一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

4.叶わぬ再会

 階段を下りきった途端、冷えた空気に僕は首を竦めた。足元をスーパーの袋が勢いよく転がっていく。ゆったりと歩き始めた僕を車が追い越して、何となくそれを避けるように薄暗いビルの合間へと進むことにした。

 今後の仕事について考えなくてはいけない、分かってはいるが気分が乗らない。年も始まったばかりだし、少しくらい休業にするのも悪くないかもしれない。お蔭様で、大した仕事は入っていないが何とか生活できるくらいの金は確保できているんだ、何とかなるだろう。それにこんな気持ちで探して目の前のものすら見落としてしまっては、依頼を受ける資格もない。ここら辺りが休み時かもしれない。一先ず、この辺りを散歩しながら帰ることにしよう。
 それにしてもどうして、こんなにも気持ちが沈んでいるのか。折角の依頼が没になったから? 今後の仕事の見通しが立っていないから? ……彼女に、会ったから?
 彼女のことを思い返す度に過るこのちりちりとした息苦しさは、あの頃抱いた恋心とよく似ている。しかし失恋で何も手に付かないなんて女子じゃあるまいし、まず今更失恋と呼ぶようなものでもない。だから彼女と会ったことがどうとか、そういうことではないんだ。この無気力さは別に、彼女が原因じゃない。ただ、きっと寒いからだ。

 琴吹ビルと隣接する<燦々さんさんビル>との間は、軽自動車も積極的に入り込まないような狭さだ。実際の道幅はそこまで狭くはないのだが、元より車通りが少ないのをいいことに、飲食店の入っている燦々ビルがやたらとでかいゴミ収納庫を置いたために不便が生じている。不便と感じている人がどれほど居るかは知らないが。

 煽るような風が吹きつけてくる。コートのポケットに手を突っ込むと、右手の指先に何かが当たった。この布の感触はサーモグラフィーのカバーか。
 薄型で掌サイズに作り変えたもので、一見すると変わった形のデジタルカメラに見える。一度探していた猫の蹴りで川に落とされたせいで使えなくなっていたのを、やっと直したばかりだ。探し物が温度のあるものだった時のために一応持って来ていた。
 左手に触れる凹凸は金属探知機だ。以前から使っているものとは違い、金属の種類ごとに探知できる少し手の込んだ新しいものを作った。スイッチひとつで切り替えられて、探知音はいつも通り無線イヤホンに……あ、イヤホン忘れた。

 結局使わなかった道具のことはもう置いとこう。そう思いポケットの中で拳を握ると、思いがけず何かを握り込んでしまった。やけにごつごつしていて丸い輪のついたこれは、何だ?
 足を止めて出してみると、それは玩具の指輪だった。確認してようやく思い出す。今朝、以前カラスに取られた指輪を取り返してあげた山本さん家の里奈ちゃんと偶然会って、プレゼントされた指輪だ。取り返したのとは別の、水色の丸いガラス玉のついたもので、「りなとおそろいなの」と差し出されたのには涙腺が崩壊しそうだった。探知機とぶつけて傷でもついていないかとよく見てみたが、貰った時の綺麗なまま、雲の流れを映していた。汚さないように胸ポケットに入れておこう。


 指輪、か。
 それを渡す自分を想像したこともある。花束の代わりに、彼女の家の前で。想像の中でだって結果を塗り替えることはできやしなかったけれど。
 いつか三条さんから受け取るんだろうな。聞いた限りでは一緒に住んでいると考えてもよさそうだし。そうして彼女は三条透子になって、僕はもう名前を呼ばなくなるのだろう。でもそれでいい、早くそうなればいい。彼の元で彼女は、きっと幸せになれる。僕の隣で泣いた彼女は、きっと――――。


