天の仙人様

海沼偲

第39話 聖なる気の魔力

 俺たち三人は、森へと続く道を歩いている。森、森と何度も思うが、この森に名前はあるのだろうか。この森以外には周囲に森は存在しないため、この村の人間は森といえば、いつも俺が通っている森を思い浮かべる。だから、名称など聞いたことがないわけだが、いまでは聖域が発生しており、そこいらの森とは格が違ってきている。いずれ、それに見合う名前がついてしまうのだろうか。まあ、現地の人間がめったに入らない森では、そんな事実など気づくわけはないであろうという思いもあるにはあるわけだが。永遠に、この森には何の名前もつくことがなく、ただ森として認識され続けるのだろう。
 ルーシィは初めて森の中に入るそうで、スキップをしながら俺たちの前を歩いている。それとは逆に、ハルは頬を膨らませて機嫌が悪い。むすっとした顔を俺に向けている。今まで俺とハルだけの特別な場所だったのだ。それにルーシィが加わるということで不機嫌になっているのだろう。たぶん。しかし、ハルだけを特別にすることも、ルーシィだけを特別にすることも出来ない。彼女たち二人を同等に特別に扱わなければならないのだ。それが俺の最低限必要な義務なわけなのだから。
 俺は、機嫌を直してもらえないかとハルの手を取る。少し、剣呑な雰囲気は和らぐのだが、それだけで許してくれるほど甘くはない。嫉妬深い女の子である。それとも、ルーシィがそういうのを気にしないタイプなのだろうか。でも、ゴブリンだって複数のメスと番になるオスはいるのだがなあ。それとは別なのだろうか。

「……アラン。アラン、アラン」
「どうしたんだ?」

 俺は、ハルの方へと顔を向ける。ハルは何も言わずに腕を絡ませて、体を密着させてくる。少し歩きづらくなってきているが、俺は何も言わずにされるがままでいる。耳がぴくぴくと小刻みに動いており、顔は少しずつ赤く染まっていく。俺は、頬に触れる。柔らかな感触が指先から伝わる。上目遣いでこちらを見てくる。息が少し荒々しくなっている。人間はそうではなくても、ゴブリンはそうではないのだ。抑えきれないというばかりにハルは俺の口を自分の口でふさぐ。ルーシィが近くにいるというのに、かなり積極的であると感心してしまう。今日はたくさんキスしているなと、ふと思ったりもした。
 ハルのキスは、情熱的であった。息が漏れるほど激しく、むさぼるように求めてきているのを感じる。これでも、ゴブリン的な成人を迎えているだけはあるのだろうか。少女的ではなく、女性的な、魅惑的なものなのだ。俺もそれにつられるように、からませていく。ゆっくりと、溶けあうように。魂が混ざり合っているような錯覚を覚えてしまうほどであるか。肉体の乖離が完全に消失してしまい、唯一へと変貌していくようである。
 俺たちが離れると、そばで顔を隠した姿で、ルーシィが立っていた。しかし、顔を隠しているようで、目を覆えていないために、ばっちり俺たちのことが見えているようである。そして、手の隙間から見える顔は真っ赤に染まっている。恥ずかしさが燃え上がるようで、湯気が出ているかと思えてしまうほどである。どれほどの熱を持っていることだろうか。彼女は舌を出して放熱しているほどなのだから。

「あ、アランって……そういうのが好きなの? さっきのは、お母さんたちがするようなキスだったよ。ハルちゃんって、おませさんなんだね。普通は恥ずかしくて、触れ合うだけで十分だもの」

 顔が爆発するのではないかと思うほどに、ルーシィの顔は茹でられていた。触ったら、熱でやけどでもするのではないか、そう思うには十分なほどである。それを聞いたハルは、再び不機嫌そうな顔を見せる。俺は頭をなでて落ち着かせようと努力をした。
 ……俺はなんとなく、ハルが不機嫌な理由がわかった気がした。見ている先が違うような、そんな歪なところで、ハルが不機嫌になっているのではないかと思ったのだ。子供と大人という違いが彼女のいら立ちを加速させているようにしか見えないのである。

