闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二六節/ウルバヌス 下】

「この馬鹿真面目が」

 テーブルに肩肘をついたイスラは、隣席のカナンに向かってため息交じりに言い放った。

「それって褒め言葉ですか? それともけなし言葉?」

 音を立てずにコーヒーを飲んでいたカナンが聞き返す。イスラは素っ気なく「好きに解釈しろ」と返した。

「誉め言葉ですね! ありがとうございます」

 カップをソーサーに置き、カナンは笑いながら手をパンと叩いた。もちろんイスラの皮肉は理解していたが、流した。

 カナンの話が終わると、食事の終わりを契機に貴族達のうちの幾人かはバツが悪そうに立ち去ってしまった。貴重な出資者を自ら切り捨てるような真似は、確かに勿体無かったかもしれない。

 一方でゴドフロアやヒルデのように、カナンの話や来歴を知ってなお残ってくれた者もいる。ヒルデに至ってはハンカチで目元を拭ったり鼻をかんでいる有様で、堅苦しい見た目にそぐわない純情ぶりだった。

「あの……ヒルデさん、そんなに泣くような話では……」

 すんすんと鼻を鳴らしたヒルデは、ハンカチに顔をうずめたまま首を振った。

「これが泣かずにいられますか! カナン様は、本当にお辛い道を歩んで来られて……なのにこうしてエデンへ向かおうとされている……! そのひたむきさを思うと、私……」

「ヒルデ様。新しいハンカチです」

「ありがとうギスカール……」

 ヒルデの隣に座っていた青年が新しいハンカチを手渡した。中肉中背の端正な顔立ちの青年で、継火手とよく似た真面目な雰囲気を醸し出している。だが、同時に物腰の柔らかさも感じさせるのは、育ちの良さ故だろうか、とカナンは思った。

「ヒルデさんは、前回の救征軍には参加されたのですか?」

 話題を変えるべく、カナンはそう切り出してみた。それに、これから味方になってくれる人たちのことを知っておきたいという思いもあった。

「……いえ。私は、直接前回の遠征に関わったわけではありません。出来ることならお側に馳せ参じたかったのですが……」

「当時は、ヒルデもウルバヌスの筆頭祭司を継いだばかりでした。迂闊に遠征になど出せないので、残留してもらったのです」

「ウルバヌスの祭司……? じゃあ、ここで一番偉いのは、あんたじゃないのか?」

 イスラはふと抱いた疑問を口にした。オーディスは笑いながら、「いや、そうではない」と答える。

「他の煌都と違って、ラヴェンナは色々と複雑な土地でね。私のように爵位を持った貴族と、彼女のように継火手としての血筋を持った祭司が二人三脚で統治するのが普通なのさ。
 もっとも、私が三年間も領土を離れることが出来たのは、彼女にウルバヌスを切り盛りするだけの能力があると信じていたからだよ。ラヴェンナ全土で見ても、指折りの行政官だ」

「ありがとうございます、オーディス。でも、従妹だからといって、何もかも押し付けるのはやめてください」

「ああ。だが、こうしてカナン様をウルバヌスに迎えることが出来た。遊び惚けていたわけではないと、信じてくれるだろう?」

「それは、まあ……」

 二人が話している間にカナンは、渋々頷くヒルデと、何くわない顔で腕を組んでいるオーディスを素早く見比べてみた。

 上流階級の人間が互いに血縁関係を持っていることなど珍しくもなんともない。ウルバヌスの領土を管理する貴族と祭司とが、互いに婚姻関係を結ぶのは、政治的には初歩中の初歩と言ったところだろう。

 例えば、祭司の家に生まれた男子が、貴族の家の子女と結婚したとする。天火は男性には発現しないが、その因子……シオンの血は次世代に受け継がれる。ために、二人の間に継火手の娘が生まれる可能性が高まるのだ。これは当人たちや結婚を認めた両家だけでなく、領土に住むすべての人間にとって益となる。

 もちろん、継火手の血を引いた娘でも、必ず天火が発現するわけではない。もしそうなっていたなら、今の世の中でこれほどまでに継火手の価値が重んじられることはなかっただろう。

