闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第五十二節/出発】
ベイベルの朝餐と時を同じくして、ペトラもまた侵入者の情報を入手していた。割り当てられた坑道の一角で、休憩のふりをして情報のやり取りをする。他の者に比べて、岩堀族の技師たちは若干待遇が良く、不死隊も徒らに危害は加えないのだ。
「男が二人、体力が尋常じゃないそうで、不死隊百人でも捕まえられないらしい。……このこと、カナンに話すか?」
サイモンのもたらした情報に対して、ペトラは即答を避けた。というより、葛藤のために即答出来なかったのだ。だが、結局は立場を優先した。
「いや、話さない。ようやくあの子が腹を括ってくれたんだ。それに水を差したくない。第一、何の確証も無いじゃないか」
「そりゃそうなんだがな? この時期に地下まで乗り込んで来るってのは、どうにも辻褄が合いすぎてるというか……」
「もし別人だったら、余計に辛い思いをさせることになるんだよ。辛いことがある時は、別のことに目を向けた方が良いのさ」
「……まあ、ペトラがそう言うなら、俺たちは従うよ」
サイモンは水袋を逆さに向けて、中身を搾り出した。
「じゃあ、今夜だな」
「ああ、今夜さ」
◇◇◇
大坑窟を訪れた三日目、カナンは朝昼を夜のための準備に費やした。トビアとともにペトラの家の家事を手伝い、それを終わらせてから、各自の武器の手入れや物資の補充に残った時間を充てた。
カナンはペトラの貸してくれた砥石で細剣を研いだ。剣の磨き方は、ギデオンからきっちりと仕込まれているため、本職の研ぎ士に負けないだけの腕がある。
バルナバたちからは混ざり物の多い安物と言われたが、それは比較の対象が高すぎるからで、カナンの剣は十分業物と言えるだけの切れ味と堅牢さを持っている。確かにイスラの雑な扱いのせいでずいぶん痛んでいたが、それでも刀身を研いで目釘を締めると、旅に出る前と同じ輝きを取り戻した。
トビアも弓の整備をしていた。地下なので風霊の力は借りられないが、弓が撃てるのはそれだけで大きなアドバンテージだ。地下探索に参加することを認められたのも、彼の視力の良さや弓が使えるという点が考慮された結果だった。
作業に没頭している上、夜のことを考えるとどうしても緊張してしまう。イスラがいないという事実は、それだけで二人にとっての重圧となった。
もちろん、一緒に狭い空間で過ごしている以上、喋らないわけにもいかない。だから、トビアは前から感じていた疑問をカナンにぶつけてみた。
「エデンに行く理由?」
「イスラさんから二人の旅の目的は聞いていました。でも、カナンさんがどうしてエデンに拘るのか分からないんです」
普通に煌都で暮らし、政治に関わりながら弱者救済をしていけば、結局は弱い人々のためになるのではないか。トビアはそう考えた。
一般論故に、彼の意見はユディトのそれと重複していた。カナンがユディトから諌められたのは、一度や二度ではない。論議になるたびにユディトは合理的な意見を持ち出して、カナンの愚を責めた。
「でもそれは、私一人が幸せになる方法です」
「……そうなんですか?」
「ええ。仮に私がそういう生活を選んだとして、貧しい人たちを助けたとしても、根本的な解決はもたらしません。その人たちは一時的に楽になるかもしれませんが、蓄えも居場所も無い以上、雪のように溶けて消えてしまいます。対して私は、人助けをしたという満足感に浸っていられる。そんなの、とても公平とは言えないですよ」
カナンは潔癖だ。
中途半端な善意など、初めから無いのと同じだと考えている。
今のこの世界で悩み苦しんでいる人々を救うには、彼らを受け入れるための居場所が必要だ。煌都というシステムでは十分な人数を収容出来ず、その歪みの犠牲者として闇渡りのような存在が生まれてくる。
また、居場所が与えられたとしても、この地下都市のような圧政下にあるのでは意味がない。
