終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第三章30 忍び寄る赤髪の異端者
時は少し戻り、航大たちがプリシラに会うため姿を消してからしばらくの時間が経過したアステナ王国の王城。
謁見の間にはアステナ王国の王女・レイナとその近衛騎士であるエレスの姿があった。
「航大たちはちゃんとプリシラに会えたかな?」
「王国でも凄腕の操者が居ますので、迷うことはないかと」
「うむ、それなら大丈夫だな。あの森は抜けるのも一苦労だからな」
静けさが戻った謁見の間にて、レイナとエレスはそれぞれが笑みを浮かべて談笑に興じていた。二人の話題は現在、プリシラへ会いに行っている航大たち一行についてだった。
「そういえば、ネポルさんに会いに行くのは良いですが……彼女と会うに当たっての注意点はお伝えしなくて良かったのですか?」
「注意点? そんなものがあるのか?」
「彼女は極度の人見知りですからね……それを知らないで行くと酷い目に遭う可能性もあるかと……」
「あっ、そういえばそんなこともあったなぁ~、プリシラは私には普通だから、すっかり忘れていたよ」
「はぁ……私はそれで酷い目に遭ったんですけどね……」
何も知らされない状態でプリシラの元へ出向いたエレスは、彼女の人見知りによって呆然とした過去を持っていた。
「まぁまぁ、あいつらなら何とかするだろう」
「はぁ……彼らが苦労する未来が見えますけどね……」
適当な笑いを浮かべるレイナに対して、エレスはやれやれといった様子で首を振ると小さく溜息を漏らす。
和やかな雰囲気で談笑を交わすことが出来るのは、レイナが持ち合わせる人間性によるところが大きく、誰にでもフレンドリーに接する彼女が王女となって数年の時が経った今でも国民からの信頼は厚い。
そんなレイナであったが、エレスと談笑する中でその表情を瞬時に険しいものへと変えていく。
「……嫌な予感がするな」
「…………嫌な予感、ですか?」
「エレス。今すぐに三英傑に招集を掛けろ。そして、お前には見てきて欲しい場所がある」
「…………」
「禍々しい魔力を感じる……侵入者だ……」
レイナは魔力感知の分野において最上位の実力を持っていた。
誰しもが大なり小なり持ち合わせる魔力。それを察知し、相手の悪意と善意を見破る力を彼女は有しており、そんなレイナだからこそ王城へ侵入を果たした異端者の存在をいち早く察することが出来たのだ。
「……場所はどちらに?」
「この感じ……侵入者の狙いは魔竜か……?」
「――ッ!?」
目を閉じ、アステナの王城全土に存在する魔力を探知するレイナ。
レイナが持つ探知能力を持ってすれば、どんな人間が王城のどこに存在しているのか、その全てを見通すことが出来る。数多の魔力が闊歩する王城において、レイナは侵入者が放つ禍々しき魔力をしっかりと見ていた。
「あそこには、王国の中でもとびきりの護衛が付いていますが……」
「……あぁ、そのはずだったな」
「…………」
「次から次へと護衛の魔力が消えている。この意味が分かるな?」
「……なるほど。敵は相当の手練れ……ということですね?」
「急げ、エレス。魔竜の復活だけは阻止しなくてはならないぞ」
「はッ……」
レイナの言葉にエレスは頷くと、踵を返して謁見の間を後にする。
――王城に漂い始める不穏な気配。
未だそれを察している者は少なく、一度乱れた歯車は時間が経つごとにその影響を広げていくのであった。
◆◆◆◆◆
場所は変わり、アステナ王国の中心に聳える塔の中。
王城と一体化する形で存在するこの塔には、通常であるなら誰も侵入することが許されない場所であった。アステナ王国が誇る騎士隊の中でも相当な実力者が塔を守護しており、この場所が造られてからの長い間に渡って侵入者を寄せ付けない実績を誇っていた。
「アハッ、ここが魔竜ちゃんが眠ってる場所かー」
静寂が支配する塔の内部。螺旋状にどこまでも続く階段の先には魔竜が眠る部屋が存在していた。その階段を一段、また一段と登っていく存在が一つ。
それは全身を純白のローブマントで覆い、ちらりと垣間見える赤髪が印象的な女性だった。
上を見ればまだ螺旋状の階段が続いているのだが、女は漂ってくる禍々しき魔力を肌で感じると、楽しげに声を漏らした。
純白のローブマントには夥しい量の鮮血が付着しており、その異様な姿を見ても声を上げるものは存在しない。ここに至るまでの間、女は行方を塞ごうとする存在の全てを抹殺してきたのだ。
