リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-

国広 仙戯

●7 雨降って地固まるの二回目






 どこだここは。

 まったくわからない。

 海があって、浜辺があって、空があって、森がある。

 島だ。

 多分、いわゆる無人島というやつだ。

 それはわかる。

 逆に言えば、それしかわからない。

「あつい……あつすぎるぞ……なんなのじゃ、ここは……」

 うだるような暑さの中、実際にハヌが猫みたいにうだっていた。

 熱のこもる外套を脱ぎ、珍しいことに着物状の上着までをも外している。薄紅色のノースリーブワンピースみたいな服を着ているハヌは、そこだけを見れば、完全に夏服姿の女の子であった。スカートも短いので、清涼感だけならバッチリである。

「夏の気候だね……フロートライズに四季はなかったと思うんだけど……」

 一方の僕は、やはり厚めの生地でできた戦闘ジャケット〝アキレウス〟を脱ぎ、黒の長袖シャツとパンツという出で立ちである。無論、袖はまくって腕を出していないとやってられない。レーザーのような陽射しが肌をジリジリ焼くけれど、日焼けがひどくなった時は〈ヒール〉で治せばいいだろう。

 暑さの原因が日差しだけなら、むしろ上着を着込んだ方がまだマシなのだろうけど、残念ながらこの島は、湿気もまたものすごいのだ。

 まるでサウナにいるよう。

 強い陽射しに霧のような湿気。焦熱地獄とまでは言わないが、このまま空気中で茹でられてしまいそうなほどには暑かった。

「どうじゃ、らと……ほかにだれか、おらぬのか……?」

「うーん……反応はないみたい……」

 僕達は今、連れだって浜辺を歩いている。

 ハヌは両腕をだらりと垂らし、前傾姿勢。舌もべろりと垂らし、まるで放熱をする犬みたいになっている。普段の格好から察するに、あまり暑さへの耐性はないみたいだ。かつてないほど胡乱げな目をして、ゾンビか何かのように歩いている。

「わらわはの……あついのと、さむいのとでは、あついほうが、きらい、なのじゃ……」

「あ、あんまり無理はしないでね? 辛いときはすぐに言ってね、ちゃんと休憩するから」

 僕は僕で、両親のことは憶えていないけれど、その両親に連れられて色んなところを転々としていたことだけは記憶に残っている。その中で、ここのように暑い地域で長期間過ごしたこともあるので、平気とまではいかないがハヌよりはマシな状態だった。

「わかって、おる……じゃが、はよう、だれぞ、みつけねば、あんしん、できぬ、じゃろ……」

「うん、それはそうなんだけど……」

 ぜぇ、ぜぇ、と息せき切りながら喋るハヌに、僕は控えめに同意する。

 僕達が浜辺に沿って歩いているのは、他の人達の救難信号を受信するためだ。あるいは、僕達の救難信号を受信してもらうため、と言い換えてもいい。

 現在、僕とハヌ以外の人達とは、ルーターを介した繋がりが途絶している。ヴィリーさん達どころか、ロゼさんやフリムとさえも連絡がとれない。

 エクスプロール用のルーターは頑丈かつ高性能なのが特徴で、ちょっとやそっとでは壊れないし、よほどの距離が空くか、さっきのバリアのような障害でもない限りメンバー間の接続が切れることはない。

 考えたくはないが、現状と似たような状況はあの『仮想空間』――エイジャは〝ミドガルド〟と呼んでいただろうか――によく似ているし、実際、あの時はアシュリーさんとゼルダさんを繋いでいたルーターの通信は、ほぼ断絶状態にあった。

 しかし、アシュリーさんが仮想空間〝ミドガルド〟に囚われた直後あたりまでは、ゼルダさんの元にルーターの緊急信号が届いていたという。

 緊急信号はルーターが放つ信号の中でも一際強力なものだ。最終的にはそれすらも途絶えたというのだから、必ずしも送受信できるとは限らないのだけど、この状況では他に手もなく、試せることはとにかく試してみるしかない状態だった。

 なにせ、ここは無人島。

 それも――【空飛ぶ浮遊島】なのだから。



 ■



 当たり前だけど、まずは現状の把握から始めた。

 まず真っ先に調べたのが、僕らがどこにいるのか、ということ。

 可能性は薄いとは思っていたけれど、〝SEAL〟の位置情報機能は役に立たなかったし、地図アプリも意味をなさなかった。

 ならば直で見るまで、と仮想空間〝ミドガルド〟でそうしたように、僕はハヌをお姫様だっこした状態で〈シリーウォーク〉を発動させ、不可視の階段を駆け上った。

 そうしてわかったのが、ここが空に浮かぶ小さな島だということ。

 ここも〝ミドガルド〟と似たような仮想空間なのだろう。島があり、それを囲むように海が広がっている。しかし不思議なことに、海水はある程度の距離まで行くと、盆からこぼれるようにして下方へと落ちていた。

 さながら巨大な噴水、とでも言おうか。浮遊島の外縁部は総じて滝となって空中に海水のカーテンを下ろし、密度が薄まった水はやがて風に散らされ、文字通り雲散霧消していたのである。

 そして、この島以外に似たような浮遊島は他になく、当然フロートライズの姿も全方位どちらを見ても、影も形もなかった。

 つまり、僕達はどことも知れぬ空中にポツリと浮かぶ、小さな島に閉じ込められてしまったのだ。

 先程は、ここも〝ミドガルド〟と似たような仮想空間なのだろう、とは言ったが、もしかすると『似たような』どころか、ここも全く同じか、その一部なのかもしれない。

 確認するにはちょっと手間がかかるし、意味もないと思うのでやらないけど、この無窮の大空もきっと、あの廃墟と森で埋め尽くされた空間と同じように〝有限なのに果てはない〟場所なのだろう。多分、僕のフォトン・ブラッドが枯渇するまで空中を走ったところで、どこにもたどり着けはしまい。

 一方、島の内側についてだが、ちょうど真ん中に大きな山があり、それを取り巻くように背の高い森が広がっている。

 なんというか、実にわかりやすい『無人島感』とでも言うべきだろうか。おそらくだけど、真ん中の山は火山だろうし、森には野獣がウジャウジャいるであろうことが予想できる。

 しかしながら、前回のコンクリートジャングルと比べて明らかに違う点が一つ。

 この空間には、僕達以外の生命が息づいているのだ。

 海には海洋生物、森には獣。どちらも漁獲したり狩猟したりすれば、食料となる。

 また、島を高い位置から俯瞰すると海へ流れ込む川が見えたので、飲み水の確保も容易だろう。

『さぁ、ここからは生きるか死ぬかのサバイバルだよ、ラグディス』

 そんなエイジャの言葉が思い出される。

 彼の言う通り、ここでの衣食住は、全て自分達の手でまかなわなければならないのだ。

 ――ということは、ここの『試練』は一定期間をここで過ごし、生き残ることだったり……?

