終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第二章15 見知らぬ記憶が語るもの
第二章15 見知らぬ記憶が語るもの
身体が冷たい雪に埋もれ、全身に激しい衝撃が走ったところまでは覚えている。
その後はすぐに意識を失ってしまい、航大は闇に包まれる見知らぬ空間の中、一人で立ち尽くしていた。
右も左も、上も下も分からない。
ここはどこなのか?
雪崩に巻き込まれたことによって命を落とし、ここは死後の世界だとでも言うのだろうか。様々な思考が浮かんでは消えて、航大はそんな分からないことだらけな空間の中で、声を発することもなく、歩を進めることもなく、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
「……なんだ、これ」
その声は口をついて出たものなのか、それとも実際には声として出たものではなく、脳裏に響いただけなのか……それすらもハッキリとしない世界の中で、航大は永遠にも似た時を過ごす。
そんな闇が支配する世界に、異変が現れた。
それは何の前触れもなく闇の世界へ出現した。
最初は小さな粒だった光は、次第にその輝きを増していき、最終的には小さな人の形を形成する。それは航大の胸元くらいまでしか背丈がなく、どんな顔をしているのか、どんな服装をしているのか、それすらも全身が光りに包まれているため、判別することが出来ない。
ただ一つ分かるのは、光で形勢された人間の形をした『それ』は、女の子であるということだけ。
何故それが判別できたのか、それは光によって形勢された『それ』は腰にまで届く長い髪をしていたからだった。全身を光によって包まれているため、どんな髪色をしているかまでは分からなかったが、その長さが女の子特有のものであることは、航大にも理解することが出来た。
「こうしてお喋りするのは久しぶりだね?」
女の子の声が漆黒の空間に響き渡った。
その声について、航大は首を傾げる。誰の声なのかが分からない。なのに、少女は航大を知っている。その事実に困惑を隠せない航大は、自分の周りを楽しげに踊り回る光の少女に声をかけることすら出来ない。
「……ずっと、ずっと会いたかった。ずっと傍に居るのに、私の声を届けることはできなかったから」
「お前は……誰だ……?」
「覚えてないんだね。でも、それもしょうがないよね」
航大が発した声に、少女は声色を変えることなく、甲高い可愛らしい声で返事をする。
楽しげな様子を見せる光の少女は、くるくると長い髪を靡かせながら軽やかなステップを踏むと、航大の正面で停止する。
「私たちが出会ったのは、もうずっと前。ずっとずっとずーーっと前。ほら、まだ私たちがあんなに小さい頃に、出会ったんだよ?」
少女が虚空を指差す。
そちらに視線を向けると、無が支配する世界に新たな変化が訪れた。それは小さな光球で、手のひら大くらいのサイズをした光る玉が宙に浮かんでいた。
「……なんだよあれ」
「もしかしたら、どこかにあったかも知れないおとぎ話の世界。覗いてみる?」
少女は航大の腕を掴むと、小走りで駆け出す。
掴まれた腕を振り払うこともできず、航大は少女の動きに合わせて足を踏み出す。
何もない空間に足を踏み出す瞬間は恐怖心が過ぎったが、踏み出した足はしっかりと硬い地面を踏んでいた。
「ねぇねぇ、早く早くッ!」
「おい、あんまり引っ張るなって……」
「航大が走るの遅いんだよーッ!」
少女に引っ張られるがまま、虚空に浮かぶ光球に飛び込んでいく。
身体が光球に触れると、視界に広がっていた漆黒の世界が眩い光に包まれていく。
あまりの眩しさに目も開けていられず、航大は自分の身体がふわりとした浮遊感に支配されていくのを感じるのであった。
◆◆◆◆◆
「……え?」
風が吹く。
髪の毛が優しい風に靡いているのが分かる。
目を開くと、そこはとても見慣れた公園だった。
それも異世界の公園なんかではない、航大が生活していた元世界でよく遊んでいた小さな公園だ。小学生の時は毎日のように遊んでいた公園であり、それを航大が見間違うはずがなかった。
「どうして、こんなところに……俺、戻ってきたのか……?」
自分をこの場所に連れてきた少女の姿は、どこにもなかった。
