お兄ちゃんがお母さんで、妹が甘えん坊なお話
旅行に行こう!
「旅行に行こう!」
少し暑さを感じ始める時期の週の初めの月曜。
その日もとっぷりと日が沈んで、すでに夕食の時間帯。
家族三人非常に仲睦まじく、今となっては近所でも評判の美形家族として有名になっている高宮家の夕食の食卓で、いつも通り長男である涼羽が家族のために作ってくれる食事に舌鼓を打ちながら、一家の大黒柱である翔羽が唐突に声にした一言。
「え?」
「!ほんと!?」
そんな父の一言に、涼羽は思わず間の抜けた感じの反応となってしまう。
そんな兄、涼羽とは対照的に、羽月は旅行と言う言葉に無邪気で嬉しそうな笑顔を浮かべながら、父、翔羽に聞き返してくる。
「ああ!ほんとだとも!」
「それって、私達家族で!?」
「ああ、もちろん!」
「わ~い!お兄ちゃんとお父さんで旅行!」
自分のいきなりの一言に、娘である羽月がこんなにも分かりやすく嬉しそうな反応を返してくれことに気を良くした翔羽。
自分も嬉しさを隠せないと言わんばかりの笑顔を浮かべ、羽月の望む答えを返していく。
そんな父の言葉に、羽月はますます嬉しくなったのか、食事中であるにも関わらず、無邪気にはしゃいでしまっている。
父、翔羽と妹、羽月がただただ嬉しそうに話を進めている中、涼羽だけは一体何を言われたのか、よく分からないといった感じの、きょとんとした表情を浮かべている。
「ん?どうした?涼羽?」
「どうしたの?お兄ちゃん?」
「せっかく家族水入らずで旅行に行くんだぞ?」
「そうだよ?嬉しくない?」
一人だけ蚊帳の外のような雰囲気の涼羽が気になり、翔羽も羽月も涼羽に声をかける。
もしかして、家族旅行ということを望んでいないのではないのか。
涼羽の反応がそんな風にも思えて、気になってしまう。
「あ…そ、そんなことないよ。嬉しいよ」
「?なら、なんでそんな何ともいえなさそうな顔をしてるんだ?」
「?何か、心配なことでもあるの?お兄ちゃん?」
嬉しくない、と言う言葉にはすぐに否定の言葉を返すものの、やはりどこか浮かない表情の涼羽。
そんな涼羽の反応に二人はますます心配になってしまい、涼羽のことを気遣うように問いかけの言葉を声として涼羽に送る。
「…お父さん、今ただでさえお仕事で忙しいのに、大丈夫なの?」
二人の自分を気遣うような言葉に、少し考えること数秒。
そんな、ほんの少しの間を置いて涼羽はその思いを言葉として発する。
涼羽は、翔羽が自分が関わったブライダルキャンペーンの大反響の陰で、今非常に多忙な日々を送っていることを知っている。
ここ最近は休日出勤も非常に多く、平日はほぼ定時で終わっていたのも午後十時を超えて帰ってくるのも決して珍しくはない状態となっていることも。
本来の業務である自社の仕事も、翔羽以外の人間ならまずどうにもこうにもできなくて溺れてしまうほどの作業量となっているにも関わらず、さらには他社のキャンペーンの業務の応援までこなしているのだ。
それも、キャンペーンの反響が大きくなればなるほど、より多忙になっていく。
その合間に自身の部下を少しずつでも育てていき、自分がしている作業を少しでも部下にふれるようにはしていっているのだが、それでも翔羽一人の負担が大きすぎる。
時には涼羽も、自分のできる範囲で翔羽には内緒で、翔羽の会社の役員である幸助からスポット的に翔羽の作業の応援を頼まれることがあるほど。
まだその会社にも所属していない、一介の高校生であるがゆえにできることは限られているものの、それで父が少しでも楽になってくれるならと、涼羽はそれを快く引き受け、その処理能力を駆使して与えられたことをきっちりと、それでいて迅速に片付けていく。
そうして、少しでも負担が軽くなったところで、翔羽はしっかりと部下の育成をこなしていく。
やはりどうしてもできる方に負担がかかってしまうのは世の常。
それゆえに、翔羽の負担はもはや限界にまで膨れ上がっていっている。
