リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-

国広 仙戯

●8 迫り来る悪意



「とんだ失態だわ……」

 ようやく精神的ショックから回復したヴィリーさんは、それでもなお恥ずかしそうにしながら呟きを地面に落とした。

 二人で手を繋いで――というか、リードを握った飼い主と首輪をはめられたペットみたいな感じで――僕らは〝竜宮城〟を出る。

 再びダイヤモンド・ストリートを歩きつつ、僕の手を引くヴィリーさんの体温は未だ温かい。見ると、もう大分ましにはなっているけれど、顔や首筋のあたりにまだ仄かな赤味を残していた。よほど恥ずかしかったのだと思う。

「…………」

 僕は何も言えない。

 なんというか、どうにも気まずいというか、申し訳ないというか。

 そういえば先日も、アシュリーさんとフリムに似たような悪いことをしてしまった。いや、厳密に言えばどっちも不可抗力な気もするのだけど、しかし、僕の方も気をつけてさえいればまだ何とかなった気もするのだ。

「……さっきから全然喋ってくれないのね、ラグ君。もしかして、さっきのことを思い出しているのかしら?」

「うえっ……!?」

 考えごとをしているところへ思いがけない言葉をぶつけられたので、僕は思わず変な声を上げてしまった。

 ヴィリーさんがピタリと立ち止まり、拗ねたような顔を振り向かせる。深紅の瞳を伏し目がちにしたヴィリーさんは、らしくもなくブツブツと呟くように、

「……確かに、今日がスカートだということを忘れて調子に乗ってしまったのは私だけれど……流石にあなたから何もフォローがないと、その……あまりに恥ずかしすぎて……………………困ってしまうわ……」

 恥ずかしそうに口元を手で覆い、チラ、と何かを乞うような視線が向けられた。その仕草にドキリすると同時、僕は大いに焦る。

「す、すみませんっ、いえあの、べ、別にさっきのことを思い出していたというわけではなくて――その、ご、ごめんなさいっ、僕が上手く出来なくて、もっとちゃんとやれてたらこんなことになってなかったのにって、も、申し訳なくて、その――」

 わたわたと片手を振って弁解していると、くすっ、とヴィリーさんが小さく笑った。

「……ありがとう、ラグ君。慌てるあなたを見ていたら、何だか恥ずかしさが少しマシになってきたみたいだわ」

「へ……?」

「それに、やっぱり優しいのね。いいのよ、さっきのは私の自業自得。あなたは何も悪くないわ。むしろ、私のわがままを聞いてくれたのだし。それよりも、私の都合で勝負を無効にしてしまって、ごめんなさいね?」

 くい、とヴィリーさんが手を引いて歩みを再開したので、僕もそれに倣う。

「い、いえ……特に気にしてませんので……」

「でも、あなたの癖だと思うのだけど、何でもかんでも自分が悪いと思うのはあまり良くないわよ?」

 涼しい表情を取り戻したヴィリーさんが、ぴっ、と人差し指で僕の顔を示す。

「優しいことは素敵だし、あなたらしくもあるけれど……それは弱点にもなるわ。それじゃ、いざという時に戦えないわよ。それに、そろそろ世間へ向けて、ある程度は強気の態度をとっていかないと」

「つ、強気の……?」

「そうよ。何だかんだ言ってもエクスプローラーは【やくざ】な商売ですもの。私も剣嬢だのナイツだのと謳ってはいるけれど、やっていることは他のエクスプローラーと似たようなものなのだし。勿論、プラスアルファはしているつもりだけれど」

「は、はぁ……」

 意外だ。ヴィリーさんは高潔で、どちらかというと潔癖症なところがあると思っていた。理想に生き、理想に殉じる――そんなイメージだ。だけど、案外そうでもなかったらしい。僕が思い描いていたより、彼女は現実主義者リアリストなのかもしれない。

「だから、舐められたら負けよ、ラグ君。はったりでもいいの。自分を強く見せて、周囲の嫉妬や羨望、不満や文句を吹き飛ばすの。そうしないと……」

「し、しないと……?」

 聞き返した瞬間、赤い目が剣呑な光を放ち、妖艶に細められる。ヴィリーさんは自然な動きで僕の耳に唇を寄せ、

「――【喰われる】わよ」

 ゾクリ、と背筋を震わすような低い声が囁いた。

「――――」

 じーん、と全身に何とも言えない痺れが駆け巡るのと同時、周囲のあちこちで『ああっ!?』という声が上がった。多分、ヴィリーさんのファンの人達だろう。僕は再び、そこら中から突き刺さる嫉妬や羨望の眼差しを意識してしまう。

 ――これを、吹き飛ばさないといけないのか……

 口で言うほど簡単ではない。特に、僕の場合は。

「それより、次はどうしようかしら? ラグ君はどこか行きたいところはある?」

「え? い、いえ、特には……」

「そう? なら、次も私の行きたいところで構わない? 一度行ってみたかった所があるの」

 すっかり元の調子を取り戻したヴィリーさんが、律動的な歩調でダイヤモンド・ストリートを進みつつ、はしゃいだ声を出した。

 僕達は煌びやかな高級商店街を抜け、ストリートの出入り口にあたるゲートをくぐった。

 これにより、ようやく息苦しさを感じることのない空間――と言っても、こちらへ集中する視線の量はさほど変わらないのだけど――へと戻ってきて、僕は内心ほっと安堵した。

 あのアーチの向こうは、まさしくお金持ちの世界だった。僕みたいな庶民がいるべき場所ではなかったのだ。ダイヤモンド・ストリートを出た途端、吸い込む空気の味すら変わったように思える。

「ラグ君は〝露店街〟って知っているかしら。私、そこへ行ってみたいの。訪れたことがないわけでもないのだけど……その時は、ほら、【例の事件】の真っ最中だったものだから」

 ヴィリーさんの提案は、僕にとって願ったり叶ったりであった。露店街なら何度もハヌと一緒に足を運んでいるから土地鑑があるし、なんとなくホーム感もある。少なくともダイヤモンド・ストリートに比べれば、一万倍は落ち着くだろう。

「は、はい、よく行きます。ハヌと一緒に」

「あら、そうなの? それはよかったわ。なら、色々と案内してくれるかしら」

 こうして富裕層が集うダイヤモンド・ストリートから一転、僕達は庶民の生活臭漂う露店街へと足を向けることになった。

 ヴィリーさんのお願いに、こればかりは、と胸を張って頷く。

「はい、任せてください」

 そうしながら、なんだか妙に深く納得もしてしまう。

 ヴィリーさんほどのお金持ちともなると、きっと露店街の方が珍しくて、興味をそそられる場所になるのだろう。ファミリーレストランにおけるドリンクバーの存在も知らなかったのだ。ああいう雑多な空間には、ほとんど縁がなかったに違いない――

 なんて、そんなことを考えていた時だった。

 突然、左の側頭部に何かがぶつかった。

 軽い衝撃。

 カシャン、と脆い音と共に水っぽいものが飛び散り、耳や顔、肩に掛かる。

 痛くはなかった。ただ、いきなりのことにびっくりした。

「……え……?」

 立ち止まり、感触があった箇所に手をやる。ぬるり、と何やら粘性のある手触りがした。掌がべっとりとする。

 目の前へ持ってくると、それは血――ではなく、生卵だった。つぶれた黄身と白身、割れた殻が見て取れる。

「……? ? ?」

 普通に混乱した。

 ――え? 卵? 頭に卵? ……何故?

 答えは犯人が教えてくれた。

「見つけたぞベオウルフッ!」

 甲高い悲鳴にも似た怒声が轟き、耳を劈く。

 街の喧騒にそぐわない音響に、場の雰囲気がガラリと変わった。

「え――?」

 周囲の人々がどよめき、一斉に足を止める。

 声が飛んできた方角へ目を向けると、果たしてそこには怒りの形相を浮かべた男性が立っていた。大きく釣り上げた目で僕を睨み、右手の人差し指でこちらを指し示している。

 いや、違う。彼だけではない。その周辺には、同じく剣呑な顔つきをした人達が集まっていた。老若男女は関係なく、ほとんど共通点は見当たらない。ただ唯一の例外は、そこにいる全員が、憎悪ほとばしる激しい視線で僕を睨みつけている点だった。

 あまりのことに、咄嗟に理解が追いつかなかった。

 すると次の瞬間、

「このクソ野郎ッ!」「悪魔が!」「死ねよっ!」「なにのうのうとほっつき歩いてんだよテメェは!」「ふざけないでよっ! なんでアンタがダイヤモンド・ストリートなんかにっ!」「ゴミクズ野郎ッ!」

 降りかかる罵声と共に、僕は全身のあちこちで軽い衝撃を喰らった。音と感触でわかる。さっきと同じく、生卵を投げつけられたのだ。頭も、肩も、背中も、腰も、下半身も。一斉に叩きつけられたそれらはあっさりと砕け割れ、粘度の高い中身をぶちまける。

 一瞬で体中が生卵まみれになってしまった。

「――――」

 理由はわからない。道理も読めない。何の因果があってこんなことをされるのか、さっぱり思いつかなかった。

 ただ、突如として、無色透明な感情の爆発が、心の奥底から迫り上がってきた。

 頭の中が真っ白になる。

 それがどういった感情なのか、今はまだわからない。怒りなのか、悲しみなのか、それ以外の何かなのか、あるいは全部が混じったものなのか。

 ただ、正体不明の、けれど巨大な海竜のような激情が、心の水底から浮上してくるようだった。

 得体の知れない感情に理性が呑み込まれそうになるのを、僕は何故か、必死に耐えてしまう。

「…………」

 掌の生卵をじっと見つめて、立ち尽くす。

 ――僕はいい。頭や髪の毛なんて洗えばいい。ケーブルセーターや、ブルージーンズだって洗濯すればいいし、これらはどうせ着潰す用の私服だ。汚れが落ちなければ捨てて、新しいのを買えばいい――だけど、このジャケットは――この戦闘ジャケットだけは――お祖父ちゃんの形見で――せっかく、フリムが――フリムが……僕のお姉ちゃんが――リメイクしてくれた――してくれたばかりの――新しいもので――

