天の仙人様

海沼偲

第110話

 もう逃がしてしまったことは、取り返すことが出来ない。どうあがこうとも、この事実が覆ることはけっしてない。俺たちは諦めることしかできない。彼は気体となって逃げたために、痕跡のほぼすべてが存在しない。だから、追いかけることが出来ないのである。空の向こうを見たとしても、そこには何もいないのであった。

「……まさかなあ。あんな風に逃げられるとはついぞ思わなんだ。言い訳をしているみたいで嫌なわけだが。しかし、自分自身の肉体を保つ必要がないなんて、そんな生き物がいるとはな。そもそも、生き物と呼んでいいものかすら悩ましいところではある」

 お師匠様ですら、驚いているようで何度も何度も繰り返し口にしながら受け入れているように思えた。それでは、どうしようもない。俺たち二人の想像の範疇から大きく逸脱している敵を追うことなど不可能である。だから、俺たちは諦めて帰ることしか出来ないのである。
 悔しい。だが、それをどこにぶつけるというのだ。ものに当たってもむなしくなるだけである。心の奥底へとため込むことしか出来ないのである。それがひたすらに悲しくなってくる。この気持ちをぶつける先がないのだから。このもやを追い払うことが出来ずに体の中にたまり続けてしまうのだ。ああ、いやだ。頭を抱えて悩んでしまっても許されるだろう。弱気でもいいだろう。
 俺たちは帰路へとつく。もうそろそろ帰らなければ、門を閉められるだろう。そうしたら、俺は王都の中へ入れない。それはまずい。急いで帰らねばならないだろう。俺はお師匠様と違って飛ぶことは出来ないのである。俺は、太陽がだんだんと地面へ向かっている姿を見て焦っているのであった。

「では、お師匠様。ここら辺でさっさと退散しましょう。門が閉まれば、学校に遅刻してしまうかもしれません。それだけはダメです」
「そうか。学業はいいことだが、それに、雁字搦めになってしまっているな。生きていくうえで逃れることは出来まいが。仕方のないことか。ならば、さっさと、去るとしようか」

