闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第八十四節/パルミラの賢者】

 デメテリオの下を辞し、軽く昼食を摂ってから、カナンは二人を図書館へと案内した。「う、わあ……」扉を開けて中に入った瞬間、トビアは目の前に広がる光景に感嘆の声を上げた。

 大理石で造られた荘重な空間に人間の背丈よりもずっと高い本棚がいくつも並べられている。いずれの本棚も満杯になっていて、色とりどりの本の背表紙が納められていた。ドーム状の天井には世界ツァラハトを現した大きな白い皿が描かれ、その中には海や山、森が詰め込まれている。あらゆる生き物が皿のあちこちに住まわっているが、その中心は裸の人間の男女が占めていた。

「すごい量の本ですね」

「パルミラの大図書館は他のどの都市よりも蔵書が充実しているんです。開架に置かれている本なんてほんの一部で、地下にはもっと広大な書庫があります」

「魔導書なんかも所蔵されてるのかい?」

「ええ。閲覧は許可が無いと出来ませんけど……ペトラさん、興味あります?」

 訊ねるまでもなく、ペトラは食い入るように本棚を見つめていた。仕事をしているという意識が無ければすぐにでも飛び出していきそうだ。

「興味どころじゃない、何が何でも手に取って見てみたいさ。魔法に関連する書籍なんて、大坑窟の発掘品からも滅多に見つからなかったしね。あったとしても保存状態が悪くてボロボロなやつばっかりだった。それが読めるっていうならもう……」

「じゃあ見に行くかの?」

 ペトラの頭よりもずっと高い場所から声が降ってきた。三人が振り返ると、白い長衣を纏った長身の老人が立っていた。長い灰色の髪と髭を持っていて、どちらも蔓のように渦を巻いている。高い鼻に大きな丸眼鏡を引っ掛け、骨張った指に質素な金の指輪を嵌めていた。

「お久しぶりです、フィロラオス先生。ご挨拶が遅くなってしまいました」

「おおカナン、儂こそ会えるのを楽しみにしておったよ」

 学者然とした老人、フィロラオスは髭を撫でながら相好を崩した。

「カナンの知り合いかい?」

「五年前まで私たちの家庭教師をしてくださった方です。当代屈指の知識人の一人ですよ」

 カナンにそこまで言わせるほどの人物なのかと、ペトラとトビアは目を丸くした。当のフィロラオスは照れくさそうに首を横に振っている。

「そんなに買いかぶられると照れてしまうわい。今はただの隠居爺、天下りで図書館長をやっているような身じゃ。そんなに大層な人間ではないよ。
 とまれ、こんなところで立ち話をするわけにもいくまい。ついておいで、お茶でも出してあげよう」


◇◇◇


 フィロラオスは三人を図書館の地下へ案内した。石造りの螺旋階段を下りていくと、正面に大きな鉄製の扉が待ち構えており、そのすぐ隣に館長室が設けられている。
 だが、館長室という事務的な言葉と裏腹に、中は研究者の部屋にありがちな混沌と好奇心で溢れかえっていた。

 金細工の施された大きな天体望遠鏡、様々な薬品の納められた薬棚と実験器具の数々、破損した本とそれを直すための資材。棚や本の上にはかすかに埃が積もっていて、天窓から差し込む天火の光を受けて火花のように輝いていた。
 フィロラオスの執務机は、半ば作業台と化していて、今は小さな歯車や棒がいくつも転がっている。小さな台座が一つあり、その上にはいくつかの球体とそれを支える支柱が規則的に配置されていた。一体何を意味する物なのかは、本人以外には分からない。

 恩師の出してくれた茶菓をつまみながら、カナンはこれまでにあったことを可能な限りかいつまんで、だが時々熱を込めて語り聞かせた。フィロラオスは訪ねてきた生徒を、まるで孫でも見るかのような表情で見つめながら、静かに相槌を打っている。

