リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-

国広 仙戯

●10 僕とハヌは友達








「――ふェっくしュんッ!」

 自分のくしゃみで目が覚めた。

「――ふが……?」

 くしゃみの勢いで上体が跳ねたせいか、僕の上で寝ていたハヌからもいびきみたいな間抜けな声が出た。

「……はれ……?」

 それから、遅れて僕も完全に目が覚める。パチッと瞼を開けてみると、そこは赤黒い世界。

 頭上の木の枝葉が作る黒と、横合いから差し込む赤い陽の光だ。

 夕方だった。

「――え!? あれっ!? なんでっ!?」

 びっくりしすぎて大きな声が出た。小一時間ぐらいの休憩のはずが、気が付いたらものすごい勢いで時間が過ぎていたのである。

 ガバッと身を起こして辺りを見回す。が、目に映る光景は何も変わらない。

 誰がどう見ても夕暮れ時であった。

「んー……どうしたのじゃ、らと……」

 僕の体の上でハヌが身じろぎして、眠そうに目元を擦る。

「ど、どうしたもこうしたも――って、ハヌも寝てたんだね……」

 思わず声を荒げかけて、ハヌの様子から全てを察した。

「ん、む……あまりにここちよくての……ふぁ……~っ……!」

 僕の上でハヌが両手を上げ、あくびと一緒に伸びをする。

 つまり、僕が眠気に負けて眠ってしまった後、結局ハヌもつられて夢の世界へと旅立ってしまったわけである。

「あちゃぁ……」

 原因と経緯が判明した途端、全身から力が抜けて再びハンモックチェアに体を沈めた。右手を額に当てて、後悔の念をそこにぐっと集める。

「――やっちゃったぁ……」

 不幸中の幸いというかなんというか、猛獣やハウエル達は僕達の寝首を掻きには来なかったらしい。ハヌが発動させた正天霊符のオートディフェンスモードはそのままで、十二個の護符水晶が僕らの周囲をふよふよと浮遊していた。

 ――いやいや、これは単に運が良かっただけだ……

 正天霊符の自動防御は、あくまで『近寄ってくる敵性体』をターゲットにしている。つまり、もし離れた場所から遠隔攻撃を撃ち込まれていたら、それだけでイチコロだったのである。

 故にそういった攻撃を容易にさせないよう、周囲に簡易地雷や警報センサーを設置しないといけなかったのだけど――ちょっと気を緩めただけでこの有様だ。

 なんと情けない。

 これで一人前のエクスプローラーを名乗るだなんて、あまりにも笑わせる。

 探検者として完全に失格だった。

「はぁ……って、落ち込んでいても仕方ないか……今からでも地雷とセンサーの設置を――って、あれ? ……さ、寒い……?」

 右手に集めた後悔の念を、ぽいっ、と捨てる素振りをしてから、不意に気温の変化に気付く。

「おお、言われてみれば……涼しいを通り越して随分と寒うなってきたのじゃ」

 ハヌもブルルと身を震わせて、僕の言葉に同意する。

「そっか、陽が落ちてきて気温も下がってきたんだ……」

 放射冷却だ。詳しい説明は割愛するが、要は太陽の光が弱まったことで、この島の大気も冷たくなってきたのである。ストーブの火が消えた部屋と似たようなものだ。

 道理でくしゃみで目が覚めたわけだ。

「ハヌ、もう服も乾いていると思うから、それに着替えて上着も着よっか。陽が完全に落ちる前に地雷とセンサーの設置だけでも終わらせなきゃ」

「うむ、あいわかった」

 幸いなことにひと眠りしたおかげで頭がスッキリしている。僕は矢継ぎ早にやるべきことを並べ立て、それを聞いたハヌも俊敏に行動を開始した。

 まずは着替え。ハヌはいつもの格好から防寒用にお馴染みの外套を被る。僕はフリムにリメイクしてもらった戦闘ジャケット〝アキレウス〟の袖に再び腕を通し、前のジッパーを閉じた。

 そこからはテキパキと作業開始である。

 まず二人がかりでテントを中心とした半径三百六十メルトルの八方に、簡易地雷と警報センサーを敷設。警報センサーは八つ全てが連動していて、それぞれの間を通過したものに反応する仕組みだ。一つ一つの間に目に見えないフィールドが張られていて、そこを一定以上の大きさの動体を感知すると警報を発するのである。

 簡易地雷は警報センサーの圏内、テントから二百メルトルの地点に、円を描くようにして敷設する。あまり数がないので役に立たない可能性もあるけれど、もし敵意を持つ相手がテントに近付いてきた際は、足止めや時間稼ぎになる。相手の数が多ければ地雷に引っかかる率も高まるだろう。出来るだけ通りやすい場所――開けたところや獣道がある場所などに埋めておくのがコツだ。

 そうして外敵の襲撃に備える警戒システムを構築したら、今度は野宿の準備である。

 当たり前だけど、自然の夜は暗い。星の輝き以外に明かりはなく、闇に潜む獣には夜目が利くものがいたり、耳や鼻を頼りにそこかしこを徘徊している。僕達人間が動き回るのはあまりにも危険だ。

 よって、今日はここで夜を明かすしかない。

「――まさか、本当に野宿する羽目になるとは思わなかったね……」

「うむ。じゃが、妾はなかなかに楽しいぞ?」

 ファイアクレードルで煌々と燃える焚き火を前に僕が溜息を吐くと、ハヌは頷きつつも、くふ、と笑った。

 簡易地雷と警報センサーの設置が終わる頃には、太陽はその姿をほとんど消しかけていた。その為、僕らは慌ててハヌが拾い集めてくれた薪をクレードルに乗せ、固形燃料に点火して焚き火を熾したのである。ちなみに火付け役はハヌだ。いくつかコツを教えたら、あっさりと上手く行ってしまった。

「……実を言うと、僕もちょっとだけ……」

 ハヌにつられて僕も、あは、と笑う。

 今日は僕達『BVJ(ブルリッシュ・ヴァイオレット・ジョーカーズ)』とヴィリーさん達『蒼き紅炎の騎士団ノーブル・プロミネンス・ナイツ』の合同エクスプロールの最終日だったはずなのに、気が付けばこの状況である。

 たまたまキャンプ道具をストレージに入れておいたからよかったものの、そうでなければどうなっていたことか。そういう意味では、やはりロゼさんやフリム、ヴィリーさん達のことが気にかかってしまう。

 ヴィリーさん達は他の遺跡レリクスでもエクスプロールした経験があるはずだから、そのあたりの道具は当然持っているだろう。ロゼさんはともかく、フリムは僕と同じであの〝ミドガルド〟で辛酸を舐めた口だ。食料だけは多めにストレージに入れてある、と聞いたことがある。まぁ確かに、付与術式使いエンチャンターとしては、自称している通りの『スーパーエンチャンター』ではあるので、こういった事態には僕よりも上手く対応している可能性が高いけれど。

 パチパチ、と小さく爆ぜる音を立てながら燃える焚き火の炎。僕とハヌはそれぞれ地面に縫い付けたアウトドアチェアに座り、それを囲んでいる。

「ちょっと……ううん、かなり憧れていたんだよね、こういうの」

「ほう? 憧れ、とな?」

 楽しそうに揺れる炎を見つめていたハヌが、不意に僕の方を見やる。興味津々なヘテロクロミアが、オレンジの炎の光を反射してキラキラと輝いた。

「えっとね、エクスプローラーと言えばキャンプ、キャンプと言えばエクスプローラー、みたいなイメージがどっかにあってね? 仲間でワイワイしながら夜のキャンプ、っていうのも、いかにもエクスプロールの醍醐味みたいな感じがあって……」

