紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 五重塔の崩落から三日になる。日はいまだ天辺にも届かない朝方の刻限である。もみじとしのぶは羅城門前にあった。あれほどの騒ぎの呼び水となった当人であるにも関わらず、彼女たちを呼び止めるものはひとりともない。ただ、見守るかのごとくしてサカガミ・ギンジもまたともにあった。「行ってくれる、ってぇわけだ」ギンジにとっては頭痛の種に等しいものであったが、さいわい手出しさえしなければそのふたりが干渉してくることはなかった。「うむ。しのぶの予後もよい具合であるからのう」鬼が穏やかにいう。出来れば果ててもらいたいところであったが、それはかなわなかった。ゲンジ・ライコウと互角に渡り合い、そして討ち取ったという少女なのである。生命力もやはり尋常を逸しているのであろう。なればこそ、もみじが女に気遣わしげであるのがやけにおかしく見えたものであった。

 都を下りるのを見届けねば心休まらぬというものであって、ギンジのみならず門前の見張り番である下部の姿もちらほら見えた。また、まるで守護するかのごとくギンジの背後には駕輿がよがひとつあった。童子めいた格好をした大童がふたりしてそれを担いでいて、中にいるのはさる高貴な御人であろうことがうかがわれた。目に見える姿は写りこむ影ばかりで、余人にその面を拝ませるつもりは毛頭ないという様子であった。ワタナベ・イトもしめやかにそのものの守護者としてかたわらにあった。「盛大な見送りにございますね」「惜しまれるのであろうよ。賑やかせてくれたものであるからな」しのぶが心にもないふうでいったものだから、ギンジも平然として返したものである。全くもってその通りであった。少女は軽く肩をすくめるばかりである。片手には鉄杖をついていた。やはり体調はかんばしくないのだろう。それでも彼女を捕らえようとするものはなかった。今その杖は地を突くものにすぎぬが、それは瞬く間にして人を打ちのめす凶器にも変ずることだろう。下部のものはそのことをよくよく知りえていた。

 もみじが少女の手をとる。行きかけたところを、しのぶが不意に振り返った。その手が刀の鞘にかかる。そして周囲がうろたえる暇さえ与えず、ギンジへ向けて放り投げたものである。「これは────」受け止める。立派な鉄のこしらえ。刃をあらためると、業物には違いなかったが損傷がひどい。打ちなおしても使いものになろうものか、という有様であった。「ワタナベ・ヒモ殿にお返しくださいませ」「然様か」これはいかにして少女の手に渡ったものか。ギンジの知りおよぶところではなかったが、イトがにわかにはっとする。そしてちいさく頭を下げた。ワタナベの家宝というべきそれを使い潰されたことより、なおも謝すべきことがあろうという様子であった。

 ひとりでくぐってきた羅城門を、こたびはふたりして抜けたものである。たわいない戯れをともない、少女と鬼が都を去っていく。都に彼女らの在処ありかは望むべくもないが、それでも必ずやともにあろう。そう思わせる背が、静かに遠ざかっていた。もはや会うことは二度とあるまい。

「ふふ」ふいに笑い声がした。それは駕輿の内側からであった。秘めやかな声色は清らかであるがゆえに女のそれとも思われようが、どこかくぐもっているようでどちらとも断定しかねた。その声に応じるものはない。否────そうすべきでなく、またしてはならないのであった。その御人と言葉を交わすことは、ごく限られたものにしか許されることではない。「あれがわれの姪であるのだな」さざめきのような微笑み混じりに、いったものである。聞いた誰もが耳を疑った。だが、それを問いただすことは何人たりともならないことだ。「兄上はよき娘を得たものよ」輿の影絵に扇がゆれる。

 ギンジはかの御人からゲンジ・ライコウの一時的な後継たることを言い遣わされた。そしてことのついでとばかり、閨語りのごとく聞かされたのだ。かの御仁は全てを知っていた。都で大立ち回りを演じた娘の正体も。その娘の出自も。またナリマサが鬼を軟禁していたことも。そもそも、"紅葉くれは"の笛が鬼の手にあったことも。ナリマサが叛意を胸中に秘めていたことも。彼はそれらを承知のうえで、ナリマサに信をよせた。信をよせているかのように振るまい、ただ囁いた。それだけでナリマサは功を急き、犠牲もいとわず事業を押し進めるようになった。京の復興は急務であったものだが、そのために自らの手を汚そうというものは少なかった。その一方でナリマサは喜んで自ら手を汚した。自分自身が復興の犠牲になろうとしていることには気づかなかった。そしてけがれは切り捨てられた。穢れはきよめられ、果てに都の繁栄だけが残った。

 かの御人が手をくだしたわけではない。特別な異能を持つわけでもない。ただ囁いただけでナリマサは自ずから踊り狂い、おおいに天上の人を楽しませたのであった。ライコウもまた、その貴人の本当の姿を知っていたわけではないだろう。あるいは、知った上でそうしていたのか────その心を楽しませるべく、ただそれだけのために道化を演じてみせたのであろうか。ギンジにはわからなかった。またなぜそれをギンジに知らしめたのかも、わかることではなかった。ただ彼は恐れた────深淵なる京の闇に。そしてその人に仕えつくしたライコウという人間の底知れなさに。「では、参ろうかの」それは────"天之皇あめのすめらぎ"は静かにいった。かたわらの童子が輿をかつぎあげる。大内裏へと引き上げる道中を守護するべくギンジが殿しんがりをいく。

