終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第三章39 蠱惑ノ夢

 暗闇が支配する世界を漂う。

 無の中をふんわりと漂う心地いい感覚に身を浸し、異世界での戦いからも解放された航大は全身を脱力させて無の世界を漂い続ける。

「――――」

 そんな航大だけの無の世界に突如として変化が現れた。

 それをすぐには理解することが出来ない航大なのであったが、一度生まれた違和感は徐々に確かな形となって少年の前に姿を現そうとしていく。

「――神谷、神谷航大くんッ!」

 航大だけの世界に響いたのは、どこかで聞き慣れた女性の声だった。

 響いてくる声は次第に大きくなり、それと同時に睡眠状態にある身体が左右に大きく揺さぶられる感覚に襲われる。

 ――誰かが自分を呼んでいる。

 ぼんやりとする意識の中で航大はそんな誰かの意図を汲み取ることが出来たのだが、少しでも長い間をこの世界で過ごしたいと願う航大は現実世界で睡眠を邪魔する存在に少しの抵抗をすることを決める。

「――起きません、ね。――――どうしましょう?」

 起こそうとする動きが止まるのと同時に、そんな困り果てた声が聞こえてきた。

 ――再びの静寂。

 しかしそれも、あっという間に瓦解していく。

「いい加減に起きないと――――こうしますよッ!」

「いててててッ!?」

 安堵したのも束の間。次の瞬間、右の頬に強烈な痛みが走ったのを感じ、とても睡眠を継続することは不可能であると判断して航大の意識は急速に覚醒していく。

「ふぅ、やっと起きましたね?」

「いってぇ……って、ここはどこ?」

「ここはどこって……もう、寝呆けてるんですか、神谷くん?」

「え、俺……ここは……学校……?」

「そうですよ? ここは学校で、時間はもう放課後です。みんな帰っちゃってるのに、どうして神谷くんは寝てるんですか?」

「俺は……えっと、学校で寝てた?」

 目を覚ますとまず視界に入ってきたのは、栗色の髪を腰まで伸ばし、端正に整った顔つきが印象的な女性だった。航大はこの人のことをよく知っていて、眼前に立つのは安西あんざい こずえという名前の女教師であり、航大が所属するクラスの担任である。

 想像よりもすぐ近くに教師の顔があり驚いたのもそうだが、航大は窓から差し込んでくる金色の夕日にも驚きを禁じ得ない。

 自分が学校で居眠りをしていたことは理解することが出来たのだが、まさかこんな時間まで眠っているなんてことは想像しておらず、眼前に広がる光景に目を白黒させる。

「もうッ! どうせ夜更かししてたんでしょ?」

「いや、そんなことは……」

「ホントにー? 先生の目を見ても違うって言える?」

「うッ……ちょっと、近いですって……」

 航大の煮え切らない言葉に疑惑の目を向けてくる安西先生。ジト目で問い詰めようとしてくる教師の視線から逃げるようにして、航大は彼女から視線を外していく。

「はぁ……まぁ、起きたから良しとしましょう。今日は早く寝るんですよ?」

「小学生じゃないんだから……」

「自分が少しでも大人になってるって言いたいなら、放課後にこんな時間まで寝てるんじゃありません」

「…………」

「それじゃ、先生は帰りますからね。また明日」

「……はい」

 まだヒリヒリと痛む右頬をさすりながら、航大はニコッと笑みを浮かべる教師の顔を横目で見ながら返事をする。航大から返ってくる返事に頷くと、安西先生は踵を返すと教室を出て行く。

「…………」

 担任の教師が姿を消すと、航大はだだっ広い教室で一人の時間を謳歌することになった。教室には航大以外の人間が存在する気配はなく、窓の向こうに広がる校庭からは運動部の掛け声が聞こえてくる。

 教師が言ったように時間は既に放課後であることは間違いなく、どうして自分がこんな時間まで眠っていたのか航大は首を傾げてしばしの間、思考の海に身を浸して考えてみるが一向に答えは見つからない。

「…………」

 どうして自分はここに居るのか?

