天の仙人様

海沼偲

第120話

 水にぬれてびしょびしょになっている俺の体を風で乾かしながら彼女たちが何か問題を起こさないように見ている。ちょっとしたことで、いくつもの命が消えてしまうことになるだろう。この二人が睨み合っているということは、そういう可能性の存在を遠回しに伝えてきているのだ。それは俺は望んでいないのだから。
 だが、睨み合いというのも長くは続くことはない。お互いがほぼ同時に視線を外すのである。両方とも、よく心得ているのだとわかる。自分たちが原因で多くの命を散らすことは好ましくないのだから。それがわかっているだけでも、十分にありがたい。もし、そうでなければ、意地を張って睨み続けていたことだろう。俺は気を休めるように地面へと座る。視線が低くなる。
 するするとハルはこちらへと近づいて、俺の腕に回す。だが、俺はまだ全身が水で濡れているので、彼女の服も濡れてしまうだろう。そう忠告したのだが、それでもかまわないとばかりに腕を組んでくるのだから、俺はそれをただ受け入れるばかりであった。彼女がそれを嫌ではないと思っているのならば、俺はそれ以上何かを言えるわけがないのだから。
 俺の両側にそれぞれが座っている。そして、どこか遠くを眺めているのであった。兄さんは座るだけではなく、寝転がっているが。上体を起こしているのすら非常に面倒なのだろう。それだけが確かにわかるというものである。
 俺の足の間から地面を掘ってきたモグラの頭が飛び出てくる。小さなモグラである。触ってみればわかるが、柔らかな毛触りをしている。心地いい。彼もまた目を細めるようにして、気持ちよさそうに見える。
 その撫でられているモグラにすら嫉妬をしてしまったのか、二人してずいと頭を寄せてくる。撫でてくれと言わんばかりであった。俺は、愛おしさに顔がほころんでしまっただろうか。仕方がないだろう。俺のことを愛しているのだと真正面から全力で伝えてきてくれるのだから。それに対する愛おしさ、愛らしさを持たなければダメだろうさ。
 だからだろう。俺は二人の頭に手を触れて、優しく撫でる。二つの違った感触が、お互いの感触を飽きさせることなく、常に新鮮さを保たせてくるのであった。いくらでも撫でていることが出来るだろう。そんな不思議な魅力が存在しているのであった。
 青から赤へだんだんと変化をしていく。先ほどまでの面影など一切残ってはいないのだ。背景の色が変わっただけで、世界は恐ろしく変化してしまう。そして、これはもう一回変化する。完全な闇の中へと溶けるような変化を。そこまで進んでしまえばダメだろう。手遅れになる。もうそろそろ帰らなくてはならないだろうということを端的に伝えてくれるのであった。カラスも鳴き始めているようだ。
 俺は立ちあがり、門へと向かう。それに続くように、残りの二人もついてきている。もう一人、こちらの後をついてこようとしているものがいるが、俺は彼女の方を振り向いた。それは出来ないことはわかっているだろう。向こうもわかっている。だから、前回は別れたのだ。それをよく知っているからこそ、今こうして俺の顔を焼き付けておくようにじっと見つめたまま、目を離すことないのだろう。俺は微笑む。柔らかく、頬を上げるのだ。彼女はもの寂しそうに頭を垂れさせる。これが今生の別れではない。また次がある。なにせ、次がやってきたのだから。ならば、その次を望むことは出来るだろう。望むことは無謀ではないだろう。俺たちはそれがわかっているのだ。だからこそ、素直に別れることが出来るのである。
