終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第二章25 狂気の氷都市。三人目の帝国騎士。
「待つんだッ! その身体で動くのは危険すぎるッ」
時は少し戻り、舞台は氷都市ミノルア。
航大とライガが賢者を捜索するためにミノルアを出てから、しばらくの時間が経過していた。
目を覚ましたユイは、グレオから全てを聞いた。
そして、全身を包み込む倦怠感を押し殺してでも、愛しい少年の元へ駆けつけようとする。
「……そこをどいてッ! 航大のところに行かなくちゃッ……あの人は、私が居ないと何もできないからッ……」
立っていることすらやっとの状態であっても、ユイは強い決意をその瞳に宿らせ、対峙するグレオに吠える。
彼女はまだ英霊とのシンクロが切れていない。その手にはナイチンゲールが所持していた治癒剣が握られており、グレオが邪魔をするなら叩き切ってでも進もうとしている。
「少年は、君を守るために危険へ立ち向かった。その努力を水の泡にするつもりかッ!」
「……そんなこと頼んでないッ! 私はそんなことを……航大に命を賭けて助けて欲しいなんて……頼んだ覚えはないッ!」
普段の様子からは想像も出来ないほど、ユイの感情は荒ぶっていた。
内に秘めた想いが溢れ返り、ユイは怒りと焦燥感に声を上げる。
「……それでも、君をここから出す訳にはいかない。君は彼を信じ、この場所で大人しく待っているんだ。そんな身体でここを飛び出し、君が命を落としたと知ったら、少年はどう思う? 君は彼を信じていないのか?」
「航大にはそんな力はない。私が守ってあげないと、あの人は何もできないッ!」
その言葉に偽りはなかった。
彼女が知っている航大には、直接戦う力などは持ち合わせていなかった。彼はユイと共にあることで、その権能を使役することができる。それも、彼自身が力を得る訳ではない。ユイに英霊を与え、自分を守る力を授けるだけ。
この異世界において、航大はただの無力な少年だった。
ユイはそれを誰よりも知っている。
「……お願い、そこをどいて。今から追いかければ、すぐに追いつける」
「それはできない。少年が戻るまで、君を安全に匿う。それが彼との約束だからだ」
「……それなら、切ってでも通るだけ」
ユイは両手に持った剣をグレオに向け、険しい表情で言葉を紡ぐ。
しかし、グレオは剣を抜かない。
眼前の少女に戦う力が無いことを知っていての行動だった。容姿は同一であったとしても、今目の前で感情を荒ぶらせる彼女が、魔獣相手に勇敢に立ち向かった英雄とは違うことをグレオは理解している。
今の少女に遅れを取るほど、グレオは落ちぶれてはいなかった。
「できれば、君には少年が戻ってくるまで、眠っていて欲しかったのだがな……」
「……剣を抜かないつもり? 私も舐められたものね」
「今の君は、魔獣と戦った時の力を使うことができない。それがどういう理屈からくるものなのかは理解できないが、間違ってはいないだろう?」
「くッ……」
グレオの言葉にユイは強く唇を噛みしめる。
クリミア戦争の英雄・ナイチンゲールとのシンクロは途切れてはいないが、召喚者である航大が自分から離れているため、その権能を完全に使役することはできない。
「……それでも、ここを通らないといけない」
結果は見えている。
それでも、ユイは抗わなければならなかった。
そうすることが彼女の使命であり、宿命でもあった。
一発触発。どちらかが動けば、戦いが始まるといった緊張感は、扉の外から響き渡ってきた人間の悲鳴によって瞬く間に打ち砕かれる。
「……何事だッ!?」
「グレオ隊長ッ!」
悲鳴が轟いたのと同時に、個室へハイラント騎士が入ってくる。
「非常事態ですッ……突然、街の人間が我々を襲い出しましたッ!」