 全く出ていくべきであったに違いない。ギンジはひそかにふたりを思った。そしてなにもかも忘れるようにかぶりを振って、歩みだした。


 空には星がかがやいていた。しのぶは川に釣り針などを垂らして獲物を待ち、もみじがせわしく火の番などをしているのであった。元はといえばしのぶが護衛であるのだからと影働きに身をやつすつもりであったが、「傷も癒えてなかろうに、生をいうものではあるまいよ」そう鬼が言い切ったものである。ぐうの音もでなかった。もっとも急ぐ旅ではなかったから、行きには考えられなかったほどの遅々とした歩みで野山を進んでいるのであった。

「のう、しのぶよ」「はい」「おんしは、里に戻っていかにするのかえ」気づけばもみじは少女のかたわらにあって、星明かりを頼りにしてささやきかける。穏やかな夜であった。「さて────」くん、と釣り竿がわりの樫の木の枝がたわむ。引き上げると、見事に魚が一匹ひっかかった。鮎であった。縁があるものと思われながら言葉を継ぐ。「以前通りであるなれば、新たな命を待つことと相なりましょう」活きが良い。跳ねまわる魚を手づかみにする。「おんしは、よいのかや」しのぶはそれに真っ向からは答えかねて、「もみじ殿こそ、いかにいたしましょう」そういったものである。

「妾は────」最中にもみじがしのぶの着物をはだけさせる。傷を看るためであった。背中の傷はずいぶん良くなったものだが、新しく大きな傷をこさえてしまったのだ。それも鬼のためであっても────だからこそ、いささかならず心に痛ましいものがあった。年若い娘を傷物にしてしまおうとは。「戸隠に帰することになるかのう」元よりもみじは戸隠の山奥にあるべき鬼であった。物の道理を考えれば、それが自然というものであろう。それでもどこか物思わしげにする鬼の様子に、「それもよろしいやもしれませぬ」ぽつりとしのぶが零したものである。鬼が静かに瞳を伏せる。「さようで、あろうな。妾は戸隠、おんしは雑賀の────」「私が戸隠にあって果たしていかな不都合がありましょうや」もみじの切な響きに、あっけらかんとした声が重なった。鬼の赤い瞳が丸くなる。

「否、ございましたね」「と、当然であろう」「追手がかかればもみじ殿に手が及ばぬとも限りますまい」「そうではなかろうに!」里を抜けた忍にはきびしく追手がかかることであろう。もっとも、しのぶをまともに追跡しようと考えればどれほどの損失をこうむるかは定かではない。サカガミ・ギンジであったならば即座に匙を投げるに違いなかった。「────そもそも、であるよ」「はい」しのぶは大人しく傷を拭われている。刀傷が相当に深いのであった。灼けつくような痕跡もあわさって傷口はなみなみならぬものがあり、余人が見れば目を背けるような代物である。「妾は旅出もかなうまい。厄介事に巻きこまれるのは、おぬしこそであろう」もみじは自身の立場に自覚的であった。鬼とは敬いとともに畏れられ、神さびた山へと遠ざけられたものだ。本来は人とともにあるべからざるものである。かといって戸隠の山を離れれば、ただではすむまい。こたびはわざわざ雑賀の里へ依頼をよこしてまで、もみじの捜索に乗り出したのだから。

「承知のうえのこと」「楽ではなかろう」「苦は分かてましょう」「難儀が倍するものになっても構わぬのかえ?」もみじがしめやかに声を細める。そして少女の腰に真新しい包帯を巻きつけた。しっかりと、さながら縛りつけるように。されども戒めとならぬように。「つまるところ」応えてしのぶが、いったものである。「お互い様、というところでございましょう」釣果は二尾に増えていた。言葉を発するさまもまた、ひどく平然としたものであった。もみじが堪えがたいかのように、どっと笑った。「それを背負うはおぬしであろうに」「なれば、その私の手を引いてくださいませ」「老体に無理をいいおるのう」口にするのはその言葉に似つかわしくもない幼気な娘に過ぎなかった。いずれにしてもしのぶよりずっとちいさな身体であることに違いはなかったが。「肩をいただけましたら十全と」「構わぬ全身持っていけ────」しのぶが釣り糸を引き上げる。そしてどちらともなく向き合って、笑った。まるで常の戯れと変わらぬようなさまであったが、戯れのみにはあらざるとお互いばかりが知っていた。

 しのぶがゆっくりと着物を着つけなおす。その最中、手にふと鬼の掌が重なる。そのまま指先がすべり、着くずれた襟口をたどる。"忍"のあざなをなぞる。愛おしむように。「先んずるは、生きることにございます」「ひとりでもかえ」「むろん、共に」見果てぬ苦難も共なれば乗り越えられるというように。しのぶから鬼の手をとる。幼気であるのだから当然なれども、驚くほどにちいさな手であった。もみじがわずかにつま先を立てる。掠めるように唇が重なる。淡くふれるばかりで、離れた────うっすら朱を滲ませて、もみじが照れくさそうに微笑んだ。おまけにちいさく腹の虫が鳴いたのだから、なおさら赤くもなるというものであった。穏やかな夜を祝すように空が明るい。星月ばかりがふたりを見ている。もみじとしのぶはともにある。

 その行く末は、星も知らない。天も知らない。ただ、ふたりだけがそれを知っている。

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