闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三二節/束の間の逢瀬】

 似ている所の少ない二人だが、お互い、抱いている気持ちに違いは無かった。人目を避けたいという思いも共通していたし、それでいて、身体の一部でも触れ合わせていたいと望んでいる。

 本来なら指導者であるカナンが野営地を離れるのは望ましくないことなのだが、本人も、イスラも、そんな無粋なことを言おうとは思わなかった。

 ただでさえ難民達の指導者として公私を問わず働いている身だ。カナンが声や表情に出すことは決して無いものの、無意識下には確実に重圧が掛かり続けていることだろう。
 イスラはそんな彼女の内面を察していたが、だからこそ、あえて口に出そうとはしなかった。

 そして、彼女が限界を迎えた時も、決して「逃げるな」などと言う気は無かった。

 喧騒から遠く離れて、二人は小川のほとりを歩いていた。水のせせらぎと苔や芝生を踏む音の中に、互いの言葉を編み込みながら。繋いだ手には緩く力を込めていた。

 話したいことは多かった。同じ場所にいても、全く別々の仕事をしているから、生活の細部まではよく分からない。だから、話すことといっても他愛の無い内容ばかりだが、そんな風に言葉を交わせるのがカナンは嬉しかった。

「ザッカスやプフェルは、ちゃんとやれてるのか?」

「ええ、ヒルデさんに怒られながらですけど。でも、ザッカスさんの字は本当に綺麗ですね。エルシャの祭司でも、あれだけ筆致の整った人はいませんでした」

「俺も驚いたよ。なんでも、剣も狩りも自信が無いから、それ以外の一芸を身につけたかったんだと。昔から、筆は杖に優って身を支える……って言うしな。賢い生き方だ」

「この調子で代筆とか清書以外の仕事も覚えてもらいたいですね。そうしたら、皆の見本になれますよ」

「ああ……あいつも張り切るだろうな」

 闇渡りの社会では、ザッカスの持つ能力は貴重ではあるものの、決して重んじられることはない。男性優位の社会である以上、男らしさを求められるような仕事ができてこそ、一人前として評価される。

 そんな偏った価値観の中で生きるよりは、今の状態の方がザッカスにとって幸せだろう、とイスラは思う。

「今まで誰にも認められなかった、って言ってたよ。お前に命を救われて、そのうえ取り立ててもらって、感謝してるってさ」

 そう伝えるようザッカス本人から頼まれていた。自分で言えよ、と促したのだが、まるでカナンを女神か何かのように扱っているザッカスには、彼女の前で口を開くことさえ憚られるようだった。

「そうですか……でも、私は感謝されるようなことは何もしてないですよ。皆に求められる能力をザッカスさんが備えていただけです。
 ところで、イスラはどうなんですか? ちゃんと読み書きは出来るようになりました?」

「お陰様で、ようやく人並みには出来るようになった」

 旅の合間を縫って、カナンやペトラ、サイモンから密かに読み書きを習っていたが、さすがにまだ応用できるほどの腕前は無い。生活に不自由しない程度には物が読めるようになったし、簡単な手紙程度ならしたためることが出来るが、カナンやヒルデがやっているような仕事をするのは、当分無理だろう。

 それでも、ほぼ文盲に近かった状態より格段に生活しやすくなったのは確かだ。

「……今なら、煌都でも暮らせますか?」

「どうだろうな。力仕事ならいくらでも出来るけど……いや、それ以前に、ずっと煌都に居続けられるか分からないな」

 イスラは足を止め、足元に転がっていた平たい小石を手に取った。軽く息を吹きかけてから、川面に向けて素早く投げる。小石は五回ほど水の上を跳ね、六回目の水音が聞こえた時には、暗闇の中だった。