「……儂が語って聞かせたエデンの物語が、巡り巡ってこれほど多くの人々を動かすことになるとはのう。つくづく運命というのは不思議なものじゃ」

 昔、食らいつくようにエデンの物語を聞いていた少女が、本気で煌都を飛び出して旅に出たのは驚きだ。それと同時に、カナンならば必ず何かをやるのではないかという予感もあった。
 それにしても、風読みの里の話やウルクの大坑窟の存在など、にわかには信じられないことだ。トビアにペトラという生き証人がいなければ彼も半信半疑にとどまったことだろう。

「カナンにエデンのことを教えたのはあんただったんだね」

「先生からは歴史や文学を教えていただきました。他のどの授業よりも面白かったですよ」

「いささか熱を入れ過ぎてしまった気もするがの」

 当時のカナンは歴史に首ったけだった。ユディトも含めた同年代の少女たちが恋愛話に花を咲かせていたころ、カナンだけは辞書ほどもある巨大な歴史書を貪るように読みふけっては、フィロラオスに議論を仕掛けていた。その時のことを思い出したカナンは若干頬を染めながらうつむいた。

「それにしても、風読みに岩堀族とは……岩堀族はまだ若干は見かけるが、風読みの一族が現存しておるとは思わなんだ。とうの昔に滅びてしまった種族と伝えられておったのだが、辞書を書き換えねばならんの」

「……たぶん、その必要は無いと思います。僕が最後の一人でしょうから」

 風読みというのは、元々特殊な素養を持った人間の集まりだった。加えて、山岳地帯という常に風が吹き荒む場所で鍛錬を積むことで初めて風の捉え方を会得出来るのだ。ウルクの都軍によって一族が殲滅された今、風読みの文化はほぼ失伝したようなものである。

 だが、フィロラオスは「それは違うよ」と言った。

「無くなるからといって、それを簡単に手放してはならん。何物もいつかは風化する。しかし、何かに刻み込むことが出来れば、それが存在したという証になるのじゃ。ちょうど君達の魔法が刻印を介して発現するように、形の無いものに名なり形なりを与えてやれば、それは存在し続ける」

 老博士は修復中の本を棚に戻しながら滔々と語った。観念的な話し方はカナンもするのだが、彼女がやや身構えて話すのに対して、フィロラオスには一切の気負いが無かった。彼にとって、ただただ自明のことなのだ。

「すなわち、それこそが言葉の力ということじゃよ」

「言葉、ですか……」

「この世の何物にも勝る力じゃ、少年。この老人の言うことを良く憶えておきなさい」

 トビアはふと、風読みの里で暮らしていた時のことを思い出した。昔から老人に囲まれて育ち、忠言や昔話を聞いて育ってきた彼にとって、老人から教えを受けるのはごくごく自然なことだった。

「はい!」

 元気よく頷いたトビアに、老博士も相好を崩した。トビアの素直さはこれまで多くの人間と出会ってきたフィロラオスにとっても、とても好ましいものとして映った。

「……さて、ところでカナンや。今日儂のもとを訪れたのは、昔話をすることだけが目的ではあるまい?」

「お気づきでしたか」

「君たちの現状はある程度理解しておる。パルミラ市民の感情を逆なでせず、なおかつ仕事も見つけなければならない。なかなか難しい立ち位置じゃのう」

「ええ……」

 確かに厳しい立場にあることは間違いないが、これでもかなり恵まれた状況にあると言えるだろう。パルミラが他の煌都に比べて寛容という点や、商売をするだけの資本や技術力をあらかじめ保持していること。難民団とはいえ、その中には岩堀族という一流の技術者集団がいる。受け入れられることはなくとも、排除されないだけの利用価値があるのだ。
 だが、集団を管理するカナンの立場からすれば、一部の人間だけが仕事を貰えている現状は好ましくない。他にもパルミラとの折衝や物資の補充、難民団内部の調停や物資の配分……彼女の細い肩にはあまりに多くの責任が圧し掛かっている。そして、四苦八苦しながらも何とかそれらを処理出来るだけの能力も備えていた。それが余計に彼女の負担を重くしている。

 そんな気疲れは、間違っても口に出来るものではないが。

 弱音を吐いている場合ではないし、もとより自分の能力を十全に発揮することが旅に出た目的だ。今の状況は、カナンが最初に望んでいたことと一致している。

「それでも、出来ることを探していきたいんです。先生、魔導司書を見せていただけませんか?」

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