「ハル……気にしないでくれ。みんなそれぞれ違うんだ。ハルだけが、今の年齢で成人相当の価値観を持っているんだ。だから……その……目くじらを立てないでいいんだ」

 俺は、ハルにだけ聞こえるように小さな声でそう言った。ハルは、気にしないでというように柔らかな笑みを見せる。俺は軽くハルに口づけをした。唇に触れて、少し上機嫌そうに緩んだ笑みを作ると、再び歩き出した。ルーシィも羨ましそうに俺の隣へ来て、俺の顔をじっと見つめている。同様であった。彼女は顔を真っ赤に燃やしたまま下を向いて俺に引っ張られるようについていくのであった。
 森にたどり着いた。心が洗われる。自然だけはどんな生き物の贖罪も受け入れてくれるのだ。俺は、手を合わせて祈りながら、目的の場所へと歩き出す。
 わずかに広がりつつある。最初のころよりも手前から聖域に入ったなという感触が俺を包み込んでいる。どろりとした世界から、解放されるかのようにさわやかな感覚が襲ってくるのである。すっと空気が通り抜けていき、心が洗われていくのだ。今までいた世界よりも大きく息がしやすいと感じるのが最も大きな変化であろう。

「なに、これ……? 不思議……」

 ルーシィは初めての経験であったらしく、この変化に戸惑っているようであった。まあ、聖域に入れるような経験など、聖女であってもできないと言われているからな。平民が出来るわけがないだろう。それぐらい、聖域というものはどこにも存在しないのである。
 さっそく、俺たちを迎えるように妖精たちが近寄ってくる。俺たち二人には多く寄ってくるが、人見知りなのか、ルーシィの近くにはいない。彼ら、彼女ら? どっちかはわからないが、妖精たちは気まぐれだ。もしかしたら、気まぐれに人見知りをしているのかもしれない。人に対して人懐っこくたわむれたり、警戒したり、その全てが彼らの気まぐれによって起きているのだ。人間関係が唐突にリセットされることだってある。彼らとの関係は、今まで築いてきたその全てが意味のないものとして積み上げられるのだ。それぐらい適当な存在であった。生き物ではないからこそ、気まぐれに生きていけるのかもしれない。ある意味では、羨ましくもあるだろう。
 なんとなくなのか、一体の妖精がルーシィの目の前を通る。しかし、彼女にはそれが見えていないのか視線で妖精を追うというようなことをしない。きょろきょろと周囲を見渡すだけであり、そもそも、俺たちの周囲にいる彼らにも気づいている様子は見えない。

「ルーシィ。これは見えるかい?」

 俺は試しにと、妖精の一体に指さしてみる。妖精は、突き出された指の上に座って歌を歌い始める。おそらく歌だろう。話す言葉がすべて歌にしか聞こえないが、今聞こえる元は質が違うのだ。魂が込められているような、別の力のベクトルが働いているような、そのような不思議な感覚。それが俺の指先のその先で起きているのである。
 その歌に合わせるように、他の妖精たちも歌い始める。合唱であった。あたりから力の本流が流れ出し、指先の妖精へと集まっていく。力を集めてそれをどこかへ解き放っている。そして、再び彼らのもとへと力は帰ってくる。その循環が目には見えずとも肌で深く深く、感じるのだ。びりびりと震えるように、裂くように、何かが全身を駆け巡っているのだ。気ともわずかに違うそれ。俺はわずかに目を見開くことでしか反応できなかった。わからないのだから。

「何があるの? そこに……」

 ルーシィはじっと目を凝らしているようだが、確かに見えていないらしい。それに、俺が感じている力も感じ取れていないのだろうか。大気すべてを揺らす源流を。だが、聖気の存在は感じられるのだろう。聖域というものは謎だが、ルーシィの様子から、段階があるのだろうということは予想できた。格によって感じ取れる段階が変わってくるのだろうか。違う気もする。
 彼らは人見知りという設定でルーシィと触れ合っているのだ。だから、姿かたちを完全に隠しているのだろうか。それはとてもあり得ることであり、そして、全くあり得ないと否定することもできた。彼らに対してのあらゆる考察がバカげているようで、ふざけているのである。

