天の仙人様

海沼偲

第83話

 俺は指定された教室へと向かった。ここから、一年間学校生活の基本となる場所であるのだ。自分の席へと座って、そこからの景色を見る。特別に変わった景色ではないだろう。だが、これから一年間過ごす景色なのだ。じっと見つめて、焼き付けておきたいという思いがあるのだ。
 この教室に俺が最初に入ってきたわけではないので、人はいる。それぞれが緊張しているかのような面持ちで、じっと待っているのである。同じようにして、俺も待っているのだ。緊張とは違うだろうが、そわそわと落ち着かないのである。久しぶりに通う学校だからだろうか。どちらにせよ、気持ちが高ぶっているのには変わりがないのであった。
 まさか、まさかの話なのだから。俺がこうして再びこの空気の中にいるとは思わなんだ。ずいぶん前に最後の学校すらも卒業して、二度と通うことはないと思っていたのだが、どうも運命というものは不思議なものだと思わざるをえないのであった。小さな体となり、二つ目の人生を歩んでいる。そして、再び学び舎の門をたたいているのだから。面白く感じてきてしまうこともあるだろう。
 当時のことをポツリポツリと思い出してきてしまう。それにいろいろと感傷とした気分もくっついてきてしまっていた。当時の学生生活のことを思い出しても、なつかしさに浸ることしかできないというのに。前世で出会った誰もが、今は思い出の中でしか存在できないのである。会いたいと思っても、会えるわけがないのだ。それはただひたすらに虚しいことだろう。俺はどうも、過去を引きずってしまっているのかもしれないと思う。過去があってこその、今だが、意味もなく過去を引っ張り出すのとは違うのではないだろうか。今、この過去の思い出に浸っていることはいいことなのだろうかと思ってしまうのである。
 前世の記憶があるために、この世界とは違う存在であるのだ。それが少し寂しく感じてしまう。当時は、記憶が消滅し、俺という人格が消えることに対する恐れもあったが、実際記憶が残っていると、自分自身がこの世界にとっての異物でしかないのではないかという恐怖に駆られてしまう。自分は、この世界にいていいものかと、思ってしまうのである。いていいに決まっているはずだというのに、何を恐れているのかと何度も思うようにしているわけだが、どうも自分は小心者だそうで、そこに対する恐怖がぬぐい切れていないようである。
 別に、今と昔を比べるつもりはない。昔は昔の良さがあったが、それは所詮昔でしかない。今も、当時の両親はどうしているのかと思うことはあったが、それを思ってもどうしようもない。いや、あるにはあるのだが、まだ俺にはそれを可能とするだけの力がないのである。だからこそ、俺は今現在をしっかりと見る必要があるのだ。今生きているのは今なのだ。無駄に過去を引きずってもどうしようもないのだと、再び、深く言い聞かせていくのである。静かに目を閉じて呼吸を落ち着かせていく。穏やかな心で過去を再び、奥底へとしまっていくのだ。

 俺は教室の中に一人立っていた。人を待っているのであった。呼び出されているのだから、その相手を待っている。そして、その相手がやってきた。彼女は……彼女たちは俺の目の前へと歩いてきたのだ。静かに俺の目の前に立つ二人の少女。少女といいつつも、わずかながらに女性へと体つきが変わってきている。その二つの存在の間にいる中途半端な存在であった。だが、その途中段階ですらも、俺にとっては美しく見えることには変わりが兄。彼女は少女から女性へと変異していく途中の美しさを放っているのであるから。
 彼女たちは問う。どちらがいいかと。どちらと付き合いたいのかと。だが、俺は答えなかった。選ばないとだけ答えた。彼女たちは、どちらが選ばれても恨みっこなしだといいあってから、ここに来ているそうだ。その覚悟を踏みにじっているようで申し訳なく思っていたが、それでも、俺は一人を選ばなかった。一人を選ぶのを嫌っているからだった。ならば、両方を選んではいけないのかと思ったのだ。俺は彼女たちを愛せと言われたら、愛せるし、両方愛せた。ならば、片方だけを取る必要などあるかと思ったのだ。現代では狂っているかもしれないことだろう。だが、俺自身の中では狂っているわけではないのである。最も当たり前のことであるのだ。愛せるのならば、愛せばいいではないかという思いでしかないのであった。
 彼女たちは混乱している。何せ、二股をしたいと言っているようなものなのだから。だから、この話はなかったことになるのではないかとさえ思っていた。幻滅してもおかしくはないだろうと思っていた。俺はそれでもよかったのである。俺は俺の愛を貫くだけであるのだから。その結果として彼女たちに受け入れられなければそういうものだと思って終わるばかりなのだから。だが、そうではなかった。俺は、彼女たち二人と付き合うことになったのだから。

 俺は深く息を吐き出した。変なことを考えていると、気が無駄に重くなって仕方がない。それを切り替えるための息であった。前世の出来事をふと思い出してしまったのだ。いい思い出ではあるが、今思い出したら、昔の女にうつつを抜かしているようで、みじめに感じてしまえるだろう。今まで、付き合ってきた女性を誰一人忘れたことはないが、その思い出に浸り感傷にふけるのは好きではないのだ。しまおうとしているのに、無理やり這い出して来るかのように、現れたのだ。唐突である。笑ってしまえるだろう。あほくささすらあった。