「あなた達ッ! 何をしているのッ!」

 ヴィリーさんの怒声。いつもの僕なら、それだけで他の人達と同じく全身を震わせ、背筋を伸ばしていたはずと思う。だけど、今の僕は、ヴィリーさんの一喝すら気にならないほどの精神状態にあった。

 しかしながら、突然の蛮行を咎めるヴィリーさんの声には、生卵をぶつけてきた人々をたじろかせるに足る迫力があった。

 猛獣に睨まれたかのように、あるいは調教師に鞭打たれた獣のように、彼ら彼女らは怯え、恐れの表情を浮かべた。

 それだけで彼らの戦意が萎えたことを見て取ったのだろう。

「ラグ君、大丈夫? なんてひどいことを……」

 ヴィリーさんがこちらへ向き直り、〝SEAL〟のストレージからハンカチやハンドタオルを取り出して、僕の頭や顔を拭いてくれた。

「……す、すみ、ません……ありがとう、ございます……」

 体の中で荒れ狂う感情を持て余す僕は、どうにかこうにか、譫言のような調子でお礼を言う。そこへ、

「か、関係ねぇ奴はすっこんでろよ! 俺達はそこのガキに用があるんだからよっ!」

 一番最初に卵をぶつけてきた男性が、ヴィリーさんにそう啖呵を切った。

 ピタ、とヴィリーさんの手が止まる。

「……関係ない? ……すっこんでいろ? よく言えたものね」

 先刻、スポーツチャンバラで僕が感じた凄まじい重圧が、再び解放された。

 目に見えない波動が爆発する。

『――~っ……!?』

 誰しもが不可視の手で喉を絞められたように、顔を強張らせ言葉を失った。

 濃密な剣気。ハヌの放つ膨大な術力にも似た力。動物的な本能に働きかける『何か』が、ヴィリーさんの背中から迸っていた。見る見るうちに膨張していく重圧は、あっという間に辺り一面を覆い尽くしていく。

「自分達が何をしたのか、わかっているのかしら? 私の大切な友人にこんなことをして、ただで済むとでも?」

 氷の刃同士を擦り合わせたような声音だった。氷の魔女とてここまで恐ろしい声は出すまい。

「――あ、あんた……もしかして、け、〝剣嬢〟ヴィリーか……!?」

 どうやら彼は気付いていなかったらしい。彼女の放つ圧倒的な迫力に、よくやくその正体が思い至ったのだろう。突き付けていた指が、やにわに震えだす。

 そんな彼に、ヴィリーさんは剣のような視線を突き刺し、厳然と告げた。

「私が誰かなんてどうでもいいわ。それよりも、謝罪と説明をなさい。一体全体、何を理由に突然こんなことをしたの。無礼極まりない行為よ、これは」

 切り込むようなヴィリーさんの言葉を、しかしどこからか響いた声が、あっさりと否定した。

「いやいや、あなたベオウルフじゃないでしょお? 関係ない他人でしょお?」

 半分笑っているような、軽い口調だった。その声が聞こえた途端、急に他の人達が勢いづいた。

「――そうだそうだ! あんたは部外者だろ!」「勝手に口を挟まないでよ! これは私達とベオウルフとの話なんだから!」「ご友人なら、なおのこと黙っていて下さいよー」「そうだよ黙っててくれよ! こっちは遊びで来てるんじゃないんだ!」「恋人や家族ならともかく、友人じゃねぇ?」「我々はベオウルフに用があるんだ! 事情がわからない他人はそこをどけ!」

 ヴィリーさんが剣気で圧したはずの空気が、一瞬にして塗り変わってしまった。暑苦しくがなり立てられる中に時折、雰囲気を変えるきっかけになった気軽な声が混じる。すると、火に油が注がれたように彼ら――おそらく二〇人ぐらいの集団――はより一層、気炎万丈となった。

 だけど、限りある剣号の一つを授与された英傑が、この程度のことで揺らぐはずもなく。



「聞こえなかったのかしら」



 一言だった。

 さほど大きくもなかった、その一声で。

 盛大に燃え上がり天をも焦がさんとしていた集団の威勢が、あっさりと引っ剥がされた。

『――――』

 言霊を籠めたハヌの詠唱にも似た圧力だった。バケツの水でもぶっかけられたみたいに、いけ騒々しく叫んでいた人達が舌と動きを止める。

 ヴィリーさんの全身から発されたそれは、もはや剣気を通り越して殺気の刃と化していた。まるで幾十の剣が宙に浮かび、僕を非難せんとする彼らへ切っ先を向けているかのような、重苦しい緊迫感が満ちる。

 己が放つ重圧の中、彼女は静かに、しかしアシュリーさんにも似た鋼鉄の声音で宣告する。噛んで含めるように。

「私は、謝罪と説明をしなさい、と言ったの。わかる? いきなり、不意打ちで、無礼千万にも、卵をぶつけてきたあなた達野蛮人に対して。その非礼を詫びて、理由を述べなさいと、そう言っているの。けれど、もし説明できない、あるいはしたくない、話し合いを拒み暴力に訴えるというのなら――ええ、それでもかまわないわ。ただしそのときは、こちらにも考えがあるけど」

 コッ、とヒールを音高く鳴らして、ヴィリーさんが一歩前へ出た。

『――!』

 たったそれだけの行為で、彼らはナイフでも取り出されたかのようにたじろぎ、腰を引いた。関係ない他の人々も、固唾を呑む。そこへ、

「何を言っているんですかぁ、もとはと言えば、そこのベオウルフが悪いんじゃないですかぁ」

 また、あの軽い声が言った。何というか、的確なタイミングだったように思える。消えかけた炎に、その声はまたしても油を注いだのだ。

「――そうよ、そいつが悪いんじゃない! ベオウルフ・スタイルだのなんだのって調子に乗って! おかげであたしの彼氏は死にかけたのよ!?」

 女性がヒステリックに叫んだ。それでまた、怒りや憎悪の感情が燎原の火のごとく燃え広がっていく。

「お、俺は死にかけたどころじゃねぇぞ! 仲間を失ったんだ!」「我々も全滅しかけた! あんなに危険なものなら、ちゃんと説明しておくべきじゃないか!」「僕の……僕の大事な人は、SBに頭から喰われて死んだんです! どうして、どうして教えてくれなかったんですか! 広めなかったんですか! 支援術式があんなに危ういものだって!」

 憤りや正義感、中には哀切極まるものまで、様々な悲鳴が怒濤のごとく浴びせ掛けられる。

 ただ不思議なことに、それらは僕の耳に入っても、何故か頭の中にはほとんど響かなかった。

 一番最初に怒声を放った男性が、再び僕を指差す。

「何がベオウルフ・スタイルだ! 何が支援術式だ! どうしてあんなものを広めたんだ! 中途半端に良いところだけアピールして! 実際には欠陥だらけのクソ術式じゃないか!」

 この言葉を聞いて、僕は思う。

 そんなの当たり前じゃないか。むしろ、どうしてそんなことも知らないんだ。支援術式は強力だけど、燃費が悪い。そんなのエクスプローラーなら常識じゃないか。エンハンサーはあくまで支援役で、本来なら後方に位置するものだ。僕が前に出て自分に支援術式をかけながら戦うのは、一人ぼっちだったのもあるけど、特殊な技能スキルがあったからだ。

 それに第一、〝ベオウルフ・スタイル〟なんてものを広めたのは、僕じゃない。

「お前の無責任な戦い方のせいで、どれだけの人間が死んだと思ってるんだ! 傷付いたと思ってるんだ!」「罪悪感とかないんですかねぇ」「そうよこの犯罪者! 自分が何をしたかわかってるの!?」「どうにか言ってみろよ! 被害者はここにいる俺達だけじゃないんだぞ! 俺達はみんなの代表としてこの街まで来たんだ!」

 言っている意味が、よくわからない。本当に何を言っているのだ、この人達は。

「――話を整理するわよ」

 ヴィリーさんが溜息交じりに声を発すると、それだけで彼らの訴えは一時的に収まった。

 ヴィリーさんは腕を組み、

「つまり、あなた達とその身内がベオウルフ・スタイル……彼の戦闘スタイルを真似した結果、怪我をしたり、死にかけたり、実際に死んだ。そういうことね」

 質問する形で言ってはいるけれど、その響きは断定調だった。それでいて、呆れの色を隠そうともしない。

「それもあって、あなた達はベオウルフを恨んでいる。こんなことになったのは、ベオウルフが危険な戦型スタイルを広めたからだ。支援術式を駆使した戦型スタイルが危険であることを周知徹底しなかったのは、彼の怠慢だ――と。そうね」

 またしても質問形式による確認を、ヴィリーさんはした。

 自分達の主張が受けいられたと思ったのだろうか。これに対し、僕を糾弾しようとする集団は俄然、勢いを増した。

「その通りだ! 聞けば支援術式は、元々から非常に使いにくい術式だったというじゃないか! 何故その情報を強調しなかったんだ! おかげで大勢の被害者が出たんだぞ! 彼はその責任を取るべきだ!」

 それなりに年齢のいったおじさんらしき野太い声が、力強く訴える。

「そうだ、責任をとれ!」「あんたさえいなければ!」「このクズが!」「変に夢見させやがって!」「詐欺だぞ詐欺! よくも騙しやがって!」「謝罪しろ!」

 本気で、心の底から、彼らの言い分が理解できないのは、僕の頭がおかしいからだろうか?