「……っわ、ぁぁ」

 風の音に混じって声のようなものが聞こえてきた。周囲を見渡しても僕以外は誰も居ない。それよりも声は上から降ってくるような、そんな感じで。
 見上げてみるが、丁度ビルの端を太陽が掠めてその閃光に顔を顰めた。張り伸ばされた電線が目に焼き付いている。左手を翳して見直せば、何かがこちらに向かって落ちてくるのが見えた。まだ白んだ瞳ではそれが何かを特定することができない。光を通さない四角い、何か。やがて回転しながら落ちるそれが携帯電話だと気付いた時には、避けようがないほどまで近付いていた。

「ぐあっ……!」

 あり得ない激痛に抑えた肩。強制的に蹲った身体が小刻みに震えている。本当にちゃんと身体にくっついているかを目視しないと不安なくらい、未体験の痛みだ。寧ろ何も感じていないようにさえ思う。
 恐らく僕の肩でバウンドした携帯電話がアスファルトの上を器用に滑っていた。すぐ傍で動きを止めたのを、長年の仇のような気持ちで睨む。立ち上がる反動で拾い上げて、何とか指先は動くらしいことを確認した。

 その時、何かが爆発したような音が弾けて、反射的に背後を振り返った。



  彼女は、泣くのだろうか。あの頃と変わらず、隣に居ても気付けないような静けさで、泣くのだろうか。

  最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。事態にそぐわない冷静さで、そんなことを考えた。
  脈打つように疼く右肩を抑えたまま、僕はそれを眺めていた。止んだ筈の衝撃音が耳元でこだまする。その音のせいか、こんな場所に居る筈のない男を見つけたせいか、彼女のことを想ったせいか。痛みと共に増していく心拍数は、果たして何のせいだろう。
  プラスチック製のゴミ収納庫は上部扉の大きな破片を幾つか散らして、同時に舞い上がった細かな紙片は雪のように緩やかに地面を目指す。這い出てくるかのように投げ出された手足に、埋まるように引っ込められた腹や顔に、紙片は降り注ぐ。近付く僕の靴にもそれは落ちて、思い出したように吹く風にまた飛ばされていく。
 たった一度だけ見た彼の瞳はどんなだっただろう。生気の篭った熱だけが漠然と記憶として残っていた。もう一度見てみたいと思った、今もなお。力強い眼差しは薄い膜に隠れて、しかし押し開いてもかつての光は宿らないのだろう。


  幸せを指に嵌めた三条時宗は、最もふさわしくない場所で目覚めない眠りに落ちた。


 浅黒く焼けた彼の肌に、乳白色の指輪は少し浮いて見える。石だろうか。柔らかな色でありながら、ここが居場所だと叫んでいるような気さえした。彼女の指に嵌ったなら、どんな風に見えるのか。
 首元に手を伸ばす。触れる体温は寧ろ、熱すぎるほどだ。しかし既に止まった脈はすぐにそれも奪ってしまうのだろう。打ち付けたらしい後頭部から滴る血液が深緑の上部扉の上を流れていった。太陽からその有様を隠すように雲は集まり、ビルの谷間は重々しい陰を作って、僕の指先の感覚も連れ去っていく。もう温度が分からない。

 どうして彼が、こんな所で。今頃彼女と一緒に居る筈の彼が、どうして。
 事故? 自殺? ……他殺? あり得る可能性はいつだってたった三つのことなのに、上手く頭が働かない。――彼女が泣いてしまう。
 今なら、間に合うだろうか。事故の痕跡は見つけられないとしても、自殺なら遺書の類を、他殺ならその犯人を、今なら見つけられるかもしれない。警察、救急車、今更どれを呼んでも同じこと。市民の義務は後回しだ。彼の飛び立った場所へ僕は行かなくては。だって――――彼女が、彼女が泣いてしまう。

 これ以上何かを考えている余裕はなく、遺品を握り締めた手をそのままに剥き出しの螺旋階段を上り始めた。


**********


 屋上には何もなかった、誰も居なかった。……彼女は無事なのか?
 更新したばかりの電話帳から彼女の名前を選ぶことは一切ないと思っていたのに。僕の息切れと早い鼓動と風の音が耳元で煩い。コール音が頭に響くようで、一刻も早く彼女の声が聞きたかった。
 その音が途切れた途端、応える声に被せるように僕は叫んだ。