「うむうむ、わかる、わかるぞ」

 僕がまだエクスプローラーになる前に抱いていたイメージを語ると、ハヌは熱心に首肯してくれた。

「妾もそうじゃ。友達同士で作り上げる秘密基地……こうして火を起こして暖を取りつつ、様々な話に花を咲かせるのじゃ。ふっふっふっ、まさに妾とラト、唯一無二の大親友に相応しい状況じゃの!」

 ちょっと僕とは見方が違うけれど、ハヌもこうして野営している現状には心躍らせているようだった。そういえばさっきも、テントを指して秘密基地だって騒いでいたなぁ、と思い出す。

 今晩の寝床となるテント内にはエアクッションのマットを敷き、寝袋シュラフや毛布も用意してある。一応、僕とハヌが一緒に入っても大丈夫なぐらいなスペースはあるけれど、流石に二人同時に眠るわけにはいかないだろう。地雷やセンサーをセットしているとは言え、ここはまだまだ謎の空間だ。さっきの地震や、それ以上の何かが起こらないとも限らない。どっちか片方は起きて見張りをするべきだ。

「あ、そうだ。ハヌ、お腹空いてない? そろそろお湯でも沸かして、携帯食でも食べよっか」

 お昼はこの島を散策がてらクッキーやチョコレートなんかを摘まんだのだけど、こうして拠点を築いて腰を落ち着けたわけだし、少しはまともな食事をとってもよい頃合いだ。

 ハヌは思い出したように片手でお腹をさすりさすり、

「うむ、言われてみれば確かに……ん? じゃがラト、妾が捕まえたあの兎どもは喰わぬのか?」

「うーん……あの子達を食べようと思ったら解体作業しないといけないし……今から川に行って血抜きやら何やらやってると遅くなっちゃうから、明日以降でもいいんじゃないかな?」

 ハヌが捕まえた二羽の野兎は、即席で作ったロープの檻に閉じ込めてある。と言っても、捕縛の際に余程強い衝撃を与えられたのか、二羽ともまるで目覚める様子がなかった。可哀想だけど、このまま目を覚まさずに僕達の胃に収まるのが、あの子たちにとっては幸せなことになるだろう。

「僕としては明日の朝一番で解体して、お昼ごはんになってもらおうかなって」

「さようか。ラトの判断なら、妾も異存なしじゃ」

「よかった。それじゃ、携帯食料の味はどれにする? 麺ものなんだけど」

 僕は右手でコッフェルにミネラルウォーターを注ぎながら、ストレージから左手にインスタントヌードルを取り出した。

「ほう? どのようなものがあるのじゃ?」

「えーっと、カレー味、シーフード味、とんこつ味の三種類かな?」

 インスタントヌードル二つとお茶を入れるぐらいなら、手持ちの飲料水で十分まかなえるだろう。一応、底をつく前に近くの川で補充しようとは思っているけど。

 トライポッドのファイアクレードルの上部に、専用の鉄網をセットする。ちょうど火があたるかあたらないかの位置に調節してから、網の上に水の入ったコッフェルを置いた。

「ふむ。どれがおすすめなのじゃ?」

「僕はどれも好きだけど……やっぱりカレーがおすすめかな? ハヌ、カレー好きだよね?」

「うむ! 上にとんかつと生玉子が乗っておれば、なおよしじゃな!」

 嬉しそうに頷くハヌを見て、ハヌ用にカレー味を買っておいてよかったと思う。こういった非常食は、前回の〝ミドガルド〟での経験をもとに買い込んでおいたものだ。あの時は食料の調達が出来ない空間だったので、あまり長居することが出来ず、そのせいで決して万全とは言えない状態でフロアマスターに挑まざるを得なかった。今思い出しても、開戦直前の緊張は胃に来る。

 しかし、備えあれば憂いなし。

 こうして食料さえあれば、時間に追われることなく慎重にエクスプロールが出来るのだ。とうか、本当なら普段からこういった備えをしてしかるべきだったのである。

 やがて沸騰したコッフェルのお湯を、ハヌのカレー味と僕のとんこつ味のインスタントヌードルへ注ぎ、待つこと三分。

 新たにコッフェルに注いだお茶用のお湯が沸く頃には、もう食べ頃だ。

 ちなみに、インスタントヌードルのパッケージや、それを食べるためのフォークは土に還るバイオ素材でできている。食べた後は地面に埋めておけば、いずれはバクテリアに分解されるのでゴミにならないのだ。

 というわけで、僕らはしばし無言になって食事に集中した。

 川のほとりの森のふち、夜のしじまに二人分の麺をすする音が響く。

 ハヌはあまりフォークの扱いに慣れておらず、手もちっちゃいので食べるのにちょっと苦労しているようだ。それに猫舌でもあるから、

「ぅにゅっ、あちゅ、あちゅい……」

 ハフハフしながら、ことあるごとに舌を出しては熱い熱いとこぼすので、僕は見かねて新しいコッフェルを差し出した。

「ハヌ、麺だけこっちに移したら? 冷めるのが早くなると思うよ」

「おお、あいすまぬ」

 ハヌはいったんインスタントヌードルを脇の短足テーブルに置き、コッフェルを受け取ると、フォークで中身を取り上げて移し替えていく。

 僕はと言うと、ハヌと出会う前は部屋で一人、インスタント食品を食べるのが日課みたいなものだったから、すっかり慣れたものである。フォークで多めに巻き上げた麺に何度か息を吹きかけ、適温になったところへ大口を開けて食らいつく。それを何度か繰り返すと、あっという間に麺がなくなってスープだけになってしまった。

「…………」

 正直、一杯だけでは物足りない。あと二杯は軽く入る感じだ。

 我ながら、ここ最近の食欲は自分でも驚くほどである。年齢的に成長期というものなのか、それにしたって限度があると思うけれど。

 ――もしかして〝アブソリュート・スクエア〟で負ったダメージを癒すために、肉体が栄養やエネルギーを求めているのだろうか?

 ふと、そんなことを考えてしまう。

 喉を鳴らしてとんこつスープを飲み干し、空っぽになったカップの底を見つめていると、何故か妙な実感が込み上げてきた。

 ――このままいくと僕、近いうちに死んじゃうのかな……?

 ハヌは、エイジャにも考えがあるに違いない、と言っていた。血を吸って僕の体調を把握しておきながら、せっかくのマスターとなる人間をみすみす見殺しにするはずがない、と。

 だけど、それはあくまでハヌの予想に過ぎない。エイジャ自身がそうと確約してくれたわけではないし、実際にそんなことが可能かどうかもわからない。

 あと何回か〝アブソリュート・スクエア〟で戦えば、間違いなく僕の肉体は【壊れる】。それは絶対だ。さっきの反動からもそれがよくわかる。

 とはいえ、これから〝アブソリュート・スクエア〟を封印し続けたとしても、大した解決にはならないのだろう。僕の血を吸ったエイジャが『どうやら君の命も残りわずかみたいだし』と言ったからには、既にタイムリミットは近いものと考えた方が現実的だ。