「ここは、なんなの? アラン……」

 ルーシィは聖気を浴びているということに少し怯えているようだった。心が洗練されていく、浄化されていく心地を味わったことがないと、恐ろしいことに感じるのかもしれない。心が浄化される恐怖というのはどれほどだろうか。俺みたいに毎日のように浸かっていれば、気にならなくなるだろうが、そうではないからこそ、ここまで恐れているのだろう。
 ならば、俺は彼女の不安な心を落ち着かせる必要があるだろうさ。ゆっくりと手を握り締めて、彼女を引き寄せる。すぐそばまで連れてきて、温かな気の巡りと共に、精神を落ち着かせていく。ゆっくりと安らかな心地へと誘っていくのだ。彼女もそれに身を預けていくようで、うっとりと、そして柔らかな表情でこちらを見ている。

「大丈夫。ただ、自然に身を任せればいい。今までの不満を全て自然が聞いてくれる。答えはないけど、ただ、父親の様に温かく、母親のようなぬくもりで、受け入れてくれる場所ってところかな?」
「聖域ってことだよ」

 ハルが、ルーシィに簡潔に答えを話した。俺が、遠回しに怖くはないと教えているのだが、それにじれったさを感じてしまったのだろうか。ルーシィはそれを聞いて、口元を抑える。聖域というものはそれだけ身近に来れるものではないのだ。子供でも分かる。だから、今その場所にいる感動を抑え込もうとしているわけだ。
 ハルは、穏やかな顔をしている。ルーシィと関わり合ってから、今までにない程に優し気な表情でもって彼女のことを見ているのである。何を考えているのであろうか。彼女に対して愛おしさというものを感じているのだろうか。それなら、彼女たちが仲良くなる可能性をわずかでも感じることが出来て俺は嬉しい。

「私ね、あなたのことが好きじゃないの。あなたは、私とアランの二人だけの関係に入ってきた。だから、嫌いなの。でも、アランはとっても素敵。私以外の人が好きになっても変じゃない。むしろ、そうなって当たり前なの。だから、ルーシィ、あなたみたいな子が出てくるのはわかっていた。はあ、私もアランのことが好きにならなければ、こんな思いにならなくてよかったのにね。でも、好きなの。アランのことが好き。大好き。あなたがアランのことが好きだという想いが全部わかっちゃうほどに、アランが好きなの。だから、一人占め出来ない。でもしたい。妖精たちは許してくれる? あなたも許してくれる。悪い女の子の私を」

 全く違う。彼女は俺の予想とは正反対の意味で持ってただ笑顔を浮かべているのである。しかし、彼女の言葉は、今のこの場所だから出てきたものなのかもしれない。これは全部本心であろうというのがまじまじと理解できたのだから。この場所は、そういう場所なのだから。さらけ出すように膿が飛び出てきてしまうのだから。それを聞いていた、ルーシィは抑えられないとばかりに口を開いた。

「あ、あたしも! アランと一緒にいたのに、突然出てきた。いきなりいて、アランのお嫁さんだって。悔しかった。アランとお嫁さんになるのはあたしだって、あの時からずっと思ってて、そしたら、ドキドキして。眠れなくなっちゃって。でも、あなたがいて……。でも、あたしはあなたとも友達になりたいもん! アランのことが好きな女の子として友達になりたいもん。ダメなの……」
「……ダメじゃないよ。私だって、友達になりたいもん。でも、私は悪い子だから意地悪しちゃうの。キライって言っちゃうの」
「じゃあ、その時はあたしもキライっていう。意地悪する。悪い子になる。ううん、今悪い子になる。あなたのことなんて嫌い。大っ嫌い。ほら、これで悪い子だよ。二人で一緒に悪い子。だから、友達になろう? いい子同士じゃなくて、悪い子同士だから友達になれると思うんだ」
「そうね。私たちはこれから友達よ。お互いに嫌いあって、いがみ合って、アランのことを取り合っちゃうような、友達。決して仲良くなったとしても、認め合ったとしても、アランを永遠に取り合い続けるの」
「とっても素敵だね」

 これが、聖域の力なのだろうか。わからない。でも、屋敷にいてはこうやってぶちまけられることは出来なかったのではないだろうか。そう思えて仕方がなかった。俺は、涙を流していた。悲しくもないというのに。何を泣いているのだ。すぐに拭う。
 二人は肩を寄せ合い、抱き合い、静かに森の真ん中にいるのだ。俺は、何も言わずに彼女たちが納得するのを待った。これが、二人の第一歩になることを信じて。

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