 ともあれ、ヒルデとオーディスの関係性は、上流階級の見本として見ることが出来るだろう。

 ただ、カナンはそこに引っかかりを覚えていた。

(……似ていない)

 オーディスとヒルデは、どちらも非常に整った顔立ちをしている。だが、顔を構成するひとつひとつに関しては、相違点ばかりが目立つ。従兄妹の間柄なら別段珍しくはないのかもしれないが、カナンはちょっとした違和感を感じた。

「……少し脇道に逸れ過ぎたな。本題に戻るとしようか」

 カナンはふと我に返った。彼女の隙を見つけたかのように、オーディスが視線を向けている。

「あえて支持者を試すような発言をしたのは、残った者の団結を固めるため……といったところですか?」

「ええ」

 貴方が私を試したように、とは口に出さなかった。

「ここから先は非常に過酷な旅になります。私達に共感してくれない人を連れて行っても、不和の元になるだけです。そんなことになったら、誰にとっても不幸です」

 カナンの言葉に、オーディスは微かに唇を吊り上げた。

「失礼ながら、貴女にはロビイストとしての才覚はあまり無いようだ。あまりに正直過ぎるし、潔癖症なところもある。そう思わないか、ヒルデ?」

「そうですね。でも、私はそんなカナン様だからこそ信じようという気になりましたよ。きっと、難民団の方々もそう思ってここまで着いてこられたのでしょう?」

「……ああ、その通りだよ。上手くは言えないんだけど、この子は何があってもあたしらを見捨てない……そう思わせてくれる何かがあるんだ」

 ペトラにそう言われると、カナンは少し照れ臭そうに頬を染めた。

 自分を正直だと言い切るのは憚られるが、腹芸が得意かと言われれば、決してそうとは言えないだろう。矛盾や不合理があると、自然と身構えてしまうようなところがある。

 もちろん教育の一環として仕込まれ、必要十分な技術は会得したが、交渉や腹の探り合いといった仕事は姉のユディトの方が得意だった。常識人であるが故に押すべきところと退くべきところを良く弁えていたのだろう。

「で、これからどうするんだ? 結局、支援が減ったことに変わりは無いだろ?」

 野苺のタルトをつつきながらイスラは言う。料理の最後に運ばれてきたスタンドにはお菓子が満載されていた。だが、ほとんど手つかずのまま放置されていた。

 一応カナンに倣って、フォークで切り分けながら口に運ぶ。本当は一口に齧り付きたかったが、さすがにイスラも場をわきまえていた。

 それでも好物の味はこたえられない。野苺は砂糖漬けになっていて、森のなかでは絶対に味わえない贅沢な甘さを演出していた。

 実のところ、意識の大半をそちらに持っていかれていたが、辛うじて話の内容にだけは追いついていた。

 イスラの発言は最もだったが、ヒルデは若干気を悪くしたようだった。言外にカナンを貶したことを責めているのか、それとも闇渡りが口を開いたからなのか、どちらかは分からない。イスラも彼女の表情には気付いていたが、一々反応するのも面倒だった。それよりもタルトの方が重要だった。

「それに関しては問題無い。どの道、ラヴェンナで正式に救征軍の派遣が決まれば、全軍を容易に賄うだけの物資が得られる」

「ラヴェンナは渋るんじゃないのか? 何で闇渡りなんかのために金や物を注ぎ込むんだ、ってな」

「そう捉える者もいるだろう。だが戦略的な視点で見れば、外征は煌都の経済に良い影響を与える。武器はもちろん、食料、繊維、燃料、そしてそれらを輸送する業者……軍隊の移動すなわち人の移動である以上、人間が日常的に必要とする物全てが求められる」

「実際、前回の遠征が行われた時は、ラヴェンナの経済は一時的に好況を迎えました。それこそ、戦死者の遺族に支払う恩給を軽く上回るだけの税収がありました」

「……戦争特需、というものですね」

「その通りです」

 エマヌエルの救征軍は、世界が闇に覆われてから初めて行われた外征であった。それによって生じた様々な影響は注目を浴びたが、積極的に軍を派遣しようとする煌都は無かった。パルミラも戦争を経験したが、防衛戦争は得るものがほとんど無いため、経済に掛かる負荷の方が圧倒的に高い。人々はまだ、戦争によって生じる旨味を忘れたままなのだ。

