終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第一章6 漆黒のグリモワール


「部屋でのことは忘れてください」

「…………」

 意図しない形で王女の着替えを覗いてしまってから、しばらくの時間が経過した。あの後の惨状と言ったら酷いものだった。今、こうして命があるだけでも幸運であり、一歩間違えていたら航大は間違いなく死刑、良くて極刑。簡潔に言うのなら命はなかったのである。

「お返事がありませんね。部屋でのことは忘れてください」

「……はい」

 沈黙をもって解答としていたのだが、それだけでは王女は納得できなかったらしい。キッと険しい表情を浮かべて、念を押すように何度も記憶の抹消を要求してくる。

  一国の王女という立場にありながら、彼女もまた無理難題を押し付けてくる。

 先刻、王女の自室で起きたことは誰もが承知のことであると思うが、現実世界でも体験したことのないラッキー展開をすぐに脳裏から消せなどということは、思春期真っ只中の男子にはあまりにも難しい難題である。

「ルズナ。貴方にも後でお話があります」

「……申し訳ありません、シャーリー様。私はこの後、少々野暮用が……」

「ル・ズ・ナ。いいですね?」

「……はい」

 場所は謁見の間。その隅で直立不動の体勢で立ち尽くしている女性……ハイラント王国のメイド長であるルズナ・ウィリアは王女からのドスの効いた声音にそれ以上の抵抗を諦める。

 元はと言えばこの天然眼帯メイドが全て悪いのであって、客人として右も左も分からない航大が責められる必要はないのだが、着替えを覗いてしまったという重罪の前には、そんな事実も霞んでしまうのであった。

「はぁ……まぁ、とりあえずこの話はここまでにしましょう」

「……すみません」

「いえ、アレは不幸な事故であり、今この時を持って、あの忌々しい事件の記憶を持つ人間は居なくなるのです。それであるなら、王女としてこれ以上の追求は致しません」

「……そうですね」

 王女としては、着替えを覗かれた件については、不幸な事故ということで片付けたいらしい。航大としても問題が大きくならないのであれば、そのような形で決着がつくことに異論はないのである。

「旅のお方。この度は、ハイラント王国近辺に出現した魔獣の討伐……誠にありがとうございました」

「いえ、何度も言うんですけど、俺は何もしてなくて……」

「誰が戦った……ということは些細な問題です。我が国の兵士が貴方たちに助けられた……そしてそれは、我が国の大勢の民を救う結果になった。この事実は貴方があの場に存在していたからこそ、成し得たことです」

 先ほどまでの年相応な様子からは一変して、王女はその表情に微笑を浮かべ、心の底からの謝辞を述べる。

 現実世界でも隅っこで目立たない生活をしていた航大にとって、このような煌びやかな場所で、一国の王女という地位を持つ人間に謝辞を受けることなど、一生に一度だけの貴重な経験だった。

「貴方と共に魔獣と立ち向かった方には、目を覚まされた後に改めて謝辞をお伝えします」

「……ありがとうございます。俺なんかよりも、あいつにお礼を言ってあげてください」

 脳裏に何度でも蘇る最後の瞬間。

 それは航大の未熟さが招いた結果であり、一歩間違えば最悪の事態にも発展していた可能性がある。目の前で人が傷つく。死を予感させたあの瞬間を思い出す度に、航大の背筋には悪寒が走り、もう二度と同じことは繰り返すまいと固く心に誓う。

 それから、王女からはこれ以上ない謝辞の言葉をいくつも貰うことになる。

 航大が何を言っても、王女は聞かず、あの場に居合わせたライガ……若き兵士からの言葉を丸呑みにして、やや興奮気味に航大たちの戦いぶりを語る。

「失礼ではありますが、最初この話を聞いた時、私は信じることができませんでした。しかし、兵士の言葉、そして運ばれてくる魔獣の亡骸を見て、私はこの話が真実であると確信しました」

「いやいや、そんなことは……」

「貴方はご謙遜が好きな様子ですね。この国ではあまり見ない格好をされていますが、どちらからいらしたのですか?」

 異世界の人間であるなら、誰もが持つ疑問を王女は小首を傾げて航大にぶつけてくる。

「えっと、それは……実は、記憶が曖昧なところがあって……自分がどこから来たのか……分からないんです」

 異世界の人間が持つ疑問に対して、模範解答とも言える言葉を、航大は自分でもビックリするくらいにスラっと口から発せられた。

 現実世界の存在など、異世界の人間に伝えたところで余計な混乱を生むだけだ。
 それなら、無難な答えに徹した方がいい。航大は瞬時に導き出された答えに従って、饒舌に口を動かす。

