天の仙人様

海沼偲

第102話

 ハルを連れて帰ってくれば二人もまだ同じ場所に座って待っていた。彼女たちを置いていってしまったことに対する申し訳なさがあるが、それでも、あの瞬間は彼女を追いかけなければいけないという思いに駆られてしまったのである。だから、自分の行動が間違っていないのだと信じたい。
 ハルが心の平穏を取り戻したぐらいになって、ようやく面と向き合って話すことが出来るのだと思う。それまではしばらく三人で待つのであった。ルーシィが今この状況についてどう思っているのかがわからないが、もしかしたら、すべてをハルに任せているだけなのかもしれない。最も、何を考えているのかが読めないのである。わずかながらの不気味さを感じてしまうのであった。彼女は少しばかり、ずれているところがあるように感じるのである。
 ゆっくりと深く息を吸って吐いてと繰り返し、穏やかに精神を安定させていっている。これをしなければ、感情的なままになってしまって、変わりなく、意味のないものとなってしまうのだ。
 すうっと視線をルクトルの方へを移す。彼女はまだ全快ではないだろう。だが、それでもと顔を上げているのだ。それがわかっているのだろう。ルクトルもまた、彼女を見返しているのであった。二人の視線がぶつかっているのだとわかる。

「……ルクトル、あなたの想いはわかったわ。とても素敵なことだと思う。同じようにアランのことを愛しているのだから。それはわかるわ。人を愛しているということは、どれほど素晴らしいものかということがね。でも、やっぱり……いやだ。アランを一人占めしたい。アランには私以外の誰も、触れてほしくない。どうすればいいの。どうしたら、この願いがかなえられるの。絶対に無理ってわかっているのに、どうしても、これを手放したいと思いたくない。あなたにだってわかるでしょう? 私が、これほどまでに思っているということを。アランのことをそれだけ愛しているのならば、私がどれほどの想いを持っているのかということも」

 彼女は、顔をゆがめて言葉を発しているのである。とぎれとぎれに、無理やりに、言葉をひねり出しているのである。俺はそれを聞いてやることしかできないのであった。全ての責任は俺にあるのだから。どうにかしてやりたいのにも、それがどうすることも出来ないのである。あまりにもバカバカしく思えてきてしまう。苦しめている根源が、どうにも出来ないのである。
 ルーシィはその姿を見て、ただ目を細めている。尻尾をゆらゆらと揺らして、彼女のその姿を眺めているのである。静かに、そして穏やかに日向ぼっこでもしているかのような雰囲気の中でいるのである。ただの景色としかこの光景を見ていないのではないかと思えてならないのである。

「ハルちゃん、そんなに苦しいんだね。大変だよね。わかるよ。とってもよくわかる。自分の好きな人、愛している人は自分だけのものにしたいんだものね。ああ、だったらいいことを思いついたよ。とっても幸せになれること。それはね……アランのことを嫌いになって、他の人を好きになればいいの。……どうしたの、びっくりした顔をして。もしかして、思いつかなかったのかな? ふふ、大丈夫だよ。アランはあたしが幸せにしてあげるから。だから、遠慮せずにアランのことを嫌いになっていいんだよ。この世にいるだれよりもアランのことを憎んで、二度と顔も見たくないと思ってしまうほどに、嫌っていいんだよ。そうして、ハルちゃんだけを愛してくれる人を探せばいいの。そうすれば、心を痛むことなんてないんだよ」

 あまりに唐突に、それは発せられたのであった。静かに抑揚も感じられずに。名案であるかのように話しているのであった。たしかに、その案もわかるにはわかるのだが、それを受け入れられるようであれば、ハルはここまで悩んでいるのだろうか。そう思うのであるのだ。

「な、何を言っているの? そんなことできるわけがないでしょ。私にとってはアランがすべてなの。そんな人をどうして嫌いになれっていうのよ。絶対に無理よ。あり得るわけがないわ。そんなことはたとえ冗談でも言わないでほしいわ。次はこらえきれる自信がないから」