 そうなると、こうしてハヌと過ごす時間だって、もう残り少ないかもしれないわけで――

「――あのね、ハヌ」

 そう思ったら、舌が勝手に動いていた。

「ほ? どうした、ラト?」

 コッフェルの取っ手を握って、移し替えたカレーヌードルを啜っていたハヌが、ちゅるり、と麺を吸い込みつつ顔を上げた。

 僕は、我ながら血の気の引いた青白い顔をしているのだろうな、と思いながら、続きを口にする。

「……ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな? その、食べながらでもいいから」

「? 別にかまわぬが……どうしたのじゃ?」

 僕の神妙な様子を怪訝に思ったのだろう。ハヌが律儀にも食事の手を止め、小首を傾げながら僕の顔を覗き込んできた。

 夜の闇と焚き火の光の絶妙さが、僕の顔色の悪さを誤魔化してくれたのかもしれない。ハヌは不思議そうな視線をこちらへ向けていた。

 僕は空になったカップにフォークを入れて、脇のロールテーブルに置き、

「……えっと、その……何というか、いきなりこんな話をするのも何なんだけど……」

 早くも僕の決意が揺らぎ始めた。いざあのことを切り出そうと思ったら、急に勇気がくじけて、躊躇いが生じてしまったのだ。

 僕の頭には欠陥がある――そう言ったら、ハヌはどんな反応をするだろうか。

「――も、もしかしたら、驚くかもしれないけど……」

 多分、きっと受け入れてくれる。何だそのようなことか、と笑ってくれるかもしれない。それがどうしたというのじゃ、と不思議そうに聞き返してくれるかもしれない。

 ハヌは僕の味方だ。

 間違いなく、世界で一番の友達だ。

 だから、きっと大丈夫――

「……えっと、ね……だから、その……」

 ――なのに、怖い。

 引かれたら、どうしよう――嫌われたら、どうしよう――

 気が付けば僕は、自分の両手をすりすりと擦り合わせ、そこに視線を固定していた。あまりの怖さに顔を上げることも、ハヌと目を合わせることもできない。

「……ぼ、僕は……」

 心臓が早鐘を打つ。頭の中にもう一つ心臓があるみたいだ。ともすれば頭の中が真っ白になりそうになる。息が苦しい。両足が痺れてきた気がする。もう足首から下の感覚がない。パチパチと爆ぜる焚き火の音が遠い。火のない背中側は寒いはずなのに何も感じない。嫌な汗が毛穴という毛穴から噴き出してくる。いまさっきスープを飲み干したはずなのに喉がカラカラに乾いている。駄目だこんなの。もうまともに喋れる気がしない。どうしよう。ヴィリーさんの時はすんなりと話せた気がするのに。他の誰でもなくハヌが相手なのに。きっといいや絶対大丈夫なはずなのに。どうして。どうして僕は。こんなにも、どうして――

「よいぞ、ラト」

「……………………え……?」

 不意に耳に入ったハヌの声に、僕は遅れて顔を上げた。

 そして驚く。

 そこに、寂しそうに微笑むハヌの姿があったから。

 思いもよらぬ表情だった。

 幼い女の子が浮かべるようなものでは、決してなかった。

 そこには、人生の酸いも甘いも噛み締めた【大人】のような慈しみがあった。

 ハヌは蒼と金のヘテロクロミアに優しい光を宿し、静かに首を横に振る。

「無理をせずともよい、ラト。話したくないことならば、無理に話す必要はないのじゃ」

「…………」

 まるで僕の心を見透かしたかのような言葉に、しばし唖然とする。

 揺れる炎に照らされる彼女の顔はあまりに大人びていて、まるで別人のようだ。

「ラト、今のおぬしは苦しそうじゃ……無理に話さずとも、妾は構わぬ。おぬしが苦しむ姿を見たいとは思わぬからの」

 気遣わしげなその様子に、僕は何故だか、頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。

 ――なんだそれ……?

 違う。

 何かが違う。

 得も言えぬ猛烈な違和感。

 ハヌの言葉は優しい。僕を心配してのことだ。そこは疑う余地もない。

 だけど、それは――【正解なのだろうか】?

 むしろ、大きく間違っているのではないか?

 無理をしてまで話さなくていい――ではなく、聞きたくない、の間違いじゃないのか?

 ハヌの微笑は憐憫からではなく、後ろめたさからではないのか?

 ハヌの声はどこか空っぽに思えて――そうだ。

 虚無感だ。

 ハヌの言葉と態度からは、どことなく虚しさを感じる。だから違和感を覚えるのだ。

 こんなのハヌらしくない――と。

「――で、でも、僕は……」

「安心せよ、ラト。おぬしが何を言いたいのかはわからぬが、これだけはわかるぞ。妾とおぬしは、何があろうとも唯一無二の親友じゃ。それだけは決して変わらぬ。じゃから、無理をするでない」

 本来なら暖かいはずのその言葉はしかし、ひどく空虚に聞こえた。

 何かを恐れているような、怯えているような――【何かが崩れる】のを避けようとしているかのような――

 ――どうして……?

 そうして気付く。

 ハヌが、【バランスが崩れることを恐れている】ことに。

 彼女はきっと、大体のことは察しているのだ。僕が何を話そうとしているのか。その内容は知らずとも、僕の態度からその重さを推察しているのだ。だから、彼女は僕を心配する振りをして、聞きたがらない。

 何故なら、僕達は〝友達〟だから。

 分かち合うことが友情だと思っているから。

 だから、ハヌは僕の話を聞きたくないと思っている。

 だって――【この重さの話】を聞いたら、自分も同じ重さのものを差し出さないといけないと、心のどこかで思っているから。

 そうしないと、僕達の間にある目に見えないバランスが崩れてしまうから。

「――――」

 気持ちはわかる。

 だけど、それは――本当に〝友達〟と呼べる関係なのだろうか?

 ほんの数時間前に抱いた疑念が、僕の胸に再来する。

 ハヌは僕のことをよく知らなくて。

 僕もまた、ハヌのことをよく知らなくて。

 その上で僕達はお互いを〝世界で一番の大親友〟と、そう呼んでもいいものなのだろうか?

「……ハヌ……」

 ――違う。

 それはきっと、いいや間違いなく、違う。

 そんなの、ただの〝他人〟だ。

 通りすがりの関係だ。

 道端で会った人と手を繋いでいるのと何ら変わりない。

 浅いにも程がある。

 お互いに踏み込まない関係なんて、表面だけのハリボテだ。

 中身のない空っぽな風船だ。

 ちょっと突いただけで弾けて消える。

 そんなの――僕はごめんだ。

「――ううん、ハヌ。僕はそれでも、君に聞いて欲しいんだ」

 声の震えが消えた。迷いが失せた。これまでの躊躇が嘘だったかのように覚悟が決まってしまった。僕はハヌの顔を真正面から見つめ、はっきりと宣言する。

 思い返せば、僕は最初の最初から間違えていたのだと思う。

 あの日――ハヌと初めて出会った日、彼女から『おぬしは、妾の〝トモダチ〟となるのじゃ!』と言われたあの時。

 彼女の正体が極東の現人神だとわかって、

『な、なんで!? なんで君みたいな人がこんなところに、し、しかもエクスプロールなんて――!?』

 と慌てたところへ唇に人差し指を当てられ、

『それは秘密じゃ』

 ハヌに茶目っ気たっぷりなウィンクで誤魔化されてしまった、あの瞬間から。

 あれが、あれこそが最大の過ちだったのだ。

 僕はあそこで引くべきではなかったのだ。『親友にも言えない事って、あるよね?』などと日和らず、きちんと向かい合うべきだったのだ。

 あの日、あの時、あの瞬間に、僕達の間に【線】が引かれてしまった。

 〝ここから先は踏み込んではいけない〟という不可視の【線】が。

「ラト……」

 引き下がらなかった僕に、ハヌがわずかだけど目を見開いた。驚きの顔だ。そして、微かに怯えの感情も混じっている。

 そんなハヌらしくない態度が、むしろ僕にとってのトリガーになってしまった。

「僕はね、お父さんとお母さんのことがわからないんだ」

 自分でも驚くほど、あっさりと言葉にできた。

 だから語る。これまで話してこなかった、僕の秘密を。

「……突然、こんなことを言ってもわけがわからないよね。ごめん。でも、ハヌには知っておいて欲しくて」

 自分でも唐突過ぎる切り出し方だったと思い、補足を入れ、なおも続ける。

「お父さんとお母さんのことがわからない、っていうのは、本当にそのままで。顔も名前もわからないし、いたかどうかもわからないんだ。でも、僕は孤児ってわけじゃないし、記憶喪失ってわけでもなくて……本当に、ただ【わからない】んだ。ごめん、説明が難しくて……」

