リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-

国広 仙戯

●12 蜘蛛の糸




 次に目が覚めた時、僕は何故かロゼさんの膝枕に頭を載せて、床に寝転がっていた。

「……あれ……?」

 状況が掴めず、思わず間抜けな声が口から漏れた。開いた瞼の先に見えるのは、何やら庇のようなもの。それが影を作って、僕の顔に光が当たらないよう遮ってくれている。

「目を覚まされましたか」

 その声を聞いてようやく、自分が頭を載せているのはロゼさんの膝枕なのだということを理解した。どうして声を聞くまでわからなかったのかというと、さっきまで庇のようだと思ったのは実はロゼさんの大きな胸で、それが邪魔になって彼女の顔が見えなかったからである。

「ロ、ロゼさん……? ぼ、僕、どうして……?」

 何がどうなってこんなことになっているのか覚えていない僕が問うと、にゅっ、と頭上にある双丘の向こうからロゼさんが顔を出した。

 相変わらずの無表情で、淡々と彼女は言う。

「覚えておられないのですか? 私との組み手の直後、大休憩をとることになった途端、ラグさんはその場に倒れて気を失ってしまったのです」

 何というか、溢れんばかりの膨らみを越えて目線を合わせようとすると、ロゼさんは背中を丸め、体を縮める形になってしまうわけで。そうすると当然のことながら、僕の目と鼻の先にあった柔らかいクッションのようなものが、さらにこちらへ近付いてくるわけで。

 あ、載った。ふにょん、って。額に載った。

「そ、そうですか……! あ、ありがとうございます……!」

 頭の上部、目の上辺りまでを完全に覆い尽くしてしまった柔らかい感触から逃れようと、僕は自分の足のある方向へ体をずらそうとする。が、しかし。

「いけません、ラグさん。まだ休まなくては」

 がしっ、とロゼさんの両手が僕の頭を挟み、それ以上の移動を阻害されてしまった。いや、それどころか、ぐい、と引っ張られ、逃げた分が帳消しになってしまう。ロゼさんが背筋を伸ばし、双丘が上昇してくれたのがせめてもの救いだ。

「え、えと……ヴィリーさんや、アシュリーさんは……?」

 軽く頭を上げてルーム内を見たところ、どこにもいないようだ。気配も感じられない。

「小竜姫とともに、街へ買い出しに行っています。もう食事時も過ぎていますので」

 もうそんな時間なのか、と〝SEAL〟の時間を確認しようとして、反応が返ってこない。遅れて、そういえば自分の〝SEAL〟は麻痺していて、〝人工SEAL〟の方へコマンドを送らないといけないのだった、と思い出す。

 改めて〝人工SEAL〟で確認すると、時刻は昼下がりを示していた。人目を気にして早朝からこのルームに籠もっているから、結構な時間をトレーニングに使っていることになる。道理で緊張が解けた途端に失神してしまったわけだ。

 なにせ朝からほとんどぶっ通しで、ハヌ、ヴィリーさん、アシュリーさん、ロゼさんと、代わる代わる相手を変えての実践組み手。しかもそれぞれ戦闘スタイルが違うから、相手が変わる毎に僕は戦い方を変えないといけなくて、臨機応変さと適応の速度が求められた。おかげで体はもちろんのこと、頭や精神も消耗してしまったのである。

「かなりお疲れになったでしょう。よく頑張っておられましたから」

 さっきは僕を捕まえたロゼさんの両手が、さわさわと優しく、いたわるように頭を撫でさすってくれる。ハヌがよく同じように撫でてくれるけど、やはり感触がまるで違う。ハヌの手はマシュマロみたいに柔らかいけど、ロゼさんのは格闘士だけあって多少の硬さがある。でも、暖かい。血の巡りがいいからだろうか。ポカポカと優しい温度が伝わってきて、とても心が安らぐ。

 まるでお母さんに膝枕をしてもらっているような気分だった。いや、もしかしなくとも、僕が幼い頃はこうやって――

 ――■■、■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■。

「…………」

 記憶の水底から一つ、泡のような思い出がゆらりと浮かび上がり、水面でパチンと弾けたようだった。誰かの声が耳に蘇ってきたような気がしたけれど――でも、その声音も、言っている内容も、上手く聞き取れなかった。耳の中を何かが引っ掻いていった……そんな感覚だけが残っている。

 多分――いいや間違いなく、お母さんの声だったのだろう。今の僕には、思い出さえ認識できないけれど。

「……どうなされたのですか、ラグさん?」

「えっ……?」

「急に哀しそうな……とても辛そうな顔をされたので」

 自覚はなかったけれど、ロゼさんに言われて気が付いた。いつの間にか眉根に力を込めて、唇を噛んでいた自分に。右手も、胸の辺りの服を掴んで、ぎゅうっと強く握り締めていた。