その代わり、航大が見渡す公園の中には、小さな子供たちが何人も居て、みんなが笑顔で友達と様々な遊びに興じていた。そんな様子を観察している内に、航大は自分の身体に起こっている異変に気づく。
「……俺、背が縮んでね?」
そう。見慣れた公園が巨大化した訳ではない。
航大の背が縮んでいるのだ。両手、両足、そして着ている服。その全てが小学生時代のものへと変わっていた。航大は現実世界に帰ってきたのではなく、自分の記憶の奥底に眠る、過去の世界を見ているのだ。
「おーい、航大ッ! なにしてんだよッ!」
「こっちでサッカーしようぜッ!」
公園の入口で立ち尽くす航大に、ボール遊びをしていた少年たちが声をかけてくる。
「お、おうッ!」
言葉が勝手に口をついて出ていた。
この身体の命令権は過去の航大が持っているのであって、意識と化した現在の航大は昔の自分の視界を借りているだけだった。
勝手に自分の身体が駆け出し、自分を呼んだ少年たちへと近づいていく。
「よーし、航大ッ……パスッ!」
「うわッ!? 強く蹴り過ぎだってッ!」
駆け足で近づいてくる航大に気を良くしたのか、ボールを持っている少年は航大に向けてボールを蹴り出す。しかし、想像以上に高く浮いたボールは、航大の小さな身体を容易に飛び越えていき、公園の隅まで転がっていく。
「ごめんごめんッ!」
ボールを蹴った少年は笑みを浮かべて謝罪の言葉を投げかけてくる。
そんな彼にため息を漏らしながらも、航大は転がっていくボールの後を追う。
茂みに転がり込んだボールを探し、見つけると、航大は近くのベンチに座っている少女に目が止まる。
「…………」
少女はきれいな黒髪をしていて、小さな身体の腰部分にまで伸ばしているのが印象的だった。太陽の光にも負けない純白のワンピースに身を包んだ少女は、微笑みを浮かべながら読書に夢中になっていた。
普段だったら目にも止めない一瞬だった。しかし、この時の航大は何故か少女から視線を外すことができなかた。公園の隅で一人、本を読む少女は周囲の喧騒から完全に隔離されていた。絵画のような美しさを見せつける少女に、航大はしばし目を奪われる。
「あいつ、また本読んでるぜ?」
「うわッ!?」
「確かうちの学校に居る奴でさ、いつも本ばっか読んでんだよなー」
いつの間にか航大の隣までやってきた、やんちゃな印象を持つ少年は、本を読む少女を見てつまらなさそうに唇を尖らせる。頬に絆創膏を貼っていて、絵に描いたようなヤンチャ坊主といった風貌の少年は、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべると足音を殺して少女に近づいていく。
「やーいッ! ぼっちーッ!」
少女のすぐ後ろまで接近した少年は、彼女が読んでいた本を乱暴に取り上げると楽しげな様子で声をかける。
「あッ……か、返して……」
突然、目の前で本を奪われ、少女は慌てた様子で顔を上げる。
航大は少女の顔を正面から見て、やはり何も言葉を紡げずにいた。
「なんだこれ……白雪姫? うわーッ、めっちゃつまんなそう!」
本を奪った少年は少女が読んでいた本を確認すると、ケラケラと笑いながら貶していく。小学生くらいの少年によくある悪戯ではあるのだが、昔の航大はそんな彼の様子に苛立たしさを感じていた。
少女は元々気弱な性格をしているのか、ケラケラと自分を嘲笑う少年に対して強く言うことができない。顔を真っ赤にして、その両手でスカートの裾を摘み、少年が満足するのをひたすらに待っている。
「ほら見てみろよ航大。コイツ、こんな本読んでるぜ」
少年はゲラゲラと笑みを崩すことなく、航大に同意を得ようとしてくる。
そんな少年の言葉に、少女の今にも泣き出しそうな潤んだ瞳が航大を見る。
少女は何も期待していなかった。
どうせ航大も少年と同じように自分を笑うのだ。少女は今にも泣き出しそうな弱々しい潤んだ瞳をしていて、その瞳の奥底では一種の覚悟を決めていた。少女は普段からこういった状況に慣れていたのだ。学校でどのような生活を送っているかを、この時の航大は知る由もなかったが、精神、意識として過去の自分とシンクロしている今の航大には、少女の瞳を見るだけで色々と察することができた。
少女の瞳を見て、航大は恐怖を感じていた。
過去の自分はこの少女に対して、どのような言葉を投げかけるのだろう。
少年と同じように、このか弱い少女を虐めるのだろうか?
