寵愛の精霊術師
第36話 研究室への訪問者
「今日はみんなに、大事なお話があるの」
ヘレナがそんなことを言い出したのは、二学期が始まる直前。
オレとカタリナが王都にある家に戻ろうと計画していた、その日の前夜のことだった。
「どうされたのですか奥様。大事なお話とは……」
「どうしたんだヘレナ。そんなに畏まって」
リビングには、オレとカタリナ、ヘレナとミーシャ、珍しいことにフレイズも呼ばれている。
最近は普通に職務に戻り、忙しい日々を過ごしているはずのフレイズまで呼びつけているということは、本当に重要な話なのだろう。
「それで、どうしたんですか、母様?」
オレたちの疑問の声を受けたヘレナは、一度目を閉じ、そしてゆっくりと瞼を開ける。
「わたし、妊娠したの」
「……本当か、ヘレナ?」
最初に反応したのはフレイズだった。
はじめは驚いた表情を浮かべていたものの、その顔にはどんどん喜色が広がっていく。
「よくやった! よくやったぞヘレナ!」
「あなた……ありがとう。ありがとう、フレイズ……」
フレイズに抱き寄せられ、頬を赤く染めたヘレナの表情が緩む。
感極まって夫の名を呼ぶその姿は、まさに理想的な妻そのものだ。
本当に幸せそうなその顔に、見ているこっちまで幸せな気分になった。
「おめでとうございます! 母様!」
「おめでとうございます、奥様」
「おめでとうございますっ、ヘレナさま!」
「ええ。ありがとう、ラル。ミーシャ。それにカタリナちゃんも」
ヘレナが慈しむような表情で、自分のお腹を撫でる。
そこにいる新しい命を愛でるように、それは優しい手つきだった。
いや、それにしてもめでたい。これでオレも兄貴になるのか。
まだ弟になるか妹になるかはわからないが、生まれてきたらたっぷり可愛がってやろう。
「ラルさま、なんか悪い顔してます……」
「えっ。いや、そんなことないよ?」
カタリナに指摘されて、表情を修整する。
いや、可愛がるって言っても純粋にだからね?
嘘は言ってないよ。本当だよ。
ヘレナの話によると、生まれてくるのは来年の四月から五月頃になるそうだ。
今は妊娠して二、三ヶ月といったところか。
今後はどんどん動きにくくなるだろうし、オレもこまめにこっちの実家に帰ってくることにしよう。
オレは心の中で、密かにそう誓ったのだった。
「赤ちゃん、いいな……うらやましい」
「…………」
オレの背後で何か恐ろしいことを呟いている幽霊には、気付かないフリをした。
二学期が始まった。
照りつける陽光も少し大人しくなり、時折冷たい風が髪を撫でる。そんな季節の変わり目だ。
キアラは、オレが学院に行っている間はオレに付きまとってこない。
何か理由あっての行動なのか、それはわからないが、最近は家でカタリナと遊んでいることが多いようだ。
まあ、あの二人が仲良くやっているならオレはそれでいい。
学院のほうはいつもと変わらない。
朝はロードが家に迎えに来て、学校ではクレアとロードと三人でつるみ、放課後は三人でアミラ様のところへ訓練に行く。
夏休みの間にも、ロードは毎日アミラ様のところへ通い、無詠唱魔術の練習をしていたらしい。
その結果、なんとロードも一部の魔術を無詠唱で使用することができるようになっていた。
努力の成果だな。
夏の間、遊び呆けていたオレとは大違いだ。
「ラル君は、夏休みの間は何してたんだい?」
オレたちは、今日もアミラ様のところへと顔を出していた。
オレにそう問いかけながらも、ロードは初級魔術を無詠唱で使う練習をしている。
無言で指先に小さな火を灯すロードを横目に、オレはこの夏の出来事を話すことにした。
「家族で領地を見に行ってた。なかなかいい体験ができたよ」
魔物を狩ったり、迷宮を攻略したり。
あと、ヘレナやミーシャ、カタリナやキアラともさらに親密になれたと思う。
オレなりに充実した時間だった。
「いいなー。私はずっと王城に篭ってたよ……」
オレたちのそんな会話を聞いて、クレアが不満げにため息をこぼす。
クレアは、夏休みの間はずっと外出許可が降りなかったらしい。
というのも、
「ロミード王国で、世界三大魔術師の一人、『精霊級』のラーデラが惨殺された事件があったからのう……ヴァルターが警戒を強めるのも当然じゃろうて」
そうなのだ。
アミラ様の言葉通り、夏の間に、ロミード王国において最強と名高い魔術師の一人、『精霊級』のラーデラが殺害される事件があった。