「……まるで、心にぽっかり穴が空いたような……そんな顔ですね」

 無機質にも見えるロゼさんの琥珀色の瞳は、しかし僕の心を正確に洞察していた。彼女の言うとおり、僕は今、心臓を丸ごと引っこ抜かれたような気持ちでいたのだから。

「何か、嫌な夢でも見られたのですか? それとも、私の膝枕の具合が悪いのでしょうか?」

 心配してくれるロゼさんに一瞬、ヴィリーさんにもした話を聞いてもらおうかと思った。だけど、あの時のヴィリーさんだって僕の話を聞いて、まるで我がことのように辛そうな顔をしていた。

 ロゼさんの辛そうな顔は、あまり見たくない――そう思った。

「……大丈夫です、変な夢は見てませんし、ロゼさんの膝枕、とっても安心できますから。ありがとうございます」

 だから、僕は笑って誤魔化した。お礼を言って、これ以上の追及を避けるように瞼を閉じて。

「…………」

 すると、なにやら圧迫感を覚えた。目を瞑ってしまったからよくわからないけど、ロゼさんから妙なプレッシャーが滲み出ているような、そんな気がする。

 不意に、ふにょん、と額にまた柔らかくて、でもずっしりした二つの物体が押し付けられた。何かと考えるまでもない。ロゼさんが背を丸めて、きっと僕の顔を覗き込んでいるのだ。

「…………」

 じぃぃぃぃっ……という針のような、それでいて陽射しのような熱い視線を感じる。目を開けて確認したいような気もするけど、今の状態で目が合ってしまったら非常に気まずいので、開けることができない。

 そうして、僕が居たたまれない気分のまま目を閉じていると、

「……私も他人のことを言えませんが、あなたも嘘をつくのが下手ですね、ラグさん」

「――っ……」

 囁き声に思わず、ピクッ、と顔の筋肉が反応してしまった。多分、これだけでロゼさんには色々なものを見破られてしまったことだろう。

「……え、えと……」

「構いません。無理に聞き出すつもりはありませんから」

 瞼を開こうとした僕の両眼を、ロゼさんの両手が覆った。目隠しをされて、僕は目を開けても何も見えなくなってしまう。

 ロゼさんは感情の揺れを伺わせない、抑揚の薄い口調で続ける。

「ええ、構いません。例えば以前、ラグさんが私に向かって『何があろうと絶対に仲間を見捨てないこと』というクラスタのルールを盾に、何が何でも私の事情に首を突っ込んで手助けをしてくださったことがありましたが、それでも私は無理にラグさんの事情を聞こうとは思いません」

「うっ……」

 ロゼさんの台詞に、僕は言葉に詰まる。そういえば『ヴォルクリング・サーカス事件』の時、頑なに僕とハヌの介入を拒むロゼさんに、僕らはクラスタの絶対かつ不可侵のルールを提示して、かなり無理矢理に首を突っ込んだのである。

「確か、こう仰っていましたね。――仲間が危ない時、困っている時、助けが必要な時は、必ず全員でこれを助けます。それが例え【事情がわからないことだったとしても】、例え【助けられる本人が望んでいなかったとしても】、僕達みんなが【助けが必要だと判断した時には】、これを必ずクラスタメンバー総出で助けに行きます――と。ええ、私は覚えていますよ。一言一句、間違いなくそう言っておられました」

「ううっ……!」

 むしろ僕の方がそこまで細かく覚えていないけれど、どうやらロゼさんは完璧に記憶しているらしい。やっぱり、当時はそれだけ僕の言い分に腹を立てていたのだろうか……?

「……私はあなたのように勇気ある人間でも、世話焼きな性格でもありません。ですから、拒絶されれば身を引いてしまいます。臆病な女なのです」

 ロゼさんは今、どんな顔をして僕を見ているのだろう。僕に目隠しをしているのは、それを見られたくないからなのだろうか。

「ですから、一度だけしか申し上げません」

 そう前置きをしてから、ロゼさんは告げた。

「巻き込んでください」

 いつかの僕のように。

「私をあなたの事情に巻き込んでください。私とあなたは、共に戦い、共に生きる仲間です。他人行儀はおやめください。助力でも、慰めでも、何でも構いません。私の力が必要な時は、遠慮無く求めてください」

 訥々と、積み重ねるように。祈りを捧げるように、ロゼさんは言う。

「【私を本当に仲間だとお思いなら】、どうか私を信じてください。あなたの心を、どうか預けてください」

「――!」

 驚いたなんてものじゃなかった。脳髄に走った衝撃に、ハンマーで頭を殴られたんじゃないかと本気で錯覚した。

 その言葉を聞いた瞬間、僕は気付いたのだ。気付いてしまったのだ。

 ロゼさんの中にある――不安に。

「お願いします」

 そこまで言い切ると、ロゼさんは舌を止めた。沈黙し、僕の答えを待つ。

「…………」

 僕は頭の中でロゼさんの声を反芻していた。いつかの僕の言葉を引用したのは、別に気にしていない。自分で放った言葉がブーメランになって返ってきただけなのだから。でも。

 ――【私を本当に仲間だとお思いなら】、って……!? もしかしてロゼさん、まだ僕に信用されてないと思って……!?

