一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

12.愛すべき終末の声を

 小さく、誰かの声がする。くぐもった遠い声は、暫くしてから微かな物音に紛れるように唐突に消えた。直接聞いたのは昨日の一度だけだが、そのやけに長い台詞はどうも耳に残っている。この声じゃ逆に二度寝しちゃいそう、なんて言っていた彼女も無事起きられたようだ。
 あの目覚まし時計が日の目を見る日が来るとは思わなかった。事務所設立の記念に友達が冗談混じりにくれたものだ。フォルムも声も国民的アニメのキャラクターそのもので、この歳で使うには恥ずかしすぎるから、箱に入れたままクローゼットの奥に眠らせていた。思えば、こんなの置いてあったら仕事場に女連れ込めないだろと言われていたが、不可抗力ではあるもののその女性の方が喜んで使ったよ。勿論、そんなことを言う筈もないが。

 昨夜過ごした時間はとても長く、また相応に短かった。 
 僕達ふたりだけが隔離された世界にいるように、街の色は暮れていき、また外の音は静まっていく。彼女の声を聞き、彼女の表情を見、時折互いの手や肩に触れる。そしてわざとらしく上げる笑い声でこの狭い世界を満たしていく。
 たったふたりの空間の中で、僕達は大人の男女とも言えず、ましてや罪に隔てられた看守と囚人である筈もなく、ただの中学生の友達だった。教室で会える朝と手を振り別れる放課後をいつも思いながら、何もできずにいたあの頃よりも少しだけ純粋な。
 厳密な感情は後回しにして、かつて足りなかった時を今になって埋めようとしていた。
 それが今更なことで、何の意味も持たないことを分かっていながら。或いは、分かっていたから。


 ドアが開く音がする。スリッパが床を這う音が、伝わる筈のない温度を僕の耳にまで運んできた。

<神咲くん……居ないの?>

 数時間ぶりのその声は寝起きでも変わらず僕の心を揺さぶる。
 その場に居なくて良かったと思う。もしも目の当たりにしたなら、僕の手は容易く彼女に届いてしまって、その結末は馬鹿馬鹿しいくらいに罪深く僕達を追いかけてくるんだ。そんな未来は望まない。
 足音と衣擦れの音が次第に大きくなって、近くで止んだ。深く沈み込むような音で、ソファに座ったのが分かる。
 書類を片付けたテーブルの上、見せつけるように置いたそれを彼女が抱え上げる。音しか聞こえないのに、その動きも表情もここにあるように浮かんできた。実際に目に映るのは、公園の隅でじゃれ合う子猫や登校中の小学生の列。その中に確かに、朧げな彼女が座っている。

<ゼラニウムだ……>

 急激に近付いた声が耳元で囁く。

<これを持っていけって言うの? 世話出来ないよ>

 そんな場面を想像してみた。ドラマでも見たことがない。彼女がこれから行こうとしている場所は、大きな花束を抱えて向かうには場違いすぎる。贈り主だって、当然ながら分かっている。持って行ってもらいたくて贈った訳じゃない。あの日とは違うんだ。
 形のいい眉を顰めて困った顔をしているのだろう。そして耐えかねたようにふっと息を吐く。

<もう……変わらないなぁ>

 再会してすぐ、素直すぎるのだと忠告されたことを思い出す。僕が贈ったその花が、あの日をなぞっているものだと君は思ってる? これは僕達の別れの儀式で、ふたりの思い出を最後に繰り返しているだけだと。
 あの日の僕は確かに物語をなぞって、他人の言葉と思いを借りて、それで僕の想いまで伝わると思っていた。表さない感情さえ誂えられたものの中に息づいていると信じて疑わなかった。
 だけど今は違う。今日君にゼラニウムを贈るのはあんなに弱い僕じゃない。傍に居ない時点で同じことなのかもしれないけれど。


<ねぇ、どこかで聞いてるんだよね?>

 昨日集音器を見せたからだろう。それだけで僕がまさにそれを使っていることに思い至るとは流石というか、僕の思考はあまりに読まれやすいらしい。もっと自然と、彼女が去る音を聞き届けたかっただけなのに。だけどそれが嫌である筈もなくて、そうだよ、と答えてみた。
 少しの間の後、静かな吐息と共に柔らかな声が聞こえてくる。彼女も話す言葉に迷うことがあるのだとそんな当たり前のことを思った。

<私のエゴに巻き込んでごめんなさい。……昨日言えなかったから>

 そんなこと、もうどうだっていいんだ。
 それを許せなかったのは昨日の僕だ。今の僕自身はただの彼女の古い友人だから謝ってもらうことの方が不自然で、他人行儀になるのが寂しかった。

<それから我儘言ってごめん。大切な時間をありがとう>

 君のために削る時間は少しも惜しくないんだよ、って遂に言えなかった。今更届けてはいけない気持ちだと分かってはいるけれど、彼女に笑われてもいいから素直に言ってみたかった。

