天の仙人様

海沼偲

第121話

 カイン兄さんは彼女としばらく話しているだろうということで、俺とハルの二人で帰ることになった。兄さんたちはこれからどんな未来を送ることになるだろうか。幸せの花が誰に咲き誇るかなど、わからない。それは神であろうとも、予測は出来ないものなのだから。そうでなくてはならないのだから。
しかしながら、こうして今、ハルと二人きりになれたのはどれほど久しぶりであろうか。ハルと二人きりの時間を過ごしたのはどれほど前の話だろうか。思い出せないほど前なのかもしれない。なにせ、その時は俺たちが二人きりで愛し合うということが日常的に思っていたころなのだろうから。だがしかし、今は常に、誰かが俺たち二人の他に隣にいるのであった。俺としては常に誰かがいてくれる環境だというのは嬉しいことだ。それだけ俺は愛されているのだとわかるのだが。しかし、ハルとしてはそうはならないのだろう。そう思えば、彼女は相当にストレスをためていてもおかしくはないだろうと感じるのであった。
 ハルはゆっくりと俺の手へと指を近づけていき、そして、触れる。ほんのわずかに指先同士が触れ合うのである。しっかりと意識を集中させていなければ気づけない程の小さな感触。それだけが俺と彼女の指に伝わるのであった。てんてんとそのかすかな肌の刺激が続いていく。静かな町の中にあるのだ。
 しかし、それだけであった。それだけしか存在しなかった。ふっと近寄ってきた指はすっと離れていってしまう。お互いの距離感を測りかねているかのように近くを、遠くをふらふらとさまようばかりなのである。俺が彼女の方へと手を伸ばせばそれに比例するように遠ざかっていってしまうのであった。いくら俺が望んでいようとも、俺自身の力でそれがかなえられることはありそうにないと、思い至るほどなのである。もしかしたら、俺は彼女に嫌われてしまったのかもしれないと嫌なことを考えてしまうのであった。
 俺は彼女の方へを目を向けるのである。彼女は、顔を赤く染めながら下を向いて俺たちの指先の動きを見ているだけであった。この赤く染まった顔は、彼女の恥じらいのものなのか、それとも、夕日に染まって赤く見えてしまっているだけなのか。どちらでもあって、どちらでもないように思えて見えるのであった。
 俺たちは二人して、両手を目的もなくぶらぶらとさまよわせながら帰りの道を歩いているわけである。こつんこつんと石畳を歩く音だけが俺たちの間で流れているのだ。他にも音はある。あたりでは子供たちや、それに付き添い大人たち。彼らの、彼女たちの話し声が響き渡っているのだろう。だが、俺とハルの二人の間には、そんな雑音など存在しないのである。あるのはただ、歩く音のみであった。それ以外のあらゆる音が世界には必要とされておらず、むしろ、その音のみが俺たちの世界を構築するのに十分なものであるのだ。あまりにも小さい世界だ。だが、その世界だけが今の俺には十分すぎるほどに広々と存在しているのである。愛おしいのである。
 足が止まった。唐突に無になる。全てがいなくなり、しんと静まりかえっているのである。彼女は空を見上げたまま、動かない。石にでもなってしまったのかと見間違うほどに美しく、愛おしく固まっているのであった。今すぐにでも、彼女の頬を撫でたいと、頭に触れたいと、抱きしめてみたいと、衝動がはしるが、そんなことをしてしまっては、ひどく最低であろう。今この美しい瞬間を、俺の手でもって壊してしまうということは、たとえ、どんなことがあってもあり得ないのだから。今この瞬間を壊さずに、ただ見つめていたいという想いがどの想いよりも大きく、そして確かにあるのだ。これは絶対なのであるとわかった。だからこそ、俺はただ静かに、彼女の姿を見つめるだけなのである。それだけで十分といえるほどであった。
 俺は、彼女から視線を外してしまうことを残念に思いながらも、彼女が見ている先へと目を向けてみる。すると、そこには一つの星が見えた。月ほどではないか確かに空に輝くものが浮かんでいるのである。あれを星と呼ばなければ、何と呼べばいいだろうか。だが、今この空がまだかすかに明るい状態で、星が見えるのかというのもまた事実なのである。実際には、あの星以外には何も浮かんではいない。あの星だけが今のこの空の上に浮かんでいるのであった。それがたまらなく不思議に思えて、より俺の、俺たちの心を惹きつけているのである。
 これに気づいているのは俺とハルの二人だけらしい。他の誰もがあの星に気づいていない。つまりは、これもまた俺たちの中で共有しているものであった。俺たち二人の世界にのみ存在しているのである。それは、より一層輝いて見えた。美しさは反芻し、巡り回ることで、より洗練されていっているのである。それが俺の目をくぎ付けにしたままにして離してくれないのだ。
 中には、俺たち二人が見上げている空へと目を向ける人もいることだろう。だが、それだけであるのだ。本当に誰にも見られることのない星。それを俺たちだけで共有できているのだ。ふと手を伸ばしてみる。掴むことは出来ない。俺だけ背伸びをしようとも、あれには届かないのであった。手元においては置けないのだ。それもまた、素晴らしく、そして愛おしく感じるのであった。

