天の仙人様

海沼偲

第34話 新たな姿

 太陽が沈んで、月が出る。それはまた沈み、再び太陽が顔を出す。夜は現れ、皆が見ていない間にも隠れてしまう。日は高く昇り、俺たちの頭上を照らしている。空の王であった。その中を俺は、森への道を歩いている。いつもの道だ。毎日のように通っているせいで、最初のころとは比べ物にならない程度に、歩きやすくなっている。草も土も踏まれて死んだかのように硬くなってしまっているからではある。だが、そうして道は生まれる。命が死んだことに虚しさはあるが、それ以上に歩きやすいことへの喜びが勝る。身勝手であるからこそ生き物か。しかし、俺以外に通る人はいないが。人気がないのだ。特に何かあるわけではないから。特産品というものが存在しない。だから、人が寄り付かないのだ。だから、両親にはどうして何度も足しげく通っているのかがわからないことだろう。そのおかげで、聖域が見つかることもないし、悪いことではないが。村の目と鼻の先に聖域があるのだ。これが見つかったらどうなってしまうのか。考えたくはない。邪な心を持つ人間が中に入ると死んでしまうから、どうにかなるのかもしれないと気楽に考えることも出来るけれども。
 俺はその聖域へと到着する。変わりなく、妖精が俺を迎えてくれる。相変わらず何を言っているのかがわからないが、その声色はとても美しく、聞きほれるほどである。永遠に招待し、流れの中に身をゆだねてみたいと思ってしまう。それが出来ないことにもどかしさを感じるだろう。それと共に、本心から望んではいないのだろうとも思っている。
 俺は周囲を見渡すが、ハルの姿は見えない。
 ハルの……ハル。名前を与えられたゴブリン。その名前。彼女のような愛らしい女性にふさわしい美しい名前。与えられるべきして与えられたという。力を感じる。

「ハル……」

 俺は、彼女の名前を呟く。それだけで心が温かく、何とも言えない感情が奥底から湧き上がってくる。しかし、その相手がいない。俺の言葉を耳にして、応えてくれる相手がいないのだ。それは一人でどこかへと消えてしまって見えなくなってしまった。それは寂しい。いないものは仕方がないのだが、それでも早く来ないかとそわそわしてしまう。
 昨日は名前を何度も呼んだ。なじむほど呼んだ。でも、今日は呼ばなくてもいいというほどではない。今日も彼女の名前を呼んであげたい。そう思う。名前を呼んで、そして、愛を囁くのだ。愛してると。好きだと。ああ、いい。とてもいい。聖域で愛がはぐくまれていくのだ。種族が違う生き物同士の愛が。越えていく。全てを超えて愛し合っていく。それはなんて素敵なことだろう。俺は、目を細めて天を見るのだ。きっと、祝福してくださる。俺たちの愛を。その場所に置いてここは最も素敵な場所であると言えるだろう。全ての生物の愛が集まるのだ。ここに争いはない。あるのは愛だけだ。それ以外のものは消え去ってしまうのだから。
 意識をこの世へと戻すかのように俺の頬を叩いてくる。妖精たちは笑みを浮かべて俺の顔をのぞき込んでいるのだ。俺は思わず漏れてしまうように笑顔がにじみ出てしまう。隠すことなんて出来るわけがない。彼女がこの世に固有のものとして存在しているのだと、俺以外の存在が認めている。世界が認めている。それに喜びを見出さなくて、なにに喜ぶというのか。それが溢れてしまっても仕方がないだろう。愛するものの喜びは俺にも大きな喜びとなって襲い掛かってくるのが当然なのだから。

「……来ないな。どうしたのだろう。……いつもであるなら、もうとっくにここに到着しているというのに」
「――――」
「お前たちも心配しているのか。そうだろうな。なにせ、いつも俺とハルの二人は一緒にいたのだからな。そうではない方が珍しいだろうか。最近は一緒にいないことが多かったが、それでも、俺と彼女が二人してここに居てこの場所は完成するのか。そう思っているかい?」