「……なんだと? しかし、ここにいる人間は全員重傷で、動けるはずがない」
「そ、そのはずなのですが……身体を起こしたかと思えば、治療している騎士に噛みつき、暴れ出しました……」
「……暴れ出した?」
「は、はいッ。治療していた人間の全てが、無差別に襲い掛かってきて……救護場所は大混乱になっていますッ!」
騎士の報告を聞いて、グレオの表情が険しいものへと変わっていく。
今、グレオたちがいる救護場所は、魔獣たちの襲撃によって重傷となった人間が収容されていた。特に生死を彷徨うような大怪我をしている人間が多く、とても動けるような状態ではないことは明白であり、それを知っているからこそグレオは部下の報告を信じることができなかった。
「分かった。すぐに向かう。まずは事態を収束させることを最優先に行動しろ」
「はいッ!」
グレオは簡潔に指示を出すと、再びユイに向き直る。
騎士の報告をユイも怪訝な表情を浮かべて聞いていたが、そんなことも放っておいて航大の元へと向かう気であった。
「少々、忙しくなってしまった。できれば、しっかりと話し合いをしたかったのだが……許してくれ」
「何を――ッ!?」
グレオは片手に持っていた小袋をユイの前に差し出すと、その中に入っていた粉末を部屋に撒いた。それは微量な魔力が込められた粉末であり、それを吸い込んだ者はたちまち眠りについてしまうものだった。
「少年は必ず無事に帰ってくる。それが誓いだったからな」
「くッ……しま、ったッ……」
「だから、今は安心して眠っていてくれ。少年が戻ってくるまでの間、君の安全は私が保障しよう」
意識を失い倒れるユイを受け止めると、グレオはその細い身体をベッドに寝かせる。
呼吸が安定していることを確認すると、踵を返して部屋を出る。
そして、救護場所へと戻ったグレオは眼前に広がる光景に目を見開くのであった。
◆◆◆◆◆
「なんだ、これは……?」
救護場所へはすぐに戻ることが出来た。
元々、救護場所がある小屋の中にユイは寝ていて、歩いて数十秒ほどで野戦病院と化している救護場所へ到達することができる。
小屋の中に響き渡る悲鳴はその大きさを増しており、何か尋常ではない雰囲気にグレオの歩は自然と早くなる。
そして、救護場所へ戻るなり、グレオは息を呑んだ。
「どうして、人間が人間を襲っている……?」
思わずグレオの口から漏れた声は、小屋の中に響く悲鳴に掻き消される。
それほどにまで救護場所は騒然としており、眼前には凄惨な状況が広がっていた。
全身に包帯を巻いた一般市民がハイラント王国の騎士を襲っている。四肢の一部を喪失している市民までもが、地面を這いつくばり、騎士の足に噛み付いている。
とても動けるような状態でないことは一目瞭然だった。しかし、重傷の市民は正気を失った様子で手当たり次第に近くの人間を襲っていた。
王国の騎士たちは、暴徒と化した一般市民を相手に抵抗することもできず、その毒牙に防戦一方だった。
彼らは騎士である。その気になれば一般市民を相手に遅れを取ることはないのだが、相手は何の力も持たない人間である。自分たちが必死の治療を施してきた相手に、その刃を向けることができなかった。
「グレオ隊長ッ……わ、我々はどうしたら……ッ!?」
「……このままでは全滅してしまう。反撃を許可する。しかし、極力手荒にならないようにするんだ」
「はッ!」
グレオの言葉に頷き、騎士が隊長の言葉を伝えに走る。すると、状況が徐々に変わってくる。
騎士たちは襲い掛かってくる市民を鎮圧しようと動く。手足を使って抵抗する者も居れば、異常な状況に取り乱して剣を振るう者もいる。
その状況を厳しい顔つきで見ていたグレオは、剣を振るっていた騎士に目を止める。
「……なんだと?」
取り乱した騎士の剣が市民の両手を切り落とした。そしてその剣を胸に突き刺す。