 彼女は一つ鳴いて、こちらに背を向けてとぼとぼと歩き始めた。仲間の元へと帰っていくのである。別れはどれだけ繰り返そうとも慣れることはないだろう。たとえ、次があるとわかっていようとも。絶対の次が見えたとしても。もしかしたら、今日が最後かもしれない。そう思えば、思ってしまったら、抜け出すことは出来ない。心に深く針が刺さったかのような鋭く重い痛みを感じてしまうのである。どうしようもないことであった。簡単なことでは変えられないのだ。
 門をくぐれば町の中。先ほどまでとはまた別の世界。あのわずかな高さの壁が、ここと向こうを完全に分けている。あれがつながることはないのである。見ることは出来ても、触れ合うことは出来ない。あれは、ただ存在しているというわけではないのであった。そういうものである。
 静かに石畳の道を歩いている。三人で歩いているのであった。しんみりとした空気が流れている。別に、誰かが死んでしまったとかそういうわけではないのだが、どうも、この赤く赤く、真っ赤に染まってしまっている空はもの悲しさというものを俺たちに突き付けてきているように思えてならないのである。今日ももうすぐ終わると、伝えているのである。今日という日が終われば、今日は昨日へと変わり、昨日は、過去へと変わる。過去はいずれ色あせて消えてしまうだろう。全てが、自分の頭とわずかな文字にのみ残されるのである。二度と、目の前で再び現れることはないのであった。ひゅうと風が吹いた。大切な何かが風に乗って連れ去られてしまったのだろう。何かがぽっかりと消えてしまったような気がしてしまう。そんなことなどないというのに。
 そういうものだとわかっているのだが、それを思えば思うほどに、悲しさが心の中で渦巻いて消えることはないのであった。考え込んでしまうのだ。彼が哀愁を漂わせようと努力しているかのように。そして、その思うつぼなのだ。それが三人とも、同時に起きてしまったというだけなのである。
 ふらふらと、視線をさまよわせながら道を歩いていると、どうも、何かしらあまりにもきれいな空気ではないものがあたりを漂っているのである。不快感とか、恐怖とか、嫌悪とか。いろいろあるだろう。その汚いものがふわりと漂ってきている。風の流れに乗ってきている。どうやら、風は大切なものを連れて行っていなかったみたいであった。俺はそれを不思議に思って、そちらの方へと視線を向かわせていくと、そこには数人の男に、そして、さらにその男たちに囲まれている少女の姿が見えたのである。最初はナンパか何かだと思ったが、それにしちゃあ、少女と男たちの身長差が大きい。少女は明らかに俺たちと同年代であろうということが分かる慎重だが、男たちは成人しているだろうと思われる大きさなのであった。ということは、少女が何かしら男たちを怒らせるようなことをしてしまったのだろうということに気づくわけである。
 俺は兄さんの肩を叩いて、そのいざこざが起きている場所へと指を指した。それに兄さんも気づいたようで、目をこちらに向けてくる。その目は明らかに彼女のことを助けてあげようという思いが込められているものであった。俺としても、そのつもりで兄さんの肩を叩いたので、それに対して首を縦に振ることで肯定の意を伝える。
 ほんのわずかに早歩きで、男たちの方へと近づいていく。彼らはまだ俺たちの存在に気づいていないようで、少女に対して大声を張り上げているのであった。あれでは、恐怖で体がすくんでしまうだろう。それでは、何も出来なくなってしまうだろう。悪い方向へと進んでいっているのがよくわかるのであった。
 どうも、話を聞いている限り、男たちに少女がぶつかってしまったみたいで、それに対して男たちが怒っているのだろうということはわかった。だが、あれはいささか怒り過ぎだろう。苛立っていたのだろうが、もう少し寛容にならなくては、世界が窮屈に感じてしまうのではないかと思うわけなのである。