 ヴィリーさんの時もそうだったけど、この感覚を他人に伝えるのは本当に難しい。僕の頭の中に、両親の記憶は確かにあるはずなのだ。だけど、データのフォーマットが変わってしまったかのように、その領域にアクセスできないでいる。例えアクセスできても、断片にもならない、欠片どころか〝粉〟みたいな記憶が取り出せるだけ。前後の繋がりもよくわからず、結局はそれを『両親の記憶』として認識することもできない。

「……わからぬ、とは……?」

 興味を示してくれたのか、それともこうでもしなければ話が先に進まないと思ったのか、ハヌが控えめに問うてくれる。

 僕はやや俯き、焚き火に視線を落としながら、自分の心の内を探る。

「そうだね……例えば、お父さんとお母さんの名前が思い出せなかったり、顔が思い出せなかったりするのはもちろんなんだけど……写真を見てもどれがお父さんで、どれがお母さんかもわからないんだ……あと、お祖母ちゃんやフリムに二人の名前を聞いても、僕の耳には上手く『名前』として認識できなかったり……」

 息を呑む音が聞こえた。多分、ハヌの思う『両親のことがわからない』という状態をはるかに超えていたのだと思う。想像以上の惨状に、思わず体が反応してしまったのだ。

「それだけじゃなくて、文章も両親に関する部分は読めない文字になったりして……とにかく、僕自身が両親のことを認識できない状態、っていうのかな。過去の記憶もそうで、多分お父さんたちの仕事の都合で色んな土地を転々としたことは憶えているんだけど、記憶の中の僕はいつも一人ぼっちで……お父さんとお母さんのことは思い出せなくて、でも、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもいなかったから、僕は絶対両親と一緒にいたはずなのに……そこだけ、思い出せないんだ……」

 頭の中の引き出しにしまわれている、虫食いだらけの記憶。蜂の巣のように無数にある空洞は、両親が関わっている部分で間違いないだろう。ちょっとでも関連する記憶は、紐づけが徹底的に断ち切られ、手掛かりすらも存在しない。

「……写真もね、あるんだよ。多分、僕とお父さんとお母さん、家族で撮った写真がね。でも……僕には、僕一人しか、写っているようにしか、見えなくて、ね……ご、ごめん……ちょっと、待って……」

 話している内に段々と涙が込み上げて来て、喉も痛くなってきた。僕はいったん休憩を挟み、深呼吸をして感情の波をやり過ごしてから、続ける。

「……お医者さんにも、行ったんだよ? でも、原因はわからなかったし、治し方もわからなかったんだ。この症状がいつからのものかもわからなくて、気がついたらこうなってた、って感じかな。だから、僕のお父さんやお母さんがいまどこにいて、何をしているのか……それも全然わからないんだ。と言っても、ネットやどこかに情報があっても、僕は認識できないとは思うんだけどね」

「ラト……」

 気遣わしげに僕の名前を呼ぶハヌ。気付けば僕の口調は自嘲的なものになっていたから、そのせいだろう。

「……でもね、手掛かりがないわけじゃないんだ。多分だけど、僕の両親はエクスプローラーだったんだと思う。もしかしたら、今もそうかもしれない。どこかの遺跡レリクスで、今この瞬間もエクスプロールを続けているのかもしれない……」

 僕はゆっくりと面を上げ、ハヌを見た。

 突然こんな話を聞かされた僕の親友は、何とも言えない微妙な表情を浮かべて、こちらを見つめていた。

 当たり前だ。僕だって逆の立場だったら、こんな顔をするに違いない。

 だから僕は、逆に笑ってみせた。

「――これが、僕がエクスプローラーになった理由。僕自身がエクスプローラーになって、世界中の遺跡を巡れば、いつかはお父さんやお母さんと再会できるかもしれないから。もし会えたその時は、この認識障害も治るかもしれないから」

 そう、僕は前を向いている。こんな状態でも、僕の心は前を向いて進んでいるのだ。だから、自分で自分を卑下する必要なんてない。

「だから、僕はエクスプローラーになったんだ」

 きっと報われると信じて。

「……もちろん最初は、友達も全然できなくて一人ぼっちが続いたけど……でも、そのおかげでハヌと出会えたし、今じゃロゼさんもフリムもいるし、全然つらくはないんだ。本当だよ? 多分、僕は今が一番幸せなんじゃないかな。念願のエクスプローラーになって、友達や仲間が出来て、憧れだったヴィリーさんやカレルさんと一緒にエクスプロールまで出来て……今この瞬間も、世界の謎に挑めてるし。これって、エクスプローラーとしては本当に幸せな状況だと思うんだ。だから、その……」

 なんとなく悲しげな雰囲気を消そうと思って言葉を重ねてきたのだけど、話している内にだんだん自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。

「えっと……だからね……【ありがとう】、ハヌ」

 ふと口にしたその言葉が、意外としっくりきた。

 そう――【ありがとう】、だ。

「僕と一緒にいてくれて、ありがとう。僕を僕として見てくれて、ありがとう。何も聞かずに僕の友達になってくれて、本当にありがとう」

 僕はお礼が言いたかったのだ。

 ずっと感謝の念を抱いていたのだ。

 一人ぼっちの悲しみから僕を救ってくれたことに。

 僕の初めての〝友達〟になってくれたことに。

 なのに、これまで一度も感謝の言葉を伝えていなかった。

 ――なにより恐ろしかったのは、この気持ちを伝えられないことだったのかもしれない。

 ハヌに軽蔑され、友達でなくなることより――心からの感謝を、彼女に伝えられなくなることが。

 何故なら、ハヌは僕の世界を広げてくれた、たった一人の恩人だから――

「……ラト」

 ハヌが俯き、銀色の前髪が色違いの瞳を隠した。彼女は何を思ったか、そのまま椅子から立ち上がり、ファイアクレードルを迂回して僕の椅子まで歩み寄って来る。

 そして、さっきと同じように僕の膝前まで来ると、くるり、と背を向けた。緩く両腕を広げ、脇を空ける。

「……うん。おいで、ハヌ」

 もはや、その行為の意味がわからない僕ではない。

 僕はハヌの脇の間に両手を入れると、そのまま小さな体を持ち上げ、自らの懐へと招き入れた。さっきと同じラッコの親子みたいな状態になって、ハンモックチェアの背もたれに体重を預ける。

「……ちょっと冷えてきたね。毛布かぶろっか?」

「……うむ……」

 ハヌの被っている外套がひんやりとしていたので、僕はいったん身を起こし、ストレージから毛布を一枚取り出した。それを背中から羽織り、両端を掴んで懐のハヌごと体を包み込む。それから、

