天の仙人様

海沼偲

第86話

 俺たちはようやく、山頂へとたどり着いた。他には誰もおらず、俺たちが最初にたどり着いた班のようである。このあたりでは一番高い場所なので、遮るものは何もなく、広々とした景色が存在していた。ここはより高いのだ。とても綺麗であった。自分が支配者にでもなったかのような気分である。俺はばかなのかもしれない。だが、今の俺はばかでいいとすら思えてきてならない。高いところを愛してもいいだろう。全てを見ることが出来るのだ。その全の美しさをこの目に焼き付けているのだから。
 高いところが別段、好きであるとかそういうことはないはずなのだが、時々、こうやって山の上から見下ろしたりするのはいいものだと、思うのである。たまにだからいいのだ。めったにすることがないから、この美しさは美しいままで保存されている。常であるとそれが美しいものとして機能しなくなってしまう。だからこそ、俺はこれをより深く綺麗に輝いてみることが出来るのであった。この美しさを色あせることなく保存し続けることが俺には出来るのだ。これほどに素晴らしいことはないだろう。
 全方位を見下ろすことが出来るのは素晴らしいと言えるだろう。俺は全身を回転させて周囲の景色を眺めている。すると、俺の視界に一つ、おかしなものが映りこんだ。それは黒い顔をしている。鳥のように鋭いくちばしを持っているのだ。だんだんと空を飛んでこちらに近づいてきていた。その姿はあまりにも大きく、そこいらの飛んでいるありとあらゆる鳥とは比べ物にならないのである。そして、その姿も顔つきも全て俺が見たことあるのである。とても懐かしい存在なのだ。
 それは、お師匠様であった。俺はポカンと口を開けたまま固まった。村を出るときに会って、それっきりである。とはいっても、今までよりは短い期間での再会であると言えた。一年ぐらい会わないこともあったのだ。それに比べればこの程度の期間は短い期間といえるだろう。驚いたとすれば、あまりに唐突に再開したことだろう。心の準備というものが出来ずに来たのである。だからこその硬直であるといえるだろう。
 お師匠様は、俺の隣に降りると、静かに周囲を眺めている。目を細めながらであった。俺は何も言うことが出来ずに固まったままであった。ハルも同じようにピクリとも動くことが出来ない。だが、ルイだけはお師匠様の存在に気づいていないらしく、周囲の景色を楽しそうに眺めている。おそらく、お師匠様は俺たちにだけ気づかれるように気配を操っているのだろう。仙人でなければ感知できないような極微細な気配なのだ。だからこそ、二人にしか感じられないのだ。
 俺の胃はキリキリと警鐘を鳴らし始めていた。何かいけないことでもしてしまったのかと思ってしまう。俺は、変に仙人を増やそうとしてはいない。ルクトルは仙人ではないのだから、今もまだ三人。これで怒られることはないだろう。ならば、なぜ俺の目の前に現れたのか。理由がわからないということがとても恐ろしいのである。お師匠様は何も言わないのだ。それだけで何かをやらかしてしまったのではないだろうかという不安がどんどん溜まってきてしまう。それを解消する方法など存在しないのだから。喉が変に乾いてきて仕方ない。お師匠様に怒られたことはないが、前にお師匠様が怒った時の話を聞いたことはある。
 それはどれくらい昔のことなのだろうか。お師匠様を怒らせたのは、その当時の人間たちだったそうだ。とある国の人間がお師匠様が住んでいる山を荒らしたらしい。そのために、お師匠様はお怒りになられた。そして、その国の人間を全て焼き尽くし、地面に亀裂を走らせて、その国が生み出した全ての文明を地面の奥底へと落とした、という話を聞いたのである。
 俺の体から汗が流れることがとまることはないだろう。ああ、いやだ。どうしてここまで怯えなくてはならないのか。焦らすのか。一思いに殺してくれればどれほど楽なのだろうか。俺はそれを求めてならない。それほどまでに追い詰められているようにすら感じるのである。