 そう察した瞬間、僕は顔の上半分を覆っているロゼさんの両手に、自分のそれを重ねた。彼女の手をぎゅっと握って、逃げられないように捕まえる。

「ま――待って下さい、ロゼさん……どうして……どうして、そんなことを言うんですか……?」

 わかっている。怒っちゃ駄目だ。今の言葉を言わせたのは、僕なのだ。僕が悪いのだ。だから、僕が怒る道理ではない――そうわかっているのに、声に険が混じるのを止められなかった。

 ロゼさんは、ほんの少しだけ間を置いて、

「……そうですね。ラグさんの言葉を借りるなら、あなたから【聞いて欲しい】、というオーラが出ていたからでしょうか」

「違います、そっちじゃありません」

 多分、ロゼさんにしては珍しく冗談交じりに言ったつもりなのだろう。だけど僕は我慢出来ず、遮断するように否定してしまった。

 この際、ロゼさんが僕の目を隠してくれているのは僥倖だったと思う。我ながら、まともな表情を浮かべている自信がなかったのだから。

「どうして……どうして、そんな悲しいこと言うんですか……? どうして、そんな寂しいことを言うんですか……? 本当に仲間だと思っているなら――って、ロゼさんは、僕がロゼさんを仲間だと思っていないと思っているんですか……?」

 声が震えるのを抑えようとして、でも出来なかった。僕は上擦った声音で、泣く寸前みたいな口調で喋ってしまっていた。

 ――違う、そうじゃない。ロゼさんを責めてどうするんだ。責めるなら、あんな台詞を言わせた僕自身の方じゃないか。

 大きく息を吸い、歯を強く食いしばる。

「……ごめんなさい……! 違いますよね、僕のせいですよね……すみません……嘘をつくつもりはなかったんです。ただ、ちょっと変な話だから、ロゼさんに心配をかけたくなくて……本当にごめんなさい……!」

 僕は自らの非を認め、震える息を吐き、けれども言わずにはおられなかった言葉を告げる。

「……でも、お願いですから、そんな言い方はやめてください。ロゼさんは僕の大切な仲間です。大事な家族です。心の底から信じていますし、僕は絶対にあなたを裏切りません。だから……!」

 それ以上は言葉にならなかった。喉が詰まってしまって、僕は奥歯を噛んで押し寄せる衝動を堪えなければならなかった。ただ、この手に掴んだロゼさんの手を、強く握り締めた。言葉に出来ない想いが、どうか伝わるように、と。

 やがてロゼさんの沈んだ声が、ぽつり、と落ちた。

「……申し訳ありません……」

 いつもより低くて、小さな囁き。それを聞いた瞬間、チクリと胸に針の刺さったような痛みが生まれた。

「……我ながら、本当に不器用な女です……私はただ、あなたに元気を出して欲しかっただけなのですが……どうにも、上手くいかないものですね……」

 ロゼさんが深く吐息する気配。目を伏せて、悲しげにしている姿が瞼の裏に浮かび上がるようだった。

「……そうですね、先程のは私の失言でした。申し訳ありません。他意はありませんので、どうか、そのように悲しまないでください」

 気にしないでくれ、と告げるロゼさんに、僕はそれでも食い下がる。

「で――でもっ、ロゼさんっ……! 何か不安なことがあるから、あんな……! ぼ、僕に何か足りないところがあるなら、ちゃんとしますから……!」

「いいえ、そんなことはありません、ラグさん。あなたに足りないところなどありません。それに先程のお言葉、とても心に染みました。ありがとうございます。私などを大切な仲間と、大事な家族と……そう言っていただけて、これ以上なく嬉しく思います。それだけで、私は満足しています」