「……ありがとう、ハヌ。こっちに来てくれて」

 ハヌの銀髪に軽く顎を当てて、囁いた。

「……何を言う。ラトの膝は妾の特等席じゃ。いつものことじゃろうて」

「うん。【だから、ありがとう】」

「…………」

 沈んだ声で応答するハヌに、僕は重ねてお礼を言った。

 目は口程に物を言う、とは言うけれど、それは行動だって同じだ。

 ハヌはこうして、僕と触れ合いに来てくれた。

 ハヌだって、とっくに察しているはずだ。僕達の間には不文律の決まりがあった。暗黙の了解によって、お互いの事情に踏み込まない、あるいは踏み込ませない、といった目に見えないルールが。

 それを、僕は破ってしまった。

 そうすることで僕達の間にあるバランスは、明確に崩れてしまった。

 なのに、ハヌはこうやって僕の膝の上まで来てくれた。いつものように。いつも通りに。

 これは言外のメッセージだ。少なくとも、僕を拒絶するつもりはない、という。

 これまで抱いていた不安が杞憂だったとわかり、僕は心の底から安堵する。

 気付けば、我知らず両腕でハヌの小さな体を抱きしめていた。ハヌもまた、僕の腕に自らの手を絡め、掻き抱くようにしている。

「……ラト、何故、そのような話を妾にしたのじゃ?」

 今更のように、至極当然の問いが発された。

 ハヌは振り向かない。僕と毛布に抱かれたまま、けれど表情を隠すように俯いている。

 僕は不思議と落ち着いた気分で答えた。

「……知って欲しかったから。ハヌに、僕のことを」

「……どうして、知って欲しいと思ったのじゃ?」

「……ハヌともっと〝仲のいい友達〟になりたかったから、かな? 僕のおかしなところ――ううん、【壊れたところ】も知った上で、ハヌには友達でいて欲しかったから、かも……ごめん。これは本当に僕のわがままだと思う」

「……構わぬ。妾もようラトにわがままを聞いてもらっておるからの。お互い様じゃ」

 ハヌの声は蚊の鳴くような小ささで、明らかに元気がない。いつものハヌらしくないけれど、やはり何か、僕に話しにくいことを抱えているのだろうか。

 そう。つい先刻、ハヌは僕にこう言った。

『無理をせずともよい、ラト。話したくないことならば、無理に話す必要はないのじゃ』

 この言葉は、ハヌ自身に言い聞かせているようにも思えた。

 間違いなく。ハヌにだって『話したくないこと』がある。だから僕の苦しみが理解できたのだ。彼女もまた、僕に言えないことで苦しんでいるから。

「……ラト。先程の話を知っておるのは、妾だけか?」

「……ううん。フリムは知ってるよ。ほとんど家族同然だし。あと、故郷のお祖母ちゃんと……その、えっと……ヴィ、ヴィリーさんも知ってる……この前、話したから……」

「……ほう?」

 ヴィリーさんの名前を出した途端、ハヌの声が硬さをまとった。ぴくん、と小さな頭が動いて、僕は軽く地雷を踏んだことを実感する。

 まぁ、ヴィリーさんの名前を出したらこうなることは予見していたけれど。

「……どういうことじゃ? フリムならばともかく、何故に妾に話すのがあの女狐より後だったのじゃ?」

 このラッコの親子な体勢では、ハヌが振り向かない限り彼女の表情は見えないのだけど、今だけはどんな顔をしているのかが容易に想像できた。唇を尖らせて拗ねているに違いない。絶対に。

「……ごめん。そうだね、本当ならハヌに先に話すべきだったと思う。本当にごめん。だけど……」

 謝りながら、僕はさっきまでの重苦しい不安を思い出す。ハヌに嫌われたらどうしよう、とか。ハヌと友達でいられなくなったらどうしよう、とか。

 そんな感情を思い返すだけで、またも胸がいっぱいになってしまった。目に涙が滲んでいくのがわかる。

 僕は、絞り出すように告白した。

「……怖かったんだ……ハヌに話すのが、一番、怖かった……」

 拠り所を求めるように、僕はハヌの小柄な体を強く抱きしめる。ブルブルと手足が震えるのは、寒いからでは決してない。

 拒絶されるのが怖かった。ハヌの僕を見る目が変わるのが怖かった。僕達の関係が壊れてしまうのが怖かった。

「――だって、ハヌは……ハヌは、僕の大切な友達だから……」

 失いたくなくて、何もかもが後手に回ってしまった。

 今となっては後悔しかない。こんなことなら、最初から全て打ち明けておけばよかったのだ。ハヌだって、後回しにされたと知れば、傷付くだろうってことはわかりきっていたのに。

「……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

 僕はいつもハヌに謝ってばかりの気がする。そして、ハヌはいつもそんな僕を許してくれるのだ。

 そう、今のように、くふ、と笑って――

「……よかろう。許してつかわす。そういうことであれば、否やは言えぬな。なに、妾の心は天のように広いからの。ラトからその話を聞き出したヴィリーめは許さぬが、こうして謝ったラトは許してやろう。そうじゃ、妾はラトの大親友じゃからの。妾にとっても、ラトは大切な友達なのじゃ」

 ぎゅっ、と僕の腕に絡んだハヌの手が、その力を増す。ハヌの声音は少し弾んでいて、どうやらちょっとだけ機嫌がよくなったらしい。よく見ると毛布の下で、ハヌの両足がパタパタと前後に動いていた。

「ハヌ……ありがとう……」

 大切な友達と言ってくれたハヌに、僕は彼女の後頭部に頬を寄せ、深く感謝の意を表す。

 それから数秒の間を置いて、ハヌは言った。

「――ラト。実を言うとな、妾にも親がおらぬ」

「えっ……?」

 突然の告白は、思いがけず軽い調子で発された。僕は驚いて顔を上げ、ハヌの銀髪をまじまじと見下ろす。

「妾は現人神じゃからの。そも親というものが存在せぬ。神は人から産まれるものではなく、人より先に〝在る〟ものじゃからな」

 淡々と語られるその様子からは、悲嘆や感傷といったものは一切感じられない。親が存在しない、という事実を完全に割り切っているかのようだ。

「じゃが、だからと言って妾とラトが同じ境遇とは思わぬ。妾は最初から親がおらぬが、ラトは親御がおって、その上で失っておるのじゃからな。最初から持っておらぬのと、持っていたものを失くすのとでは大違いじゃ。故に、妾にはおぬしの辛さがようわからぬ……」

 僕の境遇を上手く理解できないのを、ハヌは申し訳なく思っているようだった。

「すまぬ……じゃが、ラトが辛い思いをしておったのはわかるぞ。家族がおらぬ寂しさなら、妾も知るところじゃ。辛かったの……」

「……うん……」

 僕の心に寄り添うように言葉をかけてくれるハヌを、僕は改めて背後から抱きしめる。幼いせいかハヌの体温は高い。既に毛布の中は柔らかな暖かさで満たされ、身も心もほぐれていくようだった。

「……しかし、ちと疑問なのじゃがな、ラト?」

「うん? なに、ハヌ?」

 声音を変調させたハヌに、こちらも努めて明るい声で聞き返すと、

「聞いてもよいのかわからぬのじゃが……おぬしは何故、親御のことを言いにくそうにしておったのじゃ? 確かに、両親のことを思い出せぬことは大変であろう。じゃが、それを妾に言い出せなかったのは何故なのじゃ?」

「えっ? そ、それは……」

 とても素朴な疑問に、僕は言葉に詰まる。

 この時点で、これまで僕が抱えていた不安は杞憂だったどころか、まったくの見当違いの思い込みだったということが判明したわけだけど、それを今更説明したところでかなり恥ずかしい気もするので、

