瀬戸際の証明、囚われたジャンキー
10.継ぎ接ぎの回答
「あ、戻ってきた」
僕にいち早く気付いたのは田浦だった。僕は左耳のイヤホンを外しズボンのポケットに入れる。これはもう必要ない。手にあるものを抱え直し、彼等と対峙する。
三人はアトリエの中央に立ったまま、僕に視線を向けていた。そこにはもう警戒の色はなかった。ただ気の合う仲間と語り合うように穏やかな目をしていた。
これも彼の力なのかもしれない。皆が正しく真っ直ぐな彼を慕うからこそ、こうして彼という繋がりを失くしても繋がっていくのかもしれない。
ここに居てくれたらと思う、切に。僕が話すには事は重大すぎて、複雑すぎる。
「何か、分かりましたの?」
久留米の言葉にただ頷く。はっと目を大きくして、久留米はあとの二人を見やる。田浦は恐らく自分への答えもあると考えたのだろう、期待を込めた視線を投げてきた。
柴山は無表情で僕を見つめていた。事の成り行きを見守るような、そんな姿勢が窺えた。
「……全部ではないかもしれません。見つけた証拠を推測で繋ぎ合わせただけで、きっと完璧じゃない。
それでも答えは、出ました」
誰も言葉を発しなかった。僕の声に耳を澄ませていた。
偽物の“探偵”は、継ぎ接ぎだらけの歪な答えをここに提出する。
「僕は皆さんの話を聞いて、ますます誰が犯人なのか分からなくなっていました。誰もが可能で、誰もが潔白に見えた。
だから久留米さんが他の誰かじゃないかと言った時、頭を殴られたような気持ちになりました。北川さんが話してくれたことは全部嘘だったのではないか、騙されていたのではないかと」
あの時もし諦めていたら。そう思うと胸がひりつく。
「それでもまずは、彼の言葉を信じてみようと思いました」
真剣な眼差しで話す彼が脳裏に浮かぶ。今思えば偽りようもなく彼の言葉は本物だった。やはり彼はどこまでも、揺るぎなく善の人だった。
「彼は僕に言いました。その人を助けたい、自分から解放してあげたいんだ、と。
自分の死をもって犯人の心を救おうとする思いは異常にも思えるほどでした。しかしそれだけ強い関係性を持った相手が犯人であることも示していました」
小さな疑問が重なって、答えを余計見にくくしていた。もっと全てがシンプルならこんなに悩まなくても良かったかもしれない。――しかしもしそうなら、彼が命を落とすこともなかったのかもしれない。
緊張した面持ちで僕を見る瞳に、僕は目を合わせた。
「久留米さん、北川さんは「心は全て尊敬する人に捧げた」と言っていたのでしたね?」
「え……えぇ。確かにそう言っていましたわ」
「それを聞いて貴女も僕も、それほど愛する人がいたのだと思った。だけど本当はそうじゃなかった」
愛とは違う、けれどそれはとても強く真っ直ぐな感情だった。彼はそれをずっと胸に抱いてきた。
「彼が心を捧げ、また人生を捧げようと思うほど尊敬していたのはたった一人。
……“凉原奏”だったんです」
柴山が瞼を閉じる。今一体どんなことを考えながら、僕の話に耳を傾けているのだろう。
その隣で田浦が顔を顰める。
「どういうことだ?」
「彼は凉原奏になった瞬間から、ただその存在を守るためだけに生きることを決めた」
――それほどの思いでなければ守れないと思ったから。
僕の返答を聞いて更に戸惑いが広がる。事実だけを見れば、画家であることに固執した男の戯言にも思える。そんなものを聞かされて戸惑わない方がおかしかった。久留米がおずおずと、あの、と声を上げる。
「それならそう言えば良かったのでは? 厳しい世界ですしそれくらいの思いがないと維持するのは難しいとは思います。でもそんな、誤魔化すように言わなくても」
「彼は誤魔化そうとしていた訳ではなかったんです。事実をそのまま伝えただけでした」
「でもまるで他の人を指してるみたいですわ」
久留米の言葉に僕は頷いた。全ての繋がりに気付いてしまえば、彼の言葉はストレートに自分の気持ちを示していた。
「そう。実際に自分とは別の人を指していた」
「おい、まどろっこしいな。意味が分からねぇ」
痺れを切らした田浦が言う。
僕はきっと、少しだけ時間を稼ぎたかった。答えることをできるだけ後回しにしたかった。それは、できることなら本人に全てを話してほしいという思いが、まだ喉の奥に閊えていたからだ。
先に進まなくてはいけない。田浦にも伝えなくてはならないことがある。与えられた“理由”の意味を。
「「純粋に凉原奏を憧れとしてくれた君だけは、裏切りたくない」」