 と考えてみるが、残念ながらここはルナティック・バベルである。

 そんな甘い話があるわけがない。

 残念だが、ここもミドガルズオルムがいた廃墟と森の仮想空間と同じか、それ以上の【何か】が待っているであろうこと請け合いだった。

「……結局、他の人の信号はキャッチできなかったね……」

「うむ。こうなるであろうとは思っておったが、いざ徒労に終わってみると、なかなか辛いものがあるのう……」

 結局、僕とハヌは休憩を挟みつつ、二時間ほどかけて島の全周を巡った。しかし案の定、誰の緊急信号も受信できなかったし、こちらの信号がどこかに届くような手応えもなかった。

 やはり、この空間は【閉じて】いる。空は果てなく広がっているように見えるけれど、どこにも繋がってなく、僕とハヌはこの無人島で二人ぼっちだった。

「となると……やっぱり、あっちの方に何かあるのかな?」

 木陰に入り、ストレージから取り出したタオルで汗を拭いつつ、僕は島の中央にそびえる山を眺めやる。

「そう考えるのが妥当じゃな。どうせ前のように無駄にでかい化生が出てくるのじゃろう。今度こそ妾の術で消し飛ばしてくれるわ」

 休憩を入れたことですっかり回復したハヌは、両手を腰に当て、ふふん、と薄い胸を張った。

 ミドガルズオルムの時は『ここは塔の中かもしれない』と考え躊躇したハヌの極大術式だったけど、今となっては杞憂だったように思う。なにせ、ミドガルズオルム自体があの空間のほとんどを占める化け物だったのだ。となれば、こことて同じ一種の亜空間と考えて問題ないだろう。第一、弱めの術式――ハヌ的には、だけど――である〈天剣爪牙〉を撃っても大丈夫だったのだ。詠唱の時間さえ稼げるのなら、どんな敵が出てこようともハヌの術式で一発である。

 ――とは思うものの、統括プログラムならこれまでの監視ログは全部参照できるだろうし、エイジャのあの雰囲気からして、対策を立ててないとは到底思えないけど……

 宝石のように煌く赤毛の少年[?]のにこやかな笑顔を思い出して、脳裏に暗い影が差す。

 彼の内面は底知れない。人間ではなく、作られた存在故か。僕らとはまるで違う価値観で動いている感じがするし、感情があるように見えて、まるっきりないようにも思える。

 なんというか――『オレはそのように作られたからそうするけれど、別に自分でやりたいと思っているわけではなく、無理なら無理でかまわないし、君らがここで死ぬのならそこまでだったという話さ』と、心の中で思っていそうな印象がある。

 だから、ここでは仮想空間〝ミドガルド〟以上の【何か】が出てくる気がする。それがどんなものなのかは、まったく想像がつかないのだけど。

「――みんな、大丈夫なのかな……」

 ふと心の中で首をもたげた思考が、自然と口から滑り出た。

 ヴィリーさん達『蒼き紅炎の騎士団』も心配だけど、より気掛かりなのはロゼさんとフリムだった。

 ここには僕とハヌが二人。きっとあちらも二人組で、ここではないどこかへと転移させられているはず。

 もしかしたらさっきと同じように、同じ場所にいるのに次元の位相をズラされているせいで、お互いを認識できていないのかもしれない。いや、でも、その場合は緊急信号が届くだろうから、距離的にはかなり離れているだろうか、やはり。

「――? ラト、おぬしはいったい誰の心配をしておるのじゃ?」

「えっ?」

 心の底から不思議そうなハヌの声に、逆に僕が驚いてしまった。

「え……だ、だって、ロゼさんもフリムもいないし、こんな風にはぐれちゃったら、今頃どうしているのかな、って……」

「ほう、そこでヴィリーめの名前を出さなかったのは重畳じゃな。じゃが、おぬしの心配は無用じゃぞ、ラト」

 確信を籠めた声で断言するハヌに、僕は首を捻るしかない。

「えっ、ど、どうして? 僕達みたいに水や食料がある場所にいるとは限らないし、絶対に二人でいるとも言い切れないし、もしかしたらどっちも一人ぼっちで、寂しい思いをしているかもしれないよ?」

「そうじゃな。じゃが、あの二人であればたとえ単独であっても大丈夫であろうよ。それよりな、ラト。おぬしが心配するべき相手は他におろう?」

「他に……?」

 予想外の指摘に、まったく心当たりが思い浮かばなかった。

 ハヌは目の前にいるし、ロゼさんも、フリムも、ヴィリーさんさえも除外されてしまっては、他に思い浮かぶ候補なんてアシュリーさんかゼルダさんぐらいしかない。でも、そっちは絶対に違うであろうことは容易に想像がつく。

 すると、一周回って目の前のハヌが正解になるのだろうか……?

「……ラト。おぬしは肝心なことを見落としておる」

 僕が宙に視線を泳がせながら考え込んでいると、はふぅ、とハヌがアンニュイな溜息を吐いた。

「考えてもみよ。こたびの人員の中で、一番目と二番目にか弱いのは誰と誰じゃ?」

「一番目と二番目にか弱い人……?」

 まったく予想だにしていなかったハヌの問いに、僕は疑問符の花を頭に生やす。

 ――僕達とヴィリーさん達を併せた中で、一番目と二番目にか弱いというと……やはり一番はハヌになるだろうか? ちっちゃいし、女の子だし、さっきだって体力が尽きて辛そうだったし……

 一人目はすぐにわかった。だけど、もう一人となると、あまり心当たりがない。

 やはり、同じぐらいの年頃のユリウス君だろうか? ちょっと戦ってすぐ倒れるあたり、ハヌと同じく体力があまりないようだし。

 それとも、ドゥルガサティーやスカイレイダーといった武具のサポートがないと戦えないフリム? 実際、武装のない彼女はフォトン・ブラッドの量が多いだけの女の子だ。エンチャンターはあまり戦いに向かないし――あ、でもさっきハヌが大丈夫だって言っていたから、フリムじゃないのかな?