それが分かっていながらも、幸助も誠一も翔羽に負担をかけるような状態を変えられないことを、非常に不甲斐なく、そして申し訳なく思っている。
そのことを涼羽は他ならぬその二人から直接聞かされているため、父のことを最優先に考えてしまう。
だからこそ、旅行という言葉にも、嬉しさよりも心配の方が先に出てしまうのだ。
「なんだ…涼羽、そんなことを心配してたのか?」
「!そ、そんなことじゃないよ!いつもあんなに遅く帰ってきて…お休みの日もお仕事に行って…お父さん、大丈夫かなって…ずっと思ってるのに!」
「…お前は本当に優しいなあ…涼羽」
翔羽自身は、そんな状況でも、かつての単身赴任の時と比べれば全然やれるといい切れてしまうため、別にそこまで負担を感じているわけではない。
ただ、この最愛の子供達との触れ合いの時間が少なくなることには、やはりストレスを感じてはいるのだが。
しかし、それでも以前とは違い、家に帰れば確実に二人の愛しい子供の姿を見ることができるのは、翔羽にとって非常に大きな心の支えとなっている。
この二人のために働いているのだと思えば、少々の疲れなど吹っ飛んでしまう。
そして、そのうちの最愛の息子である涼羽が、ここまで自分のことを心配してくれていることが翔羽は嬉しくて、つい涼羽の頭を優しくなでてしまう。
「…無理しないでよ、お父さん。旅行なんて…お父さんのお仕事が楽になってからでもいいんだから…」
「…お兄ちゃん…」
父の帰りが遅いことは知ってはいたが、それもただ単に遅いな、くらいにしか思っていなかった羽月。
最愛の兄である涼羽にべったりと甘えることしか頭になかったのもあるが、羽月はまだ自分で働いてお金を稼ぐ、ということをしたことがない。
だから、仕事が忙しくて早く帰ることができない、ということを知らない。
それゆえに、父がいきなり切り出してきた旅行の話も、ただただ嬉しくて無邪気に喜んでいた。
涼羽は、すでに自分でアルバイトも始めており、今となっては父が関係している会社から業務の応援をお願いされることもちょくちょくあるため、仕事が忙しいということがどういうことなのか、なんとなくでも分かってきている。
ましてや、その父の状況を直接の上司や取引先の社長から聞かされているのだから、嫌でも心配してしまう。
最近は、少しでも父に美味しく食べてもらおうと翔羽の好物を中心に、栄養士ばりにカロリー計算などもしながら献立を考えて料理している。
時には父のマッサージなどもして、少しでも身体が楽になるようにと、常日頃から非常に多忙な父のことを心配して父のために行動している。
そんな兄、涼羽の姿を見ていたにも関わらず、父の心配もせずに旅行と言う言葉にただ喜んでいただけの自分が恥ずかしくなって、羽月はついばつが悪そうに俯いてしまう。
「…お父さん、ごめんなさい…」
「…羽月?」
「…お父さんがそんなにお仕事忙しかったなんて、私、思ったこともなかった…」
「………」
「…お兄ちゃんがそんなにも心配してたなんて、私、全然知らなかった…」
「…羽月…」
「ごめんなさい、お父さん…お兄ちゃん…」
羽月は、俯きながらも素直にその申し訳ないという思いを言葉にする。
ずっと家のために非常に負担が大きい中、懸命に働いてくれている父。
そんな父をずっと心配して、少しでも負担が軽くなるように懸命に取り組んでいる兄。
その二人と比べて、自分は何もしてないどころか、そんなことすら知らなかった。
それがとても申し訳なくて、たまらない。
そんな思いから出てくる、ごめんなさいの言葉。
「…羽月、子供達のために働くのは、父親である俺の務めなんだから、お前がそんなに気にする必要なんかないんだよ」
「…お父さん」
「…羽月、ごめんね。羽月にも、お父さんがどれだけ頑張ってくれてるのか、教えてあげたらよかったね…ごめんね」
「…お兄ちゃん」
しゅんと沈んでしまっている羽月が可愛くて、翔羽はついつい羽月の頭も優しく撫でながら、慰めの言葉をかける。