「あ、あの……俺は何か重大なミスをしてしまったのでしょうか。もし、そうであるのなら、それが何かを教えていただきたいのですが。さすがに、お師匠様の顔色から失態の内容を理解することは出来ません。ですから、今ここにいる理由を教えていただきたいと思っているのでございます」

 お師匠様は、俺の方へと向いた。普段から睨み付けるような鋭い視線のため、これは怒りなのかいつもの表情なだけなのかが非常にわかりづらい。それが俺の恐怖心をさらに高めていくのである。今すぐにでも逃げだしたいとさえ思ってしまう。だが、逃げるだけ無駄だ。お師匠様から逃げる算段など思いつくはずがない。どうあがいても捕捉されたまま逃げることなどできないだろう。俺が動ける範囲はこの星が限界だが。お師匠様はそのさらに上の範囲で移動できるのだ。逃げようなどと言うのが甘いというのがよくわかることだろう。お師匠様の手のひらの上で転がされる未来ばかりが目に浮かんで仕方がないのである。神に助けを祈ることすら無駄なのだ。
 俺の顔はもう諦めにも近いものへと変化していった。これを見たルイは、どうしてこの顔をしているのかがわからないだろうが、自分よりも圧倒的上位者から睨み付けられているというのはそれだけで生すらも捨て去ることが正しいことのような、すべてに対する無気力さを与えてくれるほどの力があるのである。力なくだらりと、死を受け入れる覚悟すらできている。俺は死にたくはない。永遠に生き続けたいさ。だが、死んでしまうことを恐れてはいけない。愛をもって死なねばならない。死すらも愛せなければ、ダメであろう。俺は覚悟を持たせるのである。それは、今この瞬間で発狂して惨めをさらすことがないようにするためでしかないのであるが。たったそれだけのために、俺は相当な覚悟を必要としているのである。

「何をそんなに、死に急ぐかのような恐ろしい顔を見せているのだか。極卒に食われている囚人ですら、そんな顔を見せることはないぞ。這いずり回って、執着して、醜くわめいているのだ。その顔をみせないなんて、人間らしくないな。人間臭さを捨ててしまったのか? それはダメであろう。生き物が捨ててはいけない原初のものは生なのだから。それを捨てるのはとんでもないことであるぞ」
「え? あ、はい。申し訳ありません。つい、生きることの全てを諦めてしまいました。ウサギがクマに出会ってしまったかのような心境であったと思います。いいえ、それすらもまだ温いといえましょう。それほどの事態でございましたので」
「ウサギは、クマに出会った程度では生きることを諦めたりはしないさ。家族を守るためでしか、命を喜んで捨てることなどしないのだよ。だが、貴様はそれが出来ていなかったと言わなくてはならないだろうな」
「ああ、申し訳ございません。どうも、しっかりとものを考えることが出来ていないようです。頭に血が上っていないのかもしれませんね。どうもぼーっとしているのか」

