闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百十六節/疲労と諦念】

 平原における戦闘はすでに趨勢が決していた。指揮官も作戦も失った闇渡りに残された道は、都軍の包囲網を破り闇に身を隠すのみである。

 それ故、もはや掃討戦の段階にあるにも関わらず、戦場の苛烈さは増していった。

 そんな中トビアは、一人サラを追って走り続けていた。戦場を突っ切り、その背後に広がる森へと踏み込んでいた。

 彼女が戦闘のどさくさに紛れて逃げたのは分かったが、これ以上暗躍されるわけにはいかない。ここで逃げられたら、またウルクの手先として事件を引き起こすだろう。
 こんなことをして、彼女に何の得があるのか。どういう背景があり、どんな思考の末こんなところまで来てしまったのか。それを突き詰めないまま戦うのは、あまりにやりきれない。


 何より、こんなことを続けていたら遠からず死んでしまう。半ば確信に近い形で、トビアはそう思っていた。


「サラ、君は自分のことを怪物だって言った……でも!」

 感情をむき出しにして影をけしかけてきたサラの表情は、とても苦し気に見えた。身も心も怪物だというのなら、あんな人間味のある顔をするのはどう考えてもおかしい。

 トビア自身は相対したことはないが、黒炎のベイベルのことはカナンやイスラから聞かされて知っている。そしてカナンがどのようにベイベルを制したのかも。
 ベイベルは、身に余る力故に、自分の中にある人間の心を認めようとしなかった。だからこそ怪物としての自己を演出し、その虚像を自分自身に信じさせることで精神の均衡を保とうとした。

 サラがやっていることはベイベルと全く同じだ。だが、彼女がつけている仮面は、ベイベルのものほど重たくはないはずだ。

(戦うわけじゃない。もっと別の方法があるはずだ。サラに戦いをやめさせる何か……)

 その時、頭上の木々が揺れる音が聞こえた。風で動かされたのではない。トビアは咄嗟に短刀を抜くが、それよりも先に相手の刃は首筋に添えられていた。

「なんだ、お前か」

 ぎゅっと閉じていた目を開くと、明星ルシフェルを携えたイスラが立っていた。トビアは溜息をつきつつ力を抜いた。

「びっくりしました……斬られたって思いましたよ」

「まだまだ甘いって証拠だな」

 イスラは明星を鞘に戻した。黒い外套を脱いでいるため、背中の傷から流れた血が服を濡らしている。手当はしてあるものの、動き過ぎたせいで痛みがひどくなっていた。

「イスラさん、大丈夫ですか?」

「心配無い、って言いたいけど……これじゃ説得力が無いな。だいぶやられたよ」

 そう言って、イスラは左手に持った外套を持ち上げた。黒い布で包んだ中に何があるのか、トビアも見る気にはならなかった。

「お前、あの夜魔憑きの娘を追ってたな」

「はい……でも、見失ってしまって。たぶん、もう追いつけないと思います。それに……」

 これで終わりではない、とトビアは思った。何か確信があるわけではないが直感的にそう感じたのだ。サラとは、何か縁のようなものがあるのだと。旅を続けていれば、そう遠くないうちにまた顔を合わせる機会がある。その時に、今よりも強い意志と言葉で向き合いたい。
 今は行方をくらましたサラを追うよりも優先すべきことがある。

「イスラさん、それを都軍の本陣まで持っていきましょう。戦いを終わらせるんです」

「そのつもりだ。悪いけど一緒についてきてくれ。俺一人じゃ追い返されそうだしな」



◇◇◇



 本陣に血塗れの闇渡りと小奇麗な少年が姿を現した時は、軽く騒動になりかけた。殺気だった護衛兵が槍を突き付けたが、イスラが外套にくるんでいたサウルの首を見せつけると、敵意は混乱へと変わった。

 安堵を通り越して脱力したかのような兵士達を見た時、イスラは彼らの消耗ぶりを感じずにはいられなかった。より過酷な世界で暮らしてきたイスラには慣れたものだが、彼らはそうではない。人が文字通り塵のように死んでいく光景に心を曇らせるのも無理はない。敵であれ味方であれ、同じ人間の姿をしていることに変わりはないのだから。