この先の展開を現在の航大は覚えていない。
だからこそ、過去の自分が選択する行動に恐怖してしまうのだ。
「……やめろよ」
そんな言葉が漏れた。
それは過去の航大がしっかりと自分の意思によって紡ぎ出した言葉だった。
「困ってるだろ。虐めなんて、かっこ悪いじゃんか」
「な、なんだよ航大……」
「人が困るようなことするなって、先生も言ってただろッ!」
「航大、お前……もしかして、コイツが好きなのかッ?」
航大の言葉に一瞬は怯んだ少年であったが、元から気の強い性格をしていた彼はすぐにふざけた調子を取り戻し、今度は航大も巻き込んで騒ぎ立てはじめる。
どこまでも人の気持ちを考えず、年相応と言えば年相応な態度の連続に、意識としてシンクロする現在の航大は強い怒りを感じていた。自由に身体を動かせないことにもどかしさを感じながら、航大は唇を噛み締めて、状況を見守ることしかできなかった。
「いい加減にしろよッ!」
「な、なんだよ航大ッ! やんのかよッ!」
怒りを露わにする航大を見て、少年もその表情に怒りを滲ませる。
この時、シンクロする航大は過去の自分に驚きを禁じ得なかった。どちらかと言えば争いを好まない性格をしていると自負する航大は、今、目の前で怒りを露わにする過去の自分を見て少なからず衝撃を受けていた。
「生意気だぞッ、航大ッ!」
「うぐッ!?」
怒りが頂点に達した少年は、航大の顔面に拳を振るった。
それは傍から見れば子供の喧嘩だった。フォームもバラバラで、ただがむしゃらに拳を突き出すだけ。
その喧嘩の様子を、少女はやはり今にも泣きそうな顔で見守るだけ。
少女を視界の隅に捉えながら、過去の航大は少年相手に必死に立ち向かっていく。しかし、自分の拳が少年に届くことはなく、逆に身体の至る所に打撃を貰ってしまう。
苦しげな声を漏らす航大は、どんなに攻撃を受けても倒れることだけはしなかった。何度も立ち上がり、服をドロドロに汚しても尚、立ち向かっていく。
――どうしてそこまでして自分は立ち上がるのか。
こんな光景すら、覚えていない自分に苛立たしさを感じながらも、意識として過去にやってきた航大は、拳を握りしめて様子を見守るのであった。
◆◆◆◆◆
「ふん、生意気なんだよッ!」
あれからしばらくの時間が経った。
結局、子供の喧嘩はヤンチャ坊主な風貌をした少年の圧勝だった。
過去の航大は悔しげに地面にしゃがみ込み、しかし視線だけで強く少年を睨んでいた。
疲れを見せた少年は、本を適当に放り投げると吐き捨てるような言葉を残して、その場を去っていってしまう。
いつしか静寂に包まれた公園には、航大と少女の姿だけがあった。
少女は最後まで涙を流すことなく、その小さな瞳にしっかりと眼前の光景を焼き尽くしていた。航大は悔しさに唇を噛みながらも、よろよろと立ち上がり、少年が投げ捨てた本を拾いに行く。
「……ごめんな。本、汚れちゃって」
「…………」
「俺もさ……本が好きだから……あいつ、許せなくて……」
「……あ、ありがとう」
「あ、うん……」
そうだ。航大はこの時から本が好きだったことを思い出す。
ほどほどに外で遊ぶ少年時代だったことは覚えているが、自分がここまでして本を守ろうとする少年であったことに、シンクロする航大は驚いていた。それと同時に、こうして身を投げ出してでも本を、少女を守ろうとする自分であったことに誇らしさを感じていた。
「本当に……本当にありがとう……」
少女は泣いていた。
ここまで絶対に泣かなかった少女が、その瞳から大粒の涙を流していた。
涙を流して笑みを浮かべる少女に、シンクロする航大は心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
「……これ、お父さんとお母さんから貰った……大事な、本だから……」
涙で声が震える少女は、土に汚れてしまった本を大事に胸へ抱く。涙が溢れて、地面に垂れ落ち、それを航大は黙って見つめていることしかできない。
「ありがとう。今度は私が貴方を……大好きな航大くんを守るから」
「……えっ?」
少女の言葉が理解できず、航大は間の抜けた声を漏らしてしまう。
どうして少女は自分の名前を知っている?