涼羽も、羽月に父の状況をちゃんと教えてあげたらよかったと思い、羽月を慰めるように言葉をかける。
そんな二人が優しくて、やっぱり父も兄も、本当に大好きなんだと、羽月は思う。
「…だがな、涼羽、羽月。お父さんは大丈夫だからな」
「え?…」
「どういうこと?…」
「今、俺の下で働いてくれている部下達がすごく頼りになるようになってきてな。今は俺が担当していたところも、かなりの部分を部下達に任せられるようになってるんだよ」
実は、幸助も知らない中、翔羽の部下達が、尊敬してやまない上司である翔羽のあまりにも大きい負担を減らしていこうという目的のなか、非常に強い結束の元にそのパフォーマンスを上げていっていた。
そして、翔羽の背中を追いかけるかのように全員で業務に関する知識を深めつつ、より効率的な形で実務をこなしていけるように、全員で翔羽も知らない中勉強会まで行なっていた。
ましてや、翔羽も知らなかったはずの、幸助が翔羽の業務の応援を涼羽にお願いしているということまでどこからか聞きつけ、そのおかげでより部下達の思いが強くなったのだ。
そのおかげで、部下達はここ数ヶ月ほどで翔羽が驚くほどに仕事の能率が高くなり、先々週にはもう自社での翔羽が担当していた業務のかなりの部分をこなせるようになっていた。
その上で、部下達全員で翔羽に直訴したのだ。
――――部長!!自分達がもっと働けますから、もっと部長が担当している仕事を割り振ってください!!――――
部下達の、そんな熱い思いがこめられた直訴に翔羽は一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐに思わずその顔を伏せてしまった。
そうしないと、このこみ上げてくる思いが形となって零れ落ちてしまいそうになったから。
しかも、ここ最近の仕事っぷりを見ていても非常に安心できるのは間違いなく、今後の部下達のブラッシュアップにもなるであろうという確信も出てきた。
そして、先週から試験的に翔羽は自分が担当していた業務を部下一人ひとりに単独で割り振りをし、さらには誠一の会社にもローテーションで部下達を出向させるように、業務のレクチャーをしていったのだ。
その結果、先方にも太鼓判を押してもらえるほどの働きをその時連れて行った部下達は見せており、これならまかせられると、翔羽も先方の担当も判断。
加えて、自社の業務も翔羽がいなくても十分にこなせるほどには、部下一人ひとりの実務能力が上がっていて、こちらも翔羽自身、本当に安心できるようになっている。
この動きは、翔羽の部下達が独断で行なっていたため、幸助はそれをまるで知らない状態であり、今週の初めになってようやく、それを知ることとなった。
ゆえに、涼羽もそのことを知らなかったのだ。
「!そ、そうなの?」
「ああ、だから、今週はまだ忙しくなるけど、今週末からは俺の優秀な部下達がそれぞれローテーションで担当してくれることになったからな」
「すご~い!」
「それで、専務からも『最近働きづめで疲れただろう。少し有休でも取って、リフレッシュでもしなさい』と言ってもらえたんだ」
「!よかった…」
「だから今週末から俺は少し休暇に入るから、せっかくだし家族水入らずで旅行に行こうと思ったのさ」
「!わ~い!お父さんのお仕事、楽になってよかった~!」
これまで、この子供達に父親らしいことをしてやるどころか、そのそばにいてやることすらも叶わなかった翔羽。
再び一緒に暮らすようになってから、それなりに時間が経ったのだが、それでも旅行ということもしたことがなかった。
これからは、家族での思い出を増やしていきたいし、もっとこの子供達を色々なところに連れ出してあげたい。
羽月は、父も母もいない中でそれでも、兄と一緒に日々を無事に過ごしてきてくれた。
涼羽は、父も母もいない中でそれでも、しっかりと羽月の兄として、親代わりとして懸命に家のことを引き受け、頑張ってきてくれた。
そんな健気な子供達のためにも、この期に初めての家族旅行に行こうと思い立ったのだ。