「う、うーん……?」

 そもそも、今回のメンバーの中で『か弱い』という単語が当てはまる人がまったくいないので、どうにも自信のある回答が思いつかない。ハヌだって見た目は小さな女の子でも、その正体は極東の現人神である。術力で彼女に比肩する存在はなく、それを『か弱い』と称するのはちょっと微妙な気もする。

 ――と、僕がうんうん唸っていると、ふぅ、とまたハヌが溜息を吐いた。

「……自覚がないようじゃから教えてやろう。妾達の中で一番目と二番目にか弱いのは、妾とおぬしじゃよ、ラト」

「え、僕……?」

「さよう」

 思わず自分の顔を指差した僕に、ハヌは深く頷いた。

 そして、色違いのジト目が向けられる。

「というかの、何故ラトがわからぬのかが妾にはわからん。よもや、またぞろおぬし自身のことは度外視しておったのではなかろうな? まったくおぬしの悪い癖じゃ……良くも悪くも【他】しか見ておらん。少しは自分のことを省みよ。さすれば、このような質問の答えなどすぐにわかったはずじゃぞ?」

「う……」

 唇を尖らせて斜めに僕を見上げるハヌの目線は、ちょっとどころではなく怒っている風だ。

「考えてもみよ。妾は一切合切を消し飛ばせるが、妾自身の肉体はさほど頑丈にできておらん。そしてラト、おぬしはその気になれば世界最強の剣士になれるのであろうが、支援術式の強化がなくばただの剣士じゃ。それも、アシュリーとやらが言うには〝ゆりうす〟とかいう小僧よりも剣の腕で劣っているそうではないか」

「うぐふっ!?」

 クリティカルヒットである。そういえば、前にアシュリーさんにこう言われていたのを思い出した。

『先日も言った通りあなたの剣の腕は、私達のナイツの誰よりも未熟だと思います』

 ナイツの誰よりも、ということは無論ユリウス君もその中に含まれているわけで、つまり僕はあの少年よりも未熟である、と評価されていたのだ。

 正直、ショックだった。まさかあんな小さな子よりも剣士として成っていなかったとは。

 いやまぁ、逆に考えれば、あの年齢でトップ集団の一つに数えられる『蒼き紅炎の騎士団』の一員で、しかも幹部の〝カルテット・サード〟の一角なのだ。ハヌのように天才的な才能を有しているのかもしれないし、僕がショックを受けるのもおこがましい話ではあろう。

「己で言うのもなんじゃがな、【振り幅】だけで言えば、妾とおぬしで『最弱』と『最強』の両端を担っておるわけじゃ。諸刃の剣とはまさにこのことじゃ。妾らはどんな敵をも打ち倒す『最強』かもしれぬが、運が悪ければあっさり殺されてしまう『最弱』でもある。そのことをラト、誰よりもおぬしが自覚しておらんでどうするのじゃ」

「う、ううっ……まったくもってその通りです……」

 ぐさぐさぐさっ。意外なほど冷静に自身のことを客観視していたハヌの言葉に、もはや僕の心は蜂の巣であった。まるでカレルさんのように率直かつ的確な指摘に、当然ながらぐうの音も出ない。

「よって、おぬしが心配するべきは他の者らではなく、おぬし自身と、一緒におる妾のことのみじゃよ、ラト」

「はい……」

 詰まる所、僕なんかが他の人達を心配するなんておこがましい話だった、というわけである。

 まったくハヌの言う通りであった。僕は支援術式の強化がなければ、ちょっと武装がいいだけの普通の剣士。今でこそ『総合評価Aランク』という栄誉に輝いてはいるけれど、その実態は『Dランク』だった頃と何ら変わってはいない。

 不意の事態に一番弱いのは、僕とハヌだったのである。確かに、こうなったからには他人の心配などしている場合ではない。

「それにの、おぬしは放っておくとすぐに無茶をしよる。一体何度、妾の前で血塗れになって倒れたと思っておるのじゃ? 女人への免疫をつけるのもそうじゃが、おぬしは精神鍛錬の果てに〝自重〟も憶えねばならぬぞ」

「は、はぁい……」

 前にもお説教されたことを再び槍玉にあげられ、僕は力なく相槌を打つしかなかった。

 と、ここでふと思い出す。

「――あ、そうだ。そういえばハヌ、さっきのことなんだけど……」

「ほ?」

 何度血塗れになって倒れたと思っておる、というフレーズから思い出したことを、ハヌに伝える。

 それは、さっきエイジャが言っていた意味深な台詞についての話だ。

 彼は僕にこう言ったのだ。

『さて、オレが言うのなんだけど話を急ごうか、マスター。どうやら君の命も残りわずかみたいだし。急がないとね』――と。

 正直、意味がわからない。

「――多分だけど、彼はAIか何かだと思うから、そんな存在に比べたら短命、って意味だったとは思うんだけどね」

 あるいはちょっとした冗談だったのかもしれない。単に僕が真に受けているだけで、今頃はエイジャの記憶から消え去ってしまっている可能性だってある。

 僕は、あは、と笑って、

「でも、ちょっとびっくりしちゃった。いきなりあんなこと言われるとドキッとしちゃうよね。あ、けど、ちゃんとわかってるよ? ハヌの言う通り、最近よく病院のお世話になってるし、気を付けないとね。みんなに心配ばっかりかけちゃ悪いし――」

「ラト、ちこう寄れ」

「えっ?」

 ハヌが急に硬い声で告げて、僕の話を遮断した。

 気付くと、まるで睨むような目付きでハヌが僕を見上げていた。

 細く小さい指先が示すのは、彼女の足元。いつもなら、チョイチョイ、と可愛く動かしたりするのに、今回は下方を指差したまま微動だにしない。

「え、えっと……う、うん……」

 僕は有無を言わさぬ雰囲気に逆らう愚を犯さず、とりあえず言われた通りにハヌの近くへと歩み寄り、いつものようにしゃがんで膝立ちになった。

「あ、あの……ど、どうしたの、ハヌ? あ、えっと、別に心配しなくても大丈夫だよ? さっきの話はエイジャの冗談だと思うし、実際、僕自身も体の変調は感じてないから――」