「……そうなのですか。では、帰る場所も?」

「そう、ですね……今日の寝床をどうしようか……それはこれから考えます」

 異世界にやってきて、直近の問題と言えばそこだった。

 現実世界に帰る手段も分からない。一体、どのくらいこの世界に滞在することになるのか、それすらも見えない中、航大が直面するのは異世界での生活についてだ。

 この世界について航大はあまりにも知識がない。この世界で人々がどのようにして生活しているのか、どのようにして金を稼いでいるのか……普通の生活を送るための知識すら欠如している状態なのだ。

    まずはこの世界での拠点を作ることが航大にとって最も最優先で片付けなければならない問題であった。

「……そうですか。それなら、行き先が見つかるまでこの城に留まってはいかがでしょうか?」

「……へ?」

「私たちも行き場のない人々を見捨てるほど冷酷な人間ではありません。特に貴方たちには恩があります。どうか、私たちにその恩を返すチャンスをください」

 ニッコリと微笑みを浮かべた王女の言葉によって、航大が解決すべき直近の問題はあまりにも呆気なく解消されるのであった。

◆◆◆◆◆

「よう、恩人!」

「あ、ライガ!」

 王女との話も一段落つき、航大はこのハイラント城に一時的に住まわせてもらうことが確定した。

 その後、王女は公務があるとかで席を外し、航大はルズナから城内の至る所の説明を受けていた。部屋の場所から、食事の時間、入浴の場所と時間に、門限まできっちりと短時間で詰め込まれ、朝方に目が覚めた航大が自由な時間を得たのは、正午をとっくに回ったこの時間なのであった。

「いやー、ようやく見つけたぜ。俺もずっと探してたんだよ」

「こっちもお礼を言おうと思って探してたよ」

 城内を疲れ切った様子で歩いていた航大の背後から、聞き慣れた声が響いてくる。
 後ろを振り返れば、身体のあちこちに包帯を巻いた若き兵士、ライガがニコニコと笑みを浮かべてこちらに歩いてきていた。

「どうやら無事なようだな。風の噂で聞いてたけど、安心したぜ」

「ライガも無事みたいでよかった」

「バッカ野郎。あれぐらいじゃ死なねーよ。まぁ、それもお前たちが居てくれたおかげだけどな」

 ガッハッハと豪快に笑うライガ。そんな彼の様子に、怪我をさせてしまったと負い目を感じていた航大の心は一瞬でも救われる。

「あ、そうだ。これなんだけどな、ちゃんと渡しておくぜ」

「これは……本?」

 再会の挨拶もそこそこに、ライガは何かを思い出したかのように、懐から漆黒の装丁をした本を取り出して航大に手渡す。目の前に突き出された本を航大は反射的に受け取ってしまう。

「これを返そうと思って、ずっと城の中を歩いてた訳よ」

「そっか……ありがとう」

「お礼なんて良いんだよ。恩人の持ち物だ。ちゃんと渡せてよかったぜ」

「……ライガはこの本について何か知ってるか?」

「あん? この本について?」

 漆黒の装丁をした本をジロジロと観察するライガ。表紙を捲って、本の中身もしっかりと確認するが、あの森で起きたような発光現象は見られなかった。

「なんだこれ、真っ白じゃねーか。お前も変な本持ってるんだな」

「……俺にもどうして真っ白なのか分からないんだよ」

「うーん、すまんが学のない俺じゃ力になれなそうだ。城下町の魔導書店に行ってみろよ。もしかしたら、何か分かるかもしれないぜ」

「魔導書店?」

「あぁ。待ってろ。地図書いてやるよ」

 親切なライガは、キラリと犬歯を光らせてどこまでも純粋な笑みを浮かべるのであった。

◆◆◆◆◆

「えっと……これをこっちで……ここを入るのか……?」

 ライガが書いた地図。これは異世界に来たばかりの航大にとって、とても有用な物だった。右も左も分からない航大に少しでもわかりやすいようにと、異世界の言葉を使ってまで丁寧に作ってもらっていた。

 しかし、口では話すことが出来ても、さすがに現地の文字までは理解することができなかった。幾何学的な模様が羅列されていて、今の航大にこの文字を解読することは不可能なのであった。

 すれ違う人に道を聞いて歩くこと数十分。
 航大はようやく魔導書店へとたどり着く。

「い、いらっしゃいませ~」

 魔導書店へ入ってみると、そこは現実世界の図書館と同じような内装をしていた。見渡す限り本棚が続いていて、古本独特の匂いが鼻孔をくすぐってくる。
 
    航大は自分が最も好きだった場所の存在を思い出した。

「あ、あのー、この本について色々知りたくて……」

「あ、魔導書の鑑定ですね~、少々お待ち下さい~」

 どこからか声は聞こえてくるのだが、人影は一向に見えない。
 弱々しい少女の声であることは間違いないのだが、周囲を見渡してもその声の主を見つけることはできなかった。