 どうして僕が、支援術式の危うさについて喧伝しなければならないのだろうか? 僕の真似をした人達が怪我をしたり死んだりしたことについて、どうして僕が責任をとらなければならないのだろうか?

 詐欺? 騙された? 違う。僕は何もしていない。誰かが勝手に噂を広めて、あなた達が勝手に騙されただけじゃないか。

 それとも、本気で何もかも僕が悪くて、全ての責任が僕にあると、心の底から思っているのだろうか?

 はぁ、とヴィリーさんの口から冷たい溜息が漏れた。

「――馬鹿馬鹿しい。笑えない話だわ。冗談にしては出来が悪すぎるわね。だけど、もしも本気で言っているのだとしたら――救いがたい愚か者よ、あなた達は」

 冷然と、剣嬢は彼らの主張を斬り捨てた。

 あまりにストレートな物言いに、言われた当事者達だけでなく、野次馬の人々まで絶句する気配があった。

 ヴィリーさんは深紅の瞳から鋭い眼光を放ち、糾弾者らを撫で斬りにする。

「自業自得という言葉を知っているかしら。自己責任という言葉は? 責任転嫁は? 自分勝手は? これらは全て、今のあなた達にぴったりの言葉よ。今すぐ辞書アプリでも何でも使って調べなさい」

 そう言いながら、ヴィリーさんはさらに一歩、前へ出た。気圧されるように、彼らも同じ分だけ後ろへ下がる。

「ベオウルフの戦型を真似したということは、あなた達もエクスプローラーなのよね? だとしたら、自ら望んで戦いに身を投じたはずよね。それとも、誰かがあなた達にベオウルフ・スタイルを強要したのかしら? 誰かがそうしてくれと頼んだのかしら? いいえ、違うわよね。【自分で選んだのよね】? そう。エクスプローラーになることも、エクスプロールすることも、誰かに決められたわけではなく、全て自分達で決めたことでしょう?」

 さらに一歩、足を進める。だがもはや、これ以上は引き下がれないのか、言いがかりをつけてきた集団は動こうとはしなかった。

「なら、全ての責任はあなた達自身にあるわ。そもそも、他人の戦型をそのまま真似る時点で浅慮にも程があるのよ。しかも、それによって生じた被害の責任を、真似元になすりつけようだなんて」

 吐き捨てるように、ヴィリーさんは言った。

「無責任ですって? 真に責任を持つべきはどこの誰なの? 犯罪者? 罪悪感を持つべきなのはいきなり集団で卵を投げつけ、言いがかりをつけてくるような人間ではないの? 詐欺? 彼がいつあなた達を騙したの? どうやって? 時空を超えて? そもそも、支援術式が危険なものだと知らなかったのはどうして? 何故? あなた達がろくに調べもしなかったからではないの?」

 剣嬢の舌鋒はとどまるところを知らない。畳み掛けるように質問を連発し、歩を進めていく。

 痛烈な批判をぶつけられる側は、まったく反論できないでいた。言葉に詰まったまま、近付いてくるヴィリーさんを必死の形相で睨みつけるが、総じて腰が引けているためまるで迫力がない。

 やがて、ヴィリーさんは手を伸ばせば触れられるような位置まで距離を詰め、そこで足を止めた。

 鋭い眼光が黙り込む集団を睥睨し、やおら、囁くようにこう言った。

「恥を知りなさい」

 激しくもなく、優しくもなく。叩き付けるわけでも、突き刺すわけでもなく。

 ただ、そこに置くように。

 ヴィリーさんは告げた。

 しん、と場が静まり返る。

 自らの言葉が浸透したのを確認して、ヴィリーさんは踵を返した。靴音を鳴らし、こちらへ戻ってくる。

 だけど、その背中に、

「……何も知らないくせに……」

 ぼそり、と誰かがそう言った。

 静寂の中、その声はひどくよく響いた。そこへ、

「何を擁護してるんだか」

 またしても、あの軽い声が追従した。それがまた、彼らに火をつける結果を生む。

 ヴィリーさんが足を止めた。

「――そうだよ、何が恥を知れだよ……何も知らないくせに……俺達の気持ちなんか、全然わかってないくせに……!」

 沸々と煮え立つように、再び彼らの憎悪と悪意が熱量を増していくのを感じた。

 黒い感情が爆発する。

「――そうよ、知り合いだからって擁護してるんじゃないわよ!」「大体、ベオウルフにまったく責任がないといえるのか!? そんな暴論が認められるわけがない!」「自己責任だって言うなら、それこそベオウルフの自己責任じゃあないですか!」「勇者ベオウルフだなんて呼ばれて調子に乗ってるからいけないんだろ! 自分の影響力をちゃんと考えろよ!」「お前が支援術式なんか使って活躍しなけりゃあ誰も夢見なかったんだよ!」「全責任じゃなくてもお前だって原因の一つなんだ! 誠意を見せて謝罪の一つぐらいしたらどうなんだ!」「そうだ謝罪しろ! 地面に額を擦りつけて謝れ!」

 もはや何の理屈もなかった。ただただ感情的に、屁理屈をこね、彼らは怒鳴り散らす。

「あなた達……ッ!」

 とうとうヴィリーさんが怒りの表情を浮かべ、彼らを振り返った。だが、今度という今度は彼らも必死だ。

「ベオウルフを擁護するなら、あんたも同罪だぞ剣嬢ヴィリー!」「そうだ! 力尽くで反論を封じようなんて横暴だ!」「私達を暴力で黙らせようっていうの!? 野蛮よ!」

 いきなり僕に卵を投げつけてきた人達の言うセリフではなかった。だが、今の彼らにはそういった意識はないのだろう。あまりに興奮しすぎて、自分達が何を言っているのかも理解していないに違いない。ただ勢いに任せて叫んでいるだけなのだ。

「本当は弱いくせに、お前が強いフリをしたのが悪いんだ! 弱いなら弱いまま大人しくしておけばよかったものを! 上手く支援術式を使ってゲートキーパーを倒したりなんかするから!」「どう考えたってお前の強さは詐欺じゃないか! 放送局にいくら出したんだ! 自分が強そうに映るよう印象操作したんだろ! ええっ!?」「お前も! お前の仲間も! お前を擁護する奴らも! みんな共犯だぞ! 全員、雁首揃えて謝罪しろよ!」

 ついには僕だけではなく、僕の友達や家族、庇ってくれているヴィリーさんまでをも糾弾し始めた。

「――――」

 もう限界だった。

 僕の心の海溝に潜んでいた巨大な竜が、浮上を始めた。水面が山のように盛り上がり、膨張する。

 卵をたくさん投げつけられた。せっかくフリムがリメイクしてくれた戦闘ジャケットを、これでもかと汚された。それどころか口汚く罵られ、あまつさえ味方になってくれたヴィリーさんにまで心無い言葉が浴びせかけられた。

 その挙げ句、僕の大切な友達や、家族にまで無礼極まりない言葉を――

 心の奥底から溢れ出す透明な、けれど怒濤のごとき感情に理性が呑み込まれそうになる。

 だけどその瞬間――〝落ち着きなさい〟と、誰かの声が聞こえた気がした。多分、僕にしか聞こえない、頭の中だけに響く声が。それはアシュリーさんのようにも、フリムのようにも、あるいはヴィリーさんの声のようにも聞こえたし、同時にその内の誰でもないような気がした。

「…………」

 ああそうさ、わかっている。ニエベス達の時と同じだ。我を失ってはいけない。あの時のように武器を取り出して敵意を剥き出しにしたら、おそらく僕の負けだ。むしろ、彼らはそれを狙っているのかもしれない。だから、そういうのは無しだ。

 大丈夫。僕は落ち着いている。

 だけど。

 だからと言って何もしない、何も言い返さないというのは、それこそあり得ない。いや、断じてあってはならない。黙って我慢して、嵐が過ぎるのを待つのなんて言語道断だ。そんな弱気な、これまでの僕のようなやり方では駄目だ。そうだ。そんな惰弱なことは、何があろうと絶対に許されない。

 そう。つい先刻、ヴィリーさんが言っていたように。

 強気の態度をとれ。舐められたら負けだ。はったりでもいい。自分を強く見せろ。周囲の嫉妬や羨望、不満や文句を吹き飛ばせ――

 だけどそれは、どんな風に? いや、見本ならこれまでにたくさん見てきたはずだ。ハヌにせよ、ロゼさんにせよ、フリムにせよ。そして、アシュリーさんにせよ、ヴィリーさんにせよ。

 彼女達は、いつだってそうしてきたじゃないか。

 全部、集結させろ。総動員するんだ、これまでの記憶を、経験を。何もかもを集めて、収斂させて、一つに――!