「黙っておれ」

 またしても石灰岩みたいな声で言われ、僕は喉に粘土を詰められたかのごとく押し黙る。

 すっ、とハヌの両手が持ち上げられ、僕の頬を挟むように添えられた。

 じっ、と蒼と金のヘテロクロミアが僕の顔を覗きこんでくる。とても真剣な表情で。

「……よいか、ラト。ようく聞くのじゃ。今から妾が言うことを一言一句、いつ何時でも、絶対に忘れるでないぞ」

「え、えっ?」

「わかったな。わかったのなら、うん、というのじゃ」

「う、うん……?」

 常にないヒリついた空気を漂わせ、岩に文字を刻むように言葉を紡ぐハヌの迫力に気圧され、僕は反射的に頷いてしまった。

「よかろう」

 僕の首肯を確認したハヌは、ほんのわずかな間だけ目を伏せると、次の瞬間には、カッ、と見開いた。

 金銀妖瞳ヘテロクロミアから迸る星屑がごとき輝きが、僕の目玉を鋭く射抜く。

「おぬしの支援術式の最大値――確か〝アブソリュート・スクエア〟というたな? あれを今後一切使うてはならぬ。よいか、今後一切、確実に、何があろうと絶対に使うてはならぬぞ。わかったな? わかったのなら、うん、といえ」

「へ……?」

 思いも寄らぬ警告に、目を丸くするしかなかった。

 こんなにも真剣な顔をするハヌは珍しいから、一体何を言われるのかと思えば。

「…………」

 しばし、呆然としてしまう。

 けれど、ハヌは僕の返事を聞くまで頑として動かないつもりか、ねめつけるような視線をずっと僕の顔に突き刺している。

「……え、えっと……そ、それは、どうして、かな……?」

 空っぽの頭から、ある意味当然な質問が転がり出た。

 この問いを拒絶のサインと見て取ったのか、ハヌの眉間の皺がさらに深くなる。

「……知れたことよ。おぬしが言うた〝えいじゃ〟とやらの話じゃ。おそらくじゃが、それは冗談でも法螺でもない。歴とした事実じゃ。妾も薄々思っておった。おぬしのあれは、命を削るわざじゃと。使うたびにおぬしの身体を蝕んでおる。故に、もうこれ以上は使うてはならぬのじゃ」

 真っ直ぐ僕と目を合わせたまま、確信を込めて断言するハヌ。

「――――」

 〝アブソリュート・スクエア〟の封印――それはつまりエクスプローラーとしての僕、このラグディスハルト最大の武器を封印することを意味する。

 もしかすると、アイデンティティの喪失すらをも意味しているかもしれない。

 僕が〝勇者ベオウルフ〟や〝雷神インドラ〟といった大層な名前で呼ばれるようになったのは、この力があったおかげだ。

 いざという時に自力を千二十四倍にすることが出来たからこそ、命懸けの戦いを潜り抜け、生き残ってきたのだ。

 だから、これがなくなると――僕はとても困る。

 それに、何より。

 僕が〝アブソリュート・スクエア〟を使わなかったら――

 一体、誰がみんなの窮地を救うというのか。

 救えるというのか。

「――そっ……!」

 衝動的に反駁しようとして、思わず声が上擦ってしまった。だから僕は、慌てて息を吸って、

「……んな、ことは……ない、と思うん、だけど……」

 言い直そうとした瞬間から、喉から力が抜けていった。

 違う。そうじゃない。

 僕には、自覚がある。

 ハヌの言うことは明らかに正しいと、頭のどこかでわかってしまっているのだ。

「……ラト。おぬしは言うたな。〝えいじゃ〟とやらは、おぬしの血を吸うたと。妾は医者ではないが、それでも血液から様々なことがわかることぐらいは知っておるぞ。妾は使えぬが、そういった術も多いのじゃ。故にその〝えいじゃ〟とやらの見立ては、間違うておらぬと妾は思う。そやつ、名乗ってもおらぬのにラトの名前を言い当てたのであろう?」

 それが何よりの証拠ではないか、とハヌは僕に確認する。

「よって、そやつがおぬしの寿命について語ったのであれば、何かしら理由があるに決まっておる。無論、それを何とかする腹案もな。よもや、主人と呼んだ相手がむざむざ死んでいくのを止めぬ馬鹿もおらんじゃろう。じゃからの、ラト。おぬしはそれまで自分の身体を大事にするのじゃ。無理は禁物じゃぞ」

「う、うん……それは、確かにそうだけど……」

 ハヌの説得は理路整然としていて、反論の余地は全くない。なにより、僕の身を案じてのことだ。聞き入れるのが筋である。

 ――けれど、何だろう、この感じは?

 僕の中に、微かな【引っ掛かり】があった。ハヌの言い分は正しいとわかりきっているのに、上手く呑み込めない。腹に落とすことが出来ない。

「…………」

 ハヌの目を直視できなくて、僕は初めて頬を挟むハヌの手に抵抗して、顔と視線を逸らした。

 すると、

「――試みに問うが、ラト。もし此度の件で、妾がいつぞやと同じような危機に陥った際、おぬしはどうするつもりじゃ? そう、あのヘラクレスやらハーキュリーズやらの時と同じく、妾が斬り捨てられそうになっていたら、おぬしはどう対応するのじゃ?」

「えっ……?」

 答えなんて決まりきっている質問にむしろ驚き、僕は即答した。

「た、助けるよ! そんなの助けるに決まってるじゃないか! 何が何でも、何があっても、何度だって絶対に助けるよ!」

「じゃから、それをどのようにするのか、と聞いておる。妾が聞きたいのはそのやり方じゃ。あの時と同じ場面に遭った時、ラトはどのようにして妾を助けてくれるのじゃ?」

「え、えっと……」

 正解はわからないけど、アウトになる答えだけはわかりきっていた。〝アブソリュート・スクエア〟を使ってでも絶対に助けるよ――なんてのは愚答もいいところだ。

 だから僕は必死に頭を捻って、

「だ、だから、その……ほら、ロゼさんやフリムに力を貸してもらって……」

「それでは間に合わぬであろう。そんなことをしている間に妾は真っ二つじゃ」

 あっさりと容赦なく論破される。それこそ、スッパリ真っ二つに。

「あう……じゃ、じゃあどうすれば……」

 すぐに出てしまった弱音に、ふぅ、とハヌの溜息がかぶった。

「いくらでもあろう。まずもって、妾をそのような危機に晒さぬようにする、という手法があるではないか。そうでなくとも、支援術式がなくとも妾を守れるほど強くなる――という答えでもよかったのじゃが……」

 ハヌの声音がさっきよりも怖くなっている。遠雷のような響きを織り交ぜて、いつか来る火山の噴火を思わせるような、そんな怒りの溜め方をしているようだった。

 ぎろり、と剣呑な輝きを宿して、今度こそハヌが僕を睨みつけた。

「それをなんじゃ。おぬしはろくに考えもせず、ただ単に〝支援術式を使う〟以外の答えを適当に出しよって。どうせ〝いざとなれば支援術式を使えばよい〟とでも思っておったのじゃろう。たとえ妾と支援術式を使わぬことを約束しても、最後には破ってしまうつもりだったのじゃろう? のうラト。違うか、ん?」