<思えばあの頃は上手に時間を使うこともできなくて、明日でいいやって先延ばしにして、気が付いたら三年も経っててね。たった数時間なのに、欲しかった時間を取り戻したみたいに今胸の中がぼかぼかしてる。
 不思議、こんな風にまだ幸せを感じられるなんて>

 罪を犯した人間はもう幸せになってはいけないのだろうか。何があっても笑ったり、幸せを思い描いてはいけないのだろうか。
 境界線はとても曖昧だ。罪の深さは人の心の視点で変わる。痴漢を重罪と説いた人がそのスカート丈では仕方ないと擁護に回ることがある。子供の虐待に泣いた人がすり寄る猫を足蹴にすることもある。正当防衛で刺し殺しても罪と呼ぶのに、誰も死んでいないいじめは命があるから罪じゃないのか。……誰もがそれを自分のものさしで測っては相容れないと糾弾する。全ては自分の基準で転々として、それでも情状酌量の余地を与えない。一体自分が何者だと言うのだろう。
 深く反省しても、心をぼろぼろにしても、温もりを求めてはいけないのか。厚い布団で眠る夜を、太陽の光で目覚める朝を、そんな平等なものでさえ認めてはもらえないのか。誰一人認めてくれないとしても、僕は願おう。彼女に、そして彼等に、当たり前の幸せがまたやってくるように。


 あの、ね。躊躇う声は現実的で、どうしたの? と問い返していた。

<我儘ついでにもうひとつ、聞いてもらってもいいかな?>

新しく始めるための最初の一歩、私の人生最大の秘密を聞いてほしい、と彼女は言った。人生最大なんて僕には荷が重すぎたけれど、話すことで楽になるなら、僕が聞くことで清算できるなら、前を向く彼女の背中を押すために秘密の半分を負うことにしよう。
 隔てた距離は互いを大胆にさせて、幾らか強引に時を進めてくれる。

<本当は、嬉しかったの。家に来てくれた時、玄関を開けて花束を抱えた神咲くんを見つけた時。……あんなに可愛げのないことを言ったけど>

 これを秘密と呼ぶには些細なことだ。それでもあの時の彼女が喜んでいたという事実は十分に僕の心を浮かせてくれた。
 向けられた半端な笑みは痛くて、かけられた別れの言葉は冷たくて。どうしようもなく身体の内側を乱したけれど、時を経てその記憶が少しずつ色付いていく。

<困らせたかったの。ドラマの通りに進まなかったらどんな顔をするんだろうって、それが見たかっただけなの。
 ……昨日もそうだった。何にも知らないふりをしてここに来たのは、私が探している人が自分だと気が付いた時の顔が見たかったから。いつまで経っても天邪鬼でごめんなさい>

 変わらないね。
 揺れる木々の間に彼女を想像して、声に出してみた。こんなことなら悲しむ顔を恐れずに言ってみれば良かった。彼女が僕を変わらないと言う度に、変わらず好きだと言えば良かった。あの時と同じような困り顔を、今もう一度見てみたい。
 彼女が念を押して、本当に本当に嬉しかったと言う。照れたような吐息が耳をくすぐるから、行き場のない愛しさが溢れるほど込み上げてくる。彼女は続けた。

<だって、神咲くんがどんな気持ちであの花束をくれたとしても、私にとってあれは>

――初恋の答えだったから。

 僕達はそれぞれ勝手に作り上げた迷宮の中で互いの姿を探して走り回っていた。聞こえる声を頼りにあちらこちらと足を向けて、高い壁の向こうだなんて気付きもしないで。扉を開ければまた出会えたのに。ノックするだけで変わったかもしれないのに。
 立ち止まって違う行動を起こすのは不安でただ走り回る方が簡単だったけれど、好きだと言えばそれだけで僕達の心は救われたのかもしれない。
 だけとこうして想いを聞けたことを嬉しいと思う。最後まで僕の想いは伝えられなかった、伝えたかった気持ちはあったけどそれは決して後悔ではない。そうした道もあったというそれだけだ。

<はぁ、すっきりした! やっと、言えた。
 否定してくれないから、この花も勘違いしておくね>

 そうしておいて。これからも君を思う度、傍らにゼラニウムを思い出すからいつまでも勘違い・・・していてくれよ。
 君ありて幸福。僕に幸福をくれた君にはその赤い花がよく似合うよ。

 彼女は長い長い息を吐いた。もうこの時間が終わろうとしている。始まればいつか終わるように、終わりは新たな始まりを連れてくる。そこには悲しみなんてない。あるのは踏み締めてきた道の感触だけだ。

<……ずっとずっと変わることを望んできたし、変わることがすべてだと思ってきた>

 だけど、と囁いた声がふいに近付く。花束の中に入れておいたマイクに気が付いたのだろう。ざわざわと触れた音がして、僕は瞼を閉じた。名前も知らない花の香りが駆け抜けて、それを肺一杯に吸い込んでみる。注ぐ陽気は麗らかで、耳に触れる音は晴れやかだ。
 彼女の最後の愛すべき言葉を、一音の吐息さえ聞き漏らさないように、その声だけを追っていた。

<変わらないでいてくれて、ありがとう>

  

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