大好き?
守る?
意識として存在する航大の思考には、様々な疑問が浮かび上がっていた。
その言葉を、航大はつい最近聞いた気がする。目の前の少女とは外見が似ても似つかない、とても大切な少女の言葉だ。
どうしてそれを、過去の自分が出会ったこの少女が知っている?
一瞬にして意識として存在する航大の頭はフル回転を始める。鼓膜を震わせた言葉の意味を、真意を理解しようと思考を巡らせる。
「――――」
過去の航大と少女が何か会話をしている。
少女の口が動く。しかしそれは、意識となった航大には届かない。
少女は笑っていた。
その瞳に大粒の涙を零したまま。
その様子が酷く印象的だった。名前も知らない、記憶にもない少女と過去の自分が邂逅した光景。それは航大に大きな衝撃と謎を残し、眼前の光景が少しずつ眩い光に包まれておぼろげになっていく。
意識が遠くなっていくことを感じる。
過去の自分とのシンクロが途切れ、眼前に広がる光景が少しずつ遠ざかっていく。
気付けば、航大の視界は眩い光に包まれていて、もう何も視界には映っていない。
どこか不思議な空間を身体が漂っている感覚だけが感じ取られ、航大はまたやってきた謎の空間に驚くこともできず、先ほどの光景を何度も脳裏で再生していた。
「――どこか苦くて、どこか美しい……貴方はそんな美しい記憶をお持ちなのですね」
どこからか、声が聞こえた。
それはどこか大人びた声で、しかし航大には聞き覚えのないものだった。
「……誰だ?」
「それを今の私は答えることができません。しかし、もうじき会える。これだけは伝えることができます。また、貴方に会える時を、私は待ってます」
「――――」
その声に答える前に、航大の意識は急速に覚醒へと向かっていた。
過去の自分。
そこで出会った少女。
そして大人びた誰かの声。
意識世界において、航大は様々な謎と出会うことになった。
今はそれらに対する答えを見つけ出すことはできない。
しかしいつの日か、全ての謎が解ける日が来る。それを信じて、航大の意識は覚醒していくのであった。
身体が冷たい雪に埋もれ、全身に激しい衝撃が走ったところまでは覚えている。
その後はすぐに意識を失ってしまい、航大は闇に包まれる見知らぬ空間の中、一人で立ち尽くしていた。
右も左も、上も下も分からない。
ここはどこなのか?
雪崩に巻き込まれたことによって命を落とし、ここは死後の世界だとでも言うのだろうか。様々な思考が浮かんでは消えて、航大はそんな分からないことだらけな空間の中で、声を発することもなく、歩を進めることもなく、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
「……なんだ、これ」
その声は口をついて出たものなのか、それとも実際には声として出たものではなく、脳裏に響いただけなのか……それすらもハッキリとしない世界の中で、航大は永遠にも似た時を過ごす。
そんな闇が支配する世界に、異変が現れた。
それは何の前触れもなく闇の世界へ出現した。
最初は小さな粒だった光は、次第にその輝きを増していき、最終的には小さな人の形を形成する。それは航大の胸元くらいまでしか背丈がなく、どんな顔をしているのか、どんな服装をしているのか、それすらも全身が光りに包まれているため、判別することが出来ない。
ただ一つ分かるのは、光で形勢された人間の形をした『それ』は、女の子であるということだけ。
何故それが判別できたのか、それは光によって形勢された『それ』は腰にまで届く長い髪をしていたからだった。全身を光によって包まれているため、どんな髪色をしているかまでは分からなかったが、その長さが女の子特有のものであることは、航大にも理解することが出来た。
「こうしてお喋りするのは久しぶりだね?」
女の子の声が漆黒の空間に響き渡った。
その声について、航大は首を傾げる。誰の声なのかが分からない。なのに、少女は航大を知っている。その事実に困惑を隠せない航大は、自分の周りを楽しげに踊り回る光の少女に声をかけることすら出来ない。
「……ずっと、ずっと会いたかった。ずっと傍に居るのに、私の声を届けることはできなかったから」
「お前は……誰だ……?」