そのせいで、今のロミード王国は大混乱に陥っていると聞く。
「おそらく『憤怒』の本体の仕業じゃろうな。『精霊級』を滅ぼすなど、同じ『精霊級』か、それ以上の魔術師にしかできん」
さらりとそう言うが、これは恐るべき事態だ。
歴史の影で暗躍してきた『大罪』の魔術師が、表の歴史に強く干渉してきた。
これが意味するのは、
「なぜかはわかりませんが、『大罪』の魔術師が本格的に活動を開始した、ということなのでしょうね……」
まったく、気の重くなるような話だ。
特に、オレとアミラ様は『憤怒』に恨まれていそうだしな。
はっきり言って、いつまた襲撃されてもおかしくない。
「『憤怒』からの襲撃に備える意味でも、ワシも力をつけておかなければな」
アミラ様も、密かにオレたちの影で鍛錬を積み重ねているようだ。
オレも、いつ『憤怒』が来ても対抗できるように、魔術や精霊術を磨いている。
最近の日々は、そんなところだ。
そして、今日もオレはアミラ様の研究室へと足を向けていた。
今日は所用があり、ロードとクレアには先に研究室へ行ってもらったのだ。
思ったよりも遅くなってしまったため、少し駆け足気味に研究室へと向かう。
最近は少し魔術が伸び悩んでいるので、アミラ様やキアラに相談するのもいいかもしれない。
上級から皇級へ上がる壁は、高く険しい。
……もっとも、皇級に上がってしまうと、称号としてはほとんどアミラ様と同じになってしまう。
アミラ様の領域に到達するのが、そう簡単にいくものではないとわかってはいるが、やはり焦りはある。
オレは強くならなければならない。
次に『憤怒』の本体がオレたちの命を狙ってきたときに、返り討ちにできるくらいの力が欲しい。
そう考えるのは当然のことだ。
そんなことを考えながら、長い廊下を歩いていると、
「すまない。そこの君、道を教えてくれないか?」
「……ん?」
背後から何者かに呼び止められ、立ち止まる。
聞いたことのない声だ。
後ろを振り向くと、やはり見たことのない少年が立っていた。
歳は十一、十二歳ぐらいだろうか。
身長もそれなりに高く、ちょうど大人と子供の中間ぐらいの印象を受ける。
金髪碧眼の美形男子だ。
パッと見、かなり高貴な家柄の人間に見えるが、なぜか服装は庶民のモノと大差ない地味なものだ。
それが、目の前の人間が貴族なのか平民なのかイマイチ判然としない要因になっていた。
「道、ですか? いいですよ。どこに行きたいんです?」
年上っぽいので、とりあえず敬語を使うことにする。
相手の素性もわからない以上、物腰の柔らかい態度で接するのは当然のマナーだろう。
「えっと、アミラ様の研究室に行きたいんだけど、君はその場所を知ってるかな?」
ふむ。アミラ様の研究室か。
ということは、目の前のこの少年は、アミラ様に用があるのか。
「……ちなみに、どういう用事でアミラ様の研究室に行きたいのかお尋ねしても?」
「理由、か。君には関係のないことだと思うけど」
「ありますよ。僕はアミラ様の研究室へと通う生徒の一人ですから」
オレがそう言うと、少年は驚きに目を丸くした。
「君が……そうか。それはすまなかった。君の名前は、何て言うのかな?」
「ラルフ・ガベルブックです」
嘘をついても仕方ないので、正直に答える。
これで目の前の少年が悪意ある人間だったら面倒だが、今のところそんな感じはしない。
多分大丈夫だろう。
「ラル君……そうか、君が」
少年は何事か呟いていたが、やがて納得したような表情を浮かべた。
というか、初対面で急にラル君呼びは馴れ馴れしすぎないか。
もうちょっと段階を踏んでほしい。
「ラル君。さっきの質問の答えだけど、僕は妹の様子を見に来たんだよ。その研究室で魔術の鍛錬をものすごく頑張ってるって話を、よく耳にするものでね」
「なるほど。そうでした……か?」
ん?
妹?
今のところ、アミラ様の研究室に出入りを許可されている女生徒は、クレアしかいないはずだ。
ということは、つまり……。
「ああ、そうだ。僕の自己紹介がまだだったね。すっかり忘れていたよ」
目の前の少年は急に畏まって、
「僕の名前はクルト・ディムール。ディムール王国の第三王子だ。よろしくね、ラル君」
そう言って、少年――クルトさんは、オレに微笑みかけたのだった。
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