 はぐらかしているかのように音が鳴る。りんりんと綺麗な音色が響いている。俺がおぼれてしまうかのように、ゆっくりと心地の良い世界に浸ってしまっている。
 まだ、ハルは来ない。どうしたのだろうかと、頭を悩ませているわけだが、わからない。普段ならこのぐらいの時間には毎日顔を合わせていたのだ。それがないとなると心配になってくる。ハルも、俺が来ない間はこのような気持ちを抱いていたのだろう。あの、外出禁止の期間を、ハルはつらく苦しい思い出過ごしていたに違いない。寂しくて悲しい、そんな思いが渦巻く中で過ごしていたのだろう。俺も同じ気持ちだからだ。このわずかな時間だけで、そう思えるのなら、彼女はどれほどつらかったのか。申し訳なさでいっぱいになる。埋めるように愛してあげたい。愛したい。今すぐにでも彼女を抱きしめて愛し合いたい。そう思う。それが今まさに爆発してしまいそうだ。だが、それは彼女が到着するまで我慢せねばならない。今ではないのだから。
 俺は、待っている間に岩の上に乗り、胡坐をかいて目をつむる。感覚を研ぎ澄ませ、地と空と天の全ての感覚を俺と共感させていく。これも修練である。だんだんと自然と一つになっていく。溶けるように、合うように、ゆわりと輪郭が消えていく。力を感じる。自分の中からの力と、外の力を。それが混ざる。ぐるぐると、まわりまわって混ざっていく。渦を描いているのだ。窯の中のものをかき回すように。
 がさりと、草が音を出す。揺れている。誰かが来た。誰であろうか。クマかオオカミか。キツネかもしれないし、ウサギかもしれない。誰でもあり得るというだけだ。それほどに清らかに清廉された美しい魂である。感じ取れる。醜さなんてものは一切存在していないと言わんばかりの正常な存在を。
 俺は目を開ける。来客を確認するためだ。そこには、薄緑の肌に白銀の髪をなびかせる俺と同じくらいの背丈の愛らしい少女がいた。少女は、俺のことを見つけると、にっこりと微笑んだ。さっと風が通り過ぎていくかのような美しさと愛らしさの波が押し寄せてきた。さらりとした衝撃である。
 俺はこの愛らしい少女を見たことがない。このレベルの美しさであるのならば、俺が忘れるわけがない。少なくとも前世では見たことがないし、見てもここにいるわけがない。次に、今世ではこの村から出ていないわけで。この村の人たちの顔は大体知っているし、家族構成もほとんど知っている。だから、この少女を知らないということはありえない。では、他の村か。他の村からここまで歩いてきたのか。いや、それこそあり得ない。どれだけの距離が離れているというのだ。小さな女の子が一日二日でたどり着ける距離ではないのだぞ。それに、森の奥には危険な動物もいる。俺には襲わないだけで、クマやオオカミが跋扈しているのだ。生きてここまで来れるわけがない。少女は美しさとその体から発する謎によって俺を惑わしているのである。神秘的な美しさを持っているともいえるほどである。妖精が肉体を持ったと言われたら信じるだろう。それほどまでに現実離れした美しさなのだ。

「アラン、おはよう」

 鈴の音のような綺麗な声が森に響いた。俺はその音をぼーっと聞いてしまう。聞きほれてしまう。飲み込まれてしまいそうになる。今まさに、世界が彼女の身に侵されている。俺の意識が彼女の全てに書き換えられていくようである。
 首を振って、正気に戻ると、俺の頭が混乱していく。正気であるのに、正気ではなくなっていく。混乱に混乱を重ねていく。そして、その混乱を俺自身が求めているかのように手を伸ばしているのだ。ハマってしまってはならないと思っているのに、それを拒否するかのようだった。
 なぜ、彼女は俺の名前を知っているのか。俺が領主の三男であれば知っているだろうが、俺の顔と名前が一致するには、俺の顔を見ていなくてはならない。で、俺が見たことがないのに、彼女が見ているわけがない。遠くから一目あったという程度であるならば、ここまで正確に覚えているわけがない。
 ならば、俺があったことのある人物ということになるわけだが。誰がいたか。記憶にない少女を記憶から掘り起こす必要があるわけだ。難しい話である。困難を極めることは確かであろう。
 俺は今まであってきた女性を一人ひとり思い出していく。ちがう、ちがう、ちがう。全く持ってたどり着かない。まだ来ない。出てこない。何人もあったことはある。すれ違っただけの女性すらも思い出す。出てこない。旅商人の中にいただろうか。いいや、そんなことはない。
 …………。まさか。あり得るか。あり得るのだろうか。間違えたら恥である。罪である。今までの愛をすべて否定してしまうかのような失態になることは間違いない。確実である。しかし、言わないと進まない。ならば言おう。言うべきだ。俺は緊張した口から無理やり声を絞り出す。罪人となるか、善良な民でい続けられるかの瀬戸際に俺は立っていたのであった。

「……おはよう、ハル」

 俺の喉は恐怖で震えていたことだろう。体の震えすらも抑えられない。彼女の名前をこの少女に言ったのだ。間違えてしまったのなら、俺は相当の大罪人だ。ハルに会わせる顔がない。だからこそ、声が震える。生き物の出す声であろうかと疑問に思えてならない。俺の愛が真であるか偽であるかの境界に立たされてしまっているのである。祈ることしかできない。