 学生である航大が学校に居る。それは普通の考えであるなら当然のことなのだが、今の航大にはその事実を素直に受け止めることが出来ないでいる。

「なんか、違和感があるんだよな……」

 何の変哲もない教室を見渡しながら、航大は胸の中に広がる『違和感』に首を傾げる。しかし違和感の正体に気付くことは出来ず、深い溜め息を漏らしながらも鞄を手に取ると教室を後にするのであった。

「…………」

 放課後。
 航大には毎日の日課があった。

「今日は何を読もうかな……」

 胸の中で息づく違和感は消えてはくれない。考えても考えても違和感の正体は掴めず思考は泥沼に嵌まろうとしていた。そんな時、航大は決まって読書に時間を割くのであった。偉人たちの活躍を記した本を読んでいる時間は、あらゆるしがらみから解放される瞬間なのでもあった。

◆◆◆◆◆

「……失礼しまーす」

 目的地である図書室の前までやってくると、小さく声を漏らしながら横開きの扉を開けていく。すると、本特有の香りが鼻孔をくすぐってきて、自身の身体を包み込む懐かしい感覚に何故か涙が零れ落ちそうになる。

「…………」

 一歩。図書室の中に足を踏み入れると、まず目に入ってくる受付カウンターに一人の少女が存在していることに気が付く。

 彼女は眼鏡を掛けており、長い黒髪を三つ編みにするという典型的な地味な外見をした女の子である。彼女の首元に鎮座するリボンの色から、航大と同学年であることには間違いないのだが、残念ながら航大は彼女が何組の生徒なのかを知らない。

 そんな地味な外見をした彼女は図書委員の生徒でもあり、毎日のように図書館に入り浸っては読書に明け暮れるという航大と同じような生活している。彼女と同じ時間を過ごすのは一度や二度の話ではない。本の貸出や返却の時に言葉を交わすくらいではあるのだが、放課後にこうして同じ場所で同じ時間を過ごす機会は多かった。

「さて、今日は何の本を読もうか……」

 チラリと女子生徒の方を見るだけで、次の瞬間には航大の意識は幾重にも並ぶ本棚へと向けられていた。今日は何の本を読むか、放課後のこの時間が航大にとっては一日の中で最も幸せな時間であり、新たな発見と驚きをくれる偉人たちの物語に心が踊るのであった。

「うーん……シャーロック・ホームズの冒険とかも久しぶりに読んでみようかな……」

 本棚の端から端までを舐めるように見る。
 びっしりと並べられた本の一冊すらも見落とすことがないように集中する。

「…………」

 あまりにも本棚に集中し過ぎた航大は周囲に張り巡らせる集中力が著しく欠如していた。
 だからすぐ近くに誰かが立っていることに気が付かず、思い切りぶつかってしまうのであった。

「おっとッ、すみません――ッ!?」

「…………」

 ドンッと軽い衝撃が肩に走り、その瞬間に航大は誰かと意図しない接触を果たしてしまったのだと理解した。慌てて本棚から視線を外すと、何度も頭を下げて謝罪の言葉を口にする。

 しかしその言葉も眼前に立つ人間の姿を認識することで、驚きと共に押し留められる。

「えっと、その……君は……」

 航大の眼前に立つ人間。それは名前も知らない図書委員の女子生徒だった。
 長い三つ編みを揺らし、俯き気味に立ち尽くす女子生徒は航大の言葉にも無言を貫くばかりだった。
 異様な静けさが図書室を支配する中、三つ編みの女子生徒は小さく言葉を漏らす。

「……神谷、くん」

「えッ……どうして、俺の名前を知って――ッ?」

 注視してなければ聴き逃してしまいそうな程に女子生徒の声は小さく、思わぬ言葉に航大が聞き返した瞬間だった。女子生徒の身体がグラリと大きく揺れたかと思えば航大の方へと倒れ込んでくる。

 突然のことに驚きながらも避ける訳にもいかず、航大は彼女の身体を抱きとめるようにして立ち尽くす。すると、腹部に鋭い痛みと衝撃が走り、じわりと何かが染み出してくる感覚に襲われる。

「……どうして、私を助けてくれなかったの?」

「――ッ!?」

 視界を埋め尽くすのは女子生徒の泣き顔だった。

 顔をクシャクシャに歪ませると、震える声で航大に問いかけてくる女子生徒の両手には――一本の包丁が握られているのであった。

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