混乱を沈めるために反撃許可を出したが、その騎士の行動はグレオにはやり過ぎだと映った。それを叱責しようとしたその言葉は、次の瞬間に驚きと共に内で押し殺した。
剣が胸に突き刺さり、誰がどう見ても市民は絶命したかのように見えた。しかし、床に倒れ伏したのも一瞬で、再び身体が動き出すと、市民は再び騎士に襲いかかっていたのだ。
「これが呪いの力だとでも言うのか……?」
眼前に広がる光景を見て、グレオはその可能性に思考を巡らせる。
あちこちで騎士たちが市民を鎮圧させようと動く。しかし、どんな行動を取ったとしても市民たちの暴動は収まらない。
「ぐあああぁぁッ……!」
騎士の一人が首元に噛みつかれ、夥しい量の血液を噴出して倒れ伏した。騎士が苦しみの声を漏らす中、そこに市民たちが殺到していく。そして生きている人間の肉を咀嚼し始めたのだ。
「…………」
その常軌を逸した行動にグレオは表情を歪める。
生々しい咀嚼音が響き、それがまた新たな混乱を生んでいく。
「あ、あああああぁぁぁッ!」
騎士は一瞬にして絶命した。グレオの目には確かにそう映っていた。
苦しげな声を漏らし、その身体を何度も痙攣させると、弾かれたように身体を起こし、暴れまわる市民と同じように、近くで応戦していた仲間に飛び掛かっていく。
狂気は瞬く間の内に救護場所を包み込み、そして拡大していく。
「グレオ隊長ッ、市民の暴走がここだけではなく、教会の方にも及んでいるとの報告が入りましたッ!」
「教会には確か……」
「はッ、此度の戦闘において避難していた市民の他に軽傷だった市民が集まっている場所になります」
この場所は重傷者が集まっている。その他の軽傷者などは、数が多いため街の中心部に存在している教会に避難していた。
しかし騎士の報告によれば、その場所でも同様の騒ぎが起きていると言う。
「私はそちらへ向かうッ、ここは任せたぞ。いいなッ!?」
「はッ!」
「教会には多くの市民が集まっている。原因は不明だが、そちらの騒ぎを早急に鎮圧する必要がある」
グレオは部下にこの場の鎮圧を任せ、踵を返して歩き出す。
まず向かう先。そこはユイと呼ばれる少女が眠っている部屋。
彼女がいつ目を覚ますか分からない状況もあり、グレオは彼女をいつでも目に入る場所に置かなければならない。
ぐっすりと眠っているユイを馬車に乗せ、グレオは狂乱の現場を後にして、街の中心部へと急ぐのであった。
◆◆◆◆◆
救護場所へ増援を手配し、グレオは馬車を走らせる。
異様な静寂に包まれている街の様子に違和感を覚えながらも、グレオは馬車を最高速度で走らせる。途中でユイが目を覚まさないか心配であったが、魔力が込められた魔法の粉の威力は強く、ユイが目を覚ます様子は見せない。
「……あれは?」
教会が視界に入り近づいてくる。
もうじき、グレオは教会の正門へと辿り着く。
遠くから人間の悲鳴が聞こえてきて、グレオの鼓膜を震わせた。
「……急がねばッ」
教会も救護場所と同じ有様になっている可能性が高い。
その予感に気持ちが逸るグレオが、手綱を握る手に力を込めた瞬間だった。
「あれは……?」
風を切って進む馬車が進む道の先、そこに人影があることに気付く。
「くそッ……」
慌てた様子で手綱を引き、馬車を急停車させる。
さすがに馬車もすぐには止まることが出来ない。
遠くに見えた人影が、すぐそこにまで接近したところで、なんとか馬車を停止させることに成功するグレオ。
人影の正体は小さな少女だった。
少女は熊のぬいぐるみを抱きしめ、虚空を見つめて立ち尽くす。グレオがすぐそこにまで接近したことを気にもした様子すら見せない。
「き、君ッ……危ないだろうッ……」
「……?」
グレオが声をかけると、そこで初めて少女は視線をグレオの方へ向けた。
「…………」