「あ、でも俺…保育園のアルバイトが…」
しかし、今や秋月保育園ではなくてはならない存在となっている涼羽は、アルバイトを休むことができないと思い、そのことに憂いを感じてしまう。
非常に真面目で、人の迷惑になることを嫌う涼羽であるがゆえに、この辺は当然の懸念となってしまっていた。
「ああ、それなら大丈夫だ」
そんな涼羽の懸念に対して、あっさりと翔羽が言う。
何も問題はない、と。
「え?」
「実は、今回の家族旅行を思い立った時に、真っ先に秋月保育園の秋月園長に話をしにいってな」
「!え、ええ!?」
「今週末くらいに涼羽を家族旅行に連れて行きたいので、涼羽にお休みをもらえませんか、ってね」
「!お、お父さん!?」
「そしたら園長先生も、『それはいいことです!ぜひ連れて行ってあげてください!涼羽君…御子息は本当にこの保育園のために頑張ってくれていて、そのおかげで学生らしいこともできてないのではないかと、私も思っていたのです。今なら涼羽君がいなくても業務は十分こなせるくらいにはなってますから、大丈夫です。ぜひ連れて行ってあげてください』って言ってくれてな」
「!園長先生が…そんな…」
「実は前にも偶然、園長先生とは偶然会ってな…涼羽のことで色々と話をしたことがあったんだが、その時も涼羽のことを非常に高く評価してくれていて、加えて涼羽のことをとても心配してくれててな」
「!そ、そうなの?」
非常に仕事に対して真面目な涼羽が、自分から自己都合で休むなどと言い出せないだろうと思っていた翔羽が、涼羽には内緒で自ら園長である祥吾に直談判をしていた。
涼羽の父である翔羽が、涼羽を家族旅行に連れて行きたいと言ってきた時、祥吾はまるで自分のことのようにそれを喜び、ぜひそうしてほしいとまで言ってきた。
そして、涼羽が普段どれほど秋月保育園に貢献してくれているのかを本当に嬉しそうに話し、さらには自分が無理を言ってここで働いてもらっていることで、涼羽が学生らしいことをできていないのではないかと、常に思っていることも話してくれた。
以前にもたまには休んで、息抜きをしたらいいと言った時も、この仕事が好きだからと言って、結局働き始めてから今の今まで一度も休むことなく、いつも自分達を楽にするために働いてくれている涼羽には感謝しかないという思いと、普通に遊ぶ時間を与えてあげられなくて申し訳ない、という思いを、祥吾は抱いていたのだ。
「そうだ…園長先生はこの仕事のせいでお前が学生らしく、友達と遊んだりすることもできていないのではないかって、常に心配されててな」
「!そ、そんな…そんなことないのに…」
「だから、涼羽を家族旅行に連れて行きたいと俺が言った時、園長先生はそのことをまるで自分のことのように喜んでくれたんだよ」
「園長先生…」
「だから、お前がたまには休んで旅行に行ったりするのも、園長先生が喜んでくれることなんだよ…だから涼羽、一緒に家族旅行に行こう、な?」
「お兄ちゃん!私、お兄ちゃんとお父さんと一緒に旅行に行きたい!ねえ、行こう!」
まさか祥吾がそこまで自分のことを心配してくれていたことを、翔羽の口から聞かされて、涼羽は本当に嬉しくてたまらなくなってしまった。
そして、秋月保育園で働けていることを、本当によかったと、ありがたいと思った。
そして、こうして家族三人で旅行に出かけるという機会を得られたことにも素直に嬉しく思えてきて、本当にみんなで行きたいという思いが、涼羽の中でどんどん大きくなっていく。
そうなれば、涼羽の返事は、一つだった。
「…うん!みんなで旅行、行こう!」
家族だけでなく、周囲の人達に本当に支えられていることを実感する機会となったこの時。
そのことに対する感謝を家族三人がそれぞれ抱きながら、初めての家族旅行を本当に楽しみになってくる。
その楽しみを待ちきれなくて、そのことで家族三人水入らずで和気藹々とした会話が広がっていくので、あった。