「こんな所に魔竜ちゃんを隠すなんて、アステナって国は悪い国だね。あの人には言われてないけど、壊しちゃってもいいよね?」
彼女の周りには誰もいない。
それなのだが、女は一人でぶつぶつと言葉を漏らすことをやめない。
異様な雰囲気を纏う女の背後。そこに忍び寄る影が一つあった。
「うーん、コソコソとレディーの後ろを付いてくるなんて、あまり褒められたことじゃないと思うんだけど、どう思う?」
「――侵入者の分際でッ!」
女の言葉に姿を現したのはアステナ王国の近衛騎士だった。
彼は自分の気配を完全に消す能力を有し、鮮血に染まるローブマントを羽織った女の背後にまで近づくと好機を狙い続けていた。しかし、女が自分の存在に気付いたことを知ると、近衛騎士の男は舌打ちを漏らしながらも姿を顕現させる。
「これ以上先には行かせないッ!」
「へぇー、その剣で私を殺すんだ?」
厳しく発せられる声に振り返るローブマントの女。
彼女は武器を何も所有していなかった。その事実に驚く近衛騎士であったが、すぐさま表情を険しいものに変えると狭い塔の中を疾走し、片手に持った剣でローブマントの女を斬り殺そうとする。
「――自分の剣で死ぬ感覚って、どんな感じなんだろうね?」
「――ッ!?」
近衛騎士が放った斬撃には一切の無駄が存在しない。
長年の鍛錬を経た結果、王女に認められた騎士の男はアステナ王国に従事する騎士の中で、最も実力を有する者が配属される封印の塔を守護する命を受けた。
彼にはそれが誇りであった。
自分の実力が王国を守る力になる。
絶対の自信を持つ彼の功績は大きく、確かにこの瞬間に至るまでの間、アステナ王国が持つ封印の塔は守護され続けていたのだ。
「……かはッ!?」
「アハッ、貴方の血も良い色をしてるんだね?」
騎士の男が放った斬撃。それは確かにローブマントの女を捉えたかのように見えた。
しかし、結果的には男が放つ斬撃は女に届くことはなく、その刀身は自らの腹部を切り裂いていた。
「な、なんで……?」
「いいの。そんなことを考えなくても……」
「――どうして、ここに?」
腹部から夥しい量の鮮血を溢れさせる男の視界には、愛する妻の姿が映っていた。
周囲を見渡せば、そこは自分が守護する封印の塔ではなく、慣れ親しんだ自宅の風景が広がっていた。
「私たち、幸せよね?」
見間違えるはずがなかった。
彼の眼前に居るのは愛する妻だ。その隣には世界で最も大切である娘の姿もある。
「どうして、俺は……ここに……?」
「貴方は仕事のし過ぎで疲れてるのよ。もう安心して……ここには貴方を苦しめるものなんて存在しないのだから」
「俺、は……」
「――さぁ、身体を楽にして。もうすぐ、死ねるから」
「ぐふッ!?」
男の腹部に再びの衝撃が走った。
状況を全く理解することが出来ない男は、恐る恐るといった様子で自分の腹部を確認する。そこには鮮血を浴びて赤く輝く剣の刀身が見えていた。その剣を握るのは、眼前で優しく微笑む妻だったのだ。
「パパ……私、寂しかったんだよ?」
「あっ、あぁッ……」
自分の腹部を剣で突き刺した妻は微笑みを浮かべるだけで無言だった。
次に鼓膜を震わせたのはこれも聞き間違えるはずがない、まだ年若い娘のものだった。
「でもね、私はパパが居なくても頑張るよ?」
「ごほッ!?」
娘はまだ子供だった。
中々、家に帰ってこない自分に対していつも怒っていた。
それが近衛騎士を務める男にとって唯一存在する悩みでもあった。
自分の力が王国の平和に繋がる。男はそんな自負を持っていたのだが、それと同時に家族との時間を犠牲にしていた。彼の首元にはペンダントが存在していて、その中には愛する家族との写真が飾られている。
それを見ることで騎士の男は生きる気力を与えられているのだ。
「貴方、死んで?」
「パパ、死んで?」
「あ、あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁッ!?」
娘が握るのは鈍色に輝く剣だった。
その剣は男の胸元を貫いており、尋常じゃない痛みが男を襲いこの光景が現実であることを如実に物語っていた。
「や、やめてくれええええええええええええええぇぇぇぇッ!!!!」
「やめないよ、パパ」
「やめないわ、貴方」
妻と娘は淋しげな表情を浮かべていた。その表情のままで、何度も男の身体に剣を突き刺す。
絶え間ない苦痛の中、近衛騎士の男の精神は絶望の淵へと落とされていた。
どうして自分は愛する家族に殺されようとしているのか?