「ねえ、そこのお兄さんたち。その子が怖がってびくびくしたまま固まってしまっているじゃあないか。それじゃあ、謝るものも謝れないだろう。だったら、少しは落ち着いて、もう少し柔らかく話してあげたらどうだい? まずは、そうしなければ、お互いになにも話は進まないだろう?」

 と、俺は彼らに話かけてみるが、それに気づいた彼らは、じっと俺のことを睨み付けてきているわけである。兄さんもいるので、俺と兄さんに視線は別れているが。兄さんは、あくびをしている。彼らが漏らしている殺気というべきか、そういう類の気配があまりにも弱々しく、そよ風の方が強く感じてしまうからなのである。こればかりは仕方ないと思わなくてはならない。あまりにも、彼らが弱すぎるのだ。どんな生き方をしていればそうなるのかと疑問に思うほどである。
 喧嘩は強そうだが、喧嘩程度での強さは。この世界において何の価値もない。圧倒的な暴力の波の前において、ただ同じ程度の生物相手に誇ることの出来る力は、大して役には立たないのである。

「てめえら、何様だよ。てめえらには関係ねえだろうが。それともなにか? 正義の味方のつもりかよ。糞がきが泣いているのを見て放っておけなかったか? いちいち、しゃしゃり出てくるんじゃねえよ、ガキのくせによ」

 彼らは、相当に何かに苛立っているのだろうということはわかった。これほどまでにはっきりとである。むしろ、そうでなければ、ここまで 悪態をつくことは出来まい。もう少し紳士的に言葉を扱うことは出来るはずだろう。貧民街で育ったような人間ですら、もう少し紳士的だろう。俺はそう思っている。勘違いでないことを祈る。
 俺は彼らがこれ以上怒りをためないように笑っていたのだが、それがどうも彼らには気に食わないようでより深く苛立ってしまっているようであった。失敗である。笑顔はどのような状況でも、どうにかなる万能なものではないのであった。彼らがたとえ、あまりにも美しいもの綺麗なもの柔らかなもの、愛おしいものに対する感性が貧弱であったとしてもである。それは非常に残念である。
 だが、彼らが先に拳を振り上げて、こちらを攻撃しようという意思を見せてくれたという点においては、俺が笑顔を見せたことは悪くはなかった。攻撃の意思を持った瞬間に、俺たちもまた、反撃の許可を与えられたのと同じようなものなのだから。生物生存の基本として、暴力に暴力で対抗することを最も高く推奨しているのだから。だからこそ、出来る限り、最後の最後まで、暴力に訴えることを控えなければいけないのだ。
 最も早く動くことが出来たのはカイン兄さんであった。誰よりも戦おうという意思が、あの怯えている少女を助けようという意志が強かったのである。その結果だろう。あまりの速さに、少しばかり俺が置いていかれたほどなのだから。気づいたときには懐に入り込んでいたのだ。
 一瞬というべきだろうか。ただ、あまりにも早くに決着はついたのである。兄さん一人で、男たちは沈黙させられたのである。一撃ずつだろう。心臓の真上から思い切り拳で殴られた。それだけである。だが、非常に強力だろう。生きているものを殺す倒すという考えであれば、正中線を狙うのは至極当然なのだから。とはいえ、彼らはあまりにも弱々しいと言わざるをえない。確かに、兄さんは仙人相手に拮抗するだけの実力を持つが、それでも、子供相手にほんのわずかでもしのぐことが出来ないということに惨めさばかりが目立ってしまうのであった。

「大丈夫か? ぶつかっちゃったことは、悪いと思って謝ることは必要かもしれないが、ああやって、脅してビビらせてくるような心が小さいやつらには、こうやって鉄拳をくらわしたって罰が当たることはないんだよ。だから、いつでも、助けを呼んでいいんだぜ。怖かったんだろう? 目がおびえていたのが見えたからな」
「あ、ありがとうございます……。とってもお強いんですね」
「え? あ、ほら……まあ、それなりに鍛えているから。剣が強くないと何も守れないからな。いま、強かったおかげで、こうして君を守ることが出来たし。そう考えれば力が強いことはいいことのように思えるだろう?」

 兄さんが少女の不安や恐怖を取り除こうとして、一生懸命に話していた。ならば、俺は彼女に話しかける必要はないだろう。それに、ハルがこちらを睨んできているのだから。俺が話しかけでもしたら、彼女になにを言われるか分かったものではないだろう。それに、あの少女もハルになんと言われるか。またしても、恐怖のどん底に落ちてしまうことだってあり得てしまうのであった。
 だからだろう。俺はただ、兄さんたちの様子を眺めることだけをしているのであるのであった。ゆっくりとハルも隣に立ち、手を握った。ぎゅっと力強く、いいや、力いっぱい、手を握るのであった。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品