「人は人らしく生きるべきです。誰でもその権利を持っている……でも、今のこの世界では、そんな倫理は受け入れられない。だから弾圧や差別が起きて、涙や血が流れることになる。
私はそれが嫌なんです。どうしようもないと言って、諦めたくない。
私は、偶然継火手としてこの世に生まれました。それには何か意味があったと思っている。この身に宿る蒼い炎が、私に求めているのは……自己満足で日々を送るようなことじゃない。この力を人のために役立てて、初めて私は、本当の意味での継火手になれる」
「だからエデンを目指そうと?」
「ええ。それくらいのことをしないと、これまで私が受けてきたものには見合わないでしょうから」
寄る辺の無い人々に居場所を与え、力の無い人々のために己の力を振るう。それこそが、大祭司の娘として生まれた自分の責務とカナンは考えていた。
トビアには、カナンの考え方が今ひとつ理解出来なかった。二人はあまりに立場が違い過ぎて、カナンの理屈を自分に当てはめようとしても、形の合わないパズルのように考えが一致しないのだ。
「居場所のない人々か……」
トビアは一人ごちた。今の自分は、まさにその居場所のない人間だ。
だからといって、トビアはまだ、エデンが欲しいとは思わなかった。
◇◇◇
夜。不死隊たちが引き上げた後、二人はペトラと共に昨夜のカタコンベへと入った。廃坑には多くの人が集まっており、瘴土のなかへ踏み込む者たちと挨拶を交わしている。
抵抗組織が用意出来た戦力は、サイモンを中心とした十人の歩兵、オルファに率いられた五人の弓兵、そして指揮官のペトラに継火手カナン。
「あんまりもたもたしていたら夜が明けちまう。さっさと行こうぜ」
「ああ、分かってる。それじゃあカナン、頼むよ」
「はい」
カナンが杖の石突で床をたたくと、その杖の先端からまばゆいばかりの蒼い炎が現れた。カナンは杖を坑道の奥の方に向けて照らしてみる。光を反射するものは何もなく、返ってくるのは瘴土特有の生臭い臭いだけだった。
「……それじゃあ、行こうか」
ペトラがパンッと手をた叩く。総勢十七人の探索隊は、ゆっくりと瘴土の中に入っていった。
「男が二人、体力が尋常じゃないそうで、不死隊百人でも捕まえられないらしい。……このこと、カナンに話すか?」
サイモンのもたらした情報に対して、ペトラは即答を避けた。というより、葛藤のために即答出来なかったのだ。だが、結局は立場を優先した。
「いや、話さない。ようやくあの子が腹を括ってくれたんだ。それに水を差したくない。第一、何の確証も無いじゃないか」
「そりゃそうなんだがな? この時期に地下まで乗り込んで来るってのは、どうにも辻褄が合いすぎてるというか……」
「もし別人だったら、余計に辛い思いをさせることになるんだよ。辛いことがある時は、別のことに目を向けた方が良いのさ」
「……まあ、ペトラがそう言うなら、俺たちは従うよ」
サイモンは水袋を逆さに向けて、中身を搾り出した。
「じゃあ、今夜だな」
「ああ、今夜さ」
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大坑窟を訪れた三日目、カナンは朝昼を夜のための準備に費やした。トビアとともにペトラの家の家事を手伝い、それを終わらせてから、各自の武器の手入れや物資の補充に残った時間を充てた。
カナンはペトラの貸してくれた砥石で細剣を研いだ。剣の磨き方は、ギデオンからきっちりと仕込まれているため、本職の研ぎ士に負けないだけの腕がある。
バルナバたちからは混ざり物の多い安物と言われたが、それは比較の対象が高すぎるからで、カナンの剣は十分業物と言えるだけの切れ味と堅牢さを持っている。確かにイスラの雑な扱いのせいでずいぶん痛んでいたが、それでも刀身を研いで目釘を締めると、旅に出る前と同じ輝きを取り戻した。
トビアも弓の整備をしていた。地下なので風霊の力は借りられないが、弓が撃てるのはそれだけで大きなアドバンテージだ。地下探索に参加することを認められたのも、彼の視力の良さや弓が使えるという点が考慮された結果だった。