声にすると、田浦の肩が小さく跳ねる。知りたいと願いながらも恐れているのがよく分かった。
「彼は本当に、自分の絵を貴方に渡すことが結果的に裏切ることになると思っていたんです」
耳に届いた言葉を振り払うように、頭が左右に振られる。僕が優しい言葉を掛けようとしていると思ったのかもしれない。しかし僕はただ知った事実を伝えるだけだ。
「俺を嫌ってたんだろ。はっきり言われた方がすっきりする」
「違う。貴方に絵が渡った時、それは“凉原奏の絵”となってしまう。それをどうしても避けたかった」
真実を知った時、田浦が傷付くのを想像したのかもしれない。それは確かに彼にとって避けたいことだった。自分と“凉原奏”の両方を慕ってくれていた田浦だから、その裏切り行為に一層深く傷付くように思えたのかもしれない。
そう思いつつも、彼の心に一番にあったのは“凉原奏”への思いだったように感じる。穢されてはいけない崇高な存在として見ていたのではないだろうか。
「僕達は勘違いをしていたんです。このアトリエで絵を描き、凉原奏を名乗る北川さんが、“本当の”凉原奏だと」
当然のように反論が飛ぶ。
「本当の?」
「いや、おかしいだろ。俺達はあの人が描いてるところも見てる。偽物とか、そんなことある訳が」
「確かに彼は、凉原奏でした。……たった五年だけ」
たった五年。田浦が、久留米が、そして僕が出会った北川廉太郎は確かに“凉原奏”だった。だが実際のそれではない。
僕達はその名前と振る舞いに騙されていただけだった。彼が語った凉原奏としての半生は全て嘘だった。
「北川廉太郎は凉原奏を演じていた。そして“本当の”凉原奏によって、殺された」
僕の返答に驚きのあまり口を閉ざす。意味を図りかねているのか、問うことを放棄したのか。僕はただ事を初めから話すことにした。
「凉原奏という画家は今から約二十年前、ある大学で誕生しました――」
北川さんがその人と出会ったのは、それより一年か二年か前だったでしょう。
偶然出会ったその人の描く絵に彼は惹き付けられた。そして一緒に過ごすようになり、画家になることを夢見るその人を全力で応援しようと思った。その思いも描く絵の素晴らしさも、彼が一番よく理解していたから。
同じくその人も、そうして理解し支えようとしてくれている北川さんに胸打たれたことでしょう。
そんな二人が友人に、いや親友になるのにそう時間はかからなかった筈です。
やがてその人は大学には内緒で、展覧会に絵を出すようになった。二人で決めた、凉原奏の名を付けて。
入賞にさえかからない日々を過ごす間も、北川さんは励まし元気付けてきたことでしょう。もはやその人が画家になることが彼の夢でもあった。
卒業を控え、もしかしたらこれが最後という思いで挑んだ展覧会で、その夢は現実となりました。
凉原奏の名は瞬く間に広がって、日本を代表する画家にまで成長した。それは二十年経った今でも廃れず、その名を世に刻んでいます。
しかし、悲劇は突然起こる。
その人――凉原奏は目に重い病気を抱えてしまう。網膜色素変性症、という病気です。
あぁ、久留米さんはご存知ですか。そう、進行はかなり遅いものだそうですが治療法がない。そしてどんどんと進んでしまえば色の判別も難しくなり失明の危険もある。……画家としては致命的だと言えるでしょう。
どのくらいの速度でいつから発症していたのかは分かりません。ただいつしか、描く絵に変化は生じてきた筈です。
北川さんは誰より近くで長い期間、凉原の絵を見てきた。しかも彼ほど感性が豊かな人であればその違いは明白だったことでしょう。友人の身に何かが起きていることに気が付いた。
これは、寝室のクローゼットにありました。網膜色素変性症についてまとめられたノートです。
気付いた症状から調べたのか、実際に病院で診察を受けさせたのか。とにかくこの病気の存在を知って、北川さんは必死になって調べた。この病気の正しい知識を凉原に得させるために。
恐らくそれは親切心から。希望があると、前向きに考えてほしいという思いからだった筈。……でもその思いは届かなかった。
凉原にとっても、北川さんは親友だった。しかし時を過ごしていく中で、いつしか妬ましい存在にもなっていった。
僕にもその気持ちが分かる。彼は誰から見ても正しくて真っ直ぐで、欠点を見つけることすら難しくて。その上有り余るほどに才能がある。怖いくらいに全てを持っている気がした。皆さんも一度は同じように感じたことがあるでしょう?