少し暑さを感じ始める時期の週の初めの月曜。
その日もとっぷりと日が沈んで、すでに夕食の時間帯。
家族三人非常に仲睦まじく、今となっては近所でも評判の美形家族として有名になっている高宮家の夕食の食卓で、いつも通り長男である涼羽が家族のために作ってくれる食事に舌鼓を打ちながら、一家の大黒柱である翔羽が唐突に声にした一言。
「え?」
「!ほんと!?」
そんな父の一言に、涼羽は思わず間の抜けた感じの反応となってしまう。
そんな兄、涼羽とは対照的に、羽月は旅行と言う言葉に無邪気で嬉しそうな笑顔を浮かべながら、父、翔羽に聞き返してくる。
「ああ!ほんとだとも!」
「それって、私達家族で!?」
「ああ、もちろん!」
「わ~い!お兄ちゃんとお父さんで旅行!」
自分のいきなりの一言に、娘である羽月がこんなにも分かりやすく嬉しそうな反応を返してくれことに気を良くした翔羽。
自分も嬉しさを隠せないと言わんばかりの笑顔を浮かべ、羽月の望む答えを返していく。
そんな父の言葉に、羽月はますます嬉しくなったのか、食事中であるにも関わらず、無邪気にはしゃいでしまっている。
父、翔羽と妹、羽月がただただ嬉しそうに話を進めている中、涼羽だけは一体何を言われたのか、よく分からないといった感じの、きょとんとした表情を浮かべている。
「ん?どうした?涼羽?」
「どうしたの?お兄ちゃん?」
「せっかく家族水入らずで旅行に行くんだぞ?」
「そうだよ?嬉しくない?」
一人だけ蚊帳の外のような雰囲気の涼羽が気になり、翔羽も羽月も涼羽に声をかける。
もしかして、家族旅行ということを望んでいないのではないのか。
涼羽の反応がそんな風にも思えて、気になってしまう。
「あ…そ、そんなことないよ。嬉しいよ」
「?なら、なんでそんな何ともいえなさそうな顔をしてるんだ?」
「?何か、心配なことでもあるの?お兄ちゃん?」
嬉しくない、と言う言葉にはすぐに否定の言葉を返すものの、やはりどこか浮かない表情の涼羽。
そんな涼羽の反応に二人はますます心配になってしまい、涼羽のことを気遣うように問いかけの言葉を声として涼羽に送る。
「…お父さん、今ただでさえお仕事で忙しいのに、大丈夫なの?」
二人の自分を気遣うような言葉に、少し考えること数秒。
そんな、ほんの少しの間を置いて涼羽はその思いを言葉として発する。
涼羽は、翔羽が自分が関わったブライダルキャンペーンの大反響の陰で、今非常に多忙な日々を送っていることを知っている。
ここ最近は休日出勤も非常に多く、平日はほぼ定時で終わっていたのも午後十時を超えて帰ってくるのも決して珍しくはない状態となっていることも。
本来の業務である自社の仕事も、翔羽以外の人間ならまずどうにもこうにもできなくて溺れてしまうほどの作業量となっているにも関わらず、さらには他社のキャンペーンの業務の応援までこなしているのだ。
それも、キャンペーンの反響が大きくなればなるほど、より多忙になっていく。
その合間に自身の部下を少しずつでも育てていき、自分がしている作業を少しでも部下にふれるようにはしていっているのだが、それでも翔羽一人の負担が大きすぎる。
時には涼羽も、自分のできる範囲で翔羽には内緒で、翔羽の会社の役員である幸助からスポット的に翔羽の作業の応援を頼まれることがあるほど。
まだその会社にも所属していない、一介の高校生であるがゆえにできることは限られているものの、それで父が少しでも楽になってくれるならと、涼羽はそれを快く引き受け、その処理能力を駆使して与えられたことをきっちりと、それでいて迅速に片付けていく。
そうして、少しでも負担が軽くなったところで、翔羽はしっかりと部下の育成をこなしていく。
やはりどうしてもできる方に負担がかかってしまうのは世の常。
それゆえに、翔羽の負担はもはや限界にまで膨れ上がっていっている。
それが分かっていながらも、幸助も誠一も翔羽に負担をかけるような状態を変えられないことを、非常に不甲斐なく、そして申し訳なく思っている。
