終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第一章1 どこにでもある、ありふれた平凡な日常の終わり


 歴史とは偉大であり、とても興味深いものである。

 過去に名を馳せた偉人たちの物語を、現代に生きる人間は本の中でしか知ることができない。実際にその人物が何を想い、何を感じ、どんな苦悩を経た結果に偉人と呼ばれるまで至ったのかを、現代の人間は知ることができないのだ。

 過去に渡り、実際に偉人と出会うことは不可能。だから現代の人間は残された本を読み、少しでも偉人たちの物語を知ろうとするのだろう。

◆◆◆◆◆

 音羽学園に通う、神谷航大かみや こうたもそんな偉人たちの歴史が好きな少年だった。

 趣味は読書。しかし、父親が剣道の段位を持つ人間だったこともあり、幼い頃から剣道には勤しんでいた。そのため、普段は引き篭もりがちな生活をしているが、運動が全く出来ないといったことはない。

「……さて、今日も図書室に行くとするか」

 いつもの放課後。
 急な予定などがない日に限っては、放課後に図書室で読書に時間を費やすことが航大にとって日課だった。

 放課後の図書室は静寂に包まれており、外から聞こえてくる運動部の声だけが時折響いてくるだけ。航大にとっては家以上に恵まれた環境であることに間違いはなかった。

「今日は誰の本を読もうかなぁ……」

 航大にとって、この瞬間が最も楽しみな時間だった。放課後、教室から図書室へ向かう途中の時間で誰の本を読むのか決めるのだ。

「うーん、今日はドイツの英雄、ジークフリードとかいいかも……」

 ドイツで語られる悪竜殺しの英雄の名である。名剣と呼ばれるバルムンクを使い、悪竜を倒すと言われた神話上の伝説的な人物である。

 実に少年心をくすぐる偉人であり、そんな彼の基本的な情報しか知らない航大でも、これから知ることになる偉人の物語に心が踊ってしまうのであった。

◆◆◆◆◆

 図書室に入ると、本が放つ独特な香りが出迎えてくれる。
 この匂いが航大の心を穏やかにし、どこからか聞こえてくるページをめくる音が心を弾ませてくれる。

「あれ、今日は図書委員の子いないんだな」

    図書室の入り口正面には貸し出し受付がある。普段なら、そこには図書委員が座っており、本の貸し出しと返却を管理していた。

「まぁ、そういう日もあるか」

    本が好きで図書室に通う航太には、読書以外の目的も少し含まれていた。それが図書委員の女の子である。
    眼鏡を掛け、長い黒髪を三つ編みにした見るからに地味なその少女のことがずっと気になっていた。
    しかし航太も年頃の少年。見知らぬ女の子に声を掛けられるほどの度胸は持ち合わせていないのだ。

「居ないならしょうがない。本を探すとするか……」

 何を読むか決める時間の次に、航大が好きなのが本を探す時間である。
 目的の本は決まっているのだが、それを探している間の胸が高鳴る感覚と、探す途中で見つけた気になる背表紙の本との出会いであったりが、たまらなく少年の心をときめかせてくれる。

「お、これかな……」

 ドイツの叙事詩ニーベルンゲンの歌に、かの偉人ジークフリードの物語が記されている。神話上の人物による物語ではあるが、どこかの世界でこの偉人たちの物語が実際にあったのではないか、と妄想することも好きなのであった。

「……ん、なんだあれ?」

 目的の物語が記されている本を片手に歩いていると、ふと気になる本が棚に並んでいるのを見つけた。

 真っ黒な装丁をしており、表紙、裏表紙、背表紙に何も記載されていない。これがなんの本なのかすらも分からず、どのような内容が記されているのかを推測することすら装丁からは難しい。

 普段だったら、目にも止めず素通りするのだが、この日に限っては何故か足が止まってしまった。視線を本から外すことができない。気付けば自分の意志とは無関係な力が働き、航大はその本に手を伸ばそうとしていた。