そうした存在は羨ましくて、尊敬できて、でも憎くなる。自分に足りないものと比較して、自分のちっぽけさを思い知らされる気がする。……少なくとも僕はそうです。
凉原奏は確かに有名画家になりました。けれど自分より才能を持った人物を知っている。そしてその人物は自分を無条件に応援してくれている。もっといいものを描かなくてはいけない、という強迫観念にも似た気持ちがあったのではないでしょうか。
だから、北川さんの思いは届かなかった。このノートには濡れた跡が――恐らく涙の跡が残っています。きっとここに書かれたことを読んで自分の状況を理解した凉原は、もう描けなくなると感じた。既に兆候が出ていたなら、いずれ終わりが来ることを悟ったでしょう。
……その質問はもっともです。どうしてやめなかったか。完全に見えなくなっている訳ではないので、まだ描き続けることもできたかもしれません。でも自分ではそれをやめ、一方で妬んでいた北川さんを使ってまで“凉原奏”という画家を存在させ続けたのは何故か。
……これは憶測に過ぎませんが、心のどこかでまだ信じていたからではないでしょうか。
凉原はその目がまた元通りに見えるようになる日を。北川さんはどんな状態でも凉原が描きたいと思ってくれる日を。
どちらも半ば諦めていながら、心のどこかではそんな奇跡を信じていた。そんな二人には時間が必要だったのだと思います。だから五年の間、偽物の凉原奏は存在し続けた。
凉原の思いの中にはそれ以外に、多少の卑怯な気持ちも混ざっていたでしょう。僕が同じ立場なら恐らくそうだった。
きっと誰かが自分の絵と北川さんの絵との違いに気付いてくれる。“凉原奏の絵”を評価してくれていた人なら判る筈。今回の絵は失敗だとも思うかもしれない。
心の状態が不安定なその頃なら、自分の築いてきた名を守るより北川さんに恥をかかせて憂さを晴らす方に走ってもおかしくない気がしました。そうやって自信を取り戻そうとしたかもしれません。
それでも結果は、思い描いていたものとは違っていた。
四年前に発行されたこの雑誌には、その当時開かれていた凉原の個展の情報と共に新作の絵の紹介もされていました。そこにはこう書かれています。
『凉原奏氏の魅力はますます高まっている』
『誰もがこの絵の前で最も長く立ち止まる』
『海外メディアからも更なる注目を浴びている』
絶賛の嵐。違いを感じるどころか、さすが凉原奏だと言わんばかりの文面が続いています。
このページはこうして一度破られて握り潰されています。……当然でしょう。誰も自分の絵を見ている訳ではなかったことに気付いたんだ。皆が見て、欲しがって、評価していたのは“凉原奏のネームバリューが付いた絵”だった。
そして北川さんの才能をまた見せつけられた。どうやっても勝てないという現実を目の当たりにしてしまった。それなのに当の北川さんはそれを喜ぶでも鼻にかけるでもなく、ただ純粋に“凉原奏”を全うしようとしているのが分かった。
凉原奏は自分なのだと声を上げることもできず、かと言って凉原奏という存在を消し去ることもできない。――そうした惨めで孤独な気持ちが余計、憎しみを倍増させた。
それでも五年間、その状態を崩さなかったのはどうしてでしょうか。
……やはり初めに抱いた憧れや尊敬の気持ちがずっとそこにあったからだと、僕は思います。
田浦さんが彼に申し出を断られても離れようと思わなかったように。久留米さんが気持ちが届かなくても想い続けることをやめられなかったように。彼を一番近くでずっと見てきたからこそ、どうしても憎みきることができなかったから。