「ベオウルフ・スタイルは弱い奴を強く見せかけるだけの、ハリボテだ! エクスプローラー志望の人間に甘い夢を見せ、地獄へ落とすひどい詐欺だ! それを認めて謝罪しろ!」「お聞きの皆さん、ベオウルフのクラスタ『BVJ(ブルリッシュ・ヴァイオレット・ジョーカーズ)』は犯罪者集団です! 勇者という名前に騙されないで下さい! どうか私達のようにはならないで!」「彼は勇者なんて呼ばれていますが、ズルをして強く見せかけているだけの悪党です! 真実の彼は、ベンチマーク総合評価Dランクの三流エクスプローラーなのです! これは協会に問い合わせて確認したことですから、本当の話ですよ! 勇者ベオウルフは大嘘つきなのです!」

 言うなれば『ベオウルフ被害者の会』とでも呼ぶべき彼らは、しまいには関係ない野次馬の人々をターゲットに、あることないことを訴え始めた。

 いっそ呆れるほどの執念、とでも言うべきだろうか。よもや、そんなことまで調べ上げているとは思わなかった。どうあっても自分達こそが正しいと主張し、認めさせたいらしい。

「あなた達、いい加減に――!」

 度を過ぎた行為に、ヴィリーさんの全身から怒気が迸った。このまま放っておけば、遠からずよくない事態へと発展してしまうだろう。

 だから。



「だったら、かかってこい」



 突然、しん、と場が静まり返った。

 時が止まったかのように、誰もが『今の声は誰?』という顔で停止していた。

 ヴィリーさんまでもが、動かそうとしていた足を止め、硬直していた。

 僕はその隙を見逃さなかった。かつてのハヌのように。

「文句があるならかかってこい。僕が本当に強いか弱いかなんてすぐにわかる。誰でもいい。一対一でなくてもいい。僕に文句がある奴は今すぐかかってこい」

 この場にいる全員が沈黙している間に、一気に言い切った。

 自分は今、どんな表情をしているだろう――と頭のどこかで思う。笑ってはいないことだけは、確実だけど。

 ようやく僕の言葉が頭の中へ浸透したのか、被害者の会の顔色が見る見るうちに変化していった。驚きから恐怖、そこから転じて怒りへと。

「――ふっ、ふざけ」

「うるさい黙れ」

 一番最初に卵を投げつけてきた男が何か言おうとするのを、機先を制して封殺した。

「お前達の話をこれ以上聞くつもりなんてない。言ったはずだ、文句があるならかかってこい。口を動かす暇があるなら態度で示せ」

「……ッ!?」

 出鼻をくじいたところへ、追撃を叩き込む。まるでロゼさんのように。

「僕が弱い? 馬鹿を言うな。僕を誰だと思っている。どうして僕があの子の――小竜姫の騎士でいられると思っているんだ。ただ虚勢を張っているだけの奴が、あの子の隣に立てると本気で思っているのか」

 唇が、舌が、喉が、自分のものではないかのようだった。スラスラと言葉が出てくる。腹の奥底から溢れに溢れてくる膨大な感情が、僕の全身を支配していた。

 僕は前へ一歩踏み出し、距離を詰める。それだけで、彼らは電撃でも受けたかのように身を震わせて、視線を泳がせた。

「僕の強さが信じられないなら、その身で試してみればいい。いくらでも教えてやる。だけど――」

 恐れおののく彼らの顔を睥睨し、僕は酷薄な笑みを浮かべてみせた。自分ではわからないけど、そんな風になっているはずだ。何故なら、フリムを真似たのだから。

「――覚悟はしてもらうぞ。これだけのことをしてくれたんだ。ただで済むなんて思ってないだろうな。ああそうだ、絶対にただじゃ済まされない。水に流すつもりなんて微塵もない。謝罪しないどころか、わけのわからない理屈で罵ってきて。しかも僕の大切な仲間まで犯罪者扱いしたんだ」

 僕はこれみよがしに〝SEAL〟を励起させた。全身を走る輝紋から深紫の輝きが生まれ、幾何学模様を描く。支援術式を起動。〈ストレングス〉、〈ラピッド〉、〈プロテクション〉、〈フォースブースト〉のアイコンを体のあちこちに表示させる。全部で二〇個ぐらいを、一気に。

『――!?』

 周りにいた全員が息を呑んだ。僕はさらに威圧するように、〝SEAL〟へと力を注いだ。すると、フォトン・ブラッドの輝きが強まり、〝アブソリュート・スクエア〟状態のように輝紋から電弧アーク放電にも似た捻じくれた光が迸る。

 本当に術式を発動させるつもりはない。これは示威行為だ。派手な演出によって、見た目だけで脅しをかけているのだ。以前、アシュリーさんがやっていたみたいに。

「絶対に許さないぞ」

 短い言葉に力を込めて、奴らを圧倒する。先程、ヴィリーさんがそうしていたように。

 頭の中で、怒りの炎が燃え盛っていた。だけど同時に、体の芯は氷柱のように冷えきっていて、思考が冷静に巡っていた。不思議な感覚だった。落ち着き払いながら怒り狂っているみたいな、矛盾した状態。

 我ながら今の言動は、別人格がこの肉体に乗り移っているかのようで、現実感がまるでなかったけれど。

「ラグ君……?」

 ヴィリーさんの、我が目を疑るような声が耳に入る。申し訳ないけれど、それに応じる余裕はなかった。今、僕の心のベクトルは、真っ直ぐ被害者面した奴らにしか向いていなかった。

「どうした。誰もかかってこないのか。全員同時でも構わないぞ。弱い弱いと連呼していた相手がそんなにも怖いのか」

 僕はさらに一歩、前へ出る。

 すると、被害者の会の人々が、徐々に視線をある方向へと振るようになった。助けを求めるように、チラリチラリと何度も、集団の一部を見やる。やがてその視線を避けるかのように人垣が動いて、道が開いていった。

 果たして彼らの視線の行き着く先には、やけに瀟洒な男が立っていた。

 何者だろうか。

 灰褐色の巻き毛に、ライトグレイのスーツをスマートに着こなしている。よく整った顔には薄ら笑いが張り付いていて、どことなく蛇を連想させられる。体つきは中肉中背といったところで、ついている筋肉の量からエクスプローラーであることが察せられた。

 己に自称被害者達の目線が集中していると気付いた男は、何を思ったのか、白い皮手袋をはめた両手で乾いた拍手をし始めたではないか。

「いやはや、まったくまったく。困ったものですね」

 その軽い声を聞いた瞬間、僕は直感的に理解した。

 こいつがリーダーだ、と。さっきから適当そうな口調で彼らを焚き付けていた例の声は、この男のものだったのだ、と。

 彼は一人で拍手を続けながら歩き出し、周囲の人々に視線を配りつつ、半笑いで言う。

「私は別に皆さんの代表者というわけではないのですが……まぁいいでしょう。頼られて悪い気はしませんし?」

 そんなことをわざとらしく告げながら、男は一番前へと出てきた。途端、やけに濃い匂いが鼻孔を衝く。香水のつけ過ぎだろう。これだけ離れていても匂って来る暴力的な香りに一瞬むせかけるけど、どうにか我慢した。

「いやはや、勇者ベオウルフ、どうか怒りをお鎮めください。あなたのすさまじい迫力に感服いたしました。この通り、突然の無礼をお詫びいたします」

 拍手を止めたかと思えば、胸に片手をあて、男は軽く会釈した。

 いっそ清々しいほど見事な、掌返しだった。

 さっきまで散々、後ろから他の連中を煽っていたくせに、どの口が言うのか。謝罪された気が全くしなかった。

「いやぁ流石ですね、ここまで恐ろしい方だとは思いませんでした。噂では気の弱い御仁だとお聞きしていたのですが……どうやらデマだったようですねぇ?」

 モスグリーンの瞳を弓なりに反らせて、男は笑った。

 柔和な笑み、ではあるのだろう。だけどその言葉の裏に隠されている意味がわかってしまうと、途端に馬鹿にされている気しかしなくなる。腹に一物あるのが丸わかりなのだ。

 ――もし僕が気弱そうな対応をとっていたら、さっきの無茶苦茶な理屈を、そのまま押し切るつもりだったのか……!?

「申し訳ありませんでしたねぇ、ええ、突然こんなことになってしまって。ああ、申し遅れました。私、ロムニック・バグリーと申します。一応この『ベオウルフ・スタイル被害者の会』の発起人の一人です。どうかお見知り置きを」

 予想とほとんど違わぬ組織名称に少し拍子抜けしつつ、それよりも先に、

「――ふざけてるのか」

 思わず胸に浮かんだ言葉が、そのまま口を衝いて出てしまった。

 さっきのアイコン表示も、強気の発言も、全部ブラフだったつもりだ。最終的には矛を下ろして、あちらから謝罪を引き出す、ないしは最悪でも、この騒動に穏当な終止符を打つつもりでいた。

 ついさっきまでは。

 だけど、この男――ロムニックの態度が想像以上に癇に障ってしまい、怒りが収まらなかった。何もかも、見せかけだけなのだ。ここまで空々しく、慇懃無礼な立ち振る舞いをする人間を、僕は初めて見た。

 僕の恫喝に、しかしロムニックはひょいと肩を竦めてみせた。

「ふざける? いいえ、至って真面目です。大真面目です。何を根拠にそのようなひどいことを?」

 キョトンとした顔を見せた後、小首を傾げながら微笑みまでする。

 なんて白々しい。言っていることとやっていることが全部チグハグだ。僕を怒らせようと、わざとやっているようにしか思えない。

 あれだけ煽っておいて、何が申し訳ない、こんなことになってしまって――だ。『ベオウルフ・スタイル被害者の会』なんてふざけた名前の会を起ち上げておきながら、お見知りおきを――だって? 至って真面目で大真面目なら、何故そこで笑うんだ?