「見える? あの綺麗な星。一人できらきらと輝いているあの星。とても素敵。でも、寂しそう。飢えているのかもしれない。一人じゃいやだって。一人でいたくないって。そう訴えているみたい」
「たしかに、彼は一人だ。とてももの悲しく、一人で光っている。輝いている。追い出されてしまったのかもしれない。どうなのだろうか? わからない。今わかることは、ただ彼が一人寂しく夕方の空に浮かんでいるということだけ」
「でも、私たちが見ているわ。彼のことを。目を離さずに、しっかりと認識してあげている。だから、彼はもう一人じゃないかも? ふふ、どうかしらね。私たちが見つけてあげたことを喜んでくれるかしら? それとも、どうして見つけたのだと怒ってしまうのかしら?」

 俺たちを見つめながらあの星は何を考えていることだろうか。俺たちも、また彼も、お互いがお互いの存在を見つけているのだ。俺たちは、彼のことを知ろうとしてみたのだ。だから、彼から歩み寄ってきてもいいのではないかと思う。だが、そんなことはなかった。ただ静かに俺たちを見つめるばかり。恥ずかしがり屋なのかもしれない。だから、この場に一人で静かにぽつりと浮かんでいるだけなのかもしれない。ならば、俺は哀れだと、悲しみの情を向けることはしない。
 すうっと、星は消えてしまう。先ほどまでのほんのかすかに、それでありながらしっかりと輝いていたものは消えた。それは、俺たちの頭の中、記憶の奥底にしか残っていなかった。夢幻の類だろうか。今俺たちは、二人してタヌキかキツネかに化かされてしまっていたのだろうか。だとしたら、彼らに感謝をしなくてはならないだろう。それだけの美しい体験であったと言わざるをえないのだから。

「消えちゃった……。消えてしまった。さっきまで、目の前にあった、あの光は今はこうしてただの空でしかない。いいえ、昔からそうだったのかもしれない。先ほどの光景が異常なだけなのかも」
「そしたら、二人して異常だ。存在しないものを二人して鑑賞していて、それに心を奪われていたのだからね。お互いに似た者同士だね。なにせ、在りはしないものに見とれてしまうのだから」