どうして?
どうして?
どうして――?
自分の命が潰えようとしている。
想像を絶する絶望の中で、男の意識は薄れようとしていた。
「――アハッ、どうだった?」
瞬きをした瞬間だった。
近衛騎士の男の目に映る風景が一変した。
ここはアステナ王国の中に存在する封印の塔であって、愛する妻たちが生活する自宅ではない。
「…………」
最早、彼の魂はこの世に存在していなかった。
自らが放った斬撃によって身体は上半身と下半身の二つに分離していて、溢れ出る鮮血は螺旋階段を伝って地面に垂れ落ちようとしていた。
「最期に愛する人に会えて、良かったネッ?」
彼の最期を見届けたのは純白のローブマントに身を包む女だった。
彼女は涙で顔をぐちゃぐちゃにした状態で事切れた男を見下ろしながら、楽しげな声を漏らすと再び螺旋階段を上り始める。その右手に握られた剣を放り捨てると、彼女は楽しげな表情を浮かべて歩を進める。その先には、魔竜・ギヌスが封印された部屋が存在しているのであった。
◆◆◆◆◆
「アハハッ、ここが魔竜ちゃんが眠ってる場所かー」
封印の塔の最上階。
そこには巨大な部屋が存在していて、その中心には竜の石像が建てられていた。
石像となった竜の身体には無数の木々が生えていて、その姿は魔竜・ギヌスのもので間違いなかった。その姿を見て、ローブマントに身を包んだ女はこの場所こそが自分が目的とした場所なのだと理解して、楽しげに声を漏らしていた。
「この子が復活したらどうなっちゃうんだろ?」
「――それはさせませんよ」
巨大な竜の石像を前にして、女が楽しげな声を漏らすのと同時だった。鋭く突き刺すような男の声が響いた。王女・レイナの命を受け封印の塔へとやってきたのは、アステナ王国の騎士を統べる存在であるエレスだった。
彼はこの場所に至るまでの間に夥しい数の死体を目にしてきた。
無数に転がる死体はその全てが惨たらしい姿をしていて、普段は感情を表に出さないエレスの表情にも怒りが見えていた。
「へぇー、私の魔力を察知したんだ?」
「それだけの魔力を秘めていながら、気付かないとでも?」
「アハハハッ……この平和ボケした国にも、ちょっとは出来る人がいるんだねー」
尋常ではない殺気を放つエレスを前にしても、ローブマントの女は余裕といった言動と素振りを見せつけたまま。楽しげに笑う声音はエレスの鼓膜を震わせ、彼が奥に秘める激情を煽っていく。
「王国の騎士隊を容易く葬るその力……大人しくは捕まってくれはしないですかね?」
「――うん。捕まる訳にはいかないの。だって、私はここにある人を捕まえに来たんだから」
「…………」
エレスの問いかけに女が答える。
たったひとつの質問と返答で交渉は決裂する。
「なら仕方がないですね。貴方を拘束します……」
「アハッ……さぁ、貴方も私が見せる夢の中で踊り狂いなさい」
その言葉を合図に封印の間で飛翔する影が二つ。
王国の存亡を賭けた戦いが静かに始まるのであった――。
謁見の間にはアステナ王国の王女・レイナとその近衛騎士であるエレスの姿があった。
「航大たちはちゃんとプリシラに会えたかな?」
「王国でも凄腕の操者が居ますので、迷うことはないかと」
「うむ、それなら大丈夫だな。あの森は抜けるのも一苦労だからな」
静けさが戻った謁見の間にて、レイナとエレスはそれぞれが笑みを浮かべて談笑に興じていた。二人の話題は現在、プリシラへ会いに行っている航大たち一行についてだった。
「そういえば、ネポルさんに会いに行くのは良いですが……彼女と会うに当たっての注意点はお伝えしなくて良かったのですか?」
「注意点? そんなものがあるのか?」
「彼女は極度の人見知りですからね……それを知らないで行くと酷い目に遭う可能性もあるかと……」
「あっ、そういえばそんなこともあったなぁ~、プリシラは私には普通だから、すっかり忘れていたよ」