 お師匠様は楽しそうに笑っている。俺もそのおかげで変に張っている緊張がほどけてきている。ハルも同様であった。そもそも、ハルはそこまで近くにいないというのに、固まってしまうとは、どれほどの圧をまわりにばらまいているのかと問い詰めたくはなるのだが、今はそれを心の中にしまうだけにとどめておくのであった。もし聞いたのならばまた再び、それを浴びせられてしまうかもしれない。俺は臆病者なのだから。
 お師匠様は、空を飛んでいるときに、たまたま俺たちの姿が見えたから、近づいてきただけだそうだ。偶然でしかなかったようだ。で、お師匠様の知らない少女も一緒にいるから、彼女には見えないようにしっかりと影隠しの術を使って存在を悟られないようにしているようだ。そのおかげもあってか、俺がお師匠様に対して向けられた言葉の全てもルイには届いてないらしい。もし、届いていたら、とんちんかんな独り言をつぶやいている危ない少年と彼女に思われていたことだろう。そうはならなくて幸いである。むしろ、俺の警戒心があまりにも低すぎると言えた。ルイがいるというのに、堂々とお師匠様に話しかけてしまっているのだから。これは要反省するべき案件であろう。しっかりと心のうちにとどめておくべきことであった。
 お師匠様としては、この山は小さくはあるが、周囲にこれ以上の高さを誇るものがないというところを非常に気に入られているようである。俺と同じような感性をしているのはありがたい。そうであろうと思う。全方位からの眺めがどれも等しく美しいのである。それはめったにない美しさを包み込んでいるのに等しいのだ。この景色の雄大さは、キャンパスに描き切ることなど不可能なのだ。だから、肉眼でここに来なくては味わえない。その希少性も素晴らしかった。
 お師匠様が飛び立って、しばらく経った頃にもう一つの班が到着したようである。その班はルクトルがリーダーをしている班であった。彼もまた、俺と一緒の班ではないことにしょげているようであったが、それでもしっかりと班長としての役目をはたして、班員を山頂まで連れてきているのである。ルクトルもまた、俺たちと同じように、男子一人、女子二人の班であった。
 彼に連れられてきている二人の少女は、赤い顔をしながら何度も話しかけているのが見える。とても愛らしいものである。だが、彼はそれをさらりと受け流している。普通の男子であれば、女子のアプローチにドギマギとしてしかるべきなのだが、どうもそうではないようである。まだまだ、女の子と恋愛をするには早いということなのだろうか。そもそも、ルクトルは女の子と恋愛をするのだろうかと思ったりもするが。だが、俺に対する好意は一時的なものではないだろうかとも思っているわけである。いずれ性について考え始めた時に、女の子との恋愛に進むかもしれないと思っているのである。
 ルクトルは、俺のことを見つけると、パッと顔を明るくして近づいてくる。わずかに歩く速さが上がっていく。しかも、それに気づいていないようであるのだ。だんだんと少女たちから離れて近づいてきてしまっているのだ。それに彼女たちはむくれた顔を見せている。

「お疲れ様、ルクトル。班長をしていたのだろう。いままでは、そのようなことをしてこなかったと思うが、それはどうだった? 大変だったかい?」
「ええ、大変でございました。彼女たちが疲れたらすぐに休むようにしっかりと、計画をたてたつもりでしたが、それでも疲労は溜まってしまうのですから。休憩時間通りでは、倒れてしまうだろうと、いろいろ考えるのに、疲れました。そのせいか、少し予定よりも遅れてしまいましたが、今はこうしてみな無事にたどり着いたことをただ喜ぶばかりでございます」
「そうかそうか。今は、ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」

 彼は、俺の膝の上に頭を乗せて、休憩し始める。まさか、そんなことをするとは思わずに、俺はわずかに驚きが外に出てしまっている。そんなことをしては、ハルに嫉妬されてしまうだろうと、忠告してもよかったのだが、今の彼はあまり頭が回っていないようでもあるのだ。ならば、注意をしたところで、覚えているかどうかすら怪しい。ならば、静かにそのままにさせておくべきであろうと納得したのであった。
 それを見たハルはずんずんとこちらへ近づいてくるのが見える。俺はそれを確認するとすぐに、笑顔を見せてしまう。とても愛らしいのである。可愛らしいともいえた。お師匠様からの圧に比べれば、彼女の圧は少女相当の愛らしいものだろう。俺の心はいつも以上に落ち着いたものとなっているのであったのだ。
 ハルも同じようにして、俺のもう片方の膝に頭を乗せる。その張り合っている姿もまた愛らしく感じているのだ。たとえ、男だろうと身内だろうと、自分の愛する人に近づくというだけで、彼女は嫉妬してくれるのだから。生きづらくもあるだろうが、俺がその分愛してやる必要があるのだと感じるのだ。深く深くそう思う。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品