闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三七節/恩義と恥辱 下】

 カナンは今まで、闇渡り達の内面について深く考えを巡らせることが出来なかった。彼らの行動や文化、風俗は目にしてきたが、その根底に流れている共通認識にまでは、目が届かなかった。

 本人のせいではないのだが、カナンは今までの人生でほとんど劣等感というものを覚えたことがない。ある一事・・・・に関しては例外だが、それ以外の全てにおいて、カナンは劣等感を覚える機会が極端に少なかった。

 罪悪感すら感じるほどの身分に生まれ、何をやってもすぐに要領を掴んで上達してしまう彼女にとって、「他人より劣る」経験をすること自体が難しい。

 だからこそ、常に「他人よりも劣っている」ことを、もっと言えば「魂魄《こんぱく》そのものが穢れている」と実感しながら生きてきた闇渡り達の内面など、話されなければ想像のしようも無かったのだ。

「それなら……それなら、貴方達はこれからどうするつもりなのです?」

 激しい困惑に見舞われながらも、カナンは何とか問いを絞り出した。こうして問いと答えを繋げる限り、言葉と言葉のやり取りがある限り、彼らと分かり合える余地があると信じて。

 だが、アブネルが語る闇渡りの言説は、彼女の常識の埒外にあった。

「俺達は元来、狼やら猿やらと同類だ。ナリは人の形でも、性根はそう変わらない。
 頭《かしら》……サウルの野心は俺達を悪人へと引っ張り上げてくれた。悪人でも、人は人だ。だが旗頭が倒れた以上、俺達は獣畜生に戻るしかない」

「戻って、その先に何があると……?」

 アブネルは皮肉げに肩を竦めた。あまり似合わない仕草だった。

「自由の刑、とでも言うべきものが」

「自由だなんて……そんなものはあり得ない。ラヴェンナは武断的な土地です、グィド・ゴートのように人狩りをしようとする者もいるでしょう。寝食もままならないまま追い立てられるのが、あなたたちの自由なのですか……!?」

「そうだ。我々の自由は刑罰と同じだ。世界が闇に包まれ、居場所を失ったその時からずっと変わらない。戦いに敗れ殺されるか、年老いたとしても立てなくなればそれまでだ。いずれにせよ、待っているのは野垂れ死ぬ宿命だけだ」

 それが分かっているのに……とカナンは呟いた。アブネルや、闇渡り達の表情は揺れない。自分達の前に広がる運命を当然のものとして受け入れている。まるで死病を患った老人のような面持ちだ。

 そんな虚無的な悟りを彼らが持っているのは、彼ら自身が何度もそういった光景を目の当たりにしてきたからだろう。敗死するか、捨てられるか。そんな二者択一しか無いなど獣と同じだ、とカナンは思った。

 だが、だからこそ、カナンは決して捨て置けない。


(あの目は、リダの町で見たイスラと同じだ。皆、そうなんだ……!)


 あの時のイスラの表情は、自分が死ぬ時まで決して忘れることがないだろう。あの時のイスラの絶望した表情が、今のカナンの原動力の一つになっているのだから。

 アブネルも、その背後にいる闇渡り達も、あの日のイスラと何も変わらない。いや、彼らの姿こそ、いつかイスラが辿るはずだった未来そのものなのだ。

「……貴方達だって分かっているはずです。それが、とても苦しい未来だってこと……」

「もちろん承知している。今まで飽きるほど繰り返し見てきたことだ」

「なら、そんな未来を変えるべきじゃありませんか……!? 確かに救征軍の行路は厳しいかもしれない、でも無為な未来には絶対にならない。私の掲げた旗では、満足してもらえないのですか?」

 歎願するかのようにカナンは言った。だが、アブネルは少し申し訳なさそうに視線を伏せたものの、口元には苦笑を浮かべていた。「まるで何も分かっていない」とでも言うかのように。

「ああ」

「どうして……!」

 カナンは呻《うめ》くように問うた。アブネルは後ろの数人と顔を見合わせ、二言、三言、相談する。そう時間は掛からなかった。

「それはな、貴女の旗が……もっと言えば、貴女自身が眩しすぎるからだ」

「私が……?」

 カナンは目を丸くした。またしても自分の予想外の言葉を投げかけられたからだ。いくら鋭敏な彼女でも、人種、生まれ、育ち、資質、そのすべてにおいて異なっている人間の心理を読むことは出来ない。

 だが先程アブネルが彼女を嗤ったのは、あまりにも育ちが良すぎるが故に、他人から妬まれること、あるいは意識せずとも他人に劣等感を抱かせてしまうことに対して、カナンがあまりにも無頓着だったからだ。