「覚えてないんだね。でも、それもしょうがないよね」
航大が発した声に、少女は声色を変えることなく、甲高い可愛らしい声で返事をする。
楽しげな様子を見せる光の少女は、くるくると長い髪を靡かせながら軽やかなステップを踏むと、航大の正面で停止する。
「私たちが出会ったのは、もうずっと前。ずっとずっとずーーっと前。ほら、まだ私たちがあんなに小さい頃に、出会ったんだよ?」
少女が虚空を指差す。
そちらに視線を向けると、無が支配する世界に新たな変化が訪れた。それは小さな光球で、手のひら大くらいのサイズをした光る玉が宙に浮かんでいた。
「……なんだよあれ」
「もしかしたら、どこかにあったかも知れないおとぎ話の世界。覗いてみる?」
少女は航大の腕を掴むと、小走りで駆け出す。
掴まれた腕を振り払うこともできず、航大は少女の動きに合わせて足を踏み出す。
何もない空間に足を踏み出す瞬間は恐怖心が過ぎったが、踏み出した足はしっかりと硬い地面を踏んでいた。
「ねぇねぇ、早く早くッ!」
「おい、あんまり引っ張るなって……」
「航大が走るの遅いんだよーッ!」
少女に引っ張られるがまま、虚空に浮かぶ光球に飛び込んでいく。
身体が光球に触れると、視界に広がっていた漆黒の世界が眩い光に包まれていく。
あまりの眩しさに目も開けていられず、航大は自分の身体がふわりとした浮遊感に支配されていくのを感じるのであった。
◆◆◆◆◆
「……え?」
風が吹く。
髪の毛が優しい風に靡いているのが分かる。
目を開くと、そこはとても見慣れた公園だった。
それも異世界の公園なんかではない、航大が生活していた元世界でよく遊んでいた小さな公園だ。小学生の時は毎日のように遊んでいた公園であり、それを航大が見間違うはずがなかった。
「どうして、こんなところに……俺、戻ってきたのか……?」
自分をこの場所に連れてきた少女の姿は、どこにもなかった。
その代わり、航大が見渡す公園の中には、小さな子供たちが何人も居て、みんなが笑顔で友達と様々な遊びに興じていた。そんな様子を観察している内に、航大は自分の身体に起こっている異変に気づく。
「……俺、背が縮んでね?」
そう。見慣れた公園が巨大化した訳ではない。
航大の背が縮んでいるのだ。両手、両足、そして着ている服。その全てが小学生時代のものへと変わっていた。航大は現実世界に帰ってきたのではなく、自分の記憶の奥底に眠る、過去の世界を見ているのだ。
「おーい、航大ッ! なにしてんだよッ!」
「こっちでサッカーしようぜッ!」
公園の入口で立ち尽くす航大に、ボール遊びをしていた少年たちが声をかけてくる。
「お、おうッ!」
言葉が勝手に口をついて出ていた。
この身体の命令権は過去の航大が持っているのであって、意識と化した現在の航大は昔の自分の視界を借りているだけだった。
勝手に自分の身体が駆け出し、自分を呼んだ少年たちへと近づいていく。
「よーし、航大ッ……パスッ!」
「うわッ!? 強く蹴り過ぎだってッ!」
駆け足で近づいてくる航大に気を良くしたのか、ボールを持っている少年は航大に向けてボールを蹴り出す。しかし、想像以上に高く浮いたボールは、航大の小さな身体を容易に飛び越えていき、公園の隅まで転がっていく。
「ごめんごめんッ!」
ボールを蹴った少年は笑みを浮かべて謝罪の言葉を投げかけてくる。
そんな彼にため息を漏らしながらも、航大は転がっていくボールの後を追う。
茂みに転がり込んだボールを探し、見つけると、航大は近くのベンチに座っている少女に目が止まる。
「…………」
少女はきれいな黒髪をしていて、小さな身体の腰部分にまで伸ばしているのが印象的だった。太陽の光にも負けない純白のワンピースに身を包んだ少女は、微笑みを浮かべながら読書に夢中になっていた。
普段だったら目にも止めない一瞬だった。しかし、この時の航大は何故か少女から視線を外すことができなかた。公園の隅で一人、本を読む少女は周囲の喧騒から完全に隔離されていた。絵画のような美しさを見せつける少女に、航大はしばし目を奪われる。
「あいつ、また本読んでるぜ?」
「うわッ!?」
「確かうちの学校に居る奴でさ、いつも本ばっか読んでんだよなー」