 ハヌの問い掛けはもはや詰問で、お説教と言うよりは取り調べみたいになりつつあった。

「う……」

 しかもその推測がやけに的確で、というか完全に図星だったため、僕は口を閉ざす他なかった。

 はぁぁぁぁ、とハヌの深い溜息が胸に突き刺さる。

「……思った通りじゃ。結局、おぬしは肝心なところで妾の話を聞いておらなんだ。いや、聞いておらぬ、ではなく、【聞き入れておらぬ】、の間違いか」

 あきれ果てた、と言わんばかりに首を横に振るハヌ。トゲトゲの言葉が剣山のごとく僕の心を串刺しにしていく。

「妾は悲しいぞ、ラト。妾とおぬしは唯一無二、たった二人の親友同士であろう? 何故、妾の言うことを聞いてくれぬ? さように妾の言葉は、おぬしにとって軽いものなのか……?」

「そ、それは……!」

 ハヌがいっそ悲しげに聞こえるほど声を震わせたものだから、思わず僕の喉から言い訳の欠片が飛び出した。

 だけど、それはやっぱり言い訳でしかなくて。

 多分、どういう言い方をしようとも、ハヌの意に沿う言葉にはなりそうもなくて。

「……そんなつもりじゃ、ないんだけど……」

 そして、ハヌに嘘はつけない。つきたくない。

 だから、余計に僕の言葉は曖昧な感じになっていく。

「……ハヌやみんなが心配してくれているのは、よくわかってる……つもり、なんだけど……」

「ほう、【つもり】か。それは重畳じゃな。で、その『つもり』はいつ『つもり』でなくなるのじゃ?」

「うっ……」

 怒っているハヌは、すかさず僕の微妙な言い回しを捕まえ、揶揄してきた。

 しかし、そうは言っても、僕にだって言い分はあるのだ。

「で、でもね、聞いてハヌ? ぼ、僕にとって、ハヌやみんなは本当に大切で、宝物で――あ、危ないときはやっぱり、是が非でも助けたいというか……むしろ、僕がちょっとぐらい辛くても、それでみんなが助かるのなら、それはそれで破格の報酬だなぁって思うし――」

 そんな風に拙いながらも、自分の考えを言葉にしようとしていた矢先のことだった。

「その考えがおかしいと妾は言うておる!」

 突然、僕の言葉を遮ってハヌが怒鳴りつけてきた。

「――ッ!?」

 あまりの剣幕に、僕は反射的に上げそうになった悲鳴をどうにか呑み込む。

 こんな風に面と向かって一喝されるとは、思ってもみなかったのだ。

 ハヌの怒声は止まらない。

「言うておろう! おぬしは〝甘い〟とな! おぬしの持つ天秤は端から間違っておるのじゃ! 妾にはわからぬ! 何故じゃ! 何故、おぬしの中でおぬしの命がさように軽いのじゃ!? 妾から見ればむしろ逆じゃぞ! 妾にとっては、ラトの命こそ最優先するべきものじゃ! それを何故、かように軽んじる!?」

 叩き付けるような訴えに頭の中を殴られ、僕の思考は空転していた。言い返すべき言葉が思いつかず、かといって彼女の言い分を一息に飲み込むこともできない。

 そこへ、ハヌの口から決定的な一言が飛び出した。

「ラトが死ぬぐらいなら妾が死んだ方が余程マシじゃ! このばかものが!」

「――……!?」

 この時、得も言えぬ衝撃が僕の全身を貫いた。

 見えないハンマーで延髄を殴られたのかと思った。

 ――後になって冷静に考えれば、そういう意味でなかったことぐらいすぐにわかったと思う。

 だけどこの時、僕にとってハヌの言葉はどうしようもなく、心無い侮辱に聞こえてしまったのだ。

 ――そう。僕がこれまで命懸けでしてきたこと全てが、完全に否定されてしまったかのような。

 今日までの何もかもが無意味だったのだ――と、そう言われてしまったかのような。

 だけど、ほんの少し考えれば、そんな意図でなかったことぐらいすぐわかったはずなのに。

 でもこの瞬間の僕は、何故だかわからないけど、やけに感情的になってしまった。

 もっと簡単に言うと――ハヌに、カチン、ときてしまったのだ。

 だから、そこに理性の介在はなく、僕は火中の栗のごとく感情を弾けさせた。

「そ――そんなこと言わないでよ!」

 最初の大声がトリガーとなり、言葉は次から次へと溢れ出てきた。

「だ、だって僕は、僕はハヌの為に――みんなの為に一生懸命頑張ったんだよ!?」

 衝動的な叫びだった。自分の中にこんなにも押しつけがましい思いがあったことを、この時、僕自身が初めて知った。

「ハヌと一緒にいたくて、みんなと一緒にいたくて、だからいっぱい頑張ったんだよ!? 痛くても怖くても諦めないで頑張ったんだよ!? それなのに……それなのにハヌが死んだ方がマシだったなんて――そんな、そんな悲しいこと言わないでよ!」

 自分の言葉に自分で驚く。無意識だった。知らず知らずの内に、自分がこんなにも【我慢】していたことを僕は知った。

 普段の僕は、ハヌ相手に声を荒げたりなんて絶対にしない。だからだろう。ハヌが見えない手に頬を張られたかのように、はっ、とした表情を見せた。

 ブルルッ、と小さな体が震えたかと思うと――ぐっ、と眉根を寄せて、

「――黙れっ! ラトの気持ちなど知ったことかッ! 誰がそのようにラトに苦しめと言った!? 頑張れと言った!? 妾は言っておらぬぞ! 誰もそんなことを頼んでおらぬのに、おぬしが勝手に無理をしただけじゃろうがッ!」

 金目銀目の端から涙の粒を滲ませながら、ハヌがさらなる大声で怒鳴り散らした。

 こうなったらもう、売り言葉に買い言葉だった。

 僕はハヌの言葉で傷ついたし、ハヌも僕の言葉で傷ついた。

 だから次は僕のターンで。

「か、勝手なのはわかってるよ! 僕がそうしたくてそうしただけなんだから! でも頼まれたとか頼まれてないとかそんなの関係ないんだ! 僕がハヌを助けたかったんだ! 僕がハヌに助かって欲しかったんだ! だから何があっても頑張れたんだよ!? それをどうしてわかってくれないの!?」