「……えっと……その……お、おかしいでしょ? 両親のことだけ思い出せなかったり、名前を聞いても聞こえなかったり、写真を見ても認識できなかったり……」

「うむ。重症じゃ。もし妾が同じようになったかと思うと寒気がする。特に、それがラトのこととなれば大問題じゃな。辛さのあまり死にたくなるやもしれん」

 嬉しいような嬉しくないような、妙に物騒なことを言って納得するハヌは、うんうん、と何度も頷く。

「……じゃが、言うては何じゃが、ラトの親のことであろう? 何故、それを妾に話すのが一番怖かったのじゃ?」

「え、えーっと……そこじゃなくて……」

 この発言で、同じ話をしているのに僕とハヌの間でピントが微妙にずれていることがよくわかった。

 人間、相互理解というのは本当に難しいのだな、と痛感する。

「……頭がおかしい奴、って思われたら嫌だなぁ、って思って……ハヌに変な目で見られたくないなぁ、って……」

「――おお、なるほど。そういうことか」

 ようやく合点がいったらしいハヌは、毛布の中で手を叩いた。

 そこから微妙な間を置いてから、ふぅ、と溜息が生まれる。

「……ラト。おぬしは思い違いをしておるな」

「お、思い違い?」

 嫌な予感を抱きつつ僕が聞き返すと、ハヌは深く頷いた。

「さよう。妾はとっくにおぬしのことを〝頭のおかしい奴〟じゃと思うておったぞ?」

「――え、ぇえええええええぇっ!?」

 さらりと衝撃的なことを言われたので、僕の驚愕は一拍遅れて爆発した。

 ――え、嘘っ!? ずっと前からそんな風に思われてたの!?

「え、そうなの!? そうだったの!? え、なんでどうして!? っていうかいつからっ!?」

「こりゃ暴れるでない、せっかくの寝心地が台無しではないか」

 狼狽して声を高める僕に、ハヌは落ち着いた態度を崩さない。ぎゅう、と僕の腕を掴む手に力を込め、落ち着け、とたしなめる。

「いつからかと問われれば、出会った頃からじゃ。考えてもみよ。あの時、一人でおった妾に話しかけてくる者など一人もおらなんだ。なにせこの姿形なりじゃからの。己で言うのも何じゃが、子供と侮って誘う者などいようはずもない。しかし、そんな妾に声をかけてきた物好きがおる。それが、他ならぬおぬしじゃ、ラト。それにの、妾に話しかけてきたおぬしの第一声を覚えておるか?」

「うっ……」

 覚えている。それも、しっかりと。僕は思わず、意味もないのに視線を逸らしてしまった。

 ハヌは、くふ、と笑い、

「〝支援術式が得意なんですけど、やっぱりパーティーには入れてもらえないでしょうか!?〟――じゃぞ? いきなり話しかけてきたばかりか、端から自らの欠点をあげつらう者がどこにおる。妾の中でおぬしは、あの時から既に〝おかしな奴〟じゃよ、ラト」

「う、ううっ……もう忘れてよぅ……」

 顔どころか頭全体が熱くなる。今思い返しても、あの時のあの台詞は本当に意味不明だった。

 ただ、言い訳だけはさせて欲しい。あの頃の僕は、本当にいっぱいいっぱいだったのだ。

 なにせ祖母やフリムに『エクスプローラーになる!』と啖呵を切って飛び出したまではいいが、知っての通り仲間どころか友達さえ作れず、鳴かず飛ばずの毎日。流石に一年近くそんな日々を過ごしていると僕の焦り具合はいい感じにレッドゾーンへと突入し、心機一転、新しい土地で仕切り直しだと浮遊都市フロートライズまで来たものの、前にいた鉱穴都市ランダルギアの時と同じく、二週間経ってもうだつが上がらないまま繰り返すソロでのエクスプロール。

 そんな時だったのだ。

 僕がハヌに出会ったのは。

 何でもいい、誰でもいいから、僕と一緒にエクスプロールに行ってください――そんな思いで頭が一杯だったのである。

 焦りやら劣等感やら、様々なものが何重にもこんがらがって、それを拗らせた挙げ句に出てきたのが、あの台詞だったのである。

 ――支援術式が得意なんですけど、やっぱりパーティーには入れてもらえないでしょうか!?

 アホだ。

 自分で自分にダメ出しをしてしまう。いくら追い詰められていたにしても、この言い方はない。普通なら絶対引かれてるし、断られている。

 ハヌだったから、一緒に行ってくれたのだ。

 そういう意味では、奇跡のような出会いだったと思う。

「おぬしは気にしすぎなのじゃ、ばかもの。妾の心の広さを甘く見るでない。頭がおかしかろうが、どれだけ無茶をしようが――何が得意で何が苦手であろうが、ラトはラトじゃ。妾の唯一無二の大親友であることに変わりはなかろう。何を怖がることがある」

「ハヌ……」

 ふふん、と嘯くハヌは、きっとドヤ顔をキメていることだろう。僕からは銀髪の後頭部しか見えないけど、それだけはわかる。

「――じゃが……そうか。怖かった、か……」

 ふとした拍子に、ハヌの声が低く、小さくなった。囁くように『怖かった』という言葉を、舌の上に転がす。

「……そうじゃの。妾とラトの間で恐れるものなど何もないはずじゃが……」

「……? どうしたの、ハヌ……?」

 独り言のようによくわからないことを呟き、深く俯いたハヌに声をかける。どうしたのだろうか。何だか様子がおかしい気がする。

「……のう、ラト? 一つ、おかしなことを聞いてもよいか?」

「おかしなこと……?」

「うむ。わからなければ、わからぬでもよい。何か思うところがあれば、おぬしの気持ちを聞かせてたもれ」

「??? べ、別にいいけど……?」

 言っている意味はよくわからないまでも、ハヌの頼み事であれば僕に拒否する選択肢はまず存在しない。

 ハヌは、もぞり、と僕の懐で身じろぎした。自分で毛布を引っ張って、より多くの温かみを求めたようだ。

 そして、ハヌは小さな声でこんな質問をした。

「――もし、妾が妾でなくなったとしても、ラトは妾の友達でいてくれるか……?」

「……えっ……?」

 おかしなこと、と前置きしただけに、想像以上に意味不明な問いかけだった。

 ――ハヌがハヌでなくなっても……?

 どういう意味なのだろう。さっぱり要領を得ない。

「え……っと……それは、どういう意味か聞いても……?」

 慎重に問い返すと、ハヌはフルフルと首を横に振った。

「……詳しいことはまだ言えぬ……じゃが、つまりはそういうことじゃ。妾が妾でなくなる時が、いずれくるやもしれぬ。その時、それでもラトは、妾の友達でいてくれるか……?」

「う、うーん……」

 思い掛けずの難問に、僕は唸ってしまう。

 ハヌの説明は実に抽象的で、彼女の提示する状況が一体どういったものなのか、全く想像できない。

 例えばそれは、見た目の話なのだろうか。ハヌの姿形が変わる――そう、成長して大きくなるとか。

 ハヌは幼いけれど、容姿は端麗だと言っていい。きっと将来はすごい美人になるはずだ。

 僕は今は懐に収まってしまっている小さな女の子の、未来の姿を想像してみる。

 綺麗な銀髪は今より伸びて、サラサラのロングヘアになっていることだろう。体型は、フリムやヴィリーさんのようなスレンダーなタイプになるのだろうか。それとも、意外とロゼさんみたいに凸凹のはっきりしたグラマラスな感じになるのだろうか。どちらにせよ、蒼と金のヘテロクロミアが映える絶世の美女になるであろうこと、疑い得ない。

 ――ん? でも待てよ? これではあまりに発想が普通過ぎるんじゃ……?