いつの間にか航大の隣までやってきた、やんちゃな印象を持つ少年は、本を読む少女を見てつまらなさそうに唇を尖らせる。頬に絆創膏を貼っていて、絵に描いたようなヤンチャ坊主といった風貌の少年は、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべると足音を殺して少女に近づいていく。
「やーいッ! ぼっちーッ!」
少女のすぐ後ろまで接近した少年は、彼女が読んでいた本を乱暴に取り上げると楽しげな様子で声をかける。
「あッ……か、返して……」
突然、目の前で本を奪われ、少女は慌てた様子で顔を上げる。
航大は少女の顔を正面から見て、やはり何も言葉を紡げずにいた。
「なんだこれ……白雪姫? うわーッ、めっちゃつまんなそう!」
本を奪った少年は少女が読んでいた本を確認すると、ケラケラと笑いながら貶していく。小学生くらいの少年によくある悪戯ではあるのだが、昔の航大はそんな彼の様子に苛立たしさを感じていた。
少女は元々気弱な性格をしているのか、ケラケラと自分を嘲笑う少年に対して強く言うことができない。顔を真っ赤にして、その両手でスカートの裾を摘み、少年が満足するのをひたすらに待っている。
「ほら見てみろよ航大。コイツ、こんな本読んでるぜ」
少年はゲラゲラと笑みを崩すことなく、航大に同意を得ようとしてくる。
そんな少年の言葉に、少女の今にも泣き出しそうな潤んだ瞳が航大を見る。
少女は何も期待していなかった。
どうせ航大も少年と同じように自分を笑うのだ。少女は今にも泣き出しそうな弱々しい潤んだ瞳をしていて、その瞳の奥底では一種の覚悟を決めていた。少女は普段からこういった状況に慣れていたのだ。学校でどのような生活を送っているかを、この時の航大は知る由もなかったが、精神、意識として過去の自分とシンクロしている今の航大には、少女の瞳を見るだけで色々と察することができた。
少女の瞳を見て、航大は恐怖を感じていた。
過去の自分はこの少女に対して、どのような言葉を投げかけるのだろう。
少年と同じように、このか弱い少女を虐めるのだろうか?
この先の展開を現在の航大は覚えていない。
だからこそ、過去の自分が選択する行動に恐怖してしまうのだ。
「……やめろよ」
そんな言葉が漏れた。
それは過去の航大がしっかりと自分の意思によって紡ぎ出した言葉だった。
「困ってるだろ。虐めなんて、かっこ悪いじゃんか」
「な、なんだよ航大……」
「人が困るようなことするなって、先生も言ってただろッ!」
「航大、お前……もしかして、コイツが好きなのかッ?」
航大の言葉に一瞬は怯んだ少年であったが、元から気の強い性格をしていた彼はすぐにふざけた調子を取り戻し、今度は航大も巻き込んで騒ぎ立てはじめる。
どこまでも人の気持ちを考えず、年相応と言えば年相応な態度の連続に、意識としてシンクロする現在の航大は強い怒りを感じていた。自由に身体を動かせないことにもどかしさを感じながら、航大は唇を噛み締めて、状況を見守ることしかできなかった。
「いい加減にしろよッ!」
「な、なんだよ航大ッ! やんのかよッ!」
怒りを露わにする航大を見て、少年もその表情に怒りを滲ませる。
この時、シンクロする航大は過去の自分に驚きを禁じ得なかった。どちらかと言えば争いを好まない性格をしていると自負する航大は、今、目の前で怒りを露わにする過去の自分を見て少なからず衝撃を受けていた。
「生意気だぞッ、航大ッ!」
「うぐッ!?」
怒りが頂点に達した少年は、航大の顔面に拳を振るった。
それは傍から見れば子供の喧嘩だった。フォームもバラバラで、ただがむしゃらに拳を突き出すだけ。
その喧嘩の様子を、少女はやはり今にも泣きそうな顔で見守るだけ。
少女を視界の隅に捉えながら、過去の航大は少年相手に必死に立ち向かっていく。しかし、自分の拳が少年に届くことはなく、逆に身体の至る所に打撃を貰ってしまう。
苦しげな声を漏らす航大は、どんなに攻撃を受けても倒れることだけはしなかった。何度も立ち上がり、服をドロドロに汚しても尚、立ち向かっていく。
――どうしてそこまでして自分は立ち上がるのか。
こんな光景すら、覚えていない自分に苛立たしさを感じながらも、意識として過去にやってきた航大は、拳を握りしめて様子を見守るのであった。