少女の瞳には光がなかった。感情すら読み取れないビー玉のような瞳がグレオを居抜き、少女が見せる不気味な様子にグレオは思わず息を呑む。
「はぁ……私ね、今かなり憂鬱なんだ……」
「……憂鬱?」
「なんでこの街は、こんなに静かなの? もっと、もっと悲鳴が聞きたいのに。この世界に平和なんていらない。平和ってすっごく退屈だから」
「……何を言っているんだ?」
「はぁ……憂鬱だなぁ。平和な街が存在してるってことが、私にとってすごく憂鬱なの」
「…………」
少女の言葉に異常を感じたグレオの表情が険しいものへと変わっていく。
瞬時に危険だと判断したグレオは、すぐに動きが取れるように身構える。
「だからね、この街の平和を壊してあげようと思うんだ。だってそれが、総統の命令でもあるし」
「……総統、だと?」
「みんな、みーんな死んじゃえばいいと思うの」
少女は右手に熊のぬいぐるみを、そして左手に漆黒の装丁をした本を取り出す。
本から漏れる光が身体を包み込むと、少女が身に纏っていた衣服が変化していく。それはグレオもヨムドン村で見たことがある、忌々しいものだった。
「帝国ガリアの者か……」
「へぇ、これを見てガリアだって分かるんだ。なんかそれも憂鬱なんだけど」
少女が帝国ガリアの騎士服に身を包んだのを見て、グレオの警戒心は最大限にまで高められていく。ヨムドン村を焼き払った青年と同じ格好をしている。それだけで、眼前に立つのが少女であろうとも、グレオにとっては倒すべき敵へと変わる。
「救護場所での惨状も、貴様の仕業か……」
「おじさん、顔がすっごく怖くなってる……そんな目で見られることがすっごい憂鬱なんだけど」
「…………」
「まぁいいや。おじさん、私と遊んでくれる? 憂鬱だけど」
少女は片手に持ったグリモワールを輝かせると、妖しい笑みを浮かべてグレオを見る。
少女が動き出したのを見て、グレオも動く。
狂気に包まれる氷都市・ミノルア。
絶望はまだ終わってはいない。
時は少し戻り、舞台は氷都市ミノルア。
航大とライガが賢者を捜索するためにミノルアを出てから、しばらくの時間が経過していた。
目を覚ましたユイは、グレオから全てを聞いた。
そして、全身を包み込む倦怠感を押し殺してでも、愛しい少年の元へ駆けつけようとする。
「……そこをどいてッ! 航大のところに行かなくちゃッ……あの人は、私が居ないと何もできないからッ……」
立っていることすらやっとの状態であっても、ユイは強い決意をその瞳に宿らせ、対峙するグレオに吠える。
彼女はまだ英霊とのシンクロが切れていない。その手にはナイチンゲールが所持していた治癒剣が握られており、グレオが邪魔をするなら叩き切ってでも進もうとしている。
「少年は、君を守るために危険へ立ち向かった。その努力を水の泡にするつもりかッ!」
「……そんなこと頼んでないッ! 私はそんなことを……航大に命を賭けて助けて欲しいなんて……頼んだ覚えはないッ!」
普段の様子からは想像も出来ないほど、ユイの感情は荒ぶっていた。
内に秘めた想いが溢れ返り、ユイは怒りと焦燥感に声を上げる。
「……それでも、君をここから出す訳にはいかない。君は彼を信じ、この場所で大人しく待っているんだ。そんな身体でここを飛び出し、君が命を落としたと知ったら、少年はどう思う? 君は彼を信じていないのか?」
「航大にはそんな力はない。私が守ってあげないと、あの人は何もできないッ!」
その言葉に偽りはなかった。
彼女が知っている航大には、直接戦う力などは持ち合わせていなかった。彼はユイと共にあることで、その権能を使役することができる。それも、彼自身が力を得る訳ではない。ユイに英霊を与え、自分を守る力を授けるだけ。
この異世界において、航大はただの無力な少年だった。
ユイはそれを誰よりも知っている。
