カノジョの好感度が上がってないのは明らかにおかしい

陽本奏多

第68話 STOP

俺は、ゆっくりと本を閉じた。
もちろん、この先を読み進めていけば、俺が求めている事実はすべて記されているだろう。
だが、それを見るのはまだな気がする。
勢いもなく、俺はベッドに倒れ込んだ。文化祭と、その後の打ち上げの疲れがやはりたまっているのだろう。
すっと瞼を閉じれば、すぐに意識は深く深く沈み込んでいった。







夕焼けほど儚さを感じさせるものはないのではないだろうか。

 オレンジとも紫とも言えない中途半端な空は、今まさに闇に包まれようとしている。

 そこに無機質に伸びる飛行機雲。
 昼間は煩かった遊園地内の喧騒も、今では嘘のようだ。

 普段ならひどく気になるであろうゴンドラの軋みも、今は心地よく感じる。

 もうすぐ、か……
 少年と少女が向かい合って乗るその観覧車のゴンドラは今まさに最高点に到達しようとしていた。

 少年の向かいに座る少女は、少し茶色っぽい髪を揺らしながら、静かに外を眺めていた。

 西日のせいか、頬は紅潮しているように見える。

 少年は一息置き、あのさ……と切り出した。

 想いの丈を、彼女を想う気持ちを、少年はまっすぐに、少女へ告げた。

 少女は一瞬戸惑うような仕草を見せたが、すぐに少年を正面に見据えると、潤んだ瞳で心の底からの笑顔を咲かせた。
 
 ……刹那

 少年の視界は白に塗りつぶされた。
 先ほどまで視界の真ん中にあった少女の顔も、美しい夕焼けも。

 全てはその純白に、閃光に、かすめ取られてしまった。







ふと瞼を開く。
横向きに寝ているおかげで、部屋の窓から差し込む陽光が俺の目を完璧にとらえた。
その眩しさに耐えかねて俺は上体を起こす。

「また、あの夢……」

俺は、我知らずそう呟いていた。
脳裏に浮かぶのは、先ほどまで見ていた夢の光景。
自信を包むように広がる橙色の光。わずかに感じていた恐怖と、緊張。そして、耐えられないほどの胸の高鳴り。
それらすべてを思い出すだけで、果てしないほど心が締め付けられる。

……この夢を見るようになったのは、いつごろだっただろうか。たしか、中学に入ってからだったと思う。

そうして、記憶の奥に手を伸ばそうとした瞬間、鈍い痛みが頭を貫いた。
いつも、この夢のことを考えてしまうとこうだ。まぁ、俺にとってもあんまりいい思い出ではないのかもしれない。だから、無意識的に思い出さないようにしているのかもしれないな。

とりあえず自分の中で決着をつけ、カーテンを開く。
それと同時に朝の光が部屋の中に入り込み、俺の部屋は一気に明るくなった。

そして、いつものようにデジタルの時計を見遣る。この、カーテンを開けて時計を見るというのは何年も続いている朝倉馨のモーニングルーティーンだ。

しかし、いつもと違う点が一つ。見遣った時計の表示が明らかにおかしかった。
そこに表示されているのは、11:52という数列。
あれれー? おかしいなー? 学校には八時までに行かなきゃいけないのになー?

「完全に遅刻だっ!」

直後、俺は全力で身支度を始めた。流れる様な動作で制服とバックを部屋から持ち出し、一階へ。そして、食パンを咥えながら制服を身にまとい、ネクタイを締める。
寝癖直したり、顔を洗ったりとしたいことはまだまだたくさんあるのだが、そんな悠長なことは言ってられない。リビングに置いておいたスマホを最後に手に取り、俺は家を飛び出した。

そして、いつもの如く自転車に飛び乗る。

「お、馨さんおはよーございます! 今日はゆっくりなお目覚めでしたね!」

「そんな悠長なこと言ってられねぇっての! あーもうっ! 今まで積み上げてきた無遅刻無欠席が……」

「なんだか、変なところで真面目ですよね、馨さん」

「ほっとけ!」

……まぁ、そんなことはどうでもよい。今は少しでも早く学校につくことだけ考えなければいけない。しかし、漫画などでよく見るパンを咥えながら走るやつ。
俺がチャリに乗ってるせいかもしれないが、これは意外に難易度が高い。

食パンの3分の1ぐらいを咥えているわけだが、これを噛みちぎらずに長時間加えておくというのは見た目以上に難しい。さらに、風で後ろにたなびくのでかなりきつい。

「なんでまた、今日は寝坊を?」

「あー……昨日の晩は考え事してた」

その俺の答えは、半分嘘で半分本当だ。
昨晩行われた、あの文化祭打ち上げ。そこであったことと、そこから勝手に持って帰ってきたもの。
あの本を読むかどうか、俺はかなり悩んでいたのだ。
結果、最初の少しだけを読んで、読むのをやめた。