「うん、おはよう! アラン!」

 俺は口元がほころんだ。当たっていたのだ。しかし、彼女がどうして美しくなったのかがわからない。いや、彼女は前から綺麗であった。しかし、万人が見ても綺麗だと言える顔になったというのは非常に驚いているのだ。だが、彼女がハルであるのならば、俺は何も変わらない。岩から降りて、彼女に近づいた。と、ハルは俺に抱きついて俺の唇を奪う。今まで耐えていたものすべてを爆発させるように唇を合わせる。俺はされるがままであった。だが、よかった。それでよかった。俺は嬉しかった。ようやく、ハルが俺を許してくれたのだ。俺の愛と彼女の愛が直接的な接触によって混ざり合うことが許されたのだから。彼女自身が俺と愛し合うことを肯定してくれたのだから。彼女と俺はつながったのだ。心だけでなく体も。それがたまらなくうれしかった。俺たちはお互いを求めるように唇を合わせ続ける。絡まっていく。愛情が、お互いの愛情が、溶けあい口の中で混ざり合っていく。蜜のような甘いものに溶かされて、俺たちは深く深く、奥底へと入り込んでいくのだ。
 ハルは、唇を離した。顔を赤くしながら上目遣いで俺のことを見つめてくる。小さな少女でありながら成人女性の誰よりも色っぽく感じる。俺は彼女の頬をなでる。柔らかで温かく、今にも壊れてしまいそうなほど儚い。そんな風に感じてしまう。

「私って、可愛い……?」
「いつも可愛いよ」
「今日は?」
「とっても可愛い」
「お似合い?」
「ああ、とっても。昔からそうだった。今も昔も変わることはないよ。なにせ、俺はハルに運命を感じているのだから」

 ハルはこらえきれずに、また唇を近づける。俺はそれを受け入れる。愛の爆発が深いところまで混ざり合っていく。時間なんてものが忘却して消却して、永遠であるかのような瞬間の中に俺たちは浸っているのである。ここから逃れることなんてできないし、する気も起きない。ただ、このままに彼女との愛を感じているだけでいいのだ。それだけの人生がどれほどまでに美しいものかというのが、今まさに目の前にあるのだ。
 離れる。それでも、ハルの腕は俺の首元に回されたままである。よく見れば、彼女の服装はゴブリンのころと変わっていないではないか。ここで予想がつかないとはダメではないだろうか。だが、彼女にこの格好はいかがなものだろうか。今の顔はゴブリンだと言われても信じられないだろう。下手したらエルフと間違えられる可能性すらある。ハルの耳はエルフのように尖っているから、あり得なくはない。だとしたら、俺の村に連れて帰ってもいいのではないだろうか。彼女にはいい服を着せてあげたい。ゴブリンの時であれば、みすぼらしい格好というのもそれなりには納得がいったが、今はダメだろう。ゴブリンという要素がまるで見て取れないのだから。
 俺はそれを告げた。この思いを。ハルは悩んだ様子を見せる。元ゴブリンだからであろうか。今の顔ならば大丈夫だと思っても、そういう思いはあるだろう。殺されてしまうかもしれないという恐怖は絶対に存在するだろうし、深く心に突き刺さるはずだ。だから、俺は強制することが出来ない。仕方ないことである。だが、彼女はしっかりと俺の手を握る。

「守ってくれる? 私をかばうことでアランが人の世界で生きていくことが出来ないということになったとしても、絶対に?」
「もちろん。絶対に守ってみせるよ。愛する人のためであるならば、人間と共にいることにこだわりはしないよ。家族と別れるのは辛いが、ハルと新たな家族を作るだけさ」

 俺は手をしっかりと握って、ハルを連れて村へと戻った。ゆっくりと村へと近づくとともに、緊張が大きくなってくる。心臓が飛び出てきそうである。だが、彼らは少しの疑問も警戒も抱くことなく、俺とハルを村の中へ入れてくれる。彼女は人間からゴブリンではないという評価をもらったようである。これで、俺たち二人が一緒に過ごせることを証明できたのだ。
 村をさっと通り過ぎて屋敷へと戻ってくる。扉を開けると使用人が俺たちを見つける。真っ直ぐに、視線の先にはハルの姿があるのだ。彼女をじっと見つめている。

「あら、アラン様。その子はどうしたのですか?」

 俺は固まった。どう言い訳をするか考えていなかった。そういわれることもあるではないか。それを想定できていなかった。だが、今すぐにでも答えを出さなければ疑いの目はより強くなる。それでは、ハルと再び離れ離れになってしまうことだろう。それだけは絶対に阻止せねばなるまい。

「……キャシィ……彼女は森でさまよっているところを保護したんだ。だから、お風呂に入れて綺麗な服を着せてあげたいんだよ」

 あからさまに、嘘くさい言い分である。しかし、そうでないと俺の気が狂ったようなことしか言えないわけだから、これでいい。これが最良だ。おそらく。

「はあ、そうですか。では、お嬢さん。こちらへ。お風呂に入りましょう」

 使用人は、手を伸ばす。ハルは俺の顔を見るが、俺はゆっくりと頷くことで答える。それに納得できたようで、その手を掴んで、使用人についていった。後は、父さんたちになんと説明すればいいか考えるだけである。まあ、あれ以上の答えを思いつけるかは知らないが。
 俺は頭を抱えて自分の部屋へと戻っていくのであった。

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