しかし今日、北川さんは殺されました。二人の間に決定的な何かがあったのか、計画的だったのか突発的だったのかも僕には正直分かりません。北川さん自身が殺されることに気付いたのも、どうしてだったのか今となっては分かりません。分からないことだらけです。
ただ唯一、最も重要なことが分かっています。
「――柴山さん。貴方が凉原奏だったんですね? そして貴方が、北川さんを殺した」
結論を述べると、柴山は長く細く息をつく。未だその瞼は閉じられたまま。
田浦も久留米も序盤で凉原奏の正体に気付いた筈だ。視線をどこに置けばいいのか迷うように、瞳が頼りなく揺れている。呼吸をすることさえ躊躇っているようだ。
傾き始めた太陽が床を照らし、足元がきらきらと光る。
「そろそろサングラスを掛けた方がいいかもしれません」
じっと動きを止めていた柴山が、僕の言葉に従ってサングラスを掛ける。濃いレンズの向こうでゆっくり瞼が開いたのが分かった。
「目のことは誰にも気付かれないように注意していたんだが、まさかあんな失態を犯すとは」
柴山は至極冷静で、自嘲気味に笑ってさえいた。
僕の穴ぼこだらけの推理は、幾らでも言い逃れができたと思う。写真があったってノートがあったって、もっともらしい反論をされれば口篭るしかないくらい、僕の示す証拠には拘束力がない。そうした権限を持つ警察でもなく、ただの探偵。もっと言えばその探偵ですらない。
それでも柴山は認めていた。その心を動かすものを考えた時、やはり二人は親友だったのだと、そう思えた。
「君の話したことは殆ど全て正しい。心の中まで覗かれたみたいだ」
胸が痛むのを抑えるように、柴山は襟元を握り締める。暗い視線は僕を通り越して、二人の最期の時を見つめているような気がした。
僕にいち早く気付いたのは田浦だった。僕は左耳のイヤホンを外しズボンのポケットに入れる。これはもう必要ない。手にあるものを抱え直し、彼等と対峙する。
三人はアトリエの中央に立ったまま、僕に視線を向けていた。そこにはもう警戒の色はなかった。ただ気の合う仲間と語り合うように穏やかな目をしていた。
これも彼の力なのかもしれない。皆が正しく真っ直ぐな彼を慕うからこそ、こうして彼という繋がりを失くしても繋がっていくのかもしれない。
ここに居てくれたらと思う、切に。僕が話すには事は重大すぎて、複雑すぎる。
「何か、分かりましたの?」
久留米の言葉にただ頷く。はっと目を大きくして、久留米はあとの二人を見やる。田浦は恐らく自分への答えもあると考えたのだろう、期待を込めた視線を投げてきた。
柴山は無表情で僕を見つめていた。事の成り行きを見守るような、そんな姿勢が窺えた。
「……全部ではないかもしれません。見つけた証拠を推測で繋ぎ合わせただけで、きっと完璧じゃない。
それでも答えは、出ました」
誰も言葉を発しなかった。僕の声に耳を澄ませていた。
偽物の“探偵”は、継ぎ接ぎだらけの歪な答えをここに提出する。
「僕は皆さんの話を聞いて、ますます誰が犯人なのか分からなくなっていました。誰もが可能で、誰もが潔白に見えた。
だから久留米さんが他の誰かじゃないかと言った時、頭を殴られたような気持ちになりました。北川さんが話してくれたことは全部嘘だったのではないか、騙されていたのではないかと」
あの時もし諦めていたら。そう思うと胸がひりつく。
「それでもまずは、彼の言葉を信じてみようと思いました」
真剣な眼差しで話す彼が脳裏に浮かぶ。今思えば偽りようもなく彼の言葉は本物だった。やはり彼はどこまでも、揺るぎなく善の人だった。