「はぁ……私はそれで酷い目に遭ったんですけどね……」
何も知らされない状態でプリシラの元へ出向いたエレスは、彼女の人見知りによって呆然とした過去を持っていた。
「まぁまぁ、あいつらなら何とかするだろう」
「はぁ……彼らが苦労する未来が見えますけどね……」
適当な笑いを浮かべるレイナに対して、エレスはやれやれといった様子で首を振ると小さく溜息を漏らす。
和やかな雰囲気で談笑を交わすことが出来るのは、レイナが持ち合わせる人間性によるところが大きく、誰にでもフレンドリーに接する彼女が王女となって数年の時が経った今でも国民からの信頼は厚い。
そんなレイナであったが、エレスと談笑する中でその表情を瞬時に険しいものへと変えていく。
「……嫌な予感がするな」
「…………嫌な予感、ですか?」
「エレス。今すぐに三英傑に招集を掛けろ。そして、お前には見てきて欲しい場所がある」
「…………」
「禍々しい魔力を感じる……侵入者だ……」
レイナは魔力感知の分野において最上位の実力を持っていた。
誰しもが大なり小なり持ち合わせる魔力。それを察知し、相手の悪意と善意を見破る力を彼女は有しており、そんなレイナだからこそ王城へ侵入を果たした異端者の存在をいち早く察することが出来たのだ。
「……場所はどちらに?」
「この感じ……侵入者の狙いは魔竜か……?」
「――ッ!?」
目を閉じ、アステナの王城全土に存在する魔力を探知するレイナ。
レイナが持つ探知能力を持ってすれば、どんな人間が王城のどこに存在しているのか、その全てを見通すことが出来る。数多の魔力が闊歩する王城において、レイナは侵入者が放つ禍々しき魔力をしっかりと見ていた。
「あそこには、王国の中でもとびきりの護衛が付いていますが……」
「……あぁ、そのはずだったな」
「…………」
「次から次へと護衛の魔力が消えている。この意味が分かるな?」
「……なるほど。敵は相当の手練れ……ということですね?」
「急げ、エレス。魔竜の復活だけは阻止しなくてはならないぞ」
「はッ……」
レイナの言葉にエレスは頷くと、踵を返して謁見の間を後にする。
――王城に漂い始める不穏な気配。
未だそれを察している者は少なく、一度乱れた歯車は時間が経つごとにその影響を広げていくのであった。
◆◆◆◆◆
場所は変わり、アステナ王国の中心に聳える塔の中。
王城と一体化する形で存在するこの塔には、通常であるなら誰も侵入することが許されない場所であった。アステナ王国が誇る騎士隊の中でも相当な実力者が塔を守護しており、この場所が造られてからの長い間に渡って侵入者を寄せ付けない実績を誇っていた。
「アハッ、ここが魔竜ちゃんが眠ってる場所かー」
静寂が支配する塔の内部。螺旋状にどこまでも続く階段の先には魔竜が眠る部屋が存在していた。その階段を一段、また一段と登っていく存在が一つ。
それは全身を純白のローブマントで覆い、ちらりと垣間見える赤髪が印象的な女性だった。
上を見ればまだ螺旋状の階段が続いているのだが、女は漂ってくる禍々しき魔力を肌で感じると、楽しげに声を漏らした。
純白のローブマントには夥しい量の鮮血が付着しており、その異様な姿を見ても声を上げるものは存在しない。ここに至るまでの間、女は行方を塞ごうとする存在の全てを抹殺してきたのだ。
「こんな所に魔竜ちゃんを隠すなんて、アステナって国は悪い国だね。あの人には言われてないけど、壊しちゃってもいいよね?」
彼女の周りには誰もいない。
それなのだが、女は一人でぶつぶつと言葉を漏らすことをやめない。
異様な雰囲気を纏う女の背後。そこに忍び寄る影が一つあった。
「うーん、コソコソとレディーの後ろを付いてくるなんて、あまり褒められたことじゃないと思うんだけど、どう思う?」
「――侵入者の分際でッ!」
女の言葉に姿を現したのはアステナ王国の近衛騎士だった。
