天の仙人様

海沼偲

第79話

 この後も、俺は勝ち進むことが出来て、決勝戦まで残ることが出来た。決勝の相手は、俺のよく知る相手である。俺は笑みを浮かべながら舞台へと上がるのだ。ゆっくりと一段一段、段差を上っていき、それと共に、自分の感情も高ぶらせていく。その一段をしっかりと踏みしめているのである。
 立ち位置へと進む。対面には毎日のように顔を合わせている少女、ハルが輝かしい笑みを浮かべて待っていた。俺もそれにつられるようにして頬がつり上がる。目線を交わしただけで俺たちは意思を交わし合える。言葉など必要などない。お互いにわかっているのだ。全てがわかっている。これこそが愛のなせる業なのかもしれない。俺は誇らしさすら覚えるほどであるのだ。
 俺たちは静かに剣を構える。彼女も同じく剣だ。俺と同じような考えであろうか。俺の弟子のようなものだから、そうなるのもわからなくはない。じわりじわりと、空気を作り上げていく。ゆっくりと、変わっていく。この空間がただ構えを取っている俺たちの空気に飲まれていくのだ。ただ待つ。合図がかかるのを。ピクリとも動くことなく、お互いをじっと見ているだけなのだ。筋肉の一切が静まり返っているのである。それに呑まれてしまっているかのように、誰も、なにも発することが出来ていないようだ。ただ構えを見せているだけという状況を、一つの芸術にまで昇華させているのかもしれない。