 言い回しも、口調も、表情も、仕種も、体臭も。何もかもが僕の頭に油を注ぐようだった。

「それより、理解いたしましたよ。あなたの強さの秘密を。なるほど、各種映像で見てもしやとは思っていましたが……確かに今のように複数の術式を同時に発動できるのなら、取り扱いが難しい支援術式でも十全に使いこなせすことが可能でしょうね。納得です。それに、術力も調整できるんですかねぇ? それとも、あなたの最大術力がとりわけ弱いのでしょうか? ああいえ、今のはあなたを弱いと言ったのではなく、【あなたの術力が】、という意味ですよ。はい」

 わざわざ注釈して、『あなたの術力が』という部分を強調する喋り方が、ひどく挑発的だった。

「ですが、こうは思いませんか? あなたのそれ――すごいですよね、まぁ仮に『マルチタスクスキル』とでも呼びましょうか? そのスキルがなければベオウルフ・スタイルは完成しない……その情報さえ広まっていれば、このような事態は起こらなかったのではないでしょうか? ねぇ?」

 その物言いを、僕はヴィリーさんのように斬り捨てる。

「僕が広めた噂じゃない。それでも、僕に責任があると言いたいのか」

 するとロムニックはことさらに首を振り、声を高めた。

「いいえ、違います違いますぅ。私はこう問いたいのです。責任があるかないかではなく――【あなたは責任を感じたりはしないのですか】、と。ええ、わかっていますとも。あなたがベオウルフ・スタイルを喧伝したわけではありませんし、単なる噂を、裏付けもなく信じて実行してしまった我々にも非はありましょう。ですが……」

 大仰な身振り手振りを付け加えながら、灰褐色の髪の男は語る。ほとんど僕に対してではなく、周囲の人々へ訴えかけるように。

 ちら、とモスグリーンの瞳が意味ありげに僕を見る。

「――心は痛まないのでしょうか? 全てではないにせよ、責任の一端はあるはずでしょう? 噂の発生源として、思うことはないのでしょうか? あなたが噂が広まっているのをいち早く察知し、即座の対処をしていれば、無用な被害は防げていたとは思いませんか?」

 これはパフォーマンスだ、と気付いた。この男、どうにかして話をねじ曲げて、聴衆の面前で僕に何かしら責任を押し付けようとしているのだ。

 僕はこれに対し、先程のヴィリーさんの言葉を使って回避した。

「エクスプローラーは自己責任でやる生業だ。他に言うべき言葉はない」

「つまり、心は痛まなかったと?」

「その質問に答えるつもりもない」

「おやおや」

 頑なに回答を拒む僕に、ロムニックはいったん舌鋒を引いた。顎に手をあて、なにやら考え込む。

「――しかし、我々の気持ちならわかるのでは? 大変申し訳ないことをしたとは思っていますが、今のあなたのお姿……ひどく汚れてしまっていますが、我々があなたにそんな仕打ちをしてしまった気持ちは、勿論おわかりですよね?」

 質問の仕方を変えてきた。だけど、何を引き出したいのかは判然としている。自分達のやったことを正当化させたいのだ。

 だけど、今の僕にはそんなことをさせてやるつもりは微塵もない。ただの服だったのならともかく、せっかくフリムがリメイクしてくれた新作ジャケットを、理不尽な理由でこんなに汚されたのだ。

「いい加減にしろ。質問には答えない。それに、話すことは何もないと言ったはずだ」

「いやはや。やはり、文句があるならかかってこい、その度胸がないのなら帰れ――と。そういうことですか? ならば致し方ありませんねぇ」

 すげなく拒絶する僕に、ようやく諦めたのかロムニックは、ふぅ、と溜息をついた。

 そのまま、何故か両手にはめた白手袋を外し始める。

「では、あなたに決闘デュエルを申し込みましょう」

 握って束ねた手袋を、ロムニックは無造作に放り投げた。軽いそれは、ぽとり、と僕の足元へと落ちる。

「…………」

 意味がわからなかった。

 いや、この行為の意味するところなら知っている。相手の足元へ手袋を投げる、それは決闘の申し込みとして古くから伝わる風習だ。投げられた相手がそれを拾えば、決闘を受諾するという意味になることも知っている。

 だけど、このタイミングでそんなことをする意味がまったくわからない。

 僕が凝然と足元の白手袋を見つめていると、ロムニックは声も高らかに解説を始めた。

 んふふ、と気持ち悪い笑い声をこぼし、

「かかってこい、と仰ったのはベオウルフ、あなた自身ですよねぇ? ええ、ですからこうして、私はあなたに決闘を申し込むのです。何故ならば――」

 彼は周りの人々の反応を窺うように、周囲に視線を巡らした。

「――ここで危険な戦闘行為は出来ないでしょう? 街中で争うのは犯罪ですからねぇ。本気で戦うのであれば、やはり遺跡レリクスの中で決闘するのが一番です。なにせ――【相手の命を奪っても罪にならない】のですからぁ?」

「なっ……!?」

 平然と言ってのけられた剣呑な言葉に、思わず呻いてしまう。

 以前から言っている通り、ルナティック・バベルなどの遺跡内は無法地帯であり、どこの国の法律も適用されない。故に、例え殺人事件が起こったとしても捜査などは一切されないし、犯人も逮捕されない。言わば、中に入った全員が治外法権を所有するのである。

 だから、そのことを利用した『決闘デュエル』という風習がエクスプローラーには存在する。言わずもがな、無法地帯での殺し合いをそう呼称しているだけで、最低で最悪の超法規的手段だ。ニエベス達が僕にした尾行や、背後からの奇襲などに比べれば、事前にルールを決めて真正面から闘う分だけいくらかマシだが、それでもエクスプローラーの暴力的な一面を示す暗部であることは間違いない。

「おやおや、どうしました? 【だったら、かかってこい】――あなたそう言いましたよね? 私はその通りにしているだけですが、何か問題でも?」

「…………」

 確かに言った。はったりとして。だけど、命のやりとりまで示唆したつもりはない。この男は、わざとそのあたりを拡大解釈しようというのだ。

「よもや断ったりなんかしませんよね? 逃げたりなんかしませんよね? 自分から言い出したんですものねぇ? 文句があるならかかってこい。口を動かす暇があるなら態度で示せ――ここまで言っておいて、まさかねぇ?」

 ネチネチとロムニックは僕の逃げ道を塞いでいく。だけど、その真意が汲み取れない。

 一体何の目的でこんなことを言い出しているのか。僕と決闘することで、この男にどんな利益が発生するというのか。まるで読み取れなかった。

 ――僕と殺し合いがしたいのか、こいつは……?

 訝しげにロムニックの顔を睨んでいると、ヘラヘラと笑う彼はさらにこう続けた。

「ああ、勿論ハンデといいますか、条件はつけさせてもらいますよ? 何故かと言いますと、この決闘は【あなたの強さを証明するためのもの】なのですから」

「……?」

 どういう意味だ、という僕の視線を受け、ロムニックは両腕を広げ、周囲の人々に向けて声も高らかにこう主張する。

「我々『ベオウルフ・スタイル被害者の会』は、支援術式を活用すれば自分達も勇者ベオウルフのようになれる――そう思わされた結果、甚大な被害をこうむった集団です。ですが、あなたはそれを勝手な思い込みと断じることでしょう。そう、ベオウルフ・スタイルが強いのではない! ただ、あなた自身が強いだけなのだと!」

 さながら、この場はロムニックの独擅場と化していた。大きな身振りでもって、彼は人々に演説を打つ。

「ならば、あなたはそれを証明するべきだ! いいえ、しなくてはなりません! 例え支援術式がなくとも勇者ベオウルフは強い! そのことを大勢の前で、公正明大な方法で、つまびらかにしなければならないのです!」

 いきなり始まった大袈裟なパフォーマンスに皆が唖然とする中、ロムニックは再び僕の方へと向き直り、こう告げた。

「まぁ要するに、【支援術式は一切なしで決闘しましょう】と、私はそう言っているわけですよ」

 にやり、と意地の悪い笑みを口元に張り付けて。

「ねぇ皆さん、そうでしょう? そう思われるでしょう? ベオウルフが支援術式なしでも私に勝てるのなら、彼の強さは本物です! ですが、支援術式がなければ三流のエクスプローラーというのであれば、やはりベオウルフ・スタイルを生み出した彼の功罪は大きい! 自らの影響力も考慮せず無責任に戦型を誇示し、我々のような被害者を生み出した責任を取るべきです! そうは思いませんか!」

 この時、ロムニックの演説が『ベオウルフ・スタイル被害者の会』の心へ油を注ぎ、火を点けたのがわかった。彼ら彼女らの顔つきが急激に変わり、俄然、声を荒げ始めたのだ。

「そうだ! その通りだ!」「だったら証拠を見せてみろよ! お前が支援術式抜きでも本当に強いってところを!」「詐欺じゃないっていうなら証明してもらおうじゃないか!」「逃げるんじゃないぞ! この外道め!」

 売り言葉に買い言葉――今の状況はまさにそれだった。被害者の会はさっきまでの弱腰から一転、僕の恫喝に猛然と言い返してくる。

 そんな中、ロムニックが僕に歩み寄り、握手を求めるように右手を差し出した。むわっ、とさらにきつい香水の匂いが鼻をつく。

「そうと決まれば、いつでも連絡が取れるよう、そして、もしあなたが逃げても問題がないよう、私とネイバーになりましょうか。まぁ、あなたが決闘の場に姿を見せないだなんて、この浮遊都市が落下しようとも有り得ないことだとは思いますけどねぇ?」

 にやにやと薄ら笑いを浮かべながら、いやらしい視線を僕に向けて、奴は言う。

 言うこと為すこと、全てがこちらの神経を逆撫でする男だった。まるでそのモスグリーンの瞳で僕の心の中を見通し、どうすればこちらの感情が乱れるのかを知悉しているかのような。