 ハルは強く否定した。当たり前だと言わんばかりに。自分が愛している人を嫌いになること決してあり得ないとばかりに強く強く、言葉を発しているのである。その意志の強さは、気高く感じる。美しさすら見えることだろう。自分自身の心にそれほどまでの自信を持っているのだから。
 だが、それを見てもなお、ルーシィの瞳はにこりと笑ったままにして変わることはない。彼女はいったい何を考えているのかと、表情を読ませずにして、そのままに心を、その奥底を察せられないようにしているのであった。そこがどこにあるのかが一切見えないということほど怖いものはないだろう。だが、俺はその彼女の表情に見とれてしまっているのもまた事実であるのだ。

「でもね、ハルちゃん。あなたが望んでいるようなことは、決してアランしてくれないよ。だって、婚約者にあたしもいるもの。だから、あたしのことも、ハルちゃんのことも、ルクトルくんのことも、愛しているの。それは変わらないよね。だから、ハルちゃんが望んでいるような愛をアランからはもらえないんだよ。絶対にね、今後一切あり得ないだろうなって、そんなことはハルちゃんだってよおく、わかっているでしょう? だったら、アランのことを嫌いになって、他の人を好きになれば、きっとその人は、ハルちゃんのことだけを愛してくれるんじゃないかな? ね、どう思う? とっても素敵だと思わない? ハルちゃんにとって一番幸せなことかもしれないよね? だよね?」

 彼女は真っすぐにハルのことを見ていた。ハルのことを親身に考えている。ように見える。それだけであった。彼女のやさしさは、あまりにも残酷だとすらいえるのである。それほどの威力をもって、投げつけられているのであった。それはハルの心の奥底にまで届いて突き刺さっているのである。
 ハルは途中から聞きたくないとばかりに、耳を塞いでしまっている。うずくまって何も聞きたくないと拒絶してしまっているのだ。その姿を見ても、話しをやめようとしなかったルーシィには恐れ入る。ルクトルもそれには驚きのあまりに口を開けたまま閉じようとすらしていないのである。そもそも、自分が口を開けてただ茫然と見ていることすら気づいていない節すらあるのだ。

「ねえ、ちゃんと聞いて。わかっていることでしょう。あなたが一番幸せになれるのならば、アランを諦める必要があるんだって。そうでしょう。だって、あなただけを愛してくれるような人じゃないもの。たしかに、アラン以上にあなたのことを愛してくれる人はいないと思うよ。アランの愛をしったら、他の人の愛なんてそこら辺の石ころと一緒。満足できるものではないでしょうね。でもね、アランは、あなただけでなく、あたしも、ルクトルくんも、愛してくれるの。だったら、アランよりも愛してはくれないけど、あなただけを愛してくれる人を探したほうが良いんじゃないのかな? ハルちゃんにとってはそれが最善なんじゃあないかな?」