 ロゼさんはそう言うけれど、そんなの嘘だ。だって――

「だったら――だったら、どうして……!」

 僕は両眼を覆っているロゼさんの両手を強く掴み、下にずらした。視界に光が差し、眩しさに眉を顰める。すぐに目が慣れて、僕はこちらを見下ろすロゼさんの顔を見た。

 やっぱりだった。

「……どうして、そんなに悲しそうな顔をしているんですか……?」

 表情を確認する前からわかっていた。何故なら、声からして悲しみに縁取られていたし、僕の目を覆う両手が微かに震えていたのだから。

 嬉しい、満足している――そんな言葉とは裏腹に、僕を見つめるロゼさんは、今にも消えてしまいそうなほど儚げな面持ちをしていた。

 僕の問い掛けに、ロゼさんはつと視線を横に逸らす。

「悲しそう、ですか。今の私は、そのように見えますか……?」

 どう見ても悲しげな顔と声で、彼女はそんなことを言った。まるで自覚がないように。僕はロゼさんをじっと見つめたまま、顎を引くようにして頷く。

「はい、そんな風にしか見えません。だって……嬉しいのなら……満足しているのなら、どうしてロゼさんは……笑っていないんですか……?」

 僕が尋ねた途端、虚を突かれたようにロゼさんが瞬きをした。視線を僕に戻し、

「笑う……? 私が、ですか?」

 思いもよらなかった言葉を聞いた、とでも言うかのように、彼女は聞き返した。琥珀色の目をパチクリとさせて、心底意外そうに。

 何故、僕がそんなことを言うのか、本気で意味がわからない――そんな顔だった。

 その瞬間、僕は気付いてしまった。自分で口にしておきながら、今の今まで、こんな肝心なことをすっかり失念していた自分に。

 思い返せば、ロゼさんが僕達の仲間になってから、彼女は【一度たりとも笑っていない】のではないだろうか――と。

 柔らかい雰囲気を纏ったり、微笑み一歩手前の表情を浮かべることは何度かあったように思える。だけど、ロゼさんが真に相好を崩して笑ったことなど、これまで一度でもあっただろうか。

 いや、ない。少なくとも、僕は見たことがない。

「――もしかして……ロゼさん……ずっと……?」

 僕が驚きに目を見開き、囁くように聞くと、ロゼさんもまた何かに気付いたように、琥珀の瞳をやや瞠目させた。

 ロゼさんの両手が動いて、今度は僕の口を塞ぐ。

「……それ以上は、言わないでください」

 目を伏せ、ロゼさんは静かに言った。

「ラグさんの言いたいことは、わかっているつもりです。ですが……」

 ふるふると首を横に振り、柔らかそうなアッシュグレイの髪を揺らす。長い髪から漂う香りが、ほのかに僕の鼻孔をくすぐった。

「お願いです。もう、何も言わずにいてください。私はこれでも、十分すぎるほどの幸せを享受しています。あなたがいて、小竜姫がいて、フリムさんがいて……私を仲間と、家族と呼んでくれる人達がいる……そんな環境にいるだけで、私は勿体ないほどの幸福を得ているというのに……この上さらに、全てを忘れて笑うことなど……無理です。今以上の罪悪を重ねるなど、以ての外なのですから」

「……!」

 まるで――否、まさしく自分自身を罪人として扱うロゼさんの言葉に、真実、僕は呼吸を止めた。胸に張り裂けそうな痛みが走り、喉が詰まってしまったのだ。

 知らなかった。全然気付いていなかった。まさかロゼさんが、そんな想いを抱えていただなんて。

 でも、考えてみれば当然の話だ。ロゼさんはとても真面目で、誠実な人だ。それでいて、外には出さないけど感情の揺れ幅がとても大きい。時折、色々と考え込み過ぎて暴走することだってあるほどだ。

 罪悪感。

 今のロゼさんは、それに憑りつかれている。

 僕達が出会うきっかけとなった『ヴォルクリング・サーカス事件』――あの時、このフロートライズでは本当に大勢の人が亡くなった。その原因の一つはハンドラークラスタ『ヴォルクリング・サーカス』の首領、オーディス・ヴォルクリングが開発していた術式〈コープスリサイクル〉であり、もう一つは、その不義の息子と思しき男、シグロス・シュバインベルグの凶行だった。

 言わずもがな、どちらもロゼさんことロルトリンゼ・ヴォルクリングの身内――【肉親】である。

「本来なら、私は皆さんの傍にいることすら叶わぬ大罪人です。もはや機を逸してしまいましたが、本当なら自ら名乗り出て、父やシグロスが犯した罪の報いを受けるべき人間なのです。それがお咎めを受けることなく、こうして生き永らえているのですから……これ以上、一体何を望みましょうか」

 僕は馬鹿だ。どうして気付かなかったのだ。どうして気付いてあげられなかったのだ。ロゼさんはこんなにも思い悩んでいたのに。こんなにも苦しんでいたのに。

「――――!」

 自分のあまりの不甲斐なさに、目に涙が浮かんできた。いや、それだけじゃない。それ以上に、ロゼさんの胸中は想像を絶する。どれだけ辛かっただろうか。どれだけ苦しかっただろうか。

 外野の人間だった僕でさえ、あの事件で目の当たりにした死体の山には大きな衝撃を受けた。精神的に傷を負い、無力だった自分を悔やんでも悔やみきれなかった。

 ましてやロゼさんの場合は事件の当事者で、元凶が実の父親の研究と、腹違いの兄の暴走だったのだ。僕が受けた傷など、比べものにならないほどの絶望だったはずだ。

「私の父と兄のせいで、多くの人々を死に追いやってしまいました。それもこの街だけではなく、故郷の街まで……もはや何をしようと、その罪は贖いきれません。私は地獄にいるべき女です。真の意味で、幸せになどなってはいけない人間なのです」