「彼は僕に言いました。その人を助けたい、自分から解放してあげたいんだ、と。
自分の死をもって犯人の心を救おうとする思いは異常にも思えるほどでした。しかしそれだけ強い関係性を持った相手が犯人であることも示していました」
小さな疑問が重なって、答えを余計見にくくしていた。もっと全てがシンプルならこんなに悩まなくても良かったかもしれない。――しかしもしそうなら、彼が命を落とすこともなかったのかもしれない。
緊張した面持ちで僕を見る瞳に、僕は目を合わせた。
「久留米さん、北川さんは「心は全て尊敬する人に捧げた」と言っていたのでしたね?」
「え……えぇ。確かにそう言っていましたわ」
「それを聞いて貴女も僕も、それほど愛する人がいたのだと思った。だけど本当はそうじゃなかった」
愛とは違う、けれどそれはとても強く真っ直ぐな感情だった。彼はそれをずっと胸に抱いてきた。
「彼が心を捧げ、また人生を捧げようと思うほど尊敬していたのはたった一人。
……“凉原奏”だったんです」
柴山が瞼を閉じる。今一体どんなことを考えながら、僕の話に耳を傾けているのだろう。
その隣で田浦が顔を顰める。
「どういうことだ?」
「彼は凉原奏になった瞬間から、ただその存在を守るためだけに生きることを決めた」
――それほどの思いでなければ守れないと思ったから。
僕の返答を聞いて更に戸惑いが広がる。事実だけを見れば、画家であることに固執した男の戯言にも思える。そんなものを聞かされて戸惑わない方がおかしかった。久留米がおずおずと、あの、と声を上げる。
「それならそう言えば良かったのでは? 厳しい世界ですしそれくらいの思いがないと維持するのは難しいとは思います。でもそんな、誤魔化すように言わなくても」
「彼は誤魔化そうとしていた訳ではなかったんです。事実をそのまま伝えただけでした」
「でもまるで他の人を指してるみたいですわ」
久留米の言葉に僕は頷いた。全ての繋がりに気付いてしまえば、彼の言葉はストレートに自分の気持ちを示していた。
「そう。実際に自分とは別の人を指していた」
「おい、まどろっこしいな。意味が分からねぇ」
痺れを切らした田浦が言う。
僕はきっと、少しだけ時間を稼ぎたかった。答えることをできるだけ後回しにしたかった。それは、できることなら本人に全てを話してほしいという思いが、まだ喉の奥に閊えていたからだ。
先に進まなくてはいけない。田浦にも伝えなくてはならないことがある。与えられた“理由”の意味を。
「「純粋に凉原奏を憧れとしてくれた君だけは、裏切りたくない」」
声にすると、田浦の肩が小さく跳ねる。知りたいと願いながらも恐れているのがよく分かった。
「彼は本当に、自分の絵を貴方に渡すことが結果的に裏切ることになると思っていたんです」
耳に届いた言葉を振り払うように、頭が左右に振られる。僕が優しい言葉を掛けようとしていると思ったのかもしれない。しかし僕はただ知った事実を伝えるだけだ。
「俺を嫌ってたんだろ。はっきり言われた方がすっきりする」
「違う。貴方に絵が渡った時、それは“凉原奏の絵”となってしまう。それをどうしても避けたかった」
真実を知った時、田浦が傷付くのを想像したのかもしれない。それは確かに彼にとって避けたいことだった。自分と“凉原奏”の両方を慕ってくれていた田浦だから、その裏切り行為に一層深く傷付くように思えたのかもしれない。
そう思いつつも、彼の心に一番にあったのは“凉原奏”への思いだったように感じる。穢されてはいけない崇高な存在として見ていたのではないだろうか。