 武器をトビアに預けると、イスラは首級を持って将軍の元に進んだ。それを認めたラエドは「ご苦労だった」と呟いた。

 だが、勝敗が決したにも関わらずラエドの表情は暗い。椅子に座ったまま両腕を組み、頭を垂れている。参謀のナザラトも同様に渋面を浮かべていた。

 誰も停戦の花火を上げようともしなければ、伝令を走らせようともしなかった。

 彼らの様子をいぶかしんだイスラはラエドに詰め寄った。衛兵が槍を交差させるが、ラエドは下がるよう命じた。

「爺さん、これで勝負はついたはずだ。さっさと兵を引き上げろ」

「その必要は無い」

「何だと?」

 将軍に対する無礼な口利きに対して異議を唱えようとするものはいなかった。そんなことに噛みつけるほど元気な人間は残っていなかったのだ。戦闘そのものは短時間のうちに収束したが、その過程で払ったあまりに大きな犠牲と、戦場の重圧とが、居合わせた全ての人間の肩に重くのしかかっていた。

 誰よりもラエド自身が、事態の深刻さに頭を悩ませている。

 大勢はとうに決していたが、そのあとに起こった掃討戦の方が問題だった。死に物狂いで襲い掛かってくる闇渡りとの戦闘で一般の兵卒に甚大な被害が出ている。
 本来、この段階に至ればさほど苦労せずに勝てるのだが、今回は敵の必死さが予想をはるかに上回っていた。サウルの遺した言葉に掻き立てられるように、闇渡り達は死を恐れず突っ込んでくる。今の状態では停戦などとても出来ない。

「……後始末に手こずっておるだけじゃ。我々が負けることはありえん」

 それは紛れも無い事実なのだが、たった一言で片づけられるほど簡単な状況でないことは、ラエドも良く分かっていた。

「そんなことは聞いちゃいない。降伏を呼びかけろ。敵にも味方にも、これ以上無駄死にを増やすことはないだろ!」

「それくらい、儂が考えなかったと思うか?」

「だったらやれよ!」

「聞くわけがなかろう! 最初から降伏の道があると思っていれば、こんな死に物狂いの抵抗はせんよ。それに奴らを生かしたとして、その後どうする?」

「どう、って……」

 言い返され、イスラは返答に窮した。
 ラエドの言わんとしていることは理解出来る。煌都の人間にとって闇渡りが敵であることに変わりはない。ここで彼らを助命すれば確実に納得しない者が現れ、さらには流血へと至るだろう。よしんばそういった反対派を押さえ込めたとして、数千人に及ぶ闇渡りの難民をどう扱うのか? パルミラが賄うなどという選択肢はあり得ない。かといって野放しにすれば、パルミラ管区全体の治安が悪くなることは目に見えている。結果は変わらない。

「じゃあ、なんだ。あんたは、ここで闇渡りを皆殺しにするのが一番だっていうのか?」

「同じ闇渡りとして納得出来んじゃろう。それは分かるが、先に挑んできたのは彼奴らの方じゃ。儂にはこれ以上の解決策は思いつかん。君には無念だろうが、致し方ない」

 ラエドはイスラの心情を慮って言ったが、少々的を外れていた。
 元より一人で生きてきたイスラは、闇渡りに対する同族意識が希薄だ。彼らに対する同情心は薄いし、特に、戦場で戦っている連中が敗死するのは当然の帰結だと思う。

 だが、こんな事態をカナンが喜ぶわけがない。一刻も早く戦いを収めたいというのが彼女の願いのはずだ。それくらいはイスラにも分かる。

「……戦いを挑んで、負けたら死ぬのが当然だ。でもあそこには女子供や老人もいる。あんたはパルミラの継火手に、力の無い人間まで焼き殺せって命令するつもりなのか?」

 ラエドは沈黙をもって答えとした。

 イスラは肩を落とす。本陣の中を見渡すと、誰もが同じ苦味を共有しているかのようだった。闇渡りの言うことなど聞きたくもないだろうが、イスラの言葉は的確に真実を突いている。
 ここで虐殺を推し進めれば、戦いには勝利しても、心を壊す継火手が続出するだろう。それを命じた者達も同様の自責を抱えるに違いない。だが、この場で決着を付けなければ長きにわたり禍根を残すことになる。煌都の人間からすれば苦渋の決断であった。

「……カナン、あいつは……」

 こんな状況をカナンが看過するわけがない。いてもたってもいられず飛び出している頃だろう。大坑窟の時もそうだった。

 彼女のことに思い至ると、イスラは即座に踵を返していた。後ろから慌ててトビアもついてくる。誰も止めようとはしなかった。

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