「……!!」

 もはや聞き捨てならなかった。口を塞ぐロゼさんの両手を外そうとして、しかし圧倒的な膂力の差にそれは叶わない。それでも、僕は声を上げずにはいられなかった。

「んー! んんー! ンーンーンー!!」

 まともな言葉など吐けなくても、僕の抗議の意志は伝わるはずだった。僕は涙でぼやける視界の中、真上から微笑寸前の面持ちでこちらを見つめているロゼさんに、強い視線を射込む。

 ――ロゼさんが地獄にいるべきだって? そんな馬鹿なことがあってたまるものか。悪いのはシグロスだ。誰が何と言おうと、あの男が諸悪の根源だったのだ。ロゼさんは何も悪くないし、それどころか被害者の一人なのだ。それなのにロゼさんが罪を背負って苦しんで、幸せになれないだなんて、絶対に間違ってる!

 眉を立てて目で訴える僕の意志が伝わったのか、ロゼさんはまたしても目を伏せてかぶりを振った。

「ありがとうございます、ラグさん……優しいあなたのことです。きっと、悪いのは私ではない、私に責任などない――あなたはそう言ってくれるのでしょう。そして、その言葉を聞いた私は、やはりあなたの優しさに甘えてしまうのでしょう。どれだけ己を律しようとも、あなたの甘い言葉に縋ってしまうだろう自分がいることを、私は否定できません。しかし、それでは駄目なのです。そんなあなただからこそ、私は……」

 ロゼさんはそこで言葉を切り、うっすらと瞼を開いた。何もかも諦めたような瞳が、じっと僕の目を見つめ返す。

「繰り返し申し上げます。どうかお願いです。この件については、もう何も言わないでください。どうか、私に優しい言葉をかけないでください。私を救おうとしないでください。私を甘やかさないでください。……自己満足であることも、自分勝手であることも、理解しているつもりです。ですが……後生ですから、私を助けないでください」

 声に切実さすら滲ませて、ロゼさんは懇願した。

「幸せには、痛みを。喜びには、苦しみを。楽しさには、疼きを。嬉しさには、軋みを――私の正の感情には、同時に負の感情がそれぞれ伴うべきなのです。このとりとめのない苦しみに……至極つまらない地獄に甘んじる私を、どうかお許しください。今の私には、この程度の贖罪しか出来ないのですから……」

 手を差し伸べないでくれ、このままでいさせてくれと乞い願うロゼさんに、僕は見たこともないSBでも見るかのような目を向けてしまう。

 言いたいことは、何となくわかる。それがロゼさんのこだわりであることも。多分、ハヌを助けるためにヘラクレスのいるセキュリティルームへ飛び込んでいった僕を見たヴィリーさんやカレルさん、ニエベス達を救うためドラゴンの群れへと突っ込んでいく僕を止めようとしたアシュリーさんも、こんな気持ちだったのだろう。そういった意味では、僕なんかがロゼさんの【流儀】に文句をつける権利はないのかもしれない。

 だけど。

「理解して欲しいとも、受け入れて欲しいとも言いません。ただ、お許しください。見て見ぬ振りをしてくだされば、私はそれ以上を望みません。くだらない話ですが、私はただ苦しみたい……このまま苦しみ続けていたいと、そう願っているだけなのです。それが私のささやかな贖罪なのです。ですから……これからの生涯において、私には何もかもを忘れ無邪気に笑うことなど、絶対に不可能です。それだけは、どうかご理解下さい」

 淡々と告げるロゼさんに、僕は納得することがどうしても出来なかった。

 何より質が悪いのは、ロゼさん自身がその無為さをちゃんと理解しているところだ。罪の意識に苛まれているだけで、誰も助けられないし、ロゼさん自身ですら救われない。なのに、自ら不幸になることを願うだなんて――本当に誰のためにもならないではないか。

「……手荒な真似をして、申し訳ありませんでした」

 言うべきことを全て言い終えたのか、ようやくロゼさんが僕の口元から手を離してくれた。口のつっかえを外された僕は、咄嗟に何かを言おうと唇を開き――結局、何も言えずに固まってしまう。僕の喉は呼吸をするだけの器官と成り果てる。

「…………!」

 ロゼさんの性格は知っている。覚悟もわかる。だからこそ、言葉が出てこない。何か言いたいのに、言うべき言葉が全く見つからない。いつもの僕が選ぶだろう台詞は全て、さっきロゼさんが先回りして封殺してしまった。優しい言葉も、救いのある言葉も、甘やかせる言葉も言えない。だからといって、さらに地獄の底へ蹴落とすようなことを言うなど言語道断だ。

 得も言えない顔をしてロゼさんの顔を見上げていると、すっ、と彼女の両手が僕の頬を撫でた。

「ありがとうございます。あなたは、本当に優しい人ですね……そんなあなたの優しさに付け込む私を、どうかお許しください……」

 慈しむように、あるいは全てを誤魔化すように、ロゼさんの両手は僕を優しく慰撫する。

「……っ!」

 だけど、そんな優しさはいらないし、誤魔化されてやることも出来なかった。僕は歯を食いしばり、あらん限りの力を込めてロゼさんに視線を突き刺す。言葉に出来ない想いを、丸ごと叩き付けるように。

