闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百二二節/パルミラを後にして 上】

 カナンの演説が終わった直後から、ウルク難民団の解体とパルミラ難民団の編成が急速に進められた。

 カナンもその身辺の人間も、皆慌ただしく駆けずり回っていた。パルミラから発つ時は刻一刻と迫っている。そんな中で、知り合った人々と別れを告げるため、皆なんとか時間を捻出していた。

 トビアもまた、パルミラを去ることに決めた一人だった。その決断を持った上でフィロラオスの元に赴いた。
 今は、パルミラで淹れる最後のコーヒー豆を挽いている。

 パルミラは連日の騒動によって大きく様変わりしたが、フィロラオスの研究室だけは時間が止まったかのように変化が無い。老博士の趣味と興味によって埋め尽くされた部屋は、今日も静かに時間を刻んでいる。

 フィロラオスはトビアと言葉を交わしながら、机の上で組み立てている装置の仕上げに取り掛かっていた。バラバラだった歯車や支柱、宝石の玉は、いまや規則的に配置され、歯車の回転に従って台座の上を回る。

「どうしても行くのかね」

「はい」

 コーヒーミルのハンドルを回しながらトビアは静かに答えた。

「僕はまだ、何も成し遂げていません。ここで色んなことを学んで、考えて……ようやくサラと話せた程度です」

 名無しヶ丘の戦いでは、サラとの邂逅こそ果たせたものの結局何も進展しなかった。むしろ、彼女が内に抱えている深い闇を垣間見た。

 以前にイスラから、カナンがどうやってベイベルを倒したか聞いたことがある。ウルクのベイベルは、己を怪物だと思い込むためにあえて暴君として振る舞っていた。しかし、その根底にあるのは自分自身に対する恐怖に他ならない。

 サラの精神性がベイベルと一致しているとすれば、彼女もまた、自分の力に恐れおののいているということになる。それはサラ自身もとうに自覚し、認めているだろう。

「サラは自分のことを怪物だと言っていました。でも、本物の怪物なら、わざわざ自分で名乗ったりはしないと思います」

 木製の茶漉しに挽いた豆を詰めて熱湯を注いでいく。ほどいた繊維を短い間隔で張ったもので、粉末がカップに流れるのをある程度防いでくれる。上流階級の人間ならば、使い捨ての紙で液体を濾すのだが、それはとんでもない贅沢だ。

「そうじゃな。儂らが己を指して、我人間也、と言うようなものじゃ。そう発言した時点で、『我』を客観視する『我』がいることになる。自己に対して無自覚な人間では決して出来ないことじゃ。
 しかし問題は、その少女が自己を否認し続けている点にあろう。そこをひっくり返さない限り、彼女は心を開いてくれんじゃろうな」

「分かっています」

 口で言うのは簡単だ。だが、サラが自分自身に施した擦り込みは、並大抵のことでは解けないだろう。

 自分を怪物だと思い込まなければ、影の中に宿る夜魔と共存出来なかったのだ。夜魔憑きを人間として扱うほど、今の世界は優しくない。どこにも居場所の無い特異な人間は、怪物以外に生きる道を見出せない。

 だが、それは不幸なことだとトビアは思った。

 独断と言われればそうかもしれない。しかし、人の輪から離れ、人を敵に回して生きていくのはあまりに辛い。延々と孤独を深めるだけだ。

「時々、こう思うんです。もしイスラさんやカナンさんが現れなかったら、僕はいつまでも山奥暮らしだったと思います。村で一番若い父さんが死んだら、その後自分はどうなっていたかって……最後の風読みとして、誰にも知られず死んでいったと思います」

「成程、彼女はありえたかもしれない君自身、というわけか」

「……重ねて見ているところは、あると思います」

 もちろんそれは理由の一つに過ぎない。本音は、もっと個人的なものだとトビアも自覚していた。

「旅を続けても、彼女と必ず再開出来るとは限らんよ?」

「それは大丈夫だと思います。何となく……本当に、勘でしかないんですけど。また会えると思います」

「そうかね」

 トビアは湯気の立ち上るカップをフィロラオスの前に置いた。「いただくよ」と、老博士はカップを取り上げた。

「勘、か。なんとも不確かな理由じゃのう。だが……君はそれで良いのかもしれんな」

 老人は目の前の少年をじっと見つめた。まだまだ未熟な少年だが、だからこそ世界を見て回るべきだと思った。書物が教えてくれることは多いが、自分の目で見て、体験することには格別の意味がある。