そのことを涼羽は他ならぬその二人から直接聞かされているため、父のことを最優先に考えてしまう。
だからこそ、旅行という言葉にも、嬉しさよりも心配の方が先に出てしまうのだ。
「なんだ…涼羽、そんなことを心配してたのか?」
「!そ、そんなことじゃないよ!いつもあんなに遅く帰ってきて…お休みの日もお仕事に行って…お父さん、大丈夫かなって…ずっと思ってるのに!」
「…お前は本当に優しいなあ…涼羽」
翔羽自身は、そんな状況でも、かつての単身赴任の時と比べれば全然やれるといい切れてしまうため、別にそこまで負担を感じているわけではない。
ただ、この最愛の子供達との触れ合いの時間が少なくなることには、やはりストレスを感じてはいるのだが。
しかし、それでも以前とは違い、家に帰れば確実に二人の愛しい子供の姿を見ることができるのは、翔羽にとって非常に大きな心の支えとなっている。
この二人のために働いているのだと思えば、少々の疲れなど吹っ飛んでしまう。
そして、そのうちの最愛の息子である涼羽が、ここまで自分のことを心配してくれていることが翔羽は嬉しくて、つい涼羽の頭を優しくなでてしまう。
「…無理しないでよ、お父さん。旅行なんて…お父さんのお仕事が楽になってからでもいいんだから…」
「…お兄ちゃん…」
父の帰りが遅いことは知ってはいたが、それもただ単に遅いな、くらいにしか思っていなかった羽月。
最愛の兄である涼羽にべったりと甘えることしか頭になかったのもあるが、羽月はまだ自分で働いてお金を稼ぐ、ということをしたことがない。
だから、仕事が忙しくて早く帰ることができない、ということを知らない。
それゆえに、父がいきなり切り出してきた旅行の話も、ただただ嬉しくて無邪気に喜んでいた。
涼羽は、すでに自分でアルバイトも始めており、今となっては父が関係している会社から業務の応援をお願いされることもちょくちょくあるため、仕事が忙しいということがどういうことなのか、なんとなくでも分かってきている。
ましてや、その父の状況を直接の上司や取引先の社長から聞かされているのだから、嫌でも心配してしまう。
最近は、少しでも父に美味しく食べてもらおうと翔羽の好物を中心に、栄養士ばりにカロリー計算などもしながら献立を考えて料理している。
時には父のマッサージなどもして、少しでも身体が楽になるようにと、常日頃から非常に多忙な父のことを心配して父のために行動している。
そんな兄、涼羽の姿を見ていたにも関わらず、父の心配もせずに旅行と言う言葉にただ喜んでいただけの自分が恥ずかしくなって、羽月はついばつが悪そうに俯いてしまう。
「…お父さん、ごめんなさい…」
「…羽月?」
「…お父さんがそんなにお仕事忙しかったなんて、私、思ったこともなかった…」
「………」
「…お兄ちゃんがそんなにも心配してたなんて、私、全然知らなかった…」
「…羽月…」
「ごめんなさい、お父さん…お兄ちゃん…」
羽月は、俯きながらも素直にその申し訳ないという思いを言葉にする。
ずっと家のために非常に負担が大きい中、懸命に働いてくれている父。
そんな父をずっと心配して、少しでも負担が軽くなるように懸命に取り組んでいる兄。
その二人と比べて、自分は何もしてないどころか、そんなことすら知らなかった。
それがとても申し訳なくて、たまらない。
そんな思いから出てくる、ごめんなさいの言葉。
「…羽月、子供達のために働くのは、父親である俺の務めなんだから、お前がそんなに気にする必要なんかないんだよ」
「…お父さん」
「…羽月、ごめんね。羽月にも、お父さんがどれだけ頑張ってくれてるのか、教えてあげたらよかったね…ごめんね」
「…お兄ちゃん」
しゅんと沈んでしまっている羽月が可愛くて、翔羽はついつい羽月の頭も優しく撫でながら、慰めの言葉をかける。
涼羽も、羽月に父の状況をちゃんと教えてあげたらよかったと思い、羽月を慰めるように言葉をかける。