 そんな時だった。

 ルームの出入り口が開いて、誰かが入ってくる気配があった。遠く女性同士の会話が聞こえてくる。ハヌ達が帰ってきたのだ。

「……小竜姫と剣嬢達が帰ってきました。食事です。体は起こせますか、ラグさん?」

「……はい」

 返事がぶっきらぼうな感じになってしまうのは、どうしようもなかった。ロゼさんの出した答えに、僕は不満しかなかったのだから。

 僕が上体を起こすと、背後でロゼさんが立ち上がり、買い出しから戻ってきたハヌ達の方へと歩き出した。購入してきたお弁当か何かが入っているであろう紙袋を手に、やいのやいのと言い合いながらこちらへ近付いてくる三人へ、藍色の戦闘ドレス姿のロゼさんが合流していく。

 僕はまだ床に腰を下ろしたまま、彼女の後ろ姿を眺め、考えていた。

「…………」

 胸の奥がモヤモヤする。唇や舌がウズウズする。ロゼさんに何かしら言いたい、だけど、この気持ちを上手く言葉に出来ない――そんなジレンマに葛藤していた。

 本当に、僕から言えることは何もないのだろうか? これからずっと、一生涯にわたってあの事件の罪を背負って生きていくと宣言したロゼさんに、僕は何も出来ないのだろうか?

 そもそも、ロゼさんは自分自身を軽く扱いすぎるきらいがある。初めて会った時からそうだった。出会って早々、愛人契約を結ぼうとしてきたり。そこを言及していくと、挙げ句には命以外の全てを差し出すとまで言い出したり。極めつけは、僕が入院していた時の『後追い宣言』だ。僕が死んだら、ロゼさんも後を追って死ぬという、あの。

 あれだって、結局は罪悪感から出てきた言葉なのではなかろうか。罪深い自分には生きている価値がない、だけど僕のために命を使うことは出来る、だから僕が死ぬ時は自分も死ぬ時だ――と。そう考えていたからこそ、出てきた言葉なのではなかろうか。

 自らを省みないという意味では、僕と似ているかもしれない。自己犠牲の精神なんて持ち合わせているつもりはないけれど、どうやら他者から見ると僕はそういった行動をとりやすい人間らしい――と、一応の自覚はある。

 だけど、僕は自分を不幸だと思ったことはないし、当然、現時点で地獄にいるとも思わない。

 何故か。

 それはきっと、ハヌがいるからだ。ロゼさんがいて、フリムがいるからだ。

 僕自身は特別幸せになろうと努力しているつもりはないけれど、みんながいてくれるから、僕は幸福でいることが出来ている。つまり、周囲の人から幸せを分け与えてもらっているのだ。

「…………」

 黙考しながら、僕は床に手を突いて立ち上がる。そうだ。僕一人だけじゃ決して幸せになどなれない。それは、ロゼさんだって同じはずだ。ずっと一人ぼっちで、陰で〝ぼっちハンサー〟と揶揄されていた僕が、ハヌと出会うことで変われたように。

 ロゼさんの幸せだって、傍にいる僕達次第じゃないのか?

「――!」

 そう気付いた瞬間、天啓を得た気がした。

 そうだ。もはやロゼさんの信念に文句はつけるまい。それが曲げられない生き方なのなら、むしろ尊重しよう。否定せず、全てを受け入れよう。

 だけど――ロゼさんが病院で僕に『もうあのような無茶はおやめください』と、そして『あなたが死ねば私も死にます。次に捨て身になる時は、どうか【私を殺すつもり】でおやりなさい。――いいですね?』と言ってくれたように、僕にだって押しつけがましく言えることがあるはずだ。

 だから僕は、すぅぅぅ、と大きく息を吸い、叫んだ。

「――ロゼさんっ!!」

 広いルーム内に僕の大声が反響して、女性陣四人が一斉に振り返った。けれど、この時の僕はロゼさんのことで頭がいっぱいで、他のことは何も考えていなかった。

 不思議そうに振り向いた琥珀色の瞳に、僕は叩き付けるように宣言した。



「僕が――僕がロゼさんを幸せにしますっ!!」



『――!?』

 ロゼさんを除く三人――即ち、ハヌ、ヴィリーさん、アシュリーさんが大きく目を見開いて愕然とする。だけど僕は彼女達の反応に頓着することなく、ただ呆然とこちらを見返すロゼさんに向けて、必死にこう続けた。

「ロゼさんがどんな痛みを抱えていても、どんな苦しみを背負っていても、それ以上に僕が幸せにしますっ! 幸せを感じる度に痛みが走っても! 喜びに苦しみが混じっても! 楽しい時に胸が疼いても! 嬉しい時に心が軋んでも! それ以上に――それ以上に僕が! 僕がロゼさんを幸せにしてみせますっ!」