 それが終わると、またハヌのターンで。

「わかっておらぬのはラトの方じゃ! 妾のために傷つくおぬしを見て妾が喜ぶとでも思ったか!? 嬉しいと感謝するとでも思ったか!? ふざけるでない! 全て余計なお世話じゃ! 誰もおぬしに助けてくれなどと言っておらぬわ!」

 お互い小さな子供みたいに泣きながら、至近距離で真っ向から喚き合う。

「そ――そんなこと言って僕が助けなかったらどうなってたのさ!? 死んじゃってたんだよ!? 剣で真っ二つだったんだよ!? すごく痛いし怖いし、あの時のハヌだって泣いていたじゃないか!」

 そして僕らは、徐々に遠慮のヴェールを剥ぎ取り、容赦のない口調になっていく。

「それを言うなら、かような状況に妾を放り込んだのは一体どこの誰じゃ!? 他ならぬおぬしであろうが! あの愚物共に多少文句を付けられた程度で妾の前から逃げ出しよって! 妾を置いていきおってっ!! 情けない男め! 泣き虫なのもいまだ直っておらぬくせにっ!」

 そして論点すらずれていく。より相手の心を傷つけよう、痛めつけようとして。

 過去も現在も関係なく話を持ち出し、当時は言えなかったことまでをも口にしていく。

「そ、そう言うハヌだってものすごく我儘だったじゃないか! 無理矢理ゲートキーパー戦に僕を連れていくし、色んな人に喧嘩売っちゃうし! クラスタを作る時だってそうだよ! なんで一人で勝手に全部決めちゃうの!?」

 ボロボロと泣きながら、誰もいない無人島でヒートアップを続け、口論を激化させていく。

「何を言うか! 全ておぬしのためじゃろうが! あの青蛇めを倒したおかげで名が売れた! 妾達のクラスタを作ったからこそ、あのヴィリーの女狐めの手から逃れられたのであろうが!」

「それこそ頼んでないよ! 僕だってハヌにそんなことして欲しいなんて一言も言ってない! 一人で勝手なことしないでよ!」

「ばかものっ! そうでもしなければ、おぬしはずっとあのままだったじゃろうが! 妾は感謝されこそすれ、そのように文句をつけられる謂れなどないわ!」

「僕だってそうだよ! 僕はハヌの命を救ったんだよ!? 命の恩人なんだよ!? 感謝されるのが普通なのにどうして怒られなきゃいけないのさ!」

「違う! 違う違う違う違う違う! 妾は怒ってなどおらぬ! ――ええいもうよいっ! ラトの言うことは滅茶苦茶じゃっ! なぜ妾の言うことがわからぬのじゃ! この阿呆めっ!」

「あ、アホって言った方がアホなんだからねっ! ハヌのバカっ!」

「おぬしこそ! バカって言った方がバカなのじゃ! フリムが言うておったぞ! このばかものめっ!」

「バ、バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカハヌのバカッッ!!」

「あ、あほうあほうあほうあほうあほうあほうあほうあほうラトのあほうっっっ!!!」

 最終的に僕達の言い合いは、我ながら目を覆うほど低次元な争いへと突入し、互いにボロボロと涙の粒をこぼしながら『バカ』だの『アホ』だのと言った単純極まる――しかし切れ味はめっぽう鋭い――罵り合いの応酬となった。

 どっちも頭に血が上っていて、冷静さなんて欠片も残っていなかった。

 気が付けば、僕達は、はぁ、はぁ、と息を荒げながら、両肩を上下させて涙目で睨み合っていた。

 そして次の瞬間、まるでタイミングを図ったかのように二人の声が重なった。

「ハヌの――!」

「ラトの――!」



「「――わからず屋ぁっっ!!!」」



「「――ふんっ!」」

 最後の一言をひときわ大きい声で叩き付けると、僕達は同時に、バッ、と背中を向け合った。

「――もうラトのことなど知らぬっ! 大嫌いじゃ! おぬしなど勝手にすればよいっ!」

「それは僕のセリフだよっ! ハヌなんてどっかに行っちゃえっ!」

 グサリ、と。

 お互いの心に、深くナイフが突き刺さった――そんな空気が一瞬だけ流れた。

「「……!」」

 僕も大きく体を震わせたし、背を向けているというのに不思議とハヌもまたそうしたことがわかった。

「…………」

「…………」

 一体どれほどの時間、身動きせず、口を開くこともなく、そのままでいただろうか。

 やがて、ぐすっ、ずびっ、というハヌの立てる涙や鼻水の音に交じって、ぽっこり下駄が砂を噛む音が立ち始めた。

 ハヌが一人でどこかへ行こうとしているのだ。

 反射的に振り返りそうになって、だけど僕は無理矢理それを我慢した。

 理由なんてない。そうしたくて堪らないのに、意地が邪魔したのだ。

 今は喧嘩中だから、優しくなんて絶対しちゃいけない――と。

 第一『どっかに行っちゃえ』と口走ったのは、他でもない僕なのだから。

「…………」

 弱々しい微かな嗚咽と、頼りない軽い足音が徐々に遠ざかっていく。

 どうやら森の方へと歩いていくようだ。

 多分、どこかに隠れて一人で泣きたいのだと思う。

 今の僕もそうだから、気持ちはよくわかる。本当に。

 果たして一分も経った頃には、足音どころかハヌのすすり泣きすら聞こえなくなっていた。

 ふと、場が静まり返っていることに気付く。

「…………」

 正確に言えば、海の方からは波の音が届いてくる。風も吹いて木々を揺らしている。だから、まったくの無音というわけではない。

 なのに――どういうわけか、ハヌ一人がいなくなっただけで耳が痛いほどの静寂が訪れ、太陽は相変わらず熱閃を降り注いでいるというのに、何故だか体が、すうっ、と冷たくなった気がした。

 ――ハヌと喧嘩、しちゃった……

 膝についた砂を払いながら立ち上がり、ストレージからハンカチを取り出しつつ、ぼんやりとそんなことを考えた。

 カッとなってしまったとはいえ、我ながら珍しいことをしてしまったものだと思う。

 もちろん、これが初めてというわけではない。ハヌと出会ってすぐの頃、ダインというエクスプローラーに唆されて、僕らは喧嘩別れをしたことがある。

 また、ハヌがフォトン・ブラッドの枯渇イグゾーストで倒れた際、病院帰りにちょっとした言い合いをしたこともある。

 だけど――今回はその中でも、最大のものかもしれない。

 あんなにも激しくハヌと口論したのなんて、これが初めてだった。

 感情が昂っていたせいだろう。いつもなら絶対に言わないこと――それどころか思いつきもしないことすら、口を衝いて出てしまっていた。

 今更だけど、本当にひどいことを言ってしまったと思う。

 衝動的に喋っていたから細かいところは覚えていないのだけど、かなりデリカシーのないことを喚いていた気がする。小さな女の子相手に、言っちゃいけないことばっかり怒鳴っていた気がする。