「貴女はこれまでの人生で、一度も他人を見返そうとか、あるいは見下してやろうだなんて思わなかったのだろうな。だが、貴女のそういう心の在り様こそ、我々と貴女が決定的に異なる証拠となっちゃいないか?
 先日、貴女に食って掛かった女がいたな。内心では見下しているんじゃないかと……だが、貴女は見下すことすらしてやらない。
 鷲が羽虫を見下すか? 獅子が足元を這いずる鼠に気を割くか? あるいは、そうだな……神が人を見下すこともないだろう。貴女と我々には、それくらいの違いがある」

 アブネルの声音には、追及してやろうとか、弾劾してやろうというような攻撃的な色は少しも混ざっていなかった。それどころかある種の優しささえ感じさせるほどに柔らかい声音だった。

 だがカナンにとっては、鋼鉄の鎚《つち》で殴られた以上の衝撃だった。

「なあ、お前らだってそう思わないか?」

 アブネルは配下の闇渡り達にたずねた。彼の部下たちは互いに顔を見合わせ、時々固まったままのカナンに申し訳なさそうな顔をしながらも、口々に自分がいかに取るに足らない存在であるかを語り始めた。

「ああ、アブネルの言う通りだ」
「俺らなんざ、所詮ならず者のあつまりだしなあ」
「こんな見た目も性根も腐り切った俺達と一緒に居させるのは気の毒だぜ」
「見てくれが腐ってるのは、水浴びさぼってるからだろ」
「ナニまで腐り落ちたんじゃないのか?」
「うるせえ、下品な野郎共だ」
「そっくり返すぜ」

 闇渡り達の間でくぐもった笑いが広がる。カナンは取り残されてしまったような気分だった。

「死ぬのは怖くねえけどよ、真人間の近くにいたら、手前《てめえ》が屑だってことを思い出しちまってなあ……」
「その点、サウルの下は居心地が良かったぜ」
「ああ。あいつほどの外道は、どこ探したっていねぇもんな」
「最後は晒し首だが、それじゃ足りないくらいの悪党だ」
「あいつの方が、俺達にずっと近かったんだ。継火手様と俺達とじゃ、格が違い過ぎる」
「一緒にいると、目が潰れちまう」

 カナンは、一気に目の前が暗くなったように感じた。杖には天火を灯しているが、それさえも急にぼやけてしまったかのようだ。

(私は……また、大切なことを見落としていたというの?)

 リダの町でイスラが袋叩きにされた時、自分は闇渡りの心情を理解したのではなかったか。少なくとも、何も見えない小娘からは脱却していたのではなかったのか。

 その後の色んな経験を通して……仲間を見殺しにするほどの愛情や、怪物の力を持ってしまった戸惑いや、片割れを喪う悲しみと怒りを……見てきたのでは、なかったか。そのたびに強く賢くなってきたのではなかったのか。


「継火手カナン、どうか憶えていて欲しい。我々闇渡りにとって、時として人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことは無いんだ。ここに居並ぶ連中は、穢れた闇渡りの中でも筋金入りの屑ばかり。あの時焼かれて然るべき人間しか残っていない」


 知恵の足りない善人が、何日も物を食べていなかった飢餓者に、肉やパンをそのまま食べさせてしまうことがある。飢餓者は、呑み込んだ食物の故に命を絶たれてしまう。

 自分は、それと同じだったのではないか? カナンはそう自問した。

 そして、アブネルにこう問うた。


「それなら……私は、一体どうすれば良いのです……?」


 善意が人を殺すのであれば、人を悪から引き戻すことなど出来ないのではないか? 彼らの絶望と恥辱の前には、自分のちっぽけな善意など、かえって害毒にしかならないのではないか?

「カナン様、迷われるな!」

 それまで黙って事の成り行きを見ていたクリシャが動いた。竜の手綱を引き、片手に携えた聖銀製の槍に天火を集中させる。

「っ、クリシャさん!?」

「救いの手を差し伸べられて、なおそれを撥ね退けようとする者に容赦など不要! 貴女の御手は決して穢させません!」

 アブネルもまた、小さく頷いた。右手を振り、背後の闇渡り達に前進を命じる。

「行くぞ」

 その一言に込められた意図は、全ての者が悟っていた。無論渋い顔をした者もいたし、舌打ちを打って不満を露わにする者もいた。だが、恐れた者は皆無だった。脇に逸れて逃げるような臆病者もいない。

 自分達は名無しヶ丘で天火に焼かれるはずだったし、ここを潜り抜けたとて、人間らしく死ぬことなど決して出来ない。そんな覚悟がある。

 そんな中にあって、アブネルの中にはもう一つの異なる意図が宿っていた。

(継火手カナン、しっかりと目に焼き付けておけ。この世には、我々のような救うに値しない者もいるのだ。だから、貴女に口実をやろう。人殺しをする、口実を)

 それが、アブネルが思いつく最大の報恩だった。

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