 俺たちは先ほどまでの気持ちを一旦どこかへとしまわなくてはならない。あとでひたすら悩めばいい、今ではいけないのである。お師匠様はすぐさま大空へと羽ばたいていき、段々と小さく、そして見えなくなっていった。俺はそれを確認すれば、すぐさま王都の方へと向かう。
 駆け足といっていいだろう。砂埃を巻き上げて、街道を突っ走っているのである。地面が凸凹にならないように、用心しながら走ってはいるが、そのギリギリを見極めて、走っているだけに過ぎないので、もしかしたら、どこかしらが欠けてしまっていることだってあるだろう。この道を整備している人たちには申し訳ないが、余裕をもって門を通っておきたい。そのために今この道を焦らねばならないのだ。この我儘を許してほしい。そう思っていた。
 そうして、走っていると、目の前に一台の馬車が見える。この国の基本的なデザインの馬車よりは、より丸みの多いデザインである。ぱっと見た限りでは柔らかそうな馬車に見える。これを使う貴族、商人をしらないため、おそらくは外国の馬車であることが分かる。外国からの商人か、貴族か。少なくとも、国にとってのお客さんであるだろう。で、その馬車が、獣に襲われている。しかも、俺が先ほどまでいた森にすんでいる獣である。それが今、獰猛な顔を見せながら暴れ来るように馬車を襲っているのである。
 基本的に獣が馬車を襲うことはあまりない。危険だからである。仲間がたくさん殺されて、下手したら、食料が殺した人間だけということもある。そういうこともあって、基本的に馬車を襲おうとすることはない。なのだが、今俺の目の前には馬車を襲っている獣たちがいる。血走った目つきをしている。もう少し、理知的な顔つきをしているはずなのだが、脳みそが腐っているのかと思うほどに、乱暴なのだ。
 俺は、そこでふと森へと目を戻す。もしかしたら、あの瘴気がなくなったことで、彼らが狂暴になってしまったということがあり得るだろうか。今までは、人形のように動かなくなっていただけなのだが、あの気を浴びたことで、狂暴性がより一段と上がっていたとしたら。それを、あの瘴気は体を動かせなくすることにより、対処しているだけであり、それが消えてしまえば、狂暴な性格となったそれらは、周囲の生き物を襲い始める。それならば、彼らが馬車を襲っているのも納得する。しかし、それは納得したくとも、納得したくない話であった。
 なぜならば、俺のせいで今この事態が起きているということになるわけである。俺たちが瘴気を消滅させたのだから。そう思えば思うほどに、あの出来事がまるで、すぐに忘れ去りたい事実となって俺に襲い掛かってくる。ならば、あれを放置してよかったのかと思えば、そんなことあるわけないと堂々としていられるので、かろうじて俺の自尊心は守られることとなったのであった。
 俺は彼らの動きを止める。仙人の神通力とも呼べる強大な力で、無理やりに肉体を金縛りにあわせる。十体以上もの数を同時に止めるなんていうのはひどく疲れるのだが、そんなことをうじうじといってもいられない。数秒間だけだろうが、無理やりに彼らの動きは止まるのであった。その隙をついて、軽く蹴り飛ばして、馬車から獣たちを引っぺがしていく。きゃんきゃんと悲鳴を上げながら、地平の向こうへと飛んでいく。殺しに行くことはしない。そんなことをしている暇もないし、もしかしたら、正気に戻る可能性だってある。少しの確率も期待はしていないが。俺は、それを見終わると、すぐさま駆け足で、王都へと戻る。彼ら護衛は今起きたことにただぽかんと口を開けていただけであったが、そんなことにかまっていては時間がないだろう。最後まで護衛していたほうが安全だろうが、そうすると、俺は外に出ていないのに、外にいることになる。それはダメだろう。どこかから、王都と外を行き来できる抜け道があるのだと誤認してしまう。だから、彼らと関わることが出来ない。そういう意味でも、彼らと関わることは最小限にとどめておくべきなのである。
 俺はすぐさま気配を消して、門を通り過ぎる。先ほどまで砂埃を巻き上げながら、何かが迫ってきていたのだからか、彼らは警戒心をむき出しにして、門の外をじっと睨みつけていたのだが、その元凶はただいま門の中へと侵入している。少し衛兵たちの防備が杜撰だとも罵ることは出来るだろうが、むしろ、この程度ならば難なく通り抜けられなければ仙人としての位にふさわしくないだろう。それほどのことであると言える。だから、彼らは別に悪くはないのである。むしろ、仙人がこの門を通るようなことなどそう滅多にないのだから、この程度で評価を落としてはならない。
 俺は門からしばらく歩いて、ちょうど近くにあったベンチに腰を掛ける。王都の中に入れば、わざわざ急いで寮にまで変える必要はない。のんびりと歩いて帰っても大丈夫なのだから。ゆっくりと宙を見えるのである。ゆらやかに空は青から赤へと変わっている。だんだんと赤色が濃く変化していく。星が見える。かすかに彼らが顔を出し始めているのである。綺麗な姿である。こちらからの光は向こうへ届いていないのだということなのだ。そうでなければ、彼らは恥ずかしがり屋だ。隠れてしまう。
 この世界の星空は当然、前世の世界の星空と大きく違う。一つとして同じ星はない。もし、同じ宇宙空間に二つの世界があろうとも、銀河系レベルで違う場所に入るだろうと思っているのである。
 と、俺の目の前でガチャガチャといろいろな画材道具を置きながら天体を観察している男がもう一人いた。彼は、じっと空を見上げて、それを紙にスケッチしているようなのである。たしかに、彼らの美しさは記憶にとどめるだけでなく、紙に書いたりして、残しておきたいというのは至極当然のことだろう。彼はどうも、手元の光をホタルコウモリを使っているようである。このあたりには生息していないのだから、わざわざ外国から取り寄せてきたのだろう。男は相当な金持ちなのだろうということが分かった。やはり、絵描きは金持ちの道楽なのだ。これは、どこの世界も変わらないということであるのだ。どこに行こうとも人間なんてかわりゃしない。
 男と目が合った。彼は、星をじっと見ていたと思ったのだが、さすがに俺の視線には気づいたらしい。それだけ、周囲に敏感な性格なのだろうか。などと思ったりもする。だが、彼の眼鏡の奥で光っている、瞳は何かを恐れているかのように見えた。恐怖に震えている。今すぐにでも、この場から逃げなくてはならないが、恐怖でそれが出来ていないように見えた。その光景は滑稽であり、男が感じているであろう恐怖を伝播させるにふさわしい行動であった。
 すぐさま彼は視線を戻して、頭を隠すようにしてしまう。よほど恐れているらしい。何かあったのだろうか。もしかしたら、俺の背後にそれがあるのかもしれない。そう思ってみてみるのだが、何もない。……いや、一つある。そちらへと視線をしっかりとむけると、どうやら石碑のようであった。薄暗く、隠されているように存在している。今まで気づかなかった。もしかしたら、忘れ去られてしまったような古いものかもしれない。
 俺は近づいてそれを見てみると、何か文字が書いてある。手元を明るくして、文字を読んでみる。少しかすれてしまって読みにくくはあるが、時間をかければ問題ないことだろう。
 ……どうやら、お忍びで屋敷を外出していたとある貴族の息子が、俺が今まさに立っているこの交差路で馬車にひかれて死んでしまったらしい。それ以来、たまあに、小さな子供の幽霊を見るという話がよく出るそうだ。で、その少年の魂を安らかにあの世へと送るために、この石碑が建てられたらしい。百年近く前の話だそうだが。こういうスポットもこの広い王都の中にはある物なのだな。
 ということは、あの画家の男は俺のことを見て、その少年の幽霊だと思って怯えていたということになるのだろうか。なるのだろうな。はあ、そういうことか。納得した。もやもやが取れてすっきりした気分である。このもやはついでに先ほどまで感じていた靄を連れて行ってくれると嬉しいのだが、そこまで親切ではない。残念である。では、彼をこれ以上怖がらせてもなんだし、さっさと寮にでも帰ろうか。まだまだ、完全に暗くはなっていないのだが、わざわざ外にいる必要もあるまい。
 俺の肩が叩かれる。もしかしたら、あの男かと思って振り返ってみる。すると、そこには小さな男の子が立っている。俺よりもわずかに小さい。俺の目の位置に頭のてっぺんがあるのだ。そんな小さな男の子が一人でここに立っている。それに、わずかだが、半透明で透けているように見える。少年の向こう側が見えるような気がする。俺は、ここまで考えて何かに気づいてしまいそうになり、すべての思考をやめるように頭に呼びかけるのであった。

