天の仙人様

海沼偲

第116話

 ゆっくりと扉が開かれる。その向こうには、ルクトルがニコニコとした笑顔を見せながらこちらを見ているのであった。だがしかし、それも、俺の胸の中でうずくまっている一人の女性を見るまでであったが。
 すうっと、顔から表情が抜け落ちて機械的に此方へと近づいてくる。そして、彼女の髪の毛を乱暴に引っ張って顔を無理やりに上げさせるのである。二人の顔が合う。だが、ルクトルは、彼女の存在を知らない。それどころか、幽霊がとり憑いていたということすらも知らないのだ。だから、今まさに、俺の目の前にいる女性がどうしてここにいるのか。それを説明しようとしても、説明することが出来ないのであった。どうしたものかと俺は頭を悩ませてしまうのである。
 彼女は固まっていた。自分が想像していなかった出来事が起きたからこその硬直であるとすぐに理解できるほどに。露骨なほどに思考が停止しているのだとわかってしまうのである。そして、それが戻る様子というものが全く見られないのである。
 たしかに、彼女がとり憑いている間は偶然ではあるが、ルクトルが血を飲みにこの部屋へと来たことがなかった。だから、彼女がこうしてこの部屋へと誰かが来ることがあるのだと思うことがないのはよくわかる。それだからこそ、ここまで気を抜いていたのだろう。だから、この事態に何の対応も出来ずに固まってしまうのだろう。それは俺も同じなのだけれども。

「……女だったんだ。男だと思っていた。男だと思っていたから、あの世に送らないで、アラン様にとり憑いていても見て見ぬふりをしてあげていたというのに、実は女だったなんてね。わたしを騙すほどの実力者だなんて思わなかったですね。しかも、いつの間にか肉体を手に入れていますし。はあ、こんなことなら、気づいた直後に送り届けてあげればよかったです。これは、わたし個人の反省です。ですが、あなたを今こうしてのうのうとアラン様に触れさせているのは許しませんので」

 いいや、ルクトルは知っているようなことを言っている。前から俺に幽霊がとり憑いていることを知っていたような口ぶりで語っているのだ。それには、彼女も俺も驚きであった。それならば、なぜそのことを言ってくれなかったのかと思うが、それもまた彼の事情があるのだろう。
 チリチリとした怒りの感情が視覚化できるほどである。俺の肌が震えているのを感じる。彼女もまた俺と共鳴するかのようにあガタガタと震えるばかりである。今まさにこの恐怖から逃れたいのだと、こちらへとチラリと視線を向ける。だが、それはルクトルの琴線に触れてしまうようなことでもあったのだった。
 彼は、頬を叩いた。乾いた音が部屋に広がった。彼女はただ、頬を抑えて怯えるように見ることしか出来ないのである。今、彼に勝てるものはこの場に誰もいないのである。そう実感させられる空気というものが存在しているのだから。

「前見た時から、魂の質は変わっている様子は見られませんので、どうやら名前を与えられてはいないようですね。よかったです。安心しました。そうでなければあなたをこの世から抹消することは出来ませんからね。さすがに、わたしたちヴァンパイアでも名前を持っている魂をこの世から消すことは不可能ですからね」
「あ、あなたは……ヴァンパイア?」

 彼女はかろうじて声を絞り出すようにした。かすかな声は確かに俺たちの耳に届いている。それを聞いたルクトルは、まるで猛獣化のような不気味なほどに恐ろしい表情を見せているのである。獲物を見つけたような顔なのである。
 俺はその顔に引き込まれてしまうかのような錯覚を覚えるのである。彼のその表情に目が奪われてしまって離すことが出来ないのだ。美しいと思っているのだろう、愛おしいと思っているのだろう。俺はそう納得するのである。

「ああ、当然しっていますよね? あなたたちにとってみれば死活問題ですからね。わたしたちヴァンパイアにとってみれば、あなたのような存在はすぐにでも消滅させることの出来る不完全な存在なのだから。だから、いつの世の中もあなたたちは心残りがあるのならば、わたしたち媚びをうってこの世に残ろうと一生懸命な哀れな存在。アラン様。人間は知らないことかもしれませんがヴァンパイアは、死体を無理やりに魔術的な方法でよみがえらせたものたちの子孫だと言われております。どのような進化をしてきたのかはわかりませんが、少なくとも、同じ元死体という存在ならば、わたしたちヴァンパイアの方が彼女よりも格が上なのです。ですから、今すぐにでも消滅させることが出来るのですよ。あの世に送ることも、完全に消し去ることもね」

 彼は本気である。本気で彼女を消そうとしているのであった。それが理解できた。今の発言のどこにも冗談であると思える要素が垣間見えることはなかったのだから。それは、彼女もまた同じだろう。そして、それに対しての恐怖が見えている。消えたくないという思いが体全体からあふれてきているのである。俺はわかったのである。わかってしまったのである。であるならば、今こうして黙ってみていることは良いことだろうか。いいやダメだろう。ことの成り行きを黙ってみているばかりではだめなのである。

「ルクトル、待ってほしい。彼女をこの世から消してしまうのを思い直してほしいんだ。お願いだ。頼む」

 俺の言葉には反応してくれるようであった。こちらを向いている。聞いてくれている。それは、彼が俺の使用人であるからだ。むしろ、そうでなかった場合はどうなることかと恐ろしく思える。だがしかし、その顔には一切の感情というものが入り込んでいない。入り込ませないようにしているようにも見えた。