彼は自分の気配を完全に消す能力を有し、鮮血に染まるローブマントを羽織った女の背後にまで近づくと好機を狙い続けていた。しかし、女が自分の存在に気付いたことを知ると、近衛騎士の男は舌打ちを漏らしながらも姿を顕現させる。
「これ以上先には行かせないッ!」
「へぇー、その剣で私を殺すんだ?」
厳しく発せられる声に振り返るローブマントの女。
彼女は武器を何も所有していなかった。その事実に驚く近衛騎士であったが、すぐさま表情を険しいものに変えると狭い塔の中を疾走し、片手に持った剣でローブマントの女を斬り殺そうとする。
「――自分の剣で死ぬ感覚って、どんな感じなんだろうね?」
「――ッ!?」
近衛騎士が放った斬撃には一切の無駄が存在しない。
長年の鍛錬を経た結果、王女に認められた騎士の男はアステナ王国に従事する騎士の中で、最も実力を有する者が配属される封印の塔を守護する命を受けた。
彼にはそれが誇りであった。
自分の実力が王国を守る力になる。
絶対の自信を持つ彼の功績は大きく、確かにこの瞬間に至るまでの間、アステナ王国が持つ封印の塔は守護され続けていたのだ。
「……かはッ!?」
「アハッ、貴方の血も良い色をしてるんだね?」
騎士の男が放った斬撃。それは確かにローブマントの女を捉えたかのように見えた。
しかし、結果的には男が放つ斬撃は女に届くことはなく、その刀身は自らの腹部を切り裂いていた。
「な、なんで……?」
「いいの。そんなことを考えなくても……」
「――どうして、ここに?」
腹部から夥しい量の鮮血を溢れさせる男の視界には、愛する妻の姿が映っていた。
周囲を見渡せば、そこは自分が守護する封印の塔ではなく、慣れ親しんだ自宅の風景が広がっていた。
「私たち、幸せよね?」
見間違えるはずがなかった。
彼の眼前に居るのは愛する妻だ。その隣には世界で最も大切である娘の姿もある。
「どうして、俺は……ここに……?」
「貴方は仕事のし過ぎで疲れてるのよ。もう安心して……ここには貴方を苦しめるものなんて存在しないのだから」
「俺、は……」
「――さぁ、身体を楽にして。もうすぐ、死ねるから」
「ぐふッ!?」
男の腹部に再びの衝撃が走った。
状況を全く理解することが出来ない男は、恐る恐るといった様子で自分の腹部を確認する。そこには鮮血を浴びて赤く輝く剣の刀身が見えていた。その剣を握るのは、眼前で優しく微笑む妻だったのだ。
「パパ……私、寂しかったんだよ?」
「あっ、あぁッ……」
自分の腹部を剣で突き刺した妻は微笑みを浮かべるだけで無言だった。
次に鼓膜を震わせたのはこれも聞き間違えるはずがない、まだ年若い娘のものだった。
「でもね、私はパパが居なくても頑張るよ?」
「ごほッ!?」
娘はまだ子供だった。
中々、家に帰ってこない自分に対していつも怒っていた。
それが近衛騎士を務める男にとって唯一存在する悩みでもあった。
自分の力が王国の平和に繋がる。男はそんな自負を持っていたのだが、それと同時に家族との時間を犠牲にしていた。彼の首元にはペンダントが存在していて、その中には愛する家族との写真が飾られている。
それを見ることで騎士の男は生きる気力を与えられているのだ。
「貴方、死んで?」
「パパ、死んで?」
「あ、あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁッ!?」
娘が握るのは鈍色に輝く剣だった。
その剣は男の胸元を貫いており、尋常じゃない痛みが男を襲いこの光景が現実であることを如実に物語っていた。
「や、やめてくれええええええええええええええぇぇぇぇッ!!!!」
「やめないよ、パパ」
「やめないわ、貴方」
妻と娘は淋しげな表情を浮かべていた。その表情のままで、何度も男の身体に剣を突き刺す。
絶え間ない苦痛の中、近衛騎士の男の精神は絶望の淵へと落とされていた。
どうして自分は愛する家族に殺されようとしているのか?