「――――」

 差し出された手を前に、僕は悩んでいた。

 頭は冷静だ。この手を取ったところで僕に益はない。だって、彼らの言い分は滅茶苦茶だ。理論立てているように見せかけてその実、全く筋が通っていない。要は僕を貶めたいだけなのだ。こんな見え透いた手に引っかかるなんて、愚劣にも程がある。

 それはわかっている。

「どうしました? 何を固まっているのです? さぁ、この手を取ってお互いのネイバー情報を交換いたしましょう」

 ロムニックの催促。そこへ、後方の被害者の会が野次を飛ばしてくる。

「どうした! 怖じ気づいたのかベオウルフッ!」「さっきのはハッタリか! この腰抜けがっ!」「吐いた唾は飲ませないわよ!」

 イライラする。お前達はロムニックの背後に隠れて文句を言っているだけじゃないか。腰抜けとは誰のことだ。安全な場所から罵声ばかりを飛ばすだけで、前には出てこない臆病者のお前達のことか。

 だけど、ここで怒りに任せて行動したら、ハヌやロゼさん、フリムにも迷惑や心配をかけてしまうかもしれない。それだけは――

「――確か、小竜姫とか言いましたかね? あなたのお仲間のおチビさんは。可哀想に、あなたのような腰抜け勇者が仲間だなんて、どうやらその小竜姫とやらも相当なポンコツなようですね。ここは一つ、バカ竜姫、と呼び名を変えてはいかがでしょう?」

「――――」

 ロムニックがそう言った瞬間、僕の理性は音を立てて蒸発した。

「――今、何て言った?」

 思いがけず低い声が出た。奴は僕よりも背が高い。こちらを小馬鹿にした見下しの視線が、僕の火を噴くような視線とかち合う。

 ロムニックは勝ち誇ったかのように繰り返す。

「バカ竜姫ですよ、おバカ竜姫。あなたの友達のメスガキじゃないですか。ああ、まだお仲間がいましたっけ。確かアンドロメダ……いいえ、〝狂戦士ウールヴヘジン〟でしたか。頭のトチ狂ったアホ女ですよね? 大暴れしても顔色一つ変えない気味の悪い野蛮人です。それに、〝無限光〟――そうそう彼女もひどい。あんなクソエンチャンターは聞いたことがない。まさに歩く厄災。ゴミクズ……いいえ、これではゴミに失礼ですね。歩かないだけゴミの方がまだマシです。さらに言えば、」

「もういい黙れ」

 僕は勢いよくロムニックの手を掴んだ。パァン、と乾いた音が大きく鳴り響く。

 もはや怒りなんて通り越していた。この男はある種の天才だと思う。褒めてやってもいい。他人を怒らせる――その才能だけはきっと世界一だ。

 さっきまで僕は悩んでいた。理性ではこの手を取るべきではないと理解しつつ、それでも懊悩していた。それは、本気で腹を立てていたからだ。心の底からこの男を嫌悪していたからだ。

 ぶん殴ってやりたいと、猛烈に欲していたからだ。

 そんな欲望が、理性と鬩ぎ合っていた。だけど、このロムニックという男は、遠慮なく僕の闘争本能の背中を押してしまったのだ。

「後悔させてやる」

 心の中で呟いたつもりが、勝手に口に出ていた。

 僕は殺意すら込めて奴に視線を射込んだ。感情の昂ぶりに合わせて声が裏返らないよう、必死に押し殺して告げる。

「あえて取り消せなんて言わない」

 握った手にあらん限りの力を込める。ロムニックも同様に強く握り返してくるが、痛みなんてまったく感じなかった。

「僕の仲間を侮辱したことを、絶対に後悔させてやる。絶対にだ」

 完全に無意識だった。何も意識することなく、僕はそう宣言していた。

 ロムニックは、にんまり、と満足そうに笑う。

「よろしいでしょう。これでネイバー情報の交換は終わりです。それでは詳しい日時と場所と、それに審判員をっ――!?」

 互いに手を離しかけた時だった。突然、ビクンッ、とロムニックの体が大きく震え、両肩が跳ねた。電流を流されたかのような勢いだった。彼は弾かれたように顔の向きを変え、

 そこに立っていたヴィリーさんを見た。

「気付いたわね?」

 だけど、そこにいるヴィリーさんは、僕の知っているヴィリーさんではないようだった。さっきまでと雰囲気が全然違う。怒っているわけでもなければ、逆に落ち着いているとも言い難い。

 強いて例えるなら――獲物を見つけた獣。そんな目をしてロムニックを見つめていたのだ。

「――あ、あな、たっ、はっ……!?」

 ロムニックの顔から、いやらしい薄ら笑いも、意地の悪さを湛えた眼光も、全てが吹き飛んでいた。一体彼女から何を感じとったのか。別人になったかのような怯え方だった。目を見開き、全身から脂汗を滲ませ、ヴィリーさんから視線を離さない。いや、【離せない】のか。

 コツコツとわざとらしく足音を立てて、ヴィリーさんが近寄ってきた。

「もう一度聞くわ。あなた今、【私に気付いた】わね?」

 ロムニックに身を寄せ、品定めするように頭のてっぺんから足の爪先まで何度も何度も視線を往復させる。距離が近い。猛獣が獲物の匂いを嗅いでいるようにも見えた。

 深紅の瞳から、冷徹な光が漏れ出る。

「……決闘をするなら、審判員が必要よね。それも複数。なら、私も参加するわ。あなた、ロムニック・バグリーだったかしら。もう一人の審判員はあなたの方で用意しなさい。それでフェアなジャッジが出来るでしょ。それと、念のため勝者が何を得て、敗者が何を失うのかを確認するわよ」

 金縛りにあったかのごとく微動だにしないロムニックに視線を固定して、ヴィリーさんは続ける。

「ラグ君――ベオウルフが負けた場合は、ベオウルフ・スタイルによって生じた被害に対する謝罪と賠償、といったところかしら? じゃあ、あなた達が負けた場合はどうするつもり? まぁ、まずは今回の件の謝罪と、彼の服のクリーニング代を含めた損害賠償よね。それに……」

「……そ、それに……!?」

 ロムニックはまるで蛇に睨まれたカエルのように、ようやくという感じで聞き返した。

「忘れないで欲しいわね。あなた達が潰したのは、彼の貴重な休日だけじゃないわ。この私――剣嬢ヴィリーの、大切な友人と過ごす時間をも邪魔したのよ。当然、それも補償してもらわないと困るわね。なにせ、そちらは何十人もいるのだし、こちらはあなたが罵ったベオウルフの仲間を含めても二桁に届かない人数よ。そちらが数的に有利なのは変わらないのだから、問題はないでしょう? いいえ、全くないわね」

 自分で問うておきながら、自分で否定するヴィリーさん。反駁など絶対に許さない――言外にそう言っているようだった。

「だからベオウルフが勝った暁には、私からの要求も呑んでもらうわよ、ロムニック・バグリー」

 男のフルネームを舌に載せて転がし、ヴィリーさんは舌なめずりをするように告げる。

「あなた、私とも決闘しなさい」

「なっ――!?」

 さっき僕がしたのと同じような反応を、ロムニックはした。ただでさえ見開いていた目をさらに丸くして、胸を強く押されたかのごとく呻く。追い詰められた鼠よろしく、ロムニックは宙に視線を泳がせた。

「……ば、馬鹿なことを……わ、私などがあなた、剣嬢ヴィリーと決闘するなど……しょ、勝敗など火を見るにあきら」

「あら? いくら支援術式抜きとはいえ【あの】ベオウルフに決闘を申し込んだ勇猛な戦士の言葉とは思えないわね? それとも、あなたはベオウルフに絶対に勝てる自信があるから、決闘をするのかしら?」

 ヴィリーさんはつい先程、ロムニックが僕にやってみせた手法をそのまま転用しているようだった。

「そ、そんなことは……」

「なら問題ないわよね。文句もないはずよ。ええ、【わかっているもの】。どちらが勝つかはやってみなければわからない。それが決闘よ。そうよね?」

「…………」

 渋い顔を晒すロムニックに、くす、とヴィリーさんは笑う。

「どちらにせよ、要はあなたがベオウルフに勝てばいいだけの話よ。そうすれば、私と戦う必要なんてないわ。そうでしょう?」

 そして、噛んで含めるように繰り返す。

「あなたも【わかっているはず】よ。こうなっては逃げられない、ということぐらい」

 ここで、ふっ、とヴィリーさんの表情から笑みの要素が抜け落ちた。顔を引き締め、からかうような声音ではなく真剣な口調で、ヴィリーさんは告げる。

「あなた、散々ベオウルフが逃げられないように煽っていたようだけど、そのおかげで【あなたこそ逃げられなくなった】わね? これは自業自得だと思いなさい。あなたの【やり方】は、端で見ているだけでも極めて不愉快だわ」