「僕達は勘違いをしていたんです。このアトリエで絵を描き、凉原奏を名乗る北川さんが、“本当の”凉原奏だと」
当然のように反論が飛ぶ。
「本当の?」
「いや、おかしいだろ。俺達はあの人が描いてるところも見てる。偽物とか、そんなことある訳が」
「確かに彼は、凉原奏でした。……たった五年だけ」
たった五年。田浦が、久留米が、そして僕が出会った北川廉太郎は確かに“凉原奏”だった。だが実際のそれではない。
僕達はその名前と振る舞いに騙されていただけだった。彼が語った凉原奏としての半生は全て嘘だった。
「北川廉太郎は凉原奏を演じていた。そして“本当の”凉原奏によって、殺された」
僕の返答に驚きのあまり口を閉ざす。意味を図りかねているのか、問うことを放棄したのか。僕はただ事を初めから話すことにした。
「凉原奏という画家は今から約二十年前、ある大学で誕生しました――」
北川さんがその人と出会ったのは、それより一年か二年か前だったでしょう。
偶然出会ったその人の描く絵に彼は惹き付けられた。そして一緒に過ごすようになり、画家になることを夢見るその人を全力で応援しようと思った。その思いも描く絵の素晴らしさも、彼が一番よく理解していたから。
同じくその人も、そうして理解し支えようとしてくれている北川さんに胸打たれたことでしょう。
そんな二人が友人に、いや親友になるのにそう時間はかからなかった筈です。
やがてその人は大学には内緒で、展覧会に絵を出すようになった。二人で決めた、凉原奏の名を付けて。
入賞にさえかからない日々を過ごす間も、北川さんは励まし元気付けてきたことでしょう。もはやその人が画家になることが彼の夢でもあった。
卒業を控え、もしかしたらこれが最後という思いで挑んだ展覧会で、その夢は現実となりました。
凉原奏の名は瞬く間に広がって、日本を代表する画家にまで成長した。それは二十年経った今でも廃れず、その名を世に刻んでいます。
しかし、悲劇は突然起こる。
その人――凉原奏は目に重い病気を抱えてしまう。網膜色素変性症、という病気です。
あぁ、久留米さんはご存知ですか。そう、進行はかなり遅いものだそうですが治療法がない。そしてどんどんと進んでしまえば色の判別も難しくなり失明の危険もある。……画家としては致命的だと言えるでしょう。
どのくらいの速度でいつから発症していたのかは分かりません。ただいつしか、描く絵に変化は生じてきた筈です。
北川さんは誰より近くで長い期間、凉原の絵を見てきた。しかも彼ほど感性が豊かな人であればその違いは明白だったことでしょう。友人の身に何かが起きていることに気が付いた。
これは、寝室のクローゼットにありました。網膜色素変性症についてまとめられたノートです。
気付いた症状から調べたのか、実際に病院で診察を受けさせたのか。とにかくこの病気の存在を知って、北川さんは必死になって調べた。この病気の正しい知識を凉原に得させるために。
恐らくそれは親切心から。希望があると、前向きに考えてほしいという思いからだった筈。……でもその思いは届かなかった。
凉原にとっても、北川さんは親友だった。しかし時を過ごしていく中で、いつしか妬ましい存在にもなっていった。
僕にもその気持ちが分かる。彼は誰から見ても正しくて真っ直ぐで、欠点を見つけることすら難しくて。その上有り余るほどに才能がある。怖いくらいに全てを持っている気がした。皆さんも一度は同じように感じたことがあるでしょう?