作業に没頭している上、夜のことを考えるとどうしても緊張してしまう。イスラがいないという事実は、それだけで二人にとっての重圧となった。
もちろん、一緒に狭い空間で過ごしている以上、喋らないわけにもいかない。だから、トビアは前から感じていた疑問をカナンにぶつけてみた。
「エデンに行く理由?」
「イスラさんから二人の旅の目的は聞いていました。でも、カナンさんがどうしてエデンに拘るのか分からないんです」
普通に煌都で暮らし、政治に関わりながら弱者救済をしていけば、結局は弱い人々のためになるのではないか。トビアはそう考えた。
一般論故に、彼の意見はユディトのそれと重複していた。カナンがユディトから諌められたのは、一度や二度ではない。論議になるたびにユディトは合理的な意見を持ち出して、カナンの愚を責めた。
「でもそれは、私一人が幸せになる方法です」
「……そうなんですか?」
「ええ。仮に私がそういう生活を選んだとして、貧しい人たちを助けたとしても、根本的な解決はもたらしません。その人たちは一時的に楽になるかもしれませんが、蓄えも居場所も無い以上、雪のように溶けて消えてしまいます。対して私は、人助けをしたという満足感に浸っていられる。そんなの、とても公平とは言えないですよ」
カナンは潔癖だ。
中途半端な善意など、初めから無いのと同じだと考えている。
今のこの世界で悩み苦しんでいる人々を救うには、彼らを受け入れるための居場所が必要だ。煌都というシステムでは十分な人数を収容出来ず、その歪みの犠牲者として闇渡りのような存在が生まれてくる。
また、居場所が与えられたとしても、この地下都市のような圧政下にあるのでは意味がない。
「人は人らしく生きるべきです。誰でもその権利を持っている……でも、今のこの世界では、そんな倫理は受け入れられない。だから弾圧や差別が起きて、涙や血が流れることになる。
私はそれが嫌なんです。どうしようもないと言って、諦めたくない。
私は、偶然継火手としてこの世に生まれました。それには何か意味があったと思っている。この身に宿る蒼い炎が、私に求めているのは……自己満足で日々を送るようなことじゃない。この力を人のために役立てて、初めて私は、本当の意味での継火手になれる」
「だからエデンを目指そうと?」
「ええ。それくらいのことをしないと、これまで私が受けてきたものには見合わないでしょうから」
寄る辺の無い人々に居場所を与え、力の無い人々のために己の力を振るう。それこそが、大祭司の娘として生まれた自分の責務とカナンは考えていた。
トビアには、カナンの考え方が今ひとつ理解出来なかった。二人はあまりに立場が違い過ぎて、カナンの理屈を自分に当てはめようとしても、形の合わないパズルのように考えが一致しないのだ。
「居場所のない人々か……」
トビアは一人ごちた。今の自分は、まさにその居場所のない人間だ。
だからといって、トビアはまだ、エデンが欲しいとは思わなかった。
◇◇◇
夜。不死隊たちが引き上げた後、二人はペトラと共に昨夜のカタコンベへと入った。廃坑には多くの人が集まっており、瘴土のなかへ踏み込む者たちと挨拶を交わしている。
抵抗組織が用意出来た戦力は、サイモンを中心とした十人の歩兵、オルファに率いられた五人の弓兵、そして指揮官のペトラに継火手カナン。
「あんまりもたもたしていたら夜が明けちまう。さっさと行こうぜ」
「ああ、分かってる。それじゃあカナン、頼むよ」
「はい」
カナンが杖の石突で床をたたくと、その杖の先端からまばゆいばかりの蒼い炎が現れた。カナンは杖を坑道の奥の方に向けて照らしてみる。光を反射するものは何もなく、返ってくるのは瘴土特有の生臭い臭いだけだった。
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