「…………」

 舌から生まれてきたような男が、もはや返す言葉もなかった。憎々しげに顔を歪め、視線をあらぬ方向へ逸らしている。

 やがて、ぽつり、とロムニックが応えた。

「……いいでしょう」

 無理矢理な感じで口元に笑みを刻み、彼はヴィリーさんの瞳を見返した。

「ベオウルフが勝てば、あなたとも決闘する。そう約束しましょう。ええ、そうです。あくまで、ベオウルフが私に勝てれば――の話ですが」

 今となってはその言い回しも、ただの負け惜しみにしか聞こえない。流石はヴィリーさん、若手最強の一角といわれるトップエクスプローラーの貫禄だった。

 ヴィリーさんは再び微笑を浮かべると、ロムニックに片手を差し出した。

「ええ、よかったわ。これで、私もあなたと戦える」

 ロムニックはその手を握り、ネイバー情報を交換する。

「……まだわかりませんよ、どちらが勝つかはやってみなければわからない……そう言ったのはあなたでしょう、剣嬢ヴィリー」

 ロムニックの指摘に対し、ヴィリーさんは不敵に笑うと、涼やかな声音でこう返した。

「そうね。ただ私は信じているだけよ。必ずベオウルフが勝つ――とね。あなた程度に彼が負けるはずないのだから」

 声に似あわず痛烈な言葉に、ひくっ、とロムニックの唇の片側が跳ねた。

 互いのネイバー登録が終わり、二人はどちらからともなく手を離す。

 ロムニックは厭味ったらしい視線で僕とヴィリーさんの顔を交互に撫でると、

「……残念ながら、私とあなたが戦うことはありませんよ、きっとね。ああ最後に一つ、良いことを教えてあげましょう。私はあなた達ほどの有名人ではありませんが、これでもそれなりに名の知れたエクスプローラーであるつもりです。一部の界隈では〝下剋上アプセッター〟などと呼ばれておりますので、ご興味があれば決闘の時までにお調べください」

 少し調子を取り戻したのか、後半になるにつれて独特のねちっこさを蘇らせつつ、ロムニックは僕の方へと歩み寄ってきた。いきなり屈み込んで何をするかと思えば、こちらの足元へ放り投げた白手袋を拾い上げる。ふっ、と息を吹きかけて手袋についた汚れを払うと、彼は僕らに向き直り、にやり、と笑った。

「では、こちらの審判員が決まり次第、日時の連絡をさせていただきます。まぁ場所は、ルナティック・バベルの一階層あたりが妥当でしょう。ああ勿論、『放送局』も呼びますので、どうかそのおつもりで。それでは、失礼いたしますよ」

 胸に手を当て軽く会釈すると、ロムニックは踵を返し「それでは皆さん、ここはいったん引きましょう」と被害者の会を引き連れて去って行った。ぞろぞろと群れる彼らの内の何人かは、最後の最後まで僕に憎悪の視線を向け続けていた。ポーズではなく、本気で、心の底から僕に全ての責任があると信じ、僕こそが諸悪の根源だと断じているのだろう。

 彼らに不幸があったことそのものには、同情する。

 だけどそれと、僕の大切な仲間を馬鹿にしたこととは、全く別の話だった。

「私達も行きましょ、ラグ君」

 未だ憤懣やるかたなく立ち尽くす僕の手を、ヴィリーさんが引いた。僕は返事することも出来ず、ただ引かれるまま彼女についていった。周囲の人々の視線を感じるけれど、幸いなことに追いかけてくる人はいないようだ。



 いくらか歩くと、ヴィリーさんは適当な細い路地裏へと入っていった。建物の陰となる薄暗い小径をある程度進むと、不意に立ち止まり、くるりと振り返る。

「――大丈夫、ラグ君? 怪我はない? 卵だけだったと思うけれど、石とかは混じってなかったかしら?」

 と、優しい声で僕の全身を検分しだした。

 その時だった。

「――あ……?」

 カクン、と急に膝から力が抜けて、僕はその場に崩れ落ちた。ぺたり、と地面に尻餅をつく。

「ラグ君っ!?」

 ヴィリーさんの鋭い呼気が耳朶を震わせる。彼女もまた慌てたように屈み込み、僕の顔を覗き込んできた。

「どうしたの!?」

「……あ、あれ……? す、すみま、せん……僕……?」

 上手に喋れず、声のトーンも妙に不安定になる。自分でも不思議だった。腰が抜けたみたいに、体に力が入らない。

「……ラグ君……? あなた、もしかして……震えてるの……?」

「え……?」

 言われて気付いた。両手に目をやると、確かに小刻みに震えていた。いや、手だけじゃない。肩も足も、寒くてたまらない時のようにブルブルと身震いしていた。

 そこで、ようやく悟る。

 僕は面を上げ、ヴィリーさんの顔を見た。彼女もまた深紅の瞳で心配そうにこちらを見つめている。

 さっきのスポーツチャンバラコーナーでのヴィリーさんではないけれど、僕は呆然とこう言った。

「……こ、怖かった……みたい、です……僕……」

「……え?」

 ヴィリーさんが反応するまで若干の間があった。それほど僕の言葉が意外だったのだと思う。

 だから、咄嗟に言い訳が出た。

「そ、その……ハ、ハヌやアシュリーさんみたいに、ちゃんと、ちゃんとしなきゃって……そう思って、みんなを真似るつもりでやってたんですけど、でも僕……内心、かなりビビってたみたいで……それが今、出てきた、みたいな……」

「…………」

 珍しい。ヴィリーさんが目をパチクリとさせている。そうする、とどこか幼い少女っぽくて、何というか、妙に可愛いらしい感じがした。

「ちょっと待ってラグ君。……あなたさっき、ものすごい勢いで啖呵を切っていたわよね……?」

 信じられない、と言いたげな声でヴィリーさんは首を傾げる。

「は、はい……」

「怖かった……? ビビってた……? 嘘よ、ヘラクレスやシグロスどころか、この間はエクストラステージのフロアマスターまで倒した、あなたが……?」

「は、はい……い、いえ、あの、ヘ、ヘラクレスの時はヴィリーさんも知っていると思うんですが……僕その、すごく震えてたじゃないですか……だから、その……」

「……言われてみれば、確かにそうだったわね……」

 当時の僕の様子を思い出したのだろう。深く納得したように、ヴィリーさんは頷く。

「……そういえば、言葉遣いや話し方も、あなたらしくないものだったわね。……なるほど、小竜姫やアシュリーをイメージしていたのなら、納得だわ。ああいった反論をしそうよね、あの二人なら」

 そこまで言うと、ぷっ、とヴィリーさんは小さく噴き出した。

「ごめんなさい、でも小竜姫はともかく、アシュリーがそんな話を聞いたらきっと怒りだすわよ。真似をしたとはどういうことですか、私はあんなに怖くありません――なんて言って」

 ふふふ、と楽しそうに笑うヴィリーさん。

 実はヴィリーさんも一部混じっていたんですが、とは流石に言えなかった。

「す、すみません……」

「いいのよ、これは秘密にしておくわね。あ、ちょっと動かないで。今、綺麗にしてあげるわ」

 茶目っ気たっぷりにウィンクして、ヴィリーさんは〝SEAL〟のストレージから新しいタオルと、水の入ったペットボトルを取り出した。タオルを濡らし、汚れた僕の服を拭ってくれる。

「あ、ありがとうございます……」

 二重の意味で僕はお礼を言った。

 体の震えは少しマシになりつつあるけど、体の芯から来るものが、まだ微妙に残っている。

 今更だけど――怖かった。

 まさか、あんな大勢から、あれほどの悪意をぶつけられるだなんて。

 もし最初に卵を投げつけられず、〝アキレウス〟を汚されて感情的になっていなければ――僕は足が竦んで、その場で今のように震え上がっていたかもしれない。

 考えてみればヴィリーさんの言う通りで、ヘラクレスも、シグロスも、そしてミドガルズオルムも、被害者の会と比べるべくもなく遥かに強大で恐ろしい敵だった。あの怪物達と戦ったことを思えば、さっきの罵声の嵐なんて何てことない――頭ではそう理解している。だから、ヴィリーさんが驚いたのはある意味当然だと、自分でも思う。

 だけど、実際問題、僕はこうして打ち震えている。

 何故か。

 きっと、恐怖の質が違うのだろう。実際に戦いを繰り広げる敵は、こちらへ直接的かつ肉体的なダメージを与えてくる。けれど、あの『ベオウルフ・スタイル被害者の会』の人々は、間接的かつ精神的なダメージを叩き付けてきたのだ。

「それにしても、不思議な子ね、あなたは。あれだけの戦いを乗り越え、余人に真似できない結果を出しておきながら……未だに心は初めて出会った時のままなのね。少しもぶれていない――という意味では、強靱な精神の持ち主、って言えるのかしら?」

 頭や髪を綺麗にしてくれたヴィリーさんが、タオルの畳み方を変え、今度はジャケットを拭いてくれる。幸い戦闘ジャケット〝アキレウス〟は頑丈で、ある程度の防水性もあるから、ぬるりとした液体は簡単に拭えそうだった。

「…………」

 心だけ成長していないのね――ヴィリーさんにそう言われてた気がした。

 自分で言うのも何だけど、僕はハヌと友達になるまでずっと一人ぼっちだった。だから、メンタルが強い、なんて言ったら大嘘になる。

 そもそもからして、僕は他人が怖いのだと思う。特に、心無い言葉で傷つけられることが。〝ぼっちハンサー〟と呼ばれていた頃は――そんなあだ名をつけられているとは知らなかったけど――それはもう、何度も何度も容赦なく傷つけられたものだ。

 いわゆる野良パーティー、一時的なインスタントパーティーを組もうとメンバー募集しているところへ行き、エンハンサーだと名乗ると、

『なんだよいらねぇよ、お前みたいなのは』

『はぁ? ふざけてんのか?』

『逆に聞くけど、君なら君を仲間にしたいって思うのかな? 思わないよね?』

『はいはい、邪魔邪魔。あっち行って』

『ないわー、パス』

『ごめん、あっち行ってくれる?』

『君、悪いことは言わないからもう帰った方がいいよ?』

『人生なめてるの? それとも、わざとなの?』

『失せろ雑魚が! うっとうしい!』

 大体はこんな感じになった。それぐらいエンハンサーは忌避されていたし、何より僕自身の見た目が頼りなかったのも要因の一つだろう。極稀に、どうしても人出が足りずルーターのポートが余るぐらいなら、という感じで仲間に入れてくれる時もあったのだけど、その時だって上手く交流できず、役にも立てなかったので、やはり次には繋がらなかった。