「俺は闇渡りだ……どこまで突き詰めたって、その原点が変わることはない。パルミラに居る時も思ってたけど、やっぱりこうやって夜の森の中に居る時の方が気楽なんだよ」

「……」

 カナンは彼の横顔を見ながら、しかし何も言わなかった。それから彼に倣って足元の石粒を拾い投げてみる。ぽちゃん、と小さな水音が一度だけ響いた。

「上手く出来ないです」

「投げ方が悪いんだ。あと、石も平じゃないと跳ねてくれない……で、だ。やっぱり最初に戻るんだな。俺には社会とか煌都とかってものが、今ひとつピンとこないんだ」

「前からずっと言ってましたね」

 今度は手首の捻りを使って投げてみる。カナンの投げた石は水の上で三回跳ねて消えた。

 その音から、次の発語までの間には、いささか間があった。


「やっぱり、今でもエデンが欲しいとは思えませんか?」

 
「ああ、思えない」


 どれだけ思考を巡らせてみても、もとより想像力に乏しいイスラには、カナンが語るエデンの形を思い浮かべることが出来ない。

 もっと言えば、カナンが頻繁に語り、構築を目指そうとしている社会・・という物についても、イスラは懐疑的だった。トビアやザッカスのように一人では生きていけない人間がいることはイスラも理解している。それでも、今日のような出来事を見ていると、社会が存在することによって生じる様々な弊害の方が気になってしまうのだ。

 闇渡りという存在が生まれたこと、そのなかで女性たちが迫害を受けること、そしてその中から穢婆と呼ばれる人々が現れてくること……闇渡りだけではない、煌都の人々にも膨大な量の悩みがあることだろう。それくらいの想像はイスラにも出来る。彼自身は知らない言葉だが、辞書をひけば、個人主義的無政府主義という単語がもっとも当てはまる。

 もちろんこれは極端な見方だ。火事を起こすからといって、火そのものを遠ざけるようなものである。イスラ自身も、この世界の多くの人間にとって社会が必要であることは理解している。そして、社会を必要とする人々にとって、カナンのような指導者が必要なのだということも。

「エデンがどんな場所かなんてわからないし、俺にとって必要なのかどうかも分からない。
 でも、他の連中にはお前が絶対に必要だ。それは、俺だって同じなんだけどさ……」

「……私も同じ気持ちですよ。イスラがいなかったら、ここまで来ることは出来なかったから」

「ああ。結局、俺たちはお互いに必要な人間同士なんだよ。だから俺は絶対に降りない。最後までお前と一緒に旅をする。どんなやつが相手でも、絶対にお前を守って見せる」

 イスラにとって、それは何にも勝って大切なことだった。自分にそう言わせてしまうほどに、カナンの存在は大きくなっているのだな、と思った。

 パルミラの砂丘で告白した時にも感じたことだが、何度でも口に出して言いたかった。

「くれるのは、言葉だけですか?」

 そんなイスラに対して、カナンは悪戯っぽい表情を向けてくる。ただ、耳の一部が赤くなっているのは、月明りのなかでも見分けることが出来た。

 イスラは何も言わずにカナンの腰を抱き寄せた。カナンもまた、自然と目を閉じ唇を突き出した。やっぱりこいつは美人だな、と何度目になるか分からない感想を思い浮かべながら、イスラもまたゆっくりと顔を近付けていった。


 その鼻先を、一本の矢がかすめるように飛び過ぎていった。


 カッ、と鏃が地面に突き立つのと同時に、イスラの全身から冷や汗が浮かび上がった。一瞬敵襲かと思ったが、それなら殺意で事前に感じることが出来る。今のはそれが全くなかった。恐らく完全な流れ矢だ。

 異音に気付いたカナンも目を開き、固まっているイスラと、地面に突き立った矢を交互に見て驚いたようだった。

 一体誰が、と言いかけた時、小川の反対側の草むらがガサガサと揺れ、頭に葉っぱを乗せたトビアが姿を現した。手には弓を持ち、腰のあたりに矢筒を吊るしている。

「こっちの方に獲物が……って、あれ? 二人ともこんなところで何をしてるんですか?」

 呑気に訪ねるトビアに、イスラはゆっくりと顔を向ける。


「……聞きたいか?」


 その引きつった顔と飢えた狼のような声を聴いた瞬間、トビアは回れ右をして逃げようとした。

 だが走り出す直前にはすでにイスラの梟の爪ヤンシュフが足に絡みついていた。そのままワニに噛み付かれた草食動物のように、小川の中へと引きずり込まれていた。 

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