◆◆◆◆◆
「ふん、生意気なんだよッ!」
あれからしばらくの時間が経った。
結局、子供の喧嘩はヤンチャ坊主な風貌をした少年の圧勝だった。
過去の航大は悔しげに地面にしゃがみ込み、しかし視線だけで強く少年を睨んでいた。
疲れを見せた少年は、本を適当に放り投げると吐き捨てるような言葉を残して、その場を去っていってしまう。
いつしか静寂に包まれた公園には、航大と少女の姿だけがあった。
少女は最後まで涙を流すことなく、その小さな瞳にしっかりと眼前の光景を焼き尽くしていた。航大は悔しさに唇を噛みながらも、よろよろと立ち上がり、少年が投げ捨てた本を拾いに行く。
「……ごめんな。本、汚れちゃって」
「…………」
「俺もさ……本が好きだから……あいつ、許せなくて……」
「……あ、ありがとう」
「あ、うん……」
そうだ。航大はこの時から本が好きだったことを思い出す。
ほどほどに外で遊ぶ少年時代だったことは覚えているが、自分がここまでして本を守ろうとする少年であったことに、シンクロする航大は驚いていた。それと同時に、こうして身を投げ出してでも本を、少女を守ろうとする自分であったことに誇らしさを感じていた。
「本当に……本当にありがとう……」
少女は泣いていた。
ここまで絶対に泣かなかった少女が、その瞳から大粒の涙を流していた。
涙を流して笑みを浮かべる少女に、シンクロする航大は心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
「……これ、お父さんとお母さんから貰った……大事な、本だから……」
涙で声が震える少女は、土に汚れてしまった本を大事に胸へ抱く。涙が溢れて、地面に垂れ落ち、それを航大は黙って見つめていることしかできない。
「ありがとう。今度は私が貴方を……大好きな航大くんを守るから」
「……えっ?」
少女の言葉が理解できず、航大は間の抜けた声を漏らしてしまう。
どうして少女は自分の名前を知っている?
大好き?
守る?
意識として存在する航大の思考には、様々な疑問が浮かび上がっていた。
その言葉を、航大はつい最近聞いた気がする。目の前の少女とは外見が似ても似つかない、とても大切な少女の言葉だ。
どうしてそれを、過去の自分が出会ったこの少女が知っている?
一瞬にして意識として存在する航大の頭はフル回転を始める。鼓膜を震わせた言葉の意味を、真意を理解しようと思考を巡らせる。
「――――」
過去の航大と少女が何か会話をしている。
少女の口が動く。しかしそれは、意識となった航大には届かない。
少女は笑っていた。
その瞳に大粒の涙を零したまま。
その様子が酷く印象的だった。名前も知らない、記憶にもない少女と過去の自分が邂逅した光景。それは航大に大きな衝撃と謎を残し、眼前の光景が少しずつ眩い光に包まれておぼろげになっていく。
意識が遠くなっていくことを感じる。
過去の自分とのシンクロが途切れ、眼前に広がる光景が少しずつ遠ざかっていく。
気付けば、航大の視界は眩い光に包まれていて、もう何も視界には映っていない。
どこか不思議な空間を身体が漂っている感覚だけが感じ取られ、航大はまたやってきた謎の空間に驚くこともできず、先ほどの光景を何度も脳裏で再生していた。
「――どこか苦くて、どこか美しい……貴方はそんな美しい記憶をお持ちなのですね」
どこからか、声が聞こえた。
それはどこか大人びた声で、しかし航大には聞き覚えのないものだった。
「……誰だ?」
「それを今の私は答えることができません。しかし、もうじき会える。これだけは伝えることができます。また、貴方に会える時を、私は待ってます」
「――――」
その声に答える前に、航大の意識は急速に覚醒へと向かっていた。
過去の自分。
そこで出会った少女。
そして大人びた誰かの声。
意識世界において、航大は様々な謎と出会うことになった。
今はそれらに対する答えを見つけ出すことはできない。
しかしいつの日か、全ての謎が解ける日が来る。それを信じて、航大の意識は覚醒していくのであった。
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