 「稲森さん、今どこ?!」
 「え、さっきの喫茶店の隣にある本屋だけど……」

  先程と変わらない様子に安堵の息が零れる。良かったと言ってしまうのは不謹慎すぎる状況だと分かってはいるが、彼女が巻き込まれていないことには一先ず「良かった」と言っていいだろう。
  傷付く彼女を目の当たりにしなくてはならないとしても。

 「とりあえず僕の事務所に戻って。鍵はポストの裏側に貼り付けてあるから」
 「どうしたの、何かあった?」
 「いいからっ!! ……戻ったら僕が帰るまでじっとしてるんだ、誰か来ても開けちゃ駄目だよ」

  分かった、と硬い声が辛うじて聞こえて、僕は電話を切った。
  がらんとした屋上は階下の様子にあまりにも無関心で、雲の切れ間から覗く澄んだ冬の空を見ていれば、さっきの光景は夢だったようにも思えてしまう。辺りの景色を遮るものは何もない。琴吹ビルの屋上では小鳥達が仲睦まじく身体を寄せ合っていた。
 一歩、二歩と足が進み、彼の真上の位置で立ち止まる。埃を被ったステンレスの手すり、その一部分だけ拭ったみたいに光を浴びていた。ここから真っ直ぐに落ちたのだろう。風が強いとはいえ、あの体躯に重力が加われば寧ろ風さえ巻き込みそうだ。


  何かが聞こえる。ずっと伸びる……悲鳴だ。あれだけの衝撃音なら不審に思って見に来る人も出てくるだろう。遅いようにも思えるが、ビルの壁面に反響した音がどこからのものかを確定するまでに時間がかかってもおかしくはない。
 早くここから立ち去るべきだ。迂闊に下を覗いて疑われても困るし、もたもたしていると誰かが呼んだ筈の警察に見つかる羽目になる。彼女と居ることを決めた時点で、遅かれ早かれ対面することになるんだ。それは今じゃなくていい。
 ビル内と繋がるドアは施錠されている。屋上側がサムターンになっているため出ていくことは簡単だが、鍵をかけれれないのがネックだ。それに降りているところで誰かと遭遇したら確実に顔を覚えられる。ここから降りるのはやめよう。外付きの螺旋階段で降りた方が安全だ。上がって来たのとは別に、ビルの裏側にもそれは設けられていて、そちらではまだこの騒動は広まっていないはず。彼女の元に帰らなければ。

 やはり裏側も人通りは皆無で、ビルの隙間を横切る人は居ても、皆一心に前を見つめていて階段を降りていく僕を気にする素振りもない。向こうに人が集まり始めているからだろう。昼時だ、野次馬はまだまだ増えていくだろう。
 どの階から人が出てきてもいいように気持ちだけは上の階の従業員を装って、敢えて堂々と降りる。焦って駆け下りる方が明らかに怪しまれるからだ。じれったい思いをしながら階段を降りきる。幸い、五つの扉の内のどれも開くことはなかった。そのままゆったりとした動作でビルを離れていく。交差する道を三つほど過ぎたところで、僕は走り出した。


 暫く走ると大きく<本>と書かれた看板が見える。彼女がさっきまで居た本屋だ。
 この裏道は大通りと並走するかたちで伸びており、混雑を避けるために専らこちらを使うという人も居るくらいだ。二本の間は店舗や一戸建ての家、アパート等が雑多に並んでいるが、それぞれが背中合わせに立っている姿は秩序正しくも見える。あの喫茶店と本屋もそのひとつだ。喫茶店のせいで姿は隠れてしまっても、隣は道路に面しているし、この大きな看板さえあれば大通りからの集客も見込める。立地としてはそこそこいいだろう。
 ここまで来れば事務所まではあと半分。走れば十分とかからない。これから彼女に話すことを思うと足を止めてしまいそうになるけれど、止まる訳にはいかない。僕が今彼女のためにできることはきっと、少しでも早く彼女の傍に駆けつけて、近くに居てあげることだ。

  

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