「……なんでだ?」

 自分でも分からない。ただ、その本を見つけてしまった。歩を止めてしまった。原因があるとするならば、それは自分がこの瞬間に、この本を見つけてしまった所にあるのだろう。

 本の背表紙に指をかけ、ゆっくりと本棚から手に取っていく。

 本はそこそこの厚みがあるにも関わらず、羽根のように軽かった。いや、軽いというよりは航大にはその本から『重み』というものを感じられなかった。

 この時、航大は直感的に感じることがあった。全てが黒く染まった怪しい装丁の本、そして一切の重みを感じない異常さ……そこから航大は得体の知れない嫌な予感を感じていた。

「…………」

 この本を手放せばよかった。

 この本がこの世に存在していなければよかった。

 この本を見つけなければよかった。

 そんな、様々な思いが脳裏に錯綜する中、航大の指は本の表紙と思われる場所に触れていた。心が叫ぶ『やめておけ』と。しかし、指の動きは航大の意思に反して表紙をめくろうとする動きを止めなかった。

「……ッ!?」

 本をめくった先には予想した通り、何も記されていなかった。
 航大の視界を埋め尽くすのは、どこまでも真っ白なページだけ。

 目次もない。本文もない。何もない。

 何もない本というのは不気味なものではあるが、それだけでは航大が驚く理由としては薄い。

「な、なんだよこれっ……!」

 図書室では絶対に大声を出してはいけない。
 これは図書室のルールとして設定されていることであり、図書室や本が好きな人間にとっては、改めて説明されなくても理解している絶対のルールである。

 そんな読書好きにとっての絶対のルールを痛いくらいによく知っている航大が大声を出して驚く。それにはそれなりの理由があるのだ。

 ――本が光った。

 カメラのフラッシュにも、太陽の光にも負けないのではないかという強く白い輝きが本から放たれた。光る本なんてものがこの世に発明されたなんてことは聞いたことがない。しかし、事実としてこの本は光っている。

「くっ、うあぁっ……!」

 右手が飲み込まれた。

 光り輝く本は、ただ光るだけでは飽き足らず、航大の右手を真っ白なページの中へと飲み込んだのだ。
 自ら手を突っ込んだ訳ではない。気付けば右手が本の中に消えていたのだ。

「な、なんなんだよこれはっ……!」

 普段は冷静ぶって大声を出さない航大ではあるが、さすがにこれは驚きの声を禁じ得ない。

 右手を助けようとした左手が飲み込まれた。

 手首まで本の中に飲み込まれてしまった右手を助け出すため、左手を使う。しかし、その判断は間違っていたと言わざるをえない。

 伸ばした左手は気付けば右手と同じように本の中に飲み込まれていて、これで完全にゲームオーバーである。最早、両手を救い出す手段は航大に残されておらず、どうすればいいのかを考えた航大は、眼前で起こる非日常的な光景にそれ以上の思考を止めた。