「ふーん。ま、いいですけど、パンなんか咥えて登校してたら、美少女とぶつかっちゃいますよ?」

「な訳あるか」

と、ティアの軽口を流して、俺はパンをごくりと飲み込む。
その時。

「~~~~~~!」

片手でのどを掴んでじたばたする俺。
そんな俺に向けられるティアの怪訝な目線。

「どうしたんですか?」

「パンが……! の、のどに……!」

ぱっさぱさのパンだけを無理やり飲み込んだのだ。
そりゃあ、のどにも詰まるだろう。……ちょっと待って、マジで死ぬ。

「ん……んはあっ! ……死ぬところだった」

「馨さん! 前見てっ!」

死線をさまよった俺だったが、なんとかパンがのどを通ってくれた。
安堵する俺にティアが何やら叫ぶ。

なに? 前?

……と、ここで時間が急にゆっくりと流れだした。
もちろん、実際にはそんなことなんてないのだろうが、少なくとも俺はそう感じた。

俺が乗る自転車の正面に立っていたのは、まごうことない美少女だった。

特長的なのは、左右に分けられた長い金髪。
芥川龍之介の、蜘蛛の糸。あの話で出てくる糸は美しい金色だったという。
きっと、その糸を束ねたら、彼女のような美しい髪が出来上がるのではないだろうか。

こちらを真っ直ぐに見つめる瞳は澄んだ緑色を湛えている。その奥は、覗いてしまったらきっともう戻って来れないのではないだろうか。なにから? などという前提が整っていないにも関わらず、そう感じた。

俺と、彼女の距離はもう2メートルもない。しかも、自転車に乗る俺は彼女の方に向かって高速で突っ込んでいる状況だ。

なのに、それなのに。
彼女は驚きや恐怖に顔を染めるでもなく、ただただ口を引き結んでいた。
透明なガラスのような無機質さで、ただ俺を見つめていた。

「うわあああっ!」

全力でブレーキを掛けるがきっと間に合わない。
願うような思いで俺が目を瞑った、その時。

がたん、と身を貫くような衝撃が俺を襲った。
きっと、あの子を俺は……

そろりと瞼の間から覗くように目を見開く。
そこにあったのは。

「大丈夫ですか?」

そこにあったのは、先ほどと寸分たがわない無表情の彼女だった。
さっきの声はもしかしてこの少女の?

「あ、あぁ。君は?」

「問題ありません」

彼女は抑揚なくそう答えると、俺の横を通り抜けるように歩き出した。
ちょっと待った。さっきは絶対、俺の自転車が彼女にあたるはずだった。あの距離でブレーキなんて効くはずがない。

なのに、彼女に触れる直前、俺の自転車は動きを止めた。

「待て!」

俺は我知らずそう言い放っていた。
横を通り抜けようとしていた彼女はこちらに振り向く。

「どうしたのですか?」

「え、あ……いや、どこに行くんだ?」

「この世界では、初対面の人に行き先を尋ねるなんてことも普通なのですか?」

俺の質問も、何も考えずただ口をついたものではない。
彼女の伸長を考えるに、大きくて中学生、もしかしたら小学生かもしれない。
そんな彼女がこんな時間に学校にも行かず何をしているのだろう。
そんな意図を含んだ質問だったのだ。

しかし、彼女はそれにただ無感情に答えた。

「ごめんなさい。あまり時間もないので」

そう言うと彼女はすたすたと俺と逆方向に歩き出した。

「……なんだったんだ、あの子……。ティア、知ってるか?」

先ほどの彼女の背中を見送りながら、俺はティアに問いかけた。
しかし、応答はない。

「……ティア?」

訝しく思った俺は、自転車のかごに収まるスマホを見る。
そこにいたティアは、明らかに様子がおかしかった。

「あ……な、な……んで……?」

いつもは余裕たっぷりにニコニコ笑っている彼女が、カタカタと震え、腰を抜かしている。

「どうした、ティア?」

「か、馨さん……? ぁ、馨さんだ……馨さん、だ……」

「だからどうしたってんだよ。もしかして、あの子の好感度が何かおかしかったとかか!?」

あまりにも話しが進まないので、俺は一つの可能性を彼女に尋ねてみる。
しかし、彼女は首を横に振り、一つのグラフを表示させた。
その帯グラフは、全体が灰色で染まっている。

「いえ……彼女に好感度なんて概念は存在しませんよ……。でも、なんで……」

「好感度が、ない……?」

「……えぇ。そんなもの、必要ありませんから」

「必要ない? 好感度が必要ない? 意味が判らないんだが。なんだよ、それ……おい、ティア! 聞けっ!」

目を虚ろに震えるティア。
彼女が、登校中に口を開くことはもうなかった。

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