 それでも俺たちは、空を見たままに動くことはしない。残像が残っている。今の記憶を引っ張り出して固めていくかのように、浮かび上がらせているのであった。あの一人ぼっちのお星さまを無理やり手を引っ張って輪に入れるように、この大空に浮かび上がらせている。想像でしかない。今度こそ本当に、俺たちですらもわかってしまうほどに幻でしかない。だが、俺たちは二人して、その幻を見ているのである。それから目を離すことなどできずに、ただ、じっと見つめるばかりなのであった。
 終わった。完全な暗闇へと空は変わってしまったのだから。あの星は夕方の空でしか映えることのない美しさを持っているのだ。つまりは、それ以外の空では何の美しさも愛おしさも持たれないということである。俺たちが心奪われてしまった星というのは、その背景すらも含めてのものなのだから。だから、こうして、ただ暗いだけの空を見上げてみても、何の感傷も湧かないのであった。星が瞬いている。美しいだろう。確かに美しいさ。何度見たって、この空に飽きるなんて思うことはありえないだろう。生物が感じるであろう根源的な美を持っていると言えるのだから。
 だが、それでも……それでも、先ほど見ていたものより優れているとは思えないのであった。たった一つばかりの星に、これらすべての星群が負けてしまっているのである。でも、それが事実なのであった。俺たちが今先ほどまで見えていた、真の美しさというものは決して簡単に見えるものではない。それどころから、見えていたのかすら怪しい。ただ、無理やりに濃く、多く、味付けをしたかのような美を、真の美だと、本当の美しさだということは出来ないでいるのであった。
 俺たちは再び歩き出す。今度は手がつながった。しっかりと、指までもが絡み合うようにして、つながっているのである。あたたかな手のぬくもりを感じることが出来る。柔らかな感触と共に、伝わってくるのである。想いが、やってくるのである。愛しているという気持ちが、体温に乗ってくるのである。
 俺もまた同じである。その気持ちが俺の熱を伝って彼女へと届けられているのだ。そうだろうよ。そうでなければいけないのである。愛をもって握っている、手は、口以上にものを言ってくれることだろう。手は、第二の口なのである。饒舌に俺たちの心の奥底までをさらけ出してくれるのだ。俺はただそれに身を任せるだけでいいとすら思っているのだから。

「アラン……愛してる。とっても、とっても……世界中のだれよりも、私が一番、アランのことを愛している。これは本当よ。父と、母と、主と、大地にだって誓えるわ。世界中のだれよりも、アランのことを愛しているのは私なんだって」
「ありがとう……嬉しいよ。俺もハルのことを愛している。世界がどれだけ残酷になろうとも、愛というものがなくなろうとも、絶対にハルのことを愛し続けると誓うよ。存在に誓ってね」

 俺たちの繋いでいる手に込められる力が強まった。ぎゅっと、確かに、そしてしっかりと握られているのである。
 町は静かになっていく。騒がしさはゼロへと進んでいっている。俺たちは、そちらへと歩いていくのである。一つ二つと足を踏みしめながら確かに前に進んでいる。恐ろしい程に、何も見えない世界の中でもちゃんとして進むことが出来るのである。
 確かに握られた手だけが目印なのだろうか。そこだけがほのかに明るくて温かくて。周りの冷たいような、氷かとすら思えるほどの無感動の中にあっても、確かに熱をもって生きているのである。俺は、それだけで満足であった。俺は、そちら側へと行かないだろうと、しっかりと思うことが出来るのである。これほど、自信をもって宣言できることはそうそうないだろう。そう思えてならないのであった。
 だんだんと、寮への入り口が見えてくる。もうすぐで、別れてしまうことになる。明日には会える。その次の日も会える。その次の日も、またその次の日も。会えないなんてありえない。俺たちはずっとずっと、続いていく世界の中で顔を合わせ続けていくのだから。愛し合っているのだから。離れ離れになることなんて、俺も、彼女も許さないのである。そして、許さないことを排除できる力を持っているのである。ただ、たとえそうだとしても、今この別れを惜しんでしまうという気持ちばかりは抑えることは出来ない。今この、瞬間を永遠に続けていることが出来たらいいのにと、嘆くだけなのだ。だから、こうしてただお互いに握りしめた手に込める力が強まるばかりであった。
 しかし、ゆっくりと手が離れていく。俺たちにはなんてことはない。そう思い込む。勘違いをさせていく。手を振って別れの挨拶だってできる。肉体だけの小さなつながりではない、魂でのつながりによって、結ばれているのだから。それだけは確かな真実であった。むしろ、その一つだけで今この別れを耐えることが出来るのだ。

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