「……うっ……」

 今更のように後悔が怒涛のごとく押し寄せてきた。

 やってしまった。

 きついことをたくさん言ってしまった。

 思いっきり怒らせてしまった。

 そしてなにより――傷つけてしまった。

 ハヌの泣き顔が目に焼き付いている。

 冷静になった今ならわかる。

 あんなに心配してくれていたのに。あんなに気遣ってくれていたのに。

 僕はその全てを跳ね除けてしまったのだ。

 ちっぽけなプライドのために。

 なにがハヌの為に頑張った、だ。

 なにがみんなの為に頑張った、だ。

 そんなの全部後付けじゃないか。

 自分勝手に、好きに動いただけのくせに。

 なにが命の恩人だ、なのか。

 なにが感謝されるのが普通、なのか。

 恩着せがましいにもほどがあるではないか。

 頭のどこかで、自分はこんなにも浅ましいことを考えていただなんて。

 最低だ。

 本当に僕は、最低な人間だ。

「……う、うっ……!」

 涙が止まらない。怪我を負ったわけでもないくせに、胸を中心として全身のあちこちが痛い。痛くてたまらない。

 ハヌの泣き顔が脳裏にチラつく度、ハヌの声がリフレインする度、千切れそうなほど胸の奥が軋んでいく。

「う、ううっ……ぐっ……!」

 情けない。つまらないことで頭に血が上って、大切な友達を傷つけた。怒らせた。いっぱい泣かせた。

 ずっと一緒にいたいと思っていたのに。

 大切に守りたいと思っていたのに。

 それなのに、自分の手で傷つけて突っぱねてしまった。

 本当に馬鹿だ。

 救えない阿呆だ。

 僕は正真正銘の愚か者だった。

「ふっ……ぐっ……っ……!」

 ――また〝一人ぼっち〟になっちゃった……

 久しぶりなのに、懐かしいだなんて全く思わない感覚だった。

 思い返してみれば、ハヌと出会って、ロゼさんと出会って、フリムと再会して、今日までずっと〝一人ぼっち〟の感覚を忘れてしまっていた。

 そして思う。

 嗚呼、自分はこんなにも〝空っぽ〟だったのか――と。

 思いもよらぬ〝空虚さ〟に、僕は愕然とするしかない。

 一人ぼっちは冷たい。

 一人ぼっちは寂しい。

 一人ぼっちは孤独だ。

 一人ぼっちは虚しい。

 一人ぼっちは思い出にならない。

 それがいい、と言う人もいるだろうけれど、僕はまったくそう思わなかった。

 一人ぼっちは辛い。

 だから、友達が欲しかった。

 友達には体温がある。友達がいれば寂しくないし、孤独ではないし、虚しくもない。思い出だってつくれる。

 辛いどころか、幸せにだってなれる。

 だから、僕は友達が欲しかった。

 そうして、やっと出来た友達がハヌだったのに――

「……ぅっ……っ……ううっ……!」

 どれだけ泣いても涙が止まらない。次から次へと溢れ出てくる。ハヌの言った通りだ。僕はいまだに泣き虫が全然なおっていないのだ。

 ――謝らなきゃ。謝って、仲直りしないと……!

 義務感からではなく、そうしたい、と心の底から思った。

 ハヌとまた手をつないで、一緒に歩きたい。露店街で串焼きやお菓子を買って、どうでもいいくだらない話で笑い合いたい――と。

 ――でも、なんて言って謝れば……?

 歩き出しかけた足が、途端に強張る。

 きついことをたくさん言ってしまった。ダインに唆されたあの時よりもヒドイことをしてしまったかもしれない。手を離して逃げるどころか『ハヌなんてどっかに行っちゃえっ!』と怒鳴ってしまったのだから。

 今度こそは本当に許してもらえないかもしれない。

 もしそうなったら、僕とハヌは絶交――

「――――」

 血の気が凍るほど恐ろしい想像をしかけたその瞬間だった。

 ふと微かに、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 いや、気がしたではない。

 聞こえた。絶対。

 う、から始まる音で、おおおおお、と繋がる、ぶっちゃけあんまり可愛くない悲鳴だ。

 誰の悲鳴かなんて考えるまでもない。

 ハヌだ。

 あの子は森の奥へと入っていった。

 馬鹿か僕は。森の中には何が潜んでいるかわからないっていうのに。まだちゃんと調査してなかったのに。どうして一人で行かせてしまったんだ。

 自分の愚かしさ迂闊さに眩暈がする。だけど今はそんなことを考えている場合じゃない。

 ――ハヌッッッ!!!

 助けなきゃ、とか、急がなきゃ、なんて思考はなかった。全部蒸発していた。

 僕はただ支援術式〈ストレングス〉〈ラピッド〉〈プロテション〉を複数同時発動させ一気にフルエンハンスで〝アブソリュート・スクエア〟へと突入し全身の〝SEAL〟から捻じれた紫紺の輝きを迸らせ更に〈シリーウォーク〉で薄紫の力場を発生させると一気に空まで駆け上る。

 この瞬間、僕は紫色の閃光と化した。

 一〇二四倍の速度で森の上まで上昇すると〈イーグルアイ〉×十五を発動させ弾丸がごとき速度であらゆる方角に向けて飛翔させて全ての俯瞰視覚情報を並列で処理して一瞬でハヌの居場所を特定する。

 いた。

 あそこだ。

 右足に〈ドリルブレイク〉。

 もはやハヌ以外の存在なんて見る必要ない。あの子が悲鳴を上げたのだから現れたのは脅威だ。敵だ。

 敵は殺す。

 何があっても絶対ハヌを守る。

 ひたすらそれだけを考えて僕は地表へ向けて超高速で落下する彗星となった。



 ■



 ぐすずびぐすずびびっ、と泣きべそをかきながら、小さな体の内で沸き立つ感情を持て余すハヌムーンが行く当てもなく森の中を進んでいたところ、ガサリ、と音を立て、木々の陰から巨大な【何か】が現れた。