「前回の遠征は、ラヴェンナ領内の軍人に仕事を与えるためのものでした。逆に言えば、厄介者を始末することが出来れば最低限の目的は達せる……と、一部では囁かれていたそうです。そんな輩にしてみれば、経済上の利益と治安の健全化の二つを手に入れられた救征軍は成功に見えたことでしょう」

「エマを喪った以外は……いや、ラヴェンナの中枢には彼女を快く思わない者も大勢居た。そんな連中ほど、今はマリオン陛下の周りで権力を欲しいままにしている。ギヌエット殿も抵抗しているだろうが、焼け石に水だろう」

 歴史書を紐解けば、こんな類例はいくらでも見つかる。政治に腐敗は付き物だが、ラヴェンナのように王政を敷いている共同体では、より深刻な問題として圧し掛かってくる。

 もしかすると、ここに残った人間のなかには、そうした現政権に対する反感を覚えた人物も混ざっているのかもしれない。オーディスが救征軍の壊滅後にラヴェンナを離れたのも、新たに権力を握った人間から暗殺される可能性を考えたからではないのだろうか。

「ラヴェンナは決して一枚岩ではありません。さらに各煌都から使節が集まってくるとなれば、今以上に複雑な利害関係が生じることになる。
 カナン様には、その場で我々の代表として言葉を語っていただかなければならない。貴女がエデンに賭ける思想と展望を、一人でも多くの人間に伝えなければなりません。
 何のために、誰のために行くのか。それがこれからの世界のどのような影響を及ぼすのか。どれほどの人間に益をもたらすのか」

「私の……思想、ですか」

「エマが救征軍を打ち出した時とでは、何もかも事情が異なっています。救征軍を出発させるだけなら簡単でしょう。しかし、出発した後のこと、そしてエデンを手に入れた後のことまで勘定に入れなければ、結局はラヴェンナ中枢の野良犬共に食い荒らされるでしょう。
 何より、救征軍の全ての人間に希望を持たせることが出来なければ、遠征など到底成功しません」

 カナンは溜息をついた。

 エデンのことはずっと考え続けてきたし、それについてまとめた巻物もある。しかし、それを一つの体系だった思想として取りまとめたことは無かった。旅に出る前、それを作るのはずっとあとのことになるだろうと思っていたし、こんな形で公表を求められるとも思わなかった。

 だが、自分は今ここにいる。新たな救征軍の指導者として、人々に夢を見させなければならない立場にある。

「難しい宿題ですね」

「はい。ラヴェンナへ移動しつつ、通常の仕事をこなす傍らで仕上げていただく必要があります。無論、私とヒルデ、そして到着が遅れていますが、もう一人の継火手と共に補助をさせていただきます」

 オーディスに続くように、残ったラヴェンナの貴族たちも次々と忠誠の言葉を口にする。それに遅れまいと、ペトラやサイモンも身を乗り出した。

「あたしらだって、あんたを助けるために付いてきたんだ。あたしらに出来ることなら何でも言っとくれ!」

「ああ、揉め事があったら一番に使ってくれ!」

「言っとくけどね、サイモン。あんただって厄介事を起こす種なんだから、ちゃんと自重するんだよ」

「わ、分かってるっての! でも、こっちにはイスラだっているんだぜ! なっ!?」

 サイモンはバッと片手をあげてイスラを指さした。全員の目線が、この場にいる唯一の闇渡りに向けられる。

「……ん?」

 イスラはフォークを持ったまま固まった。先端にはタルトが一切れ刺さっている。

 金色の目がタルトと衆目とを往復し、最終的にタルトを選んだ。全員が唖然とするなか、一人真顔でタルトを頬張る。それを飲み下して開口一番、

「オーディス、おかわりってもらえるか?」

「……持ってこさせよう」

 彼の隣に座っていたヒルデは、冷静沈着で滅多に表情を崩さない従兄が、一瞬唇の端を痙攣させたのを確かに目撃した。

 カナンは顔を横に向けて口元を押さえていた。恥ずかしいと思いつつも、この堅苦しい空気を一瞬で叩き壊してくれたイスラのことが、前よりもっと好きになっていた。

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