そんな二人が優しくて、やっぱり父も兄も、本当に大好きなんだと、羽月は思う。
「…だがな、涼羽、羽月。お父さんは大丈夫だからな」
「え?…」
「どういうこと?…」
「今、俺の下で働いてくれている部下達がすごく頼りになるようになってきてな。今は俺が担当していたところも、かなりの部分を部下達に任せられるようになってるんだよ」
実は、幸助も知らない中、翔羽の部下達が、尊敬してやまない上司である翔羽のあまりにも大きい負担を減らしていこうという目的のなか、非常に強い結束の元にそのパフォーマンスを上げていっていた。
そして、翔羽の背中を追いかけるかのように全員で業務に関する知識を深めつつ、より効率的な形で実務をこなしていけるように、全員で翔羽も知らない中勉強会まで行なっていた。
ましてや、翔羽も知らなかったはずの、幸助が翔羽の業務の応援を涼羽にお願いしているということまでどこからか聞きつけ、そのおかげでより部下達の思いが強くなったのだ。
そのおかげで、部下達はここ数ヶ月ほどで翔羽が驚くほどに仕事の能率が高くなり、先々週にはもう自社での翔羽が担当していた業務のかなりの部分をこなせるようになっていた。
その上で、部下達全員で翔羽に直訴したのだ。
――――部長!!自分達がもっと働けますから、もっと部長が担当している仕事を割り振ってください!!――――
部下達の、そんな熱い思いがこめられた直訴に翔羽は一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐに思わずその顔を伏せてしまった。
そうしないと、このこみ上げてくる思いが形となって零れ落ちてしまいそうになったから。
しかも、ここ最近の仕事っぷりを見ていても非常に安心できるのは間違いなく、今後の部下達のブラッシュアップにもなるであろうという確信も出てきた。
そして、先週から試験的に翔羽は自分が担当していた業務を部下一人ひとりに単独で割り振りをし、さらには誠一の会社にもローテーションで部下達を出向させるように、業務のレクチャーをしていったのだ。
その結果、先方にも太鼓判を押してもらえるほどの働きをその時連れて行った部下達は見せており、これならまかせられると、翔羽も先方の担当も判断。
加えて、自社の業務も翔羽がいなくても十分にこなせるほどには、部下一人ひとりの実務能力が上がっていて、こちらも翔羽自身、本当に安心できるようになっている。
この動きは、翔羽の部下達が独断で行なっていたため、幸助はそれをまるで知らない状態であり、今週の初めになってようやく、それを知ることとなった。
ゆえに、涼羽もそのことを知らなかったのだ。
「!そ、そうなの?」
「ああ、だから、今週はまだ忙しくなるけど、今週末からは俺の優秀な部下達がそれぞれローテーションで担当してくれることになったからな」
「すご~い!」
「それで、専務からも『最近働きづめで疲れただろう。少し有休でも取って、リフレッシュでもしなさい』と言ってもらえたんだ」
「!よかった…」
「だから今週末から俺は少し休暇に入るから、せっかくだし家族水入らずで旅行に行こうと思ったのさ」
「!わ~い!お父さんのお仕事、楽になってよかった~!」
これまで、この子供達に父親らしいことをしてやるどころか、そのそばにいてやることすらも叶わなかった翔羽。
再び一緒に暮らすようになってから、それなりに時間が経ったのだが、それでも旅行ということもしたことがなかった。
これからは、家族での思い出を増やしていきたいし、もっとこの子供達を色々なところに連れ出してあげたい。
羽月は、父も母もいない中でそれでも、兄と一緒に日々を無事に過ごしてきてくれた。
涼羽は、父も母もいない中でそれでも、しっかりと羽月の兄として、親代わりとして懸命に家のことを引き受け、頑張ってきてくれた。
そんな健気な子供達のためにも、この期に初めての家族旅行に行こうと思い立ったのだ。
「あ、でも俺…保育園のアルバイトが…」