 大きな声を張り続けているせいで、すぐに息が乱れる。僕は肩で大きく呼吸しながら、腹に力を込め、勝利宣言のごとくこう締め括った。

「だから――ロゼさんがどんなに痛くても苦しくても! どんなに地獄にいると思っても! 幸せから不幸を引き算して! トータルで幸せの方が大きくてプラスになっていたら――それが僕の勝ちですっ!!」

 時が止まったみたいに硬直しているロゼさんへ一方的な宣言をぶちまけて、僕は拳をぐっと握ってみせた。

「…………」

 呆然とするロゼさん。

「な……な……な、な、な……!?」

 瑠璃色の目を皿のように開き、顔を真っ赤にして僕とロゼさんを交互に見るアシュリーさん。

「……これは……驚きね……」

 微苦笑を浮かべ、あらあら、と嘆息するヴィリーさん。

「? ? ? 何の話じゃ……?」

 要領を掴めず一人だけ頭を捻っているハヌ。

「――――」

 僕と視線を合わせるロゼさんが、ゆっくりと唇を開き、何かを言おうとした。

 その瞬間だった。

「 ベ オ ウ ル フ ――――――――――ッッ!!!」

「えっ!?」

 ズダダダダダダダッ!! という声すら置き去りにするほどの凄まじい勢いでアシュリーさんが駆け寄ってきて、ガシィ! と僕の両肩を掴んだ。えらい剣幕の顔が間近に迫ってきて、僕の視界からロゼさんの姿が隠されてしまう。

「え、あ、ああアシュリーさん!? な、何を……!?」

 ぐわっ、と瑠璃色の双眸が見開き、爆音のごとき怒声が迸った。

「何をではありませんっ! あなたこそ今の発言は何ですか!? こ、こんなところで――私やヴィクトリア団長だけでなく、小竜姫の見ている前で――プ、プププ、プロポーズとは!? いったい全体どういう了見なのですか!? 説明を要求します!!」

「へぇっ!? プ、プロポ――!?」

 アシュリーさんのびっくり発言に僕の声もひっくり返る。目を白黒させつつ、何がどうなってそんな誤解を呼んだのか、自身の発言を思い返した。

 ――【僕がロゼさんを幸せにします】。

「あ……」

 むしろ心当たりしかないことに気付いて蒼然とした。

 僕、えらいことを言ってしまっていた。

 ただ思うがままの言葉を叫んだつもりだったのだけど、それがとんでもない誤解を呼ぶ文言になってしまっていたのだ。

「あっいえそのっ!? こ――これは違うんです!? ご、誤解なんです! 僕はそういうつもりじゃなくて――!?」

 心臓が口から飛び出てきそうなぐらい慌てて身振り手振りも交えて否定すると、

「ではどういうつもりであんなプロポーズにしか聞こえない台詞を吐いたと!?」

 鋭く斬り込んでくるようなアシュリーさんの突っ込みに、ぐっ、と言葉に詰まる。

 まさか先程の話をそのまま説明するわけにもいかず、かといって咄嗟に誤魔化すための嘘も思いつかず、

「え、えと……えと……!?」

 僕は全身の毛穴という毛穴からダラダラと脂汗を流しながら、視線をぐるぐると泳がせる。すると、ギラリン、とアシュリーさんの眼光がさらに剣呑な輝きを放った。

「――すぐに釈明の言葉が出てこないということは、つまり何かしらの下心があると見て問題ありませんね!?」

 あまりにも早すぎる結論に僕は目を剥く。

「ええっ!? い、いや、ちょっちょっと待って下さい!? ――そ、そう! ぼ、僕が幸せにしたいと言ったのはロゼさんだけじゃなくて――た、例えばですよ!? ハヌやフリム――そう、アシュリーさんだってその一人だったりするわけで! つ、つまり僕は身近な人をみんな幸せに――!」

「――本当に、本当にいい度胸をしていますね、ベオウルフ」

 気が動転した僕の、後になって考えてみればあんまりにもあんまりな説明に、さっきまで嵐の海のごとく荒れ狂っていたアシュリーさんの語調が驚くほど平坦なものへと変化した。一気に脱力し、怒りも悲しみも通り越した境地にいるような、そんな声になる。

「そうですか。ロゼさんだけでは飽き足らず、小竜姫やフリムまで。いいえそれどころか、この私をも視野にお入れでしたか。もしかしてヴィクトリア団長もそこに含まれるのでしょうか。ええ、とても素晴らしい博愛精神ですね、ベオウルフ」

 俯き、赤金色の前髪が瑠璃色の両眼を隠しているせいで、アシュリーさんの浮かべている表情は杳として知れない。だが、その低い声音から不穏な気配を察した僕は、よかった誤解が解けた、などと勘違いすることはなかった。むしろ、嫌な予感が加速しただけである。