「何かに……引っ張られてる……!」

 両手が飲み込まれ、本の中から何か分からない『力』に今度は全身が引きずられていく。
 このままではこの本に飲み込まれる。そう感じて背筋が凍った瞬間だった。

「――ッ!?」

 今度は身体が宙に浮いた。
 人間の力から解き放たれているはずの本は空中を漂っていて、そんな本と一緒に航大の身体も同じく宙に浮いていたのだ。

「あっ、これ……ヤバいやつだ……」

 ここまできて、ようやく航大はそんな当たり前の解答にたどり着いた。

 本を読んでいた時はあんなに恋い焦がれていた非日常が今、始まろうとしていた。

 しかしそれは、航大にとって思いがけないタイミングで訪れてしまい、一秒先の無事すらも怪しい状況に、さすがに動揺を隠せない。

 なんとか抗おうと、本棚に手を伸ばす。

 しかし、そんな抵抗は無駄であると嘲笑うように、漆黒の装丁をした本は航大の身体を飲み込んでしまうのであった。

◆◆◆◆◆

「…………きて」

 どこからか声が聞こえる。

「お……き……て……」

 その声は航大の意識が覚醒に向かう度にハッキリとした意味を持つ。
 どこかで聞き慣れた声に導かれるようにして、航大の意識は覚醒を迎えるのであった。

◆◆◆◆◆

「……ん?」

「……起きた?」

「え、君は誰?」

「……私は、誰?」

「いや、知らないけど……」

 目を覚まして、一番最初に視界に映ったもの。
 それは、見知らぬ少女の顔であった。
 仰向けに寝ているのは身体の感覚から理解した。
 そして後頭部には柔らかく、暖かい感覚があることも理解した。
 視界にはやけに近い位置に少女の顔があるのも理解、把握した。
 つまり、ここまでの情報から導き出される答え……それはあまりにも簡単なものだった。

「えっと、どうして君は俺を膝枕しているの?」

「……貴方が寝てたから?」

「寝てたって……俺は図書室に居たから……寝てたはずは……」

「……図書室? それは、なに?」

「え、知らない?」

 図書室で何か変な怪奇的なことが起こったような気がする。でもそれは、思い出しちゃいけないことのような気がしたので、これ以上の回想をやめた。

「えーと、ここはどこ?」

「……私にも分からない?」

 さっきから少女への問いかけが問いかけで返されている気がする。
 正直、このままでは埒が明かない。

「とりあえず、起きてもいい?」

「……うん」

 こちらの問いかけに、今度は頷きで応えてくれた。
 後頭部に感じた太腿の感触が消失してしまうのは、あまりにも勿体無いことではあるのだが、航大にはそれ以上に解明しなくてはならない、事態があった。

「……どこだよ、ここ」

 ようやく身体を起こし、そこで航大はようやく自分が置かれている状況を確認することができた。

 どこに自分が居るのか。
 まず一つの答えとして、図書館には居なかった。
 そもそも屋内に居ない。外に居る。

 だだっ広い荒野の中、航大は隣に見知らぬ少女を携えて立ち尽くしていた。
 最悪、だだっ広い荒野に居るだけならまだよかった。

 ――ただ荒野に居るだけなら命の危機までを感じることはないのだから。

「マジかよこれ……」

 眼前には人間が居た。
 西洋風の鎧に身を纏っているのを除けば、自分と同じ人間である。
 しかし、決定的に自分が異世界に迷い込んでしまったことを知ったのは、次の瞬間だった。

 西洋風の鎧を身に纏った人間が居ただけなら、まだよかった。剣を振り回していたとしても、それは映画の撮影ですと言っておけば何とでもなった。

 しかし、その剣から魔法的な斬撃だったり、炎だったり、水だったりが出ているのは最早、現代社会の現象としては説明ができない。
 そんな剣と魔法の世界が眼前で繰り広げられている現実。

「これが異世界って奴か……」

 そう、頭が理解するまでに結構な時間を要してしまった。
 現代の人間というものは、有りもしない現実が目の前に広がった時、本当に思考が停止してしまうのだ。これは実際に体験した者にしか分からない感覚であろう。

 実際、航大はそんな思考が停止する感覚を今まさに感じている最中だった。

「……大丈夫?」

 黙って立ち尽くしている航大を見て、心配になったのだろう。
 隣に立っていた名も知らない少女が首を傾げながら、制服の袖を引っ張ってくる。

「まぁ、大丈夫かと言われれば……大丈夫じゃない」

「……怪我してる?」

「怪我はしてない」

「……どこか痛い?」

「頭が痛くなってきた気がする」

「……私、どうすればいい?」

「俺を現実の世界に返してくれ」

「……現実の世界?」

「ダメだこりゃ」

 少女との話を一方的に打ち切る。
 これ以上、会話をしていてもこちらが望む答えは帰ってこないとの判断である。

「異世界転移……笑えないな、コレ」

 目の前で繰り広げられる剣と魔法の異世界風景を見て、航大は力なく笑みを漏らす。
 こうして、歴史好きな普通の少年、神谷航大は現実世界に別れを告げ、異世界へとやってきてしまった。

 どうやら、そういうことらしい。

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