どうして?
どうして?
どうして――?
自分の命が潰えようとしている。
想像を絶する絶望の中で、男の意識は薄れようとしていた。
「――アハッ、どうだった?」
瞬きをした瞬間だった。
近衛騎士の男の目に映る風景が一変した。
ここはアステナ王国の中に存在する封印の塔であって、愛する妻たちが生活する自宅ではない。
「…………」
最早、彼の魂はこの世に存在していなかった。
自らが放った斬撃によって身体は上半身と下半身の二つに分離していて、溢れ出る鮮血は螺旋階段を伝って地面に垂れ落ちようとしていた。
「最期に愛する人に会えて、良かったネッ?」
彼の最期を見届けたのは純白のローブマントに身を包む女だった。
彼女は涙で顔をぐちゃぐちゃにした状態で事切れた男を見下ろしながら、楽しげな声を漏らすと再び螺旋階段を上り始める。その右手に握られた剣を放り捨てると、彼女は楽しげな表情を浮かべて歩を進める。その先には、魔竜・ギヌスが封印された部屋が存在しているのであった。
◆◆◆◆◆
「アハハッ、ここが魔竜ちゃんが眠ってる場所かー」
封印の塔の最上階。
そこには巨大な部屋が存在していて、その中心には竜の石像が建てられていた。
石像となった竜の身体には無数の木々が生えていて、その姿は魔竜・ギヌスのもので間違いなかった。その姿を見て、ローブマントに身を包んだ女はこの場所こそが自分が目的とした場所なのだと理解して、楽しげに声を漏らしていた。
「この子が復活したらどうなっちゃうんだろ?」
「――それはさせませんよ」
巨大な竜の石像を前にして、女が楽しげな声を漏らすのと同時だった。鋭く突き刺すような男の声が響いた。王女・レイナの命を受け封印の塔へとやってきたのは、アステナ王国の騎士を統べる存在であるエレスだった。
彼はこの場所に至るまでの間に夥しい数の死体を目にしてきた。
無数に転がる死体はその全てが惨たらしい姿をしていて、普段は感情を表に出さないエレスの表情にも怒りが見えていた。
「へぇー、私の魔力を察知したんだ?」
「それだけの魔力を秘めていながら、気付かないとでも?」
「アハハハッ……この平和ボケした国にも、ちょっとは出来る人がいるんだねー」
尋常ではない殺気を放つエレスを前にしても、ローブマントの女は余裕といった言動と素振りを見せつけたまま。楽しげに笑う声音はエレスの鼓膜を震わせ、彼が奥に秘める激情を煽っていく。
「王国の騎士隊を容易く葬るその力……大人しくは捕まってくれはしないですかね?」
「――うん。捕まる訳にはいかないの。だって、私はここにある人を捕まえに来たんだから」
「…………」
エレスの問いかけに女が答える。
たったひとつの質問と返答で交渉は決裂する。
「なら仕方がないですね。貴方を拘束します……」
「アハッ……さぁ、貴方も私が見せる夢の中で踊り狂いなさい」
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