 同時、ふ、と頭の上から影が差し、視界が暗くなる。

「――――」

 見えない手に引っ張り上げられるようにして顔を上げ、ハヌムーンは頭上を見上げる。すると、



 大きな虎がいた。



「…………」

 涙が引っ込んだ。

 開いた口が塞がらなかった。

 普段ルナティック・バベルの中で戦っているような化生ではなく、言っては何だが、大きさ以外は普通の虎である。

 逆に言えば、その体躯の大きさだけが尋常ではない。

 人間の大人と比べてもなお大きい。いつだったか、ラトと出会ったころに遭遇した〝まんてぃこあ〟なる化生と同じか、あるいはそれ以上か。なんにせよ並のサイズではなかった。

 自分の頭など、五個まとめて飲み込んでしまいそうなほど大きな口を持っていた。

「――ガァルルルルルルァ……!」

 石像のごとく硬直するハヌムーンの眼前で、思い出したように巨虎が低く唸った。

 感情の見えない無機質な瞳が、ひたとハヌムーンを見据えている。

 わかる。

 あれは――あの眼差しは、〝獲物〟を見る目だ。

「――うぉ……おおおおおおおおおおおおおおおおっっ!?」

 恐れが自然と声を上げさせていた。自分の声だとは到底思えないほど、切羽詰まった悲鳴だった。体の奥で誰かが叫んでいて、それが喉を通って勝手に出ているような叫喚だった。

 喰われる。

 頭から齧られて、丸ごと呑み込まれる。

 ハヌムーンの動物的本能がそう警鐘を打ち鳴らし、しかし体は指一本すら動かなかった。

 ――ハヌッッッ!!!

 どこからともなく声が聞こえた気がした。

 幻聴だったのかもしれないし、テレパシーだったのかもしれないし、死に際の幻だったのかもしれない。

 でも、それはラトの声だった。

 だから、ハヌムーンはその名を口にした。

「――ラトッ……!!」

 小さなその声は誰にも届かなかっただろう。

 それほど微かな、囁きのような音量だった。

 だが。

 少年は、確かに現れた。

「――――」

 チカッ、と紫色の光輝が煌いたかと思った瞬間、丸太のように太い轟雷が目の前に落ちた。

「グァ――」

 巨虎の呻き声が空から降ってきた雷光に呑まれた。

 目の前で大砲を撃ったような重低音が轟き、腹の底が揺さぶられた。

 紫紺の光とともに強い爆発が巻き起こり、ハヌムーンは咄嗟に両腕で顔を庇った。

「――~ッ……!?」

 弾けた土や砂が全身を叩く。強烈な風圧に小柄な体が吹き飛びそうになる。どうにか耐えようとしたが最後の最後に押し負けて、尻餅をついてしまった。

 そして、爆発の余波が収まった頃。

「ハヌっ……!」

 聞き慣れた、それでいて今一番聞きたかった声がしたので、ハヌムーンは両腕を下ろして顔を上げた。

「……ら、と……?」

 必死な顔をした少年が、そこにはいた。

 突然のこと過ぎて、まるで信じられなかった。

 しかし、彼の足元には真っ赤な血や肉塊が散らばっている。さっきまで生きていた巨虎の残骸だ。それを見ただけで全てがわかった。ラトが、上空から猛スピードでやってきてあの巨虎を蹴り殺してくれたのだ、と。

 自分を助けてくれたのだ、と。

「――らとぉ……!」

 命が助かった安堵と嬉しさで、またも目の前が風景がじわりと歪んだ。

「――ハヌっ!」

 同じく目元に涙を浮かべたラトが、泣き笑いの表情でゆっくり歩み寄ってくる。

 だが、あともう少しで手が届く、という距離で少年はいったん足を止めた。

 汗にまみれた顔を苦渋に歪め、沈黙する。

 やがて、絞り出すように――

「……ッ……さっきは、ごめん、ごめんなさい……!」

 勢いよく腰を折り、深く頭を下げた。

 そのまま、ぐちゃぐちゃになった涙声で、

「ほんとうにっ、ごめんっ、なさいっ……! ぼくが、ぼくがぜんぶ、っ、わるいからっ……だからっ、だからっ……!」

「――!」

 総身を震わせながら必死に謝るその姿に、ハヌムーンの胸の奥が、ぎゅう、と強く疼いた。

 違う。それは違う。

 悪かったのはラトだけではない。彼だけが全面的に悪いのではない。

 だから。

「――ラトっ……!」

 ハヌムーンは地面に手を突いて立ち上がり、少年に向かって駆け出した。深く下げることによって手の届く高さにある黒髪の頭を、一気に両腕で抱き締める。

「わらわこそ、わらわこそ、すまぬっ……!」

 謝罪の言葉を口に出した瞬間、感情の堤防が決壊した。そのまま滂沱と涙を流しながら、少女は痛む喉を無理に動かして声を絞り出す。

「ひどいことを、いうてしもうた……! ゆるしてたもれ、らと……! わらわは、わらわはなんとむごいことを……!」

「――ちっ、ちがっ、ちがうよっ、ハヌ……! ぼくだって、ぼくだってひどいこと言っちゃったからっ……!」

 ハヌムーンの胸に抱きかかえられた少年は、その場で膝を落とし、自らも彼女の背に腕を回した。それから少女の胸から頭を上げ、互いに顔を見合わせる。

「「……っ!!」」

 それぞれの泣き顔を見て、相乗効果で感情が昂ってしまった。

 二人してボロボロと泣きながら、わなわなと唇をわななかせ、嗚咽のような声を出す。

「ご、ごめんね、ごめんねハヌぅぅぅぅ……! ぼくが、ぼくがハヌにしんぱいかけたからぁぁぁぁぁ……!」

「ちがう、ちがうっ! らとがわるいのではない、わらわがっ、わらわがぁぁぁぁ……!」

 二人がまともに言葉を紡げたのはそこまでだった。

 次の瞬間には、ひしっ、と抱き締め合い、それぞれが口々に何かを口走り始める。

 少年も少女も、双方が何を言っているのかよくわからなかったに違いない。

 ただよく耳をすませば、『本当にごめんなさい』『大嫌いなんて嘘じゃ』『どっかに行っちゃえなんてもう二度と言わないから』『助けてくれて、そして先に謝ってくれて本当に恩に着る』『また僕と一緒にいて』『また妾と手をつないでたもれ』といった言葉が聞き取れるのだが、どちらも自分の言いたいことを言うのに必死過ぎて、相手の言うことなどほとんど聞いていなかった。

 だが、それでも気持ちだけは通じ合ったのだろう。

 二人はそのまま強く強く抱き締め合いながら、青い空に向かって、おいおいと大泣きし続けたのであった。




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