「ど、どうしたんだい? こんなに小さい子が一人でこんなところにいたら、お父さんやお母さんが心配しちゃうよ。早くお家に帰らないとダメじゃないか。あ、そうだ。お兄さんが連れて行ってあげよう」

 少しばかり、呼吸が乱れてはいるが、しっかりといいたいことは言った。動揺せずにあくまで冷静にしているのである。そうでなければ、今この瞬間になにが起こるかはわからない。それがたまらなく恐ろしいことなのである。今すぐにでも逃げだしたいが、それはダメだろう。危険な気がするのだ。
 俺がそうして待っていれば、少年はゆっくりと俺の目と視線を合わせていく。もしかしたら、命を取られるかもしれないが、そんなことはあるまい。そういうタイプではないだろう。

「僕のお家ね、なくなっちゃった。おとうさんもおかあさんも、いないんだ。ずいぶん前に無くなっちゃったんだ。君が生まれるずうっとずうっと前にね。だから、どこにもかえる家がないの」

 今すぐ発狂して逃げたい気持ちを抑えて、今少年の目の前にいる自分に称賛したい気分である。拳を握り締めて、恐怖を痛みで緩和させていくのである。現実的な痛みの方が今俺の体を支配してほしいと思っているのである。
 すうっと消えた。少年は突然いなくなった。俺は叫びたくなる喉の奥底を無理やりに閉じ込めて、その場から全力で逃げるのである。無我夢中のことであった。

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