そうした存在は羨ましくて、尊敬できて、でも憎くなる。自分に足りないものと比較して、自分のちっぽけさを思い知らされる気がする。……少なくとも僕はそうです。
凉原奏は確かに有名画家になりました。けれど自分より才能を持った人物を知っている。そしてその人物は自分を無条件に応援してくれている。もっといいものを描かなくてはいけない、という強迫観念にも似た気持ちがあったのではないでしょうか。
だから、北川さんの思いは届かなかった。このノートには濡れた跡が――恐らく涙の跡が残っています。きっとここに書かれたことを読んで自分の状況を理解した凉原は、もう描けなくなると感じた。既に兆候が出ていたなら、いずれ終わりが来ることを悟ったでしょう。
……その質問はもっともです。どうしてやめなかったか。完全に見えなくなっている訳ではないので、まだ描き続けることもできたかもしれません。でも自分ではそれをやめ、一方で妬んでいた北川さんを使ってまで“凉原奏”という画家を存在させ続けたのは何故か。
……これは憶測に過ぎませんが、心のどこかでまだ信じていたからではないでしょうか。
凉原はその目がまた元通りに見えるようになる日を。北川さんはどんな状態でも凉原が描きたいと思ってくれる日を。
どちらも半ば諦めていながら、心のどこかではそんな奇跡を信じていた。そんな二人には時間が必要だったのだと思います。だから五年の間、偽物の凉原奏は存在し続けた。
凉原の思いの中にはそれ以外に、多少の卑怯な気持ちも混ざっていたでしょう。僕が同じ立場なら恐らくそうだった。
きっと誰かが自分の絵と北川さんの絵との違いに気付いてくれる。“凉原奏の絵”を評価してくれていた人なら判る筈。今回の絵は失敗だとも思うかもしれない。
心の状態が不安定なその頃なら、自分の築いてきた名を守るより北川さんに恥をかかせて憂さを晴らす方に走ってもおかしくない気がしました。そうやって自信を取り戻そうとしたかもしれません。
それでも結果は、思い描いていたものとは違っていた。
四年前に発行されたこの雑誌には、その当時開かれていた凉原の個展の情報と共に新作の絵の紹介もされていました。そこにはこう書かれています。
『凉原奏氏の魅力はますます高まっている』
『誰もがこの絵の前で最も長く立ち止まる』
『海外メディアからも更なる注目を浴びている』
絶賛の嵐。違いを感じるどころか、さすが凉原奏だと言わんばかりの文面が続いています。
このページはこうして一度破られて握り潰されています。……当然でしょう。誰も自分の絵を見ている訳ではなかったことに気付いたんだ。皆が見て、欲しがって、評価していたのは“凉原奏のネームバリューが付いた絵”だった。
そして北川さんの才能をまた見せつけられた。どうやっても勝てないという現実を目の当たりにしてしまった。それなのに当の北川さんはそれを喜ぶでも鼻にかけるでもなく、ただ純粋に“凉原奏”を全うしようとしているのが分かった。
凉原奏は自分なのだと声を上げることもできず、かと言って凉原奏という存在を消し去ることもできない。――そうした惨めで孤独な気持ちが余計、憎しみを倍増させた。
それでも五年間、その状態を崩さなかったのはどうしてでしょうか。
……やはり初めに抱いた憧れや尊敬の気持ちがずっとそこにあったからだと、僕は思います。
田浦さんが彼に申し出を断られても離れようと思わなかったように。久留米さんが気持ちが届かなくても想い続けることをやめられなかったように。彼を一番近くでずっと見てきたからこそ、どうしても憎みきることができなかったから。
しかし今日、北川さんは殺されました。二人の間に決定的な何かがあったのか、計画的だったのか突発的だったのかも僕には正直分かりません。北川さん自身が殺されることに気付いたのも、どうしてだったのか今となっては分かりません。分からないことだらけです。
ただ唯一、最も重要なことが分かっています。
「――柴山さん。貴方が凉原奏だったんですね? そして貴方が、北川さんを殺した」
結論を述べると、柴山は長く細く息をつく。未だその瞼は閉じられたまま。
田浦も久留米も序盤で凉原奏の正体に気付いた筈だ。視線をどこに置けばいいのか迷うように、瞳が頼りなく揺れている。呼吸をすることさえ躊躇っているようだ。
傾き始めた太陽が床を照らし、足元がきらきらと光る。
「そろそろサングラスを掛けた方がいいかもしれません」
じっと動きを止めていた柴山が、僕の言葉に従ってサングラスを掛ける。濃いレンズの向こうでゆっくり瞼が開いたのが分かった。
「目のことは誰にも気付かれないように注意していたんだが、まさかあんな失態を犯すとは」
柴山は至極冷静で、自嘲気味に笑ってさえいた。
僕の穴ぼこだらけの推理は、幾らでも言い逃れができたと思う。写真があったってノートがあったって、もっともらしい反論をされれば口篭るしかないくらい、僕の示す証拠には拘束力がない。そうした権限を持つ警察でもなく、ただの探偵。もっと言えばその探偵ですらない。
それでも柴山は認めていた。その心を動かすものを考えた時、やはり二人は親友だったのだと、そう思えた。
「君の話したことは殆ど全て正しい。心の中まで覗かれたみたいだ」
胸が痛むのを抑えるように、柴山は襟元を握り締める。暗い視線は僕を通り越して、二人の最期の時を見つめているような気がした。
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