「彼女は、元は男だ。元少年の幽霊なんだ。だから、ルクトルが言っていたように、男だというのはあっている。それが、女性の肉体を手に入れたというだけなんだ。俺の部屋にいるのも、彼女が俺の近くが一番信用できるからと言って、ここにいるだけなんだ。先ほどのは、ただじゃれ合っていただけだ。本当だ」

 あまりにも拙い言い訳である。だが、彼女はこうして新たな生を手に入れたのならば、俺はそれが消えてしまわないように擁護する必要があるのではないかと思っている。だからこそ、彼女の味方になるしかなかった。少なくとも、ルクトルの敵にはなってしまうが、この場で中立でいたのなら、確実に彼女は消滅させられるのだ。俺はそれを良しとはしなかったのである。

「へえ、そうなんですね。この女は元男なんですね。ということは、アラン様に好意を一切抱いていないということですか。アラン様が言いたいことは、そういうことですよね? なにせ、男を理由にするのですから。アラン様としては彼女は元男なのだから、アラン様のことを恋愛対象としてみているということは決してないのでしょう。でしたらほら、今すぐ言ってください。アラン様のことが好きではありませんと。好意なんて抱いていませんと。今この場でしっかりと口に出して言うことが出来るのであれば、わたしは納得できましょう。まあ、たとえ、嘘だとしても、この場で本心を口に出せない程度の好意であれば、わたしが危険に思うほどのものではないでしょうけれども。とはいえ、今口に出さなければすぐにでも消し飛ばしますよ?」

 ルクトルは、喉元に人差し指を突きつけている。その気になれば、あれで殺せるのだろう。たとえ嘘であっても、今の彼にはそれが事実であるかのような圧をもって俺たちに接しているのである。だから、変なことを起こしてはいけないのである。それは彼女もよおく、わかっていることである。だから、特に何かを言わなくてもよかった。通じているのだとわかっているのだから。
 彼女は口を開けたり閉じたりと、迷っているようであるのだ。何を迷うことがあるのだろうか。ここで冗談を言えば、すぐにでも殺されることが確定しているというのに。ここで待で、からかおうなどと言ういたずら心はいらないのである。正直に、本心の思うがままに言葉を吐き出せばいいのだから。それは、俺が言うまでもなくわかり切っていることなのだから。

「あ、え……はい。僕は、アランくんのことが……好きではありません。僕はアランくんのことが好きではありません」
「違うでしょう? あなたが今こうして宣言することはそんな否定的なあいまいな表現ではないでしょう? ほら、いいなさい。今最も口に出して言わなくてはならない言葉を、ここで」
「あ、アランくんのことが嫌いです……」

 これでは、彼の望みにそうことは出来ていないのだろうか。じいっと、彼女の顔を見つめているのである。心の奥底までのぞき込んでいるかのように思えてならないのであった。だからだろう。怯えることしか出来ないのである。彼の気に障ってしまったら、すぐさま殺されてしまうだろう。それだけは確実に言えることであった。むしろ、それしか確実ではないということが今とても恐れてしまうこと、恐怖に震えることしかできない原因でもあるのだから。
 彼は、にこりと笑って彼女から離れた。その表情は無垢な少女のような愛らしさと美しさを持っていた。先ほどまでのような問答を繰り広げていたとは一切感じさせない程の可愛らしさであると言えるのだ。
 彼は、彼女の髪を掴んでいたままの手を離した。これでようやく、彼女は解放されたのである。大きく息を吐き出した。今まで、呼吸すら忘れていたのだろう。それほどまでの圧力を感じていたに違いない。
 ルクトルは静かにこちらに寄ると、俺の腕を組んでくる。すりすりと、頭をこすりつけているのであった。俺もその頭をなでてやる。そうすることが正しいことなのだと、思ったのであった。

「まあ、わかっているとは思いますが、この部屋にいる許可を出した覚えはありませんので。そういうことなので、即刻この部屋から出ていってもらいたいところですね。まあ、お金がないのであるならば、宿に泊まることもできないと思いますので、わたしが、いくらかお金を渡しても構わないと思っていますが」

 彼女は少しばかり迷っていたようであったが、俺たちから何も受け取らずに窓から外へと飛び出していった。ここはそれなりの高さがあるが、ふわりと軽やかに降りていったので、地面につくときにはそれほど衝撃がなさそうであった。やはり、元幽霊というのは何かしらの恩恵でもあるのだろうか。そう思えてならなかった。
 彼の顔つきから一切の不快感と呼べる感情が消えている。にこやかに微笑みを浮かべながらこちらを見ているのであった。そうして、俺に抱きつくのである。俺の体温を体全体で感じるかのようにしっかりと抱きしめているのである。だから、俺も同じように彼を抱きしめるのであった。

「ふふ、アラン様を愛していいのは、あんな中途半端に逃げてしまうような女……いいえ、元男でしたか。まあ、女でいいでしょう。あんな女ではだめなのですよ。あの女ではまず土俵に立つことすら許されていない。それなのに、アラン様に近づくなんて……自分の身の程をよほど知らないようでしたね。とても滑稽なことだと思います。それに比べれば、わたしはたとえ誰の前であろうと、言うことが出来ます。アラン様のことを愛しておりますと。アラン様にであれば、何をされてもいいと。これがあの女とわたしの大きな違いです。ふふ、愛しています、アラン様」

 ルクトルの唇は俺の唇をふさいだ。絡まるようにお互いの愛が混ざり合って行きかい合っているのであった。ルクトルの愛はより絡まるような少しばかり詰まるようなそのような感触を感じているのである。だが、その愛おしさが俺にはたまらなく思えてしまうのである。それを確かに感じながら、俺たち二人はゆっくりと愛し合っていくのであるのだから。

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