「行って、君のやりたいことをやってきなさい。引っかかりがあるままでは、学問にも身が入らんじゃろう」

「先生……」

「君の旅が良いものになるよう、祈っておるよ」

 そう言って、フィロラオスは相好を崩した。



◇◇◇



 廃棄船の船楼に設けた事務室で、カナンは最後の書類整理に入っていた。

 パルミラを訪れてからの数か月、毎日膨大な量の書類がここに運び込まれ、その一つ一つに目を通してきた。事務仕事にとらわれ過ぎて目や腰が痛くなったこともある。腱鞘炎を起こしかけたペトラを、無理やり天火で治したこともあった。

 そんな多忙さが、実はとても平和なことだったのだと、今になって思わされた。

 これからの旅は、今まで以上に大変なものになるだろう。ウルク難民団は煌都と常識を共有していたが、闇渡り達はそうではない。彼らを取りまとめ、辺獄、さらにはエデンまで連れていくのは並大抵のことではない。

 煌都の住人からの反発も、相当なものになるだろう。戦乱の元凶である彼らに対して、無条件で協力などしてくれるわけがない。数日後にはパルミラ市内を通過してラヴェンナに向かうことになっているが、その段階で衝突が生じる可能性も捨てきれないのだ。

 だが、ため息は漏らさなかった。

(……これは、私が選んだこと。私がやらなければならないこと)

 カナンは自分に言い聞かせる。持てる者が成すべきを成す、その信念がなければ、旅に出ようとは思わなかった。

(そうすることによって、私は私でいられる)

 紙の束を鍵付きの箱に詰めた時、ドアがノックされた。

「入るよ、カナン」

「はーい」

 カナンは声だけで返事をしたが、直後に複数の足音が部屋に入ってきた。驚いてドアの方を見ると、ペトラを中心に難民団の面々が窮屈そうに立っていた。

「み、皆さん、どうしたんですか?」

「悪いね、皆で押しかけちゃって。でも、あたしらからあんたに、渡したい物があったのさ」

「渡したい物?」

 カナンが聞き返すと、ペトラは懐から小さな箱を取り出した。その蓋を開けて、自分の頭の上まで持ち上げる。

 箱のなかには、一つのペンダントが納められていた。

 一目見て、ペンダントトップが継火手の杖を模したものであると分かった。さらに、杖から六枚の翼が伸びている。鎖まで聖銀で作られたそれは、手に取ると事務室の灯火を反射させキラキラと瞬いた。

 だが何よりも目を引くのは、杖の先端にはめ込まれたサファイアだった。滑らかに研磨されたそれは、見る者の視線を吸い込んで離さない。

 あまり装飾品に興味の無いカナンでさえ、思わず見とれてしまうほど美しい首飾りだった。

「パルミラ工房の処女作さ。前にデメテリオの奴から宿題を出されたこと、憶えてるかい?」

「え、あ……そういえば、ありましたね」

 商人会議の一人、宝石商のデメテリオから、「サファイアを使って装飾品を作れ」と言われていた。あまりに慌ただしくてすっかり忘れてしまっていた。

 だが、仕事を担当する岩堀族達はそれを忘れておらず、工房を使用可能となるや即座に温めていた作品を完成させてしまったのだ。

「これは、あたしら全員の感謝の気持ちだよ。ここに残る連中も、あんたと一緒に行く連中も、本当にカナンに感謝してるんだ」

 カナンに装飾品を送るとして、どんなデザインにするかは難民団にとって密かな課題だった。色々と案は出たものの、最後は彼女を象徴するものを組み合わせて作ろうという話になった。

 杖は指導者としての象徴、六枚の翼は魔女と戦った守護者の象徴、そしてはめ込まれたサファイアは蒼い天火の象徴だ。

 カナンにも、意匠の中に込められた意味は理解出来た。

 あの不可思議な空間を見た後では、自分の力を能天気に信じることは出来ない。それでも、ペトラら難民にとって、自分の力は脅威にはならなかった。もし捉えられていたら、このペンダントの形も違ったものになっていただろう。

「……本当に、いただいて良いのですか?」

「返品は受け付けないよ。岩堀族が技術を尽くして作った逸品だからね」

 ペトラの言葉に、岩堀族の技師たちは得意げな表情を浮かべた。オルファやサイモンといった元抵抗組織の面々も、カナンにそれを着けるよう促してくる。

「皆……ありがとう」

 嬉しさや照れくささで赤くなりながら、カナンはペンダントを着けるふりをして少し俯いた。

 だが、背丈の低い岩堀族達は、その時カナンの瞳に水滴が浮かんでいるのを見逃さなかった。

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