「よいしょっと~、お待たせしました~」

「うわぁっ!?」

「ひゃあぁっ!?」

 一瞬、静かになったと思った直後、頭上から幼女の声が鼓膜を震わせた。
 一切の気配を漏らすことなく、杖に跨った幼女は航大の頭上からふわふわと降りてきたのであった。

「ビ、ビックリしました~」

「そ、そうか……この世界には魔法があるんだった……」

「魔法くらい使えますよ~! 子供みたいな格好してるからって侮らないでください!」

 幼女は杖から降りると、ぷくーっと頬を膨らませて失礼な言動を漏らした航大を下から睨みつける。声の主はこの幼女だったようで、航大の胸かその少し下くらいまでしか身長はない。

    全身をすっぽりとフードマントで覆っており、かろうじて見える幼い顔つき以外の情報は身長が低いといったことくらいしか分からない。

「……今、失礼なこと考えてましたね?」

「えっ!?」

「私、こう見えても二百年はこの世界で生きてるんですからね! だから、子供扱いは絶対にダメです!」

「二百年!?」

「わひゃっ!? 大きな声出さないでください!」

 少女の言葉に驚き、その声で少女が驚く。
 コントのようなやり取りを何度かして、ようやく落ち着いて話をする場が整うのであった。

「それで、魔導書の鑑定ですよね。まずは本を見せてもらってもいいですか?」

「あ、あぁ……これなんだけど……」

 右手に持っていた漆黒の装丁をした本を少女に手渡す。少女は本を見た瞬間に何かを感じたのか、ピクンと身体を跳ねさせると航大の手から奪うようにして本の鑑定を始めた。

「これは……確かに、魔導書ではあるみたいですね……」

「やっぱりそうなのか?」

「はい。それもすっごい魔力を秘めてます……二百年間、生きてきた私でも見たことがないくらいに……」

 本をジロジロと穴が開くんじゃないかと錯覚するほどに隅から隅まで観察を続ける少女。その瞳が外見相応にキラキラと輝いていて、必死に本を鑑定する少女を見てどこか微笑ましい気持ちを禁じ得ない。

「これはどこで手に入れたんですか?」

「手に入れた場所か……それがよく分からなくて。気付いたら手元にあった感じかな……」

 実際は現実世界の図書館で手に取った訳だが、相手が異世界の人間であることも考慮して細かい所は伏せる。

「そうですか。ふむ、ふむ………………すみません、どうやら力になれないようです」

「えっ、そうなのか?」

「はい。この本は自分が所有者と認めた者以外には絶対に情報を出さないようにしているみたいです。所謂、封印が施されている感じです」

「封印って……」

「それを解くのは難しいと思います。私も見たことがない、あまりにも複雑な魔法陣が組まれていて、もしかしたらこの世界には封印を解くことができる人間は居ないかもしれません」

「マジかよ……そんなにすごいのか、これ……」

「そうですね。尋常じゃないマナをこの本から感じます。正直、この本を持っているだけで大量のマナに私がやられちゃいそうです」

 ただ本を持っているだけなのに、少女の顔色は悪い。
 それくらいにこの本の影響力は強いようだ。

「とにかくグリモワールであることは間違いない。私にはそれくらいしか言えません」

「……そうか」

「もしかしたら、アルジェンテ地方に住んでいると言われる賢者になら、分かるかも知れませんね」

「アルジェンテ地方?」

「この大陸のはるか北の、一年中を氷と雪に覆われた場所のことを指します。アルジェンテ地方のさらに北……そこに氷山地帯が存在して、その氷山地帯には賢者と呼ばれる、あらゆる魔法に精通している人間が居ると聞いたことがあります」

「……そこにいけば、分かるかもしれないのか」

「はい。といっても、アルジェンテ地方は本当に過酷な土地ですので、あまりオススメはしませんが……」

「……わかった。ありがとう」

「いえいえ、こちらも力になれなくて申し訳ありません。この本はきっと、貴方が持つのにふさわしいでしょう。いつか時が来れば、この本についての秘密がわかりますよ」

「そういうもんなのか?」

「ですです。グリモワールは人を選びます。この強大な本に見初められる。きっと、貴方には何か特別な力があるのでしょう」

 少女は本から手を離し、ニッコリと微笑む。
 どうやらこの場所でこれ以上の情報を得ることは難しいらしい。

「またのお越しをお待ちしておりますです」

 本については新たな情報を得ることはできなかった。しかし、この世界で初めての目的は生まれたかもしれない。確かな成果を実感しつつ、航大は店を後にするのであった。

◆◆◆◆◆

「さて、これからどうしようかな」

 店を出て、城下町の大通りにまで戻ってくる。
 まだ門限までは時間がある。あの少女が目を覚まさない限り、この城から離れることもできない航大は暇を持て余していた。

「ねぇねぇ、おにーさん!」

「ん?」

「もしかして、旅の人? アタシが街を案内してあげよっか?」

 大通りで呆然としている航大に話しかけてくる声があった。
 その声に振り返ると、そこにはボロボロの服に身を纏い、太陽の光を反射して金色に輝くショートカットが印象的な少女が立っていたのであった。

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