『もういいよ、お前』

『おいおい、少しぐらい頑張ってくれよなー、マジで』

『はぁ……お疲れさん。明日は来なくていいよ。つか、来んな』

『ぶっちゃけ、いなくてもよかったな、君。それでも約束だから報酬は山分けするけどさ』

『他人様に甘えるぐらいなら、エクスプローラーなんざやめとけ。向いてないんだよ、お前みたいな奴には』

『ったく死ねよ、うぜぇ! あーあ、クソ掴んじまった』

 そんな風に僕を罵り、一時でも仲間に入れたことを後悔した人のなんと多かったことか。

 僕が全面的に悪いのだろう。エンハンサーのくせに、パーティーに入りたがったり。知らない人達だから支援術式を使う好機が上手く掴めず、的外れなタイミングで強化してしまったり。前線へ出ても、ちゃんとした連携がとれず足を引っ張ってしまったり。

 役立たずだった。だから、みんなが怒るのも当然だった。

 でも、彼らにはわかっていたのだろうか。

 僕にだって、普通に、当たり前に、ありきたりに心があることを。

 鋭い言葉は胸に引っかかり、心を裂いて体を通り抜けていく。きついことを言われる度、愛想笑いの形をした表情筋は硬くなっていった。声をかける前から、どうせ駄目だろう、なんて諦めを抱くようになったのは、いつからだっただろうか。

 今のこの震えは、その時の傷口が開いたからなのかもしれなかった。

「でも、大丈夫よ。恥ずかしがる必要なんてないわ。だって、あなたは〝勇者ベオウルフ〟なのだもの」

「え?」

 僕の背後に回り、背中を拭いてくれていたヴィリーさんの言葉に思わず振り向く。ヴィリーさんは丹念にジャケットを綺麗にしてくれながら、

「怖いもの知らず、というのは実は馬鹿の別名なのよ。恐怖を知る人間は慎重になって、危ない真似はしないでしょ? 臆病でもいいのよ。それこそ傲慢で、向こう見ずな人間になって、周囲に迷惑や不快感を振りまくようになるよりはずっとマシだわ。どれだけ名を馳せても、他人と接する態度を変えないあなたはとても素敵よ、ラグ君。エクスプローラーの中には偉くなった途端、ぞんざいな態度をとり始める人間も少なくないのだから」

 どうやら褒められているらしい。さっきの『心だけ成長していないのね』と言われたような気がしたのは、僕の卑屈な思い込みだったかもしれない。

「怖がってもいいの。震えてもいいの。泣いてもいいし、時には逃げてもいいのよ。大事なのは、ここぞという時にちゃんと立ち上がれること。立ち向かえること。大切な何かを守るため、怖がっている場合でも震えている場合でもなく、泣いても喚いても何も変わらなくて、絶対に逃げてはいけないその時に――ちゃんと勇気を奮い立たせられることなの」

 ヴィリーさんは臆病者を肯定する。少し意外だった。ヴィリーさんはそういった人間を嫌っているものとばかり思っていたから。

「あの時……小竜姫を助けるためにセキュリティルームへ飛び込んでいったあなたは、確かに泣いていたし、震えてもいたわ。でも、【逃げなかった】。死ぬ可能性しか見えないあの状況で、あなたはカレルレンの制止すら振り切って、小竜姫の下へ文字通り飛んでいったわ。なおかつ、ヘラクレスという絶望的な敵を相手に、真っ向から勝負を挑み、最後には勝利した。だから――」

 ジャケットを拭き終えたヴィリーさんは立ち上がり、僕の前に回った。少し屈み、僕に手を差し伸べる。

「――だからあなたは〝勇者〟なの。立つべき時に立ち、怒るべき時に怒り、戦うべき時に戦う。そんな正しい勇気を持っているから」

 僕は無意識にヴィリーさんの手をとっていた。彼女は僕の体を難無く引き起こしてくれる。

「誰にでも出来ることではないわ。事実あの時、あなた以外の誰もが、セキュリティルームの外から見ていることしか出来なかったのだから」

 深紅の瞳が柔らかい眼差しを向けてくれる。僕を讃えるその言葉は、決して慰めなどではなく、心底から発しているのだと言うように。

「さっきのもそうだったでしょ? あなたが本気で怒ったのは、仲間の為だった。小竜姫達を馬鹿にされたから、許せなかった。それがあんな不利な決闘を受けた理由。自分の為ではなく、誰かの為に……とても素晴らしいことだわ。恥じることなんてどこにもない、立派なあり方よ」

 にっこり、と女神みたいな笑みを浮かべて、ヴィリーさんは僕の胸に掌を当てた。

「それに、あなたはまだまだ成長途中。すぐにこの程度のことでは動じなくなるわ。この私、剣嬢ヴィリーが言うのだから絶対よ。保証してあげる」

「ヴィリーさん……」

 万感の思いが胸に込み上げてきて、僕は言葉に詰まる。名前を呼んだ僕に、ヴィリーさんは片目を瞑って見せることで返事とした。

「さぁ、これである程度は綺麗になったわね。流石に染みこんだものまでは拭き取れないけど……ラグ君、着替えは持ってるかしら?」

「あ、は、はい。エクスプロール用の服なら」

「なら、それに着替えてしまいましょうか。これから小竜姫達のところへ帰って、対策会議をしないといけないのだし」

「え?」

 しれっと告げられた言葉に、僕はキョトンとしてしまう。

「え? ではないわ、ラグ君。この件については私も当事者なのよ。勿論、最後まで付き合わせてもらうわ。それに聞いていたと思うけど、私も彼に用事があるの」

「用事……?」

「それは小竜姫達と一緒になってから説明するわ。あなたの仲間のロルトリンゼさんにも、少なからず関係のあることだから」

「……?」

 何故ここでロゼさんの名前が出てくるのだろうか。あのロムニックと、ヴィリーさんと、ロゼさん。この三名に何か共通点なんてあっただろうか?

 小首を傾げた僕に、ヴィリーさんは続けて言う。

「けれどそれにはまず、あなたが決闘であの男、ロムニック・バグリーに勝利する必要があるわ。――特訓よ、ラグ君」

「へっ?」

 突然飛び出した『特訓』という単語に、僕はギクリとする。この瞬間、脳裏に浮かんだのはアシュリーさんの顔だった。もしかしたら――という可能性に思い至り、嫌な予感が生じたのである。

 僕が何か言うよりも早く、ガシッ、とヴィリーさんの両手が僕の肩を掴んだ。ヴィリーさんの麗しい美貌が、ずい、と肉薄する。

「いい? これはとても重要なことなの。あなたにとっても、私にとっても。エクスプロールなんてしている場合じゃないわ。勝つためには特訓よ。大丈夫、この剣嬢の名にかけて必ずあなたを勝利させてあげるわ。約束よ。安心してちょうだい」

「え、あ、あの……!?」

「あの男は『放送局』を呼ぶと言っていたわ。なら、手続きや準備の手間を考えれば最短でも三日は必要よ。その三日間で、あなたを彼に勝てるレベルまで引き上げるわ。心配ないわよ、三日もあれば十分だから。支援術式は禁止されても、攻撃術式なら使えるはず。そこに勝機があるわ」

 深紅の双眸が、戦意の炎で燃え盛っているようだった。ヴィリーさんは僕と目線を合わせているように見えて、その実、勝利の未来しか見ていないような眼差しをしている。

 正直、引くほど怖かった。

「さぁ、早速だけど小竜姫達にも説明して、対策を練る会議をしましょう。ラグ君、悪いけどあなたから連絡を入れてくれるかしら?」

「は、はいっ……!」

 有無を言わせぬ迫力で言われ、僕は為す術もなくヴィリーさんの指示に従った。逆らったり反論しようものなら、何をされるかわかったものではなかった。

 しかし――

「……あれ?」

〝SEAL〟のメッセージ機能を起動させようとして、違和感に愕然とする。僕は思わず右腕の袖をめくって、皮膚の状態を確認した。

 異常はない。

「? どうしたの、ラグ君?」

「…………」

 繰り返す。【異常はない】。

 僕は〝SEAL〟を使って、ハヌやロゼさんにメッセージを送ろうと思った。実際に、そうしようとした。

 だけど、何も起こらなかった。

「……あ、あれ……? お、おかしいな……?」

 口ではそう言いながらも、僕は既に何度も〝SEAL〟を動かそうとしている。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、視界にARスクリーンを起ち上げようと意識していた。

 でも、駄目だった。全く動かない。ウンともスンとも言わない。僕の視野に浮かび上がってくるはずの映像は、微塵も現れなかった。

 この感覚は、ある日突然、自分の腕や指が動かなくなるような感じに似ているかもしれない。自由自在に動くはずの体の一部が、脳からの指令に全く従わず、沈黙しているのだ。

 まさか、嘘だ、嫌だ――そんな恐怖が僕の心臓を鷲掴みにする。

 僕はどうすればいいのかわからなくて、何度も自分の掌や腕や肩を見たりして、足掻いてみた。いや、【足掻いている振りをした】。

 だけど、唐突に理解してしまった。これはもう駄目なのだ、と。

 諦めた僕は、不思議そうにこちらを見つめているヴィリーさんと再び目を合わせ、震える声でこう告げた。

「……〝SEAL〟が、励起できなくなりました……」




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