「あ、あの、アシュリーさんっ!? で、ですからあのご、誤解があると思うんですけど――!?」

 僕の主張にアシュリーさんは、足元に視線を落としたまま首を横に振った。

「いいえ、大丈夫です。誤解などしていません。正確に理解していますよ。どうせ言葉の綾か何かで、別段プロポーズするつもりはなかったと言いたいのでしょう? ええ、わかっていますとも。先程のあなたの言い訳を聞いて完全に把握しました。【あなたにそんなつもりはなかった】。ええ、そうでしょうとも」

 淡々としていながらも、その実、奥底の方ではマグマが脈動しているかのような、アシュリーさんの口調だった。

「……何ですか。どういうことなんですか、これは。あなたがここまで節操なしな人だとは思いませんでしたよ。ええ、思い返せば先日もそうでしたね。あなたは悪気なくこういったことをしでかすのです。私とフリムがシャワーを浴びている時もそうでした。あなたは純粋に私達を心配して、あの場に飛び込んできたのですよね。ええ、わかっていますとも。わざとでないことぐらいは……!」

 僕の両肩を強く掴むアシュリーさんの腕が、プルプルと震えている。その様子から連想されるのはやはり、噴火直前の火山だ。

 まずい。これは非常にまずい。このままでは僕は――

「こうなっては致し方ありません」

 不意にアシュリーさんが面を上げて、こちらを見た。

「へっ……?」

 思わず変な声が出た。

 アシュリーさんは今まで見たことがないほど、満面の笑みを浮かべていた。そう、まるで――本気で怒った時のフリムみたいに。

 女性同士が仲良くなると、こんなところが似てくるものなのだろうか、と頭の片隅で思う。

「説教している時間が惜しいので、トレーニングがてら直接あなたの性根を叩き直してあげましょう。勿論、食事は後です。とにかく、今すぐ、全速力です。どんな事情があるにせよ、公衆の面前で女性に向かって『幸せにします』などといった台詞を吐くのがどれだけ罪深いことか、あなたのその【ぽややん】とした頭に叩き込んであげましょう。覚悟しなさい、ベオウルフ」

 ギチギチギチ、と音を立ててアシュリーさんの指が僕の肩に食い込んでいく。必死に笑顔を取り繕っているように見えるアシュリーさんだけど、あちこちに青筋が浮かび上がり、堪忍袋の緒が今にもブチ切れそうになっているのがありありとわかった。

「あ……あの……!?」

 もはや話は通じるまい。あまりピンと来ないのだけど、もしかしなくても僕は、女性的には完全アウトなタブーを犯してしまったみたいだった。

 ――僕、まさか地雷を踏んでしまった……!? いや、むしろ踏み抜いたぐらいの勢い……!?

「さぁ、始めましょう」

 アシュリーさんが僕の首根っこを引っ掴み、歩き出した。ヴィリーさん然り、ロゼさん然り、通常状態において僕の腕力はアシュリーさんの足元にも及ばない。無論、抵抗など無意味でしかなく、為す術もなくルームの中央へと引き摺られていく。

「あ、あのあのあのっ!? ご、ごめんなさいっ、すみませんっ、あの僕――!?」

 ズリズリと後ろ向きに引っ張られる僕は、せめてもの慈悲を求めて謝罪を口にした。しかし、

「いいえ言い訳は結構です。あなたには例え言葉の綾だろうが何だろうが、全ての言動には責任が伴うということを教えて差し上げましょう。ええ、【この私が言うのも何ですが】、それでもベオウルフ、あなたの迂闊さ鈍感さはもはや罪悪です……!」

 アシュリーさんが僕の背後に回ってジャケットの襟を引っ張っているので、気付けばさっき視界から隠れてしまったロゼさんやハヌ達の姿が見えるようになっていた。

 見ると、非常に珍しいことに、ロゼさんが顔を両手で覆ってその場にしゃがみ込んでいた。その体勢が意味するのは悲しみか、あるいは羞恥か。丸くなって生まれたての子鹿のごとく震えている姿は、僕の脳裏に先日のヴィリーさんを想起させた。

 僕の思いの丈がロゼさんを悲しませたのか、はたまた一縷の救いとなったのか。ふわふわした長いアッシュグレイの髪の隙間から、茹でタコのように真っ赤になった耳が覗いていたけれど、それだけではロゼさんがどんな感情を得たのかまでは判別できなかった。

 小さくなったロゼさんに、ハヌやヴィリーさんが歩み寄って何やら声をかけている。その光景を見ていると、背後からアシュリーさんの押し殺した声が聞こえた。

「女心を弄ぶその無神経さに、誅を下します。不用意な発言は悪と知りなさい、ベオウルフ――いいえ、ラグディスハルト」

 意味ありげに異名ではなく、僕の本名を告げたアシュリーさんが、掴んでいた後ろ襟を手放した。

 それから、さっきまでの地獄の猛特訓が天国だったかと思うほど、さらに過酷なトレーニングが始まったのだった。






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