「……お願い、そこをどいて。今から追いかければ、すぐに追いつける」
「それはできない。少年が戻るまで、君を安全に匿う。それが彼との約束だからだ」
「……それなら、切ってでも通るだけ」
ユイは両手に持った剣をグレオに向け、険しい表情で言葉を紡ぐ。
しかし、グレオは剣を抜かない。
眼前の少女に戦う力が無いことを知っていての行動だった。容姿は同一であったとしても、今目の前で感情を荒ぶらせる彼女が、魔獣相手に勇敢に立ち向かった英雄とは違うことをグレオは理解している。
今の少女に遅れを取るほど、グレオは落ちぶれてはいなかった。
「できれば、君には少年が戻ってくるまで、眠っていて欲しかったのだがな……」
「……剣を抜かないつもり? 私も舐められたものね」
「今の君は、魔獣と戦った時の力を使うことができない。それがどういう理屈からくるものなのかは理解できないが、間違ってはいないだろう?」
「くッ……」
グレオの言葉にユイは強く唇を噛みしめる。
クリミア戦争の英雄・ナイチンゲールとのシンクロは途切れてはいないが、召喚者である航大が自分から離れているため、その権能を完全に使役することはできない。
「……それでも、ここを通らないといけない」
結果は見えている。
それでも、ユイは抗わなければならなかった。
そうすることが彼女の使命であり、宿命でもあった。
一発触発。どちらかが動けば、戦いが始まるといった緊張感は、扉の外から響き渡ってきた人間の悲鳴によって瞬く間に打ち砕かれる。
「……何事だッ!?」
「グレオ隊長ッ!」
悲鳴が轟いたのと同時に、個室へハイラント騎士が入ってくる。
「非常事態ですッ……突然、街の人間が我々を襲い出しましたッ!」
「……なんだと? しかし、ここにいる人間は全員重傷で、動けるはずがない」
「そ、そのはずなのですが……身体を起こしたかと思えば、治療している騎士に噛みつき、暴れ出しました……」
「……暴れ出した?」
「は、はいッ。治療していた人間の全てが、無差別に襲い掛かってきて……救護場所は大混乱になっていますッ!」
騎士の報告を聞いて、グレオの表情が険しいものへと変わっていく。
今、グレオたちがいる救護場所は、魔獣たちの襲撃によって重傷となった人間が収容されていた。特に生死を彷徨うような大怪我をしている人間が多く、とても動けるような状態ではないことは明白であり、それを知っているからこそグレオは部下の報告を信じることができなかった。
「分かった。すぐに向かう。まずは事態を収束させることを最優先に行動しろ」
「はいッ!」
グレオは簡潔に指示を出すと、再びユイに向き直る。
騎士の報告をユイも怪訝な表情を浮かべて聞いていたが、そんなことも放っておいて航大の元へと向かう気であった。
「少々、忙しくなってしまった。できれば、しっかりと話し合いをしたかったのだが……許してくれ」
「何を――ッ!?」
グレオは片手に持っていた小袋をユイの前に差し出すと、その中に入っていた粉末を部屋に撒いた。それは微量な魔力が込められた粉末であり、それを吸い込んだ者はたちまち眠りについてしまうものだった。
「少年は必ず無事に帰ってくる。それが誓いだったからな」
「くッ……しま、ったッ……」
「だから、今は安心して眠っていてくれ。少年が戻ってくるまでの間、君の安全は私が保障しよう」
意識を失い倒れるユイを受け止めると、グレオはその細い身体をベッドに寝かせる。
呼吸が安定していることを確認すると、踵を返して部屋を出る。
そして、救護場所へと戻ったグレオは眼前に広がる光景に目を見開くのであった。
◆◆◆◆◆
「なんだ、これは……?」
救護場所へはすぐに戻ることが出来た。
元々、救護場所がある小屋の中にユイは寝ていて、歩いて数十秒ほどで野戦病院と化している救護場所へ到達することができる。
