぽんと軽くたたくと彼女は落ち着きを取り戻したようで、震えが治まっていく。だが、それだけで済めばいいものの、飽き足らずに勝ち誇ったかのような視線を向けるのである。なぜ、逆上させるようなことをしてしまうのかがわからない。彼女は本当にからかうのが好きなのだなと思わずにはいられないわけであった。呆れたように溜息を吐き出してしまう。
 ハルは授業中であることを知っているために、震える拳を無理やりに抑え込んでいる。だが、あれは授業が終われば爆発することは間違いないとわかってしまうのである。俺は空を見て、少しばかりの逃避を行うわけであった。これは許されても構わないだろう。そう思えてならないのであった。
 授業が終われば、早歩きでこちらへと足音をたてて向かってきている。怒りと、少しばかりの楽しさというものが入り混じっているような顔をしているのである。ハルは、どうもこれを楽しんでいる節もわずかながらにあるのであった。彼女は、俺に他の女性が近づくことにあまりいい顔を見せない。だが、ルイのことを友人と思っているのだろう。友人と喧嘩のような小競り合いのような、そんなことをしている。それが好きなのだろう。俺はそう解釈しているのである。だからだろう。俺は大きくハルの態度を改めようとは思わないのであった。だが、それとは別にハルのそのどちらともいえるような表情を見たルイは俺の背後に隠れるように動く。そして、肩の上に頭を乗せて彼女の方をうかがっているのであった。

「なに、婚約者の前でそんなにべたべたとくっつくことが出来るのかしらねえ? 本当に常識の知らない女は困るわ。あなたがそんなにべたべたとしていいなんて私は許可なんて出していないのだけれど。そんなこともわからないなんて、本当に残念極まっているわね。どうしようもないわ」
「あらあら、そうだったですか。でも、やっぱりあなたはいつもいつも余裕がないのですね。婚約者という圧倒的地位にいるにも関わらず、他の女に対していつもいつも牙をむいて。心が窮屈なのですね。器が小さいともいえるますけれど。とっても可愛そうですねえ。まあ、わたくしは同情なんてしませんけれども」

 ハルは牙をむいて今にも襲い掛かってしまうかのような覇気を出している。だが、それは冗談半分に出されているということを知っている。この場にいるだれもがである。だから、ルイも冗談交じりに怖がる振りを見せているのである。だが、ルイが、彼女が少しばかりつらそうな顔を見せているのである。誰にも気づかれないように、心の奥底にそっとしまっているかのように。俺はそれに気づいてしまった。だが、それの意味までは分からない。どういう心境でその顔を見せているのかがわからないのである。
 だが、ルイはそれを誰にも悟られないように一瞬だけしかそれを見せることはしない。誰にも触れられて欲しくないのだという空気を出している。俺を一瞬だけチラリと見る。わかってほしいと助けを求めているように見えてしまうのであった。だが、俺にはどう助ければいいのかがわからない。今までの、どの女性とも当てはまらないような救いの手を伸べてきているように思えてならないのである。
 しかし、先ほどの一瞬はすぐに消えてしまう。再びハルと言い合いをしている。それも楽しそうにである。彼女もこの関係性を楽しんでいるようなのである。だからこそ、俺は先ほどの目つき、表情に頭を抱えるのである。

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