 こんなに重たい調子で繰り出された質問なのだ。もしかしたら、もっとすごい変化がハヌに起こるのかもしれない。

 例えば――男になってしまう、とか。

 これは大変だ。女の子だと思っていた相手が男の子になるのだから、変化は劇的であろう。

 実際、思春期になると性別が変化するタイプの人種が存在すると聞いたことがある。これまでそういった人と出会ったことはなかったけど、もしかしたらハヌがそうなのかもしれない。ハヌはまだ小さいから、成長期はこれからだ。今からジワジワと肉体が変化していく可能性は、なきにしもあらずである。

 ――変化するっていうと、そういえば〝変貌者ディスガイザー〟っていう可能性もあるんだっけ……

 いわゆる『獣人』と呼ばれる人種である。かいつまんで簡単に言ってしまうと、特殊な〝SEAL〟の持ち主のことで、生体限界突破と似たような仕組みで肉体が【人ならざるもの】に変貌してしまうらしい。

 代表的なものと言うと、やはり『人狼』になるだろうか。僕の異名でもある〝勇者ベオウルフ〟とも関連している〝変貌者〟の一種である。もちろん、他にも熊やら猪、兎や鳥といった様々な種類の〝変貌者〟が存在するらしく、それらは得てして遺伝よりも突然変異で発生することの方が多いのだとか。

 しかし、遺伝しないわけでもないらしく、この世界の片隅には『人狼の里』だとか『鳥人の里』と言った隠れ里があるとかないとか、まことしやかに囁かれていたりもする。

 さらに眉唾ものの噂となると、とても獣人とは呼べないほど恐ろしげな見た目に変貌する『鬼人』なる存在も確認されているとか、いないとか――

 ちなみに、変身の形状は千差万別で、獣や魔物そのものになってしまう完全ジェニワン型の人もいれば、いわゆる『狼男』のように人と獣が交じり合った混合ハイブリッド型の人もいるのだという。

 ――ハヌだったら、どことなく猫のイメージがあるから、猫人……? それはそれで可愛いかもしれないけど……

 半分が猫になってしまったハヌの姿を想像してみる。元々、朝の寝起きの時なんかは舌っ足らずで、僕のことを『にゃと』などと呼んでしまうハヌである。あまり違和感はないかもしれない。

 と、そこまで考えて、はた、と気付く。

 いや、『ハヌがハヌではなくなる』というのは、見た目だけの問題ではないのかもしれない――と。

 姿形も重要だけれど、それ以上に『ハヌをハヌたらしめているもの』と言えば、彼女の内面だ。

 ハヌの性格、人格、精神――魂と呼んでもいい。彼女の『芯』となる心の部分。

 そこが変化したら、果たしてそれは『ハヌ』と呼べる存在なのだろうか?

「…………!」

 この問題の重大性に、僕は今更のように気付く。

 さっきまで僕は、ハヌの見た目が変わった場合だけのことを考えて、正直大したことがないと思っていた。

 何故なら、どれだけ姿が変わろうとも、ハヌはハヌだからだ。彼女の本質たる部分が変わらない限り、ハヌはハヌなのであり、ということは例え彼女が成長しようが性転換しようが猫になってしまおうが、僕にとってハヌが大切な友達であることは絶対に変わらない。

 だから僕は自信を持って断言できる。どんな姿になっても、ハヌは僕の友達である――と。

 けれど、内面の変化となれば話は別だ。そもそもの大前提が崩れてしまう。

 もし見た目が何一つ変わらずとも、ハヌの根幹たる人格が変わってしまったら――それは一体、誰になるのだろう?

 ――でも、ハヌの心がハヌのものだ、っていう基準って何だろう……?

 難しい話である。何を以て、ハヌがハヌである、と定義できるものなのか。

 というか、この条件さえ揃っていればそれはハヌである――と言い切れるほど、僕はハヌのことを知らない。

 そう、知らないのだ。

「――……」

 前からわかってはいたけれど、こうしてその手がかりのなさを実感するに、改めて悲しくもなるし、恐ろしくもなる。

 僕とハヌは友達だ。

 だけど、それを証明することってできるのだろうか――?

 なにせ、僕達の間には何一つ〝証〟がない。

 例えばの話、事故か何かでハヌが頭を打って、記憶喪失なんかになってしまったら、僕とこの子の繋がりはあっさりと断ち切られてしまうだろう。

 僕がハヌのことを友達だと思っていても、記憶を失ったハヌにとって僕は赤の他人で、友達でも何でもない。

 その場合、片方の一方的な思いだけで友達関係というものは成立するものだろうか?

 いや、多分、しない。

 僕はこれまで何度もそういった経験をしてきた。

 友達というのは、お互いの合意がない限り、決して成り立つものではないのだ。

「……ラト?」

 深く思索に耽っていた僕に、不思議そうなハヌの声がかかった。しかも、首を捻ってこちらに視線まで向けて。

 まるで眠気につられて船を漕いでいたところを起こされたかのように、僕は、はっ、と我に返る。

「――あ、ごめん、なに、ハヌ?」

 僕の悪い癖だ。考え込みすぎると、うっかり周囲への注意がおろそかになってしまう。

 僕の応答に、むっ、とハヌが眉根を寄せた。

「なに、ではなかろう。妾の話を聞いておったのか?」

「あ、うん、さっきの質問のことだよね?」

「そうじゃ。いくら待ってもおぬしが返事をせぬから、妾は……」

「ご、ごめん、ごめんね、ハヌ。まだ、その答えについて考えてて……」

「……それほど、答えに窮する問いじゃったか、今のは……?」

 まだ思案中であることを伝えると、ハヌの横顔が不安に曇った。

 僕は慌てて『ち、違うよ!』と言いかけて、ぐっ、と我慢する。こんな時に、そんな場しのぎ的な態度は悪手もいいところだ。ここはきちんと落ち着いて、

「ううん、違うよ、ハヌ。大事なことだから、ちゃんと考えてたんだよ。だって、僕の大切な友達のことだもん。適当に答えるなんてできないよ」

「……さよう、か……うむ。そういうことであれば……うむ。仕方ないの……」

 僕の言葉に納得したのか、ハヌは再び前を向いてしまった。またしても表情の変化がわからなくなるけど、声の調子から多少の安堵が滲んでいる。それでも、不安の微粒子がまだ残っているようだったけれど。

 僕はそれからも数分ほど考え続け、やがて、

「……ハヌ。これが質問の答えになるかどうかはわからないけれど――」

 僕はハヌを抱きしめる腕に力を込めて、小さな体を引き寄せた。彼女の左肩に顎をのせ、頬を寄せる。綺麗な銀髪が肌を優しくくすぐった。

「――少なくとも、僕は何があっても、ハヌのことを友達だと思い続けるよ。例えばもし、ハヌが僕のことを忘れちゃったとしても」

 結局のところ、行き着く先はそこしかなかった。

 どれだけ考えても、どんなに悩んでも、僕の答えは一つなのだ。

 何故なら。

「僕は、ハヌと友達でいたいから」

 友達の証なんて、きっとどこにも存在しない。

 僕達の間には、お互いの気持ちだけしかない。

 だから、僕は全身全霊で願うのだ。

 祈るのだ。

 これからもずっと、ハヌと友達でいれますように――と。

「だから、ハヌが僕のことを友達だと思ってくれている間は、僕とハヌは世界で一番の、唯一無二の親友だよ。これまでもそうだったし、多分、これからもずっと」

「…………」

 ハヌは無言のまま、身じろぎもしない。

「…………」

 僕もまた、敢えて何も言わずに黙り込む。

 こうしてラッコの親子みたいな恰好で密着しているのだ。もう言葉なんてなくても、気持ちは伝わってくる。

 沈黙の時間はどれぐらい続いただろうか。

 やがて、ハヌの体が大きく震え始めた。

「……っ……うっ……ふっ……っ……!」

 泣いている、とすぐにわかった。時折漏れる声は嗚咽でしかなかったし、何度も何度も、鼻を啜る音が混じっていたから。

 だけど、僕の返答に感動した、というわけではなさそうだった。嬉し涙だったら、それこそもっと嬉しそうに泣くものだと思う。今のハヌの泣き方はどこか、堪え切れない苦しみや痛みに、それでも耐えているかのようだった。