小屋の中に響き渡る悲鳴はその大きさを増しており、何か尋常ではない雰囲気にグレオの歩は自然と早くなる。
そして、救護場所へ戻るなり、グレオは息を呑んだ。
「どうして、人間が人間を襲っている……?」
思わずグレオの口から漏れた声は、小屋の中に響く悲鳴に掻き消される。
それほどにまで救護場所は騒然としており、眼前には凄惨な状況が広がっていた。
全身に包帯を巻いた一般市民がハイラント王国の騎士を襲っている。四肢の一部を喪失している市民までもが、地面を這いつくばり、騎士の足に噛み付いている。
とても動けるような状態でないことは一目瞭然だった。しかし、重傷の市民は正気を失った様子で手当たり次第に近くの人間を襲っていた。
王国の騎士たちは、暴徒と化した一般市民を相手に抵抗することもできず、その毒牙に防戦一方だった。
彼らは騎士である。その気になれば一般市民を相手に遅れを取ることはないのだが、相手は何の力も持たない人間である。自分たちが必死の治療を施してきた相手に、その刃を向けることができなかった。
「グレオ隊長ッ……わ、我々はどうしたら……ッ!?」
「……このままでは全滅してしまう。反撃を許可する。しかし、極力手荒にならないようにするんだ」
「はッ!」
グレオの言葉に頷き、騎士が隊長の言葉を伝えに走る。すると、状況が徐々に変わってくる。
騎士たちは襲い掛かってくる市民を鎮圧しようと動く。手足を使って抵抗する者も居れば、異常な状況に取り乱して剣を振るう者もいる。
その状況を厳しい顔つきで見ていたグレオは、剣を振るっていた騎士に目を止める。
「……なんだと?」
取り乱した騎士の剣が市民の両手を切り落とした。そしてその剣を胸に突き刺す。
混乱を沈めるために反撃許可を出したが、その騎士の行動はグレオにはやり過ぎだと映った。それを叱責しようとしたその言葉は、次の瞬間に驚きと共に内で押し殺した。
剣が胸に突き刺さり、誰がどう見ても市民は絶命したかのように見えた。しかし、床に倒れ伏したのも一瞬で、再び身体が動き出すと、市民は再び騎士に襲いかかっていたのだ。
「これが呪いの力だとでも言うのか……?」
眼前に広がる光景を見て、グレオはその可能性に思考を巡らせる。
あちこちで騎士たちが市民を鎮圧させようと動く。しかし、どんな行動を取ったとしても市民たちの暴動は収まらない。
「ぐあああぁぁッ……!」
騎士の一人が首元に噛みつかれ、夥しい量の血液を噴出して倒れ伏した。騎士が苦しみの声を漏らす中、そこに市民たちが殺到していく。そして生きている人間の肉を咀嚼し始めたのだ。
「…………」
その常軌を逸した行動にグレオは表情を歪める。
生々しい咀嚼音が響き、それがまた新たな混乱を生んでいく。
「あ、あああああぁぁぁッ!」
騎士は一瞬にして絶命した。グレオの目には確かにそう映っていた。
苦しげな声を漏らし、その身体を何度も痙攣させると、弾かれたように身体を起こし、暴れまわる市民と同じように、近くで応戦していた仲間に飛び掛かっていく。
狂気は瞬く間の内に救護場所を包み込み、そして拡大していく。
「グレオ隊長ッ、市民の暴走がここだけではなく、教会の方にも及んでいるとの報告が入りましたッ!」
「教会には確か……」
「はッ、此度の戦闘において避難していた市民の他に軽傷だった市民が集まっている場所になります」
この場所は重傷者が集まっている。その他の軽傷者などは、数が多いため街の中心部に存在している教会に避難していた。
しかし騎士の報告によれば、その場所でも同様の騒ぎが起きていると言う。
「私はそちらへ向かうッ、ここは任せたぞ。いいなッ!?」
「はッ!」
「教会には多くの市民が集まっている。原因は不明だが、そちらの騒ぎを早急に鎮圧する必要がある」
グレオは部下にこの場の鎮圧を任せ、踵を返して歩き出す。