「……は、はじめ!」

 ふと思い出したかのように、一声かかる。音というものの一切を忘れていたかのような空間に、一つ、音をよみがえらせるのである。ざわりと、周囲が声を出し始める。生物が生きていることを証明するための音である。しかし、それは俺たちからは一切出てこない。死んでいるかのように動かずに見ているだけである。リズムを悟られないように、ただそこに構えているだけである。それでありながら、隙を作らぬように慎重になっているのである。口一つでも動いたら、すべてが始まることをお互いに理解しているのであった。
 観客たちは、つばを飲み込んだ。それが聞こえるほどの静寂。石像が二体、そこに飾られていると言われても信じてもらえることだろう。いつまで続くのか、それは誰にもわからない。俺だって、わからないだろう。わずかな隙ですら、彼女はついてくることが出来る。それを多分に警戒してのものであるのだから。この緊張感はどれほど味わっていなかったことか。生きるか死ぬかをお互いに舞台の上に置いてしまっているのかと錯覚するほどに空気を張り詰めてしまっているのだ。
 最初に動いたのはハルであった。我慢の限界が来たのである。ほんのわずかに筋肉を緩めたのであった。そのわずかな指先の動きですらも見逃してはならない。そうなのだ、我慢比べは俺の勝ちであったと言える。すぐに俺は踏み出し、彼女の間合いへと入り込む。絶好のチャンスでもある。魔法を唱えるほどの猶予など与えてくれるわけなどない。ならば、剣のみ。大きく離れた距離を瞬間に埋めて、そのうえで斬り下ろす。
 俺の剣の間合いにハルを入れることは出来た。しかし、それまでであった。振り下ろしはしたのだが、それを受け止められるのである。わずかに遅いということであった。しかし、そうでなくては、俺が本気を出して距離を詰めてはいない。競り合うことをせずに、距離を取る。が、それを見越してハルは踏み込んでくるのだ。後退する距離の更に奥深くへと飛び込んでくる。そのまま横に払うだろう。風を切るように、剣を滑らせていく。それは、俺のわき腹へと向かっていく軌道である。殺す気だと思わせるほどの、気を混ぜ込ませたような鋭さを持ってしまっている。にわかに顔が引きつるようで、そして笑ってしまうほどであった。
 すぐさまに、エネルギーの方向転換を行い、彼女の方へと飛び込む。距離がゼロに近づけば、剣は意味がなくなるのである。上手く力を伝えることなどできずに、終わってしまう。それでも、みしりと衝撃はしっかりと伝わってきているのである。どれほどの力かと、思わず笑みを浮かべてしまう。痛みをごまかすための笑みでもある。笑うことで、高揚感をより高めていくのだ。
 俺たちは、体が触れ合うほどに密着している。これほどに密着しているのであればと、俺は足に力を込めて、踏み出す力を足から腰にそして、腕、さらには掌へと伝えていき、それを彼女の腹に打ち出す。それと同時に、気をぶつける。身体のエネルギーと反作用のエネルギーを綺麗にねじ込むのである。普通ならば、呼吸は止まる。内臓の全てが驚愕に一時的に機能がとまってもおかしくない。気をぶつけるというのはそれほどの力があるし、そうでなくとも、この密着した体勢から、蹴りをもらうほどの衝撃を一切の損失なく彼女に与えている。どれほどのものかは、想像に難くない。
 しかしながら、彼女は、それでもにやりと笑みを浮かべるのみである。だが、その笑みは強がりでもある。痛みを隠す笑みなのだ。俺と同じである。戦場における笑み程恐怖をあおる目的で使われるものはない。そして、その笑みは俺にとってとてつもない程に愛おしく感じてしまえるのであった。
 人は、恐ろしいのだ。人を攻撃するということ。人を殺すということ。それをとにかく恐れる。それを恐れなくなったときは、頭が壊れた時だけである。精神に異常をきたしてしまっているのだ。健常者とは一つ違うところに行ってしまうのだ。あえて、それを演出するのである。人は、自分とは違う存在を恐れる。自分の常識に当てはまらないであろう存在を恐れる。恐れをなしたものは、本来の力を発揮できない。だからこそ、俺たちは笑みを浮かべるのである。恐怖をあおるのである。それはもう、癖のようなものに近いのであった。
 腹に思い切りのいい衝撃が飛んできて、俺は吹き飛ばされる。距離を取るためだけに繰り出された蹴りだということが分かる。彼女は膝を突き出していたのである。これで仕切り直しだと、そう伝えているようである。俺としてもそれは願ったりかなったりである。腹に一撃貰った程度では、俺は倒れることはない。それは、ハルにも言えることではあるが。そうなると、倒す方法は非常に少ない。というか、ないといっても間違いではなくなってしまうわけであるが。
 俺たちは再び構えを取る。回復するための時間稼ぎでもあるし、無駄に攻撃するだけで意味がないということをお互いにわかっているからこそ、構えを取るのである。再び舞台の上は静かになる。呼吸音一つすら消しているかのような静寂の中に俺たちは包まれているのであった。
 恐ろしいことだ。何が恐ろしいか。勝ち目が見えないということが恐ろしい。ただそれが愛おしい。絶対に勝てるわけではないと、俺の実力では、そのレベルに到達できていないと、一つの動きを通して理解していくのである。負けるということが頭をよぎることに対して、喜んでしまっているのである。しかも、自分の愛する者が、それを伝えてくれているのである。これを喜ばないのなら、何を喜ぶというのか。
 俺はつい、強がりではない笑みを浮かべてしまう。彼女は気づいたことだろう。俺の笑みが、本当の意味で笑ってしまっているということに。おかしいからではない。愛おしいからである。それからきてしまう抑えようのないこの感情の吐露を、彼女は理解できたのだ。だからこそ、彼女もまた、静かに笑みを浮かべるのだ。作るのではなく、仮面なのではなく、本性からのものである。やはり、お互いがお互いをよく理解できなければ、ここまで愛し合えないのだとわかるのだ。愛し合っているからこそ、今こうして、本気で戦っているのかもしれない。
 お互いが同時に、地面を蹴り、斬りかかる。よく見える。負けることに対しての恐怖などない。むしろ、負けることをいつでも受け入れられる心になっている。楽しむということが最優先されているのだろうと感じている。負けてもいいが、負ける剣はしない。全力で勝ちに行く。そのうえで負けるのならそれもいい。だが、勝ちたいという思いは強い。絶対に勝つ。それが最優先であるのには変わらない。
 俺たちの全力が、ぶつかり合い、ばきんと、剣をへし折った。両方の剣が全力に耐え切れないのだと、示していた。それに驚いたようで、審判の先生は驚愕の表情に染まっている。俺たちは、剣をすぐに捨て、こぶしを握り締めるのである。
 彼女を殴るのは気が引けるかということもあるにはあるだろう。だが、それは失礼なのだ。彼女が望んでいることではない。彼女もまた俺が望むように望んでいることである。全力で戦いたいとお互いが想いあってしまっているのだ。それはもうどうしようもないのである。救いなどないのだ。
 だからといって、ノーガードで殴り合うことはしない。俺たちは一撃をもらわないように、避け続け、その隙に一撃を出していくのである。より慎重である。針の穴に糸を通すよりも、集中している。いや、そんなことなど、目をつむってもできることだろうか。それほどまでに神経をとがらせているのである。一撃が殺すつもりであると錯覚するほどの威力を持たせながらも、すぐに体が反応できるように柔軟にしておく。剛で柔。その二つを同時に内在させているのである。
 拳がかするだけで、肉が裂けた。恐ろしいまでの切れ味であると確信できる。しかし、どうも、俺の方が劣勢である。このままでは負けるだろうと頭によぎる。だが、逆転の秘策などないのもまた事実である。ありとあらゆる小細工を駆使しようとも、無駄であるほどに、極限の状態に俺たちはいるのだ。小細工をしようと、体を動かせば、その瞬間に俺は倒されることだろう。
 足の甲を踏まれた。一瞬の隙が生まれたのだ。だが、その一瞬は、秒針が一回動く程度の短さでありながら、永遠ともとれるほどに大きな時間であった。その瞬間を逃すことなく、彼女は俺の心臓に一撃を与える。
 俺は、飛んで衝撃を逃がすこともできずに、ただ、それをもらう。そして、わずかに残った意識の中で、地面に倒れ込むのである。その時間はゆっくりとして、数秒が数時間にすら感じるほどなのだ。体感している世界と実際の世界が大きくかい離してしまっているかもしれないような、そんなわずかな不安を与えてしまっている。
 立てるだろうか。立てないだろう。力が入らないのである。心臓どころか、すべての筋肉すらもが、驚きのあまりに固まってしまっているかのようであった。じっと天井を見上げることしかできない。
 ハルは俺を見下ろしている。わかっているのだろう。今まさにどちらが、どういう状況なのだということを。彼女は喜んでいる。そうだろう。むしろ、そうでないと困る。失望したような顔をされたら、何の反応も見せない顔をされたら、俺は、彼女の前にいられないほどに落ち込んでしまうかもしれないだろう。
 俺は初めて、ハルに負けた。負けたのだと実感した。だが、悔しくもあり、嬉しくもあった。俺はまだまだ未熟なのだと、証明してくれる相手が見つかったのだ。俺はそれを誇らしく感じた。
 俺の顔はすがすがしいことだろう。笑っていることだろう。目じりから、涙が流れていることをわずかに感じていた。

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