「どうしたんですか? そんなに悪い顔をして。なにか、嫌なことでも思い出したかのような顔をしていますね。どうも、辛そうに見えますよ」

 と、俺に話しかけてきたのは角が生えている少女であった。彼女も俺と同じクラスだったのかと驚いている。俺と彼女が対戦したのは最初の方の試合だったようにも思っていたのだが、どうも、それでも特待クラスに入れる程度の成績を持っていたらしい。彼女もなかなかに優秀なようであった。と思ったが、よく考えれば、一対一で戦えるのは上位数十人ばかり。だったら、特待生に入ってもおかしくはないのだと気づいた。

「いや、何でもないよ。無駄にいろいろと考え過ぎちゃう癖があるだけなのさ。あるだろう、どうして石にいろいろな形があるのかと、気になったりはしないかい。それと同じようなことが常に頭を行きかっていて騒がしいんだ。だから、たまに息苦しくなってしまうだけなんだよ。今の顔はそれに対する悩みというだけかもしれない」
「あらまあ、それは大変ですね。わたくしも、いろいろと考えたりすることはありますが、そこまでではありませんからねえ。いっつも、今日はお天道様があったかいですねえとか、そんなことばかり考えておりますから」

 彼女は温かさを放っているような笑顔を浮かべてそのようなことを言っているのである。本当に、そう思っているだけであるかのような柔らかさと優しさを兼ねている。それにふと惹かれてしまっているのであった。美しいのであるのだ。

「ああ、とってもいいことだね。たしかに、今日もお日様は温かい。素晴らしいことだね。とても綺麗に照らしている」
「そうでしょう、そうでしょう。わたくしは、それを見ていると心がポカポカとしてくるのです。体の表面だけじゃなく、体の芯から温まってくるのですよ。とても心地のいい日差しなんですよ」

 彼女との話をしていると、なんというか、心からしこりを取り除いてくれるかのような、作用を感じている。心が綺麗になるわけではないが、軽くなるようなそんな気持ちになるのだ。体から何かが抜けて、軽くなっている気がするのである。それがいいことに思えてならないのであった。
 彼女は静かに、俺の席の隣に腰かけると、よりじっくりと話し合うのである。このクラスにはハルたちもいるが、それだけではなく、他にも彼女がいてくれるというのは心強く感じていた。知り合いがたくさんいるほうが気持ちとしてはやはり楽なのである。

「ねえ、アラン。そいつだれ?」

 俺の背後から声が聞こえた。そちらへ振り向けば、ハルが仁王立ちで立っていた。その隣には、ルーシィとルクトルもいる。三人で一緒に来ていたようだ。三人とも、このクラスだとわかるのはやはりうれしい。どうにも、大丈夫だと心で思っていたつもりでも、どこかに不安があったのだろう。心からほっとしていると感じてしまっているのだから。だが、今この瞬間ではそれに対してほっとすることを許容しないとばかりにじっと俺の瞳の奥底まで見透かそうとされている節すらあった。

「友達だよ。つい最近知り合ったんだ。で、同じクラスになれたからって、今話していたところなんだよ」
「ふうん、そうなんだ……。その女と友達、ね。その女はどう思っているかわからないのにね。もしかしたら、アランのことを一目惚れしたから、近づいてきているかもしれないのにね。既成事実ってやつを作りに来ているんじゃないの。隣にいるケモミミみたいにさあ」

 ルーシィの過去をほじくり返すような発言に、彼女は少し傷ついているようであった。あれは別に傷つくような案件ではないのだが、彼女としては、どうも心にしこりが残ってしまう結果になってしまったらしい。ハルも俺と同じようにもう気にしているような話ではないからこそ、引っ張り出してきたのだろうが、まだまだ、根は深いようであった。
 それに気づいたハルは、すぐさま彼女に向き直って申し訳ないと何度も謝罪をしているのだから。ハルはどれだけ悪態をつこうとも、やはり心の奥底では心優しいのである。だが、それを表にすることが非常に少ない。特に俺が絡むと、どうにも、他の感情がすぐさま湧いてきてしまうのである。今もまさに、それが渦巻いてしまっているための発言であるのだろう。いつかは直さなくてはならないだろうが、そうそう簡単なことではないのである。

「ふうん……で、わたくしが、彼に好意をもって近づいたからといってどうなるんですかねえ。あなたには関係があるのでしょうか。いいえ、ありません。これは、わたくしと、彼の問題ということですからね。それにあなたが口出しをすることはかなわないのですからねえ」
「私は、アランの婚約者よ! それがどうして口出しを禁止されないといけないのよ!」

 ハルは、牙をむき出しにするかのように睨み付けている。だが、彼女は、それを受けても一切動じていないのであるのだ。むしろ、目を細めて頬を吊り上げているのだから。それに対してハルは、怪訝な表情を見せるばかりであった。

「ああ、そうでしたか。まあ、結婚はしていないみたいなので、同じようなものですけれどね。婚約なんていつ破棄されてしまうかわからない曖昧なものでしかないとは思いませんかねえ。そう思わないのならば、ずっとそのようなか細い糸にすがっていればいいと思いますがね」

 彼女はにやりと笑っている。ハルは追い詰められてしまっているかのように、言い返す言葉が見つからないようで、下を向いてしまった。仕方ないと思って、俺は静かに彼女を引き寄せる。そして、抱きしめてやるのだ。彼女はこうしていないとダメなのだ。まだまだ、弱さが残っているのである。でも、それでもいいとは思うが。人は誰もが弱いのだから。それに対して俺が何かを言うつもりは一切ないのである。
 それは、先生が来るまでの間続くのであった。先生が来ればそれは終わる。俺たちはそれぞれの席に戻り、話を待つのであった。

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