しかし、今や秋月保育園ではなくてはならない存在となっている涼羽は、アルバイトを休むことができないと思い、そのことに憂いを感じてしまう。
非常に真面目で、人の迷惑になることを嫌う涼羽であるがゆえに、この辺は当然の懸念となってしまっていた。
「ああ、それなら大丈夫だ」
そんな涼羽の懸念に対して、あっさりと翔羽が言う。
何も問題はない、と。
「え?」
「実は、今回の家族旅行を思い立った時に、真っ先に秋月保育園の秋月園長に話をしにいってな」
「!え、ええ!?」
「今週末くらいに涼羽を家族旅行に連れて行きたいので、涼羽にお休みをもらえませんか、ってね」
「!お、お父さん!?」
「そしたら園長先生も、『それはいいことです!ぜひ連れて行ってあげてください!涼羽君…御子息は本当にこの保育園のために頑張ってくれていて、そのおかげで学生らしいこともできてないのではないかと、私も思っていたのです。今なら涼羽君がいなくても業務は十分こなせるくらいにはなってますから、大丈夫です。ぜひ連れて行ってあげてください』って言ってくれてな」
「!園長先生が…そんな…」
「実は前にも偶然、園長先生とは偶然会ってな…涼羽のことで色々と話をしたことがあったんだが、その時も涼羽のことを非常に高く評価してくれていて、加えて涼羽のことをとても心配してくれててな」
「!そ、そうなの?」
非常に仕事に対して真面目な涼羽が、自分から自己都合で休むなどと言い出せないだろうと思っていた翔羽が、涼羽には内緒で自ら園長である祥吾に直談判をしていた。
涼羽の父である翔羽が、涼羽を家族旅行に連れて行きたいと言ってきた時、祥吾はまるで自分のことのようにそれを喜び、ぜひそうしてほしいとまで言ってきた。
そして、涼羽が普段どれほど秋月保育園に貢献してくれているのかを本当に嬉しそうに話し、さらには自分が無理を言ってここで働いてもらっていることで、涼羽が学生らしいことをできていないのではないかと、常に思っていることも話してくれた。
以前にもたまには休んで、息抜きをしたらいいと言った時も、この仕事が好きだからと言って、結局働き始めてから今の今まで一度も休むことなく、いつも自分達を楽にするために働いてくれている涼羽には感謝しかないという思いと、普通に遊ぶ時間を与えてあげられなくて申し訳ない、という思いを、祥吾は抱いていたのだ。
「そうだ…園長先生はこの仕事のせいでお前が学生らしく、友達と遊んだりすることもできていないのではないかって、常に心配されててな」
「!そ、そんな…そんなことないのに…」
「だから、涼羽を家族旅行に連れて行きたいと俺が言った時、園長先生はそのことをまるで自分のことのように喜んでくれたんだよ」
「園長先生…」
「だから、お前がたまには休んで旅行に行ったりするのも、園長先生が喜んでくれることなんだよ…だから涼羽、一緒に家族旅行に行こう、な?」
「お兄ちゃん!私、お兄ちゃんとお父さんと一緒に旅行に行きたい!ねえ、行こう!」
まさか祥吾がそこまで自分のことを心配してくれていたことを、翔羽の口から聞かされて、涼羽は本当に嬉しくてたまらなくなってしまった。
そして、秋月保育園で働けていることを、本当によかったと、ありがたいと思った。
そして、こうして家族三人で旅行に出かけるという機会を得られたことにも素直に嬉しく思えてきて、本当にみんなで行きたいという思いが、涼羽の中でどんどん大きくなっていく。
そうなれば、涼羽の返事は、一つだった。
「…うん!みんなで旅行、行こう!」
家族だけでなく、周囲の人達に本当に支えられていることを実感する機会となったこの時。
そのことに対する感謝を家族三人がそれぞれ抱きながら、初めての家族旅行を本当に楽しみになってくる。
その楽しみを待ちきれなくて、そのことで家族三人水入らずで和気藹々とした会話が広がっていくので、あった。
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