 彼女は、ハルの耳元へと近づいて囁いている。震えることしかできない彼女に追い打ちをかけるように囁いているのである。追い出すつもりなのか。彼女を、自分のテリトリーから。彼女もまた、俺を独占しようとしているのだろう。ただ、その手段があまりにも、鋭いのである。毒のようにじわじわとむしばんでくるような、強さであった。そして、その毒は刃物のように斬りつけてきてもいるのである。ハルがそれに耐えられるのだろうか。わからない。俺たちはそれに圧倒されているのであった。彼女の愛の深さを見ているのである。だから、俺は何も言えないし、何も言わないのである。ただ、彼女の愛をぶつけているだけなのだから。
 ハルは顔を思いっきり上げた。そして、俺の方を見ている。睨み付けている。ああ、彼女は俺のことを諦めてしまったのかと、思い浮かんでしまった。俺は彼女を愛し続けても、彼女が俺を愛し続ける保証などはけっしてないのである。こればかりは運命だろうとなんだろうとねじ伏せられるべき因果の関りがあるのだ。俺は悲しくもあるが、彼女がその道を選んでしまったのであるならば、引き留めることなどできようか。できることもあるだろう。だが、覚悟を決めているかのようにきっと俺のことを睨んでいるようにしているのである。これでは、変えることなど不可能だと言われているようである。俺はそれをただ受け入れるだけなのである。それが俺の選んだいる道なのだから。ここでもがくことは許されていないのだから。
 ずんずんと彼女は足音をたてて俺に近づいてきている。別れの言葉でも言われるのであろうか。きっと言われることだろう。覚悟なんぞ出来るわけがない。いつだって、別れの時に覚悟なんてできていないのだから。そうだろう。いつだって、別れは突然に来てしまうんだ。あれほどまでに愛し合っていたつもりではあったが、やはり、どれほどまでの愛を育んだつもりでも、それは唐突に消えてしまうのだった。俺はそれは愛ではなかったと、恋であったのだと言って逃げることしかできない。だが、俺たちは愛し合っていたと思っていたのも事実なのだから。俺の悲しみは消えないだろう。だが、これを引き起こしてしまったのもまた俺自身なのである。静かに何も言わずに受け入れるしか出来ないのであった。今すぐに狂ったように叫びたくなる心を無理やりに押さえつけていることしか出来ないのだから。
 彼女が目の前に来ている。腕が上がった。ああ、頬を叩かれるのかと気づいた。彼女の全力でもって俺は殴られるのである。それほどまでのことをしないとダメなのだろう。訣別の儀式なのだ。ならば、俺は受け入れるしかあるまい。目を閉じる。彼女が俺を嫌いになる瞬間など俺は見ていられるほど、目を開けていられるほど、強くはないのだ。許してほしい。見なくてはならないことから目を背けてしまう情けない男の姿を。もしかしたら、それが決定的に彼女に愛想をつかされる原因になるかもしれない。それなら、それでいいだろうと思う、ようにしてみる。出来ないが。
 そうして衝撃が来た。唇に来たのである。柔らかな衝撃が俺の唇におそってきたのであった。あまりにも突然のことで、体が固まっている。目をわずかに開けていると、すぐ近く、目の前にハルの顔があるのだ。俺たちはキスをしていることが分かったのである。しばらくしていたことだろうか。ゆっくりと、ハルの顔が離れていった。

「私は、どんなことがあろうとも、決してアランを嫌いになるなんてありえないわ。確かに、アランが私だけを見てくれないのはとっても腹が立つし、悲しい気持ちになる。でも、それと、私がアランのことを好きだという事実、愛しているという事実は関係ないもの。アランのことを愛しているという自分自身の心の奥底から湧き上がる感情に嘘はないもの。だって、私にとってのアランは運命の人であり、白馬の王子様であり、救世の勇者様なのだから。どうして、その人を嫌いになれるのかしら。ねえ、そうでしょうアラン。アランだって、私のことを永遠に愛してくれるのだものね?」

 衝撃であった。やはりだと言わざるをえないが、それでも心に来るものがあった。俺たちの愛は不滅であると証明しているのだ。涙があふれてきた。彼女は笑って俺のことを見てくれている。そして言葉を求めている。それならば、俺が言うべき言葉は一つしかないだろう。俺の心の底から湧き出るように、その言葉を発するだけなのである。

「ああ、俺も同じだ。ハルのことを愛せなくなるなんてことは天地がひっくり返ってもあり得ない。だから、永遠に愛し続けるよ。ハルのことはどれほどの年月が経とうとも愛し続けると誓うよ」

 ハルは俺の体に腕を回す。ゆっくりと、抱きついてくるのである。その様子を見ているルーシィはわずかに残念そうな顔を見せてはいるが、結局はこうなるだろうという、諦めもわずかに混じらせて、普段通りの表情に戻った。ただ、ためしていただけなのかもしれないと、そういうふうに感じられるのであった。実際はどうなのかがわからないわけだが。
 俺はただハルの頭をなでているだけである。それだけでも、ハルのぬくもりを、温かさを感じ取れることが出来るのだから。彼女もまた俺に顔をうずめるのである。お互いの愛を感じ合っているのだ。

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