 原因は――聞くまでもない。

 未だ彼女が語りたがらない【何か】。

 僕の知らない【何か】が、彼女をこうして静かに泣かせているのだ。

 いつものように僕に抱き付いて泣き喚くでもなく、ヘラクレスの前で再会した時のように怒りながら涙を流すでもなく。

 己を押し潰そうとする重圧に耐えるように、ちっちゃな体をさらに小さくして、声を押し殺してむせび泣いている。

「ハヌ……」

 聞いても、理由は教えてもらえないのだろう。

 さっき、ハヌはこう言った。『詳しいことはまだ言えぬ』と。

 だから、彼女が背負っている重荷を、僕はまだ分けてもらうことができない。僕を信頼していないわけではない、はずだ。けれど、ハヌの心の準備がまだできていないのだろう。

 だから今は、ハヌが一人で、僕の知らない【何か】に耐えるしかないのだ。

 そして何も知らない僕は、こうやってハヌを抱きしめてあげることしかできないのだ。

「……らと……わらわ、は……わらわは……っ……」

 何かを言いかけて、でも結局はそこで言葉に詰まってしまうハヌに、僕はただ相槌だけを返す。

「うん……うん……」

 わかってるよ、などと口にしかけて、結局やめる。そんなの、何の慰めにもならないだろうから。

 それ以降、ハヌはもう何も言葉にはせず、ただ静かに泣き続けた。小さな胸の中に生じた、大きな気持ちをゆっくりと消費していくように。

 やがて、ハヌの涙の衝動がほとんど収まりかけた頃、

「……………………すまぬ……」

 本当に微かな声で、ハヌがそう呟いた気がした。

「…………」

 声の音量からして、僕に聞かせたい言葉だとは到底思えなかったので、僕も敢えて聞こえなかった振りをした。

 と、その時だ。

「……?」

 何か音が聞こえた気がして、僕は頭を上げた。

 よくわからないが、妙な気配を感じたのだ。

「……ラト……? 何か……聞こえぬか……?」

 ハヌも気付いたらしい。僕と同じく俯かせていた面を上げ、頭上を見上げる。

 聴覚にささやかに引っかかる音を探していると、ふとロールテーブル上でカタカタと鳴っているコッフェルを発見した。さっきハヌが置いたコッフェルだ。

「……揺れてる……?」

 まさかまた地震なのか、と戦慄が走るけれど、それにしてはコッフェルの震え方が奇妙だ。

 カタカタカタカタ、と震えていたかと思えば、急に静かになる。それからまた何秒か経つと再び、カタカタカタカタ、と音を立てる。

 定期的な震動の発生に、ピン、と閃いた。

「――足音、かな……?」

 そう思い至ってみれば、自分の身にも等しく震動が伝わってきていることに気付いた。

 僕とハヌは揃って息を殺し、耳を澄ませる。

 ずしん……………………ずしん……………………ずしん……………………

 一定の周期で似たような音が連続している。

 やっぱりだ。

 そう、これは足音なのだ。

 何か巨大な生き物が、ゆっくりと歩いている。そんな音と震動が、遠くからここまで届いてきているのだ。

「……もしかして、森の獣かな……?」

「そうかもしれぬが……それにしては随分と規模がでかいようじゃぞ……?」

 緊急事態に生存本能に火が点いたのか、さっきまで啜り泣いていたはずのハヌの声は、ピリッとした張りを取り戻していた。

「そう、だね……まさか、象、とか……?」

 この重い音から連想されるのは――SBを除けば――象ぐらいしか思いつかない。それ以上の大きさのものとなると、存在するかどうかわからない、竜や巨人ぐらいだろうか。

「象? 象と言うと……あ、あの鼻が長くてパオーンと鳴くあれかっ? み、見てみたいぞっ?」

「なんでこの状況で目を輝かせてるの、ハヌ……」

 動物園に来たわけじゃないんだから、と僕はたしなめる。

 とはいえ、だ。昼間に〈シリーウォーク〉で空に昇って島の全景を見下ろした時には、それらしき影は見ていない。というか、ハヌが遭遇した巨大な虎もそうだけど、この島の生態系はどうなっているのだろうか? 馬鹿みたいにデカい猛獣がいたと思えば、ハヌが捕まえたような野兎がいたりして――河には肉食魚ピラニアでもいたりするのではなかろうか。

 いや、駄目だ。ここはルナティック・バベル内の仮想空間なのだ。〝ミドガルド〟の時と同じく、常識が通用する場所じゃないはず。

 そうだ。考えてみれば、ここにSBセキュリティ・ボットが現れないとも限らないではないか。現時点では確認できていないだけで、それでイコールここには架空生命体が存在しないということにはならない。

 むしろ、ここまでSBの影が一切ないあたりが、何か悪辣な罠の一端かもしれないではないか。

「とりあえず、〈イーグルアイ〉で確認してみるね」

 ハヌに宣言してから、僕は支援術式〈イーグルアイ〉×5を発動。五羽のディープパープルの鳥が一斉に羽ばたき、音もなく直上へ飛んでいく。幾重にも重なり合った枝や梢の間をすり抜け、森の上へと抜けた。

 遠隔視術式の〈イーグルアイ〉は、鳥の名前を冠しているからといって別に鳥目というわけではない。それどころか、光学カメラのみならず、サーモグラフィー、録画、ハイスピード撮影などなど、様々な機能を併せ持っている優秀な術式なのだ。

 今は、星の輝きぐらいしか光源のない暗い夜。まともな視覚に頼っても何も見えはすまい。だから僕は〈イーグルアイ〉の高感度モードを起動させ、闇を見通した。もちろん、視覚情報をハヌと共有することも忘れない。

 五つの視点を使って、上空から足音の発生源を探す。しかし、

「……え、あれ……?」

「お、おおっ……?」

 視覚を共有した僕とハヌは、ほぼ同じタイミングで怪訝な声をこぼした。

 探す必要なんてどこにもなかった。

 なにせ足音の主は、身を隠そうともしていなかったのだから。

「な……なに、あれ……?」

「きょ、巨人、か……?」

 ハヌが口にした単語そのものとしか言えない存在が、〈イーグルアイ〉の俯瞰視覚には映っていた。

 木々の組んだ屋根を超えて、頭らしき部分が突き出ている。まるで鎧兜を被っているかのようなシルエット。

 色は――黒、だろうか? 高感度視野でも顔形までは判然としない。両肩と思しきところにも鋭角的な輪郭が見え隠れしているので、やはり甲冑を纏っているように見える。

 それがゆっくりと、足元を気に掛けるようにしながら、森の中を歩いていた。










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