まず向かう先。そこはユイと呼ばれる少女が眠っている部屋。
彼女がいつ目を覚ますか分からない状況もあり、グレオは彼女をいつでも目に入る場所に置かなければならない。
ぐっすりと眠っているユイを馬車に乗せ、グレオは狂乱の現場を後にして、街の中心部へと急ぐのであった。
◆◆◆◆◆
救護場所へ増援を手配し、グレオは馬車を走らせる。
異様な静寂に包まれている街の様子に違和感を覚えながらも、グレオは馬車を最高速度で走らせる。途中でユイが目を覚まさないか心配であったが、魔力が込められた魔法の粉の威力は強く、ユイが目を覚ます様子は見せない。
「……あれは?」
教会が視界に入り近づいてくる。
もうじき、グレオは教会の正門へと辿り着く。
遠くから人間の悲鳴が聞こえてきて、グレオの鼓膜を震わせた。
「……急がねばッ」
教会も救護場所と同じ有様になっている可能性が高い。
その予感に気持ちが逸るグレオが、手綱を握る手に力を込めた瞬間だった。
「あれは……?」
風を切って進む馬車が進む道の先、そこに人影があることに気付く。
「くそッ……」
慌てた様子で手綱を引き、馬車を急停車させる。
さすがに馬車もすぐには止まることが出来ない。
遠くに見えた人影が、すぐそこにまで接近したところで、なんとか馬車を停止させることに成功するグレオ。
人影の正体は小さな少女だった。
少女は熊のぬいぐるみを抱きしめ、虚空を見つめて立ち尽くす。グレオがすぐそこにまで接近したことを気にもした様子すら見せない。
「き、君ッ……危ないだろうッ……」
「……?」
グレオが声をかけると、そこで初めて少女は視線をグレオの方へ向けた。
「…………」
少女の瞳には光がなかった。感情すら読み取れないビー玉のような瞳がグレオを居抜き、少女が見せる不気味な様子にグレオは思わず息を呑む。
「はぁ……私ね、今かなり憂鬱なんだ……」
「……憂鬱?」
「なんでこの街は、こんなに静かなの? もっと、もっと悲鳴が聞きたいのに。この世界に平和なんていらない。平和ってすっごく退屈だから」
「……何を言っているんだ?」
「はぁ……憂鬱だなぁ。平和な街が存在してるってことが、私にとってすごく憂鬱なの」
「…………」
少女の言葉に異常を感じたグレオの表情が険しいものへと変わっていく。
瞬時に危険だと判断したグレオは、すぐに動きが取れるように身構える。
「だからね、この街の平和を壊してあげようと思うんだ。だってそれが、総統の命令でもあるし」
「……総統、だと?」
「みんな、みーんな死んじゃえばいいと思うの」
少女は右手に熊のぬいぐるみを、そして左手に漆黒の装丁をした本を取り出す。
本から漏れる光が身体を包み込むと、少女が身に纏っていた衣服が変化していく。それはグレオもヨムドン村で見たことがある、忌々しいものだった。
「帝国ガリアの者か……」
「へぇ、これを見てガリアだって分かるんだ。なんかそれも憂鬱なんだけど」
少女が帝国ガリアの騎士服に身を包んだのを見て、グレオの警戒心は最大限にまで高められていく。ヨムドン村を焼き払った青年と同じ格好をしている。それだけで、眼前に立つのが少女であろうとも、グレオにとっては倒すべき敵へと変わる。
「救護場所での惨状も、貴様の仕業か……」
「おじさん、顔がすっごく怖くなってる……そんな目で見られることがすっごい憂鬱なんだけど」
「…………」
「まぁいいや。おじさん、私と遊んでくれる? 憂鬱だけど」
少女は片手に持ったグリモワールを輝かせると、妖しい笑みを浮かべてグレオを見る。
少女が動き出したのを見て、グレオも動く。
狂気に包まれる氷都市・ミノルア。
絶望はまだ終わってはいない。
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