闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第二十五節/月下の出会い】
世界が闇に包まれた直後、各地で大規模な戦乱が起こり、それまでの文明はほぼ完全に壊滅してしまった。残された人々は天火を頼りに大燈台を築き、その周りに街を造ったが、全ての人々を収容することは出来なかった。
そこで、罪人として収監されていた人々は都市から追放され、夜の森で生活する闇渡りとなった。
だが、同じ時期に都市から追放されたのは彼らだけではない。
太陽が失われる以前も、またその後も、自然とともに生活してきた人々が存在する。漁師は海から離れられないし、鉱夫たちは洞窟以外に仕事を見つけられない。
そして山にも、独自の生活習慣のために煌都を離れざるをえない者たちがいた。
◇◇◇
「はあ……はあ……はあ……!」
深い霧の中で、少年は息を乱れさせていた。だが走っているのではない。飛んでいるのだ。
少年は一羽の鳥の上に跨っていた。翼の全長は八ミトラ(約八メートル)に達するだろうか。姿形は鷲に似ているが、体毛は所々金色の箇所がある。
シムルグと呼ばれる、猛禽達の王だ。
山岳という環境における最強の生物であり、生態系の頂点に位置している。だが、そんな生物でさえも、霧中の追走者には敵わない。
少年の後方から不快な鳴き声が響いた。鳴き声とは言うが、その音は無数の蝗の羽ばたきや、錆びた鉄の摩擦音や、あるいは人間の断末魔が混ざったような異様な響きだ。
「くっそ……!」
少年は額に張り付いたとび色の髪をかき上げ、手綱から手を離した。背負っていた長弓に矢をつがえ、上体を捻って後方に狙いを定める。馬以上に揺れる鞍上にありながら、少年はふらつくことなく弓を構えていた。
「ザバーニヤ、もっとゆっくり飛んで」
 
名前を呼ばれたシムルグが甲高い声で応えた。翼を真っ直ぐに固定し、風に乗って滑空する。「よし……」
霧の中を黒い影が蠢いた。月明かり以外の光源が無く、おまけに霧がかかっているにも関わらず、少年は敵の姿を見逃さなかった。
影は、少年とシムルグを脅すように旋回すると、再び距離をとって身を隠す。かれこれ一時間は同じことを続けている。少年の忍耐は限界に達していた。それが相手の思う壺だと、分かってはいたが。
少年は呼吸を整えながら、弓を引き絞った。
「……空に踊る者たち、風の眷属よ。契約に従い、道を拓け!」
少年の詠唱に応えるように、矢の先端に旋風が生じる。山風の中にあって、その小さな一点のみが異なった風を宿していた。
霧に影が浮かぶ。少年は矢を放った。
同時に、矢の先端に集まっていた風が、放たれたそれを加速させる。向かい風の中にも関わらず、まるで見えない手によって運ばれているかのように、矢は敵の身体を貫いた。
悲鳴が響き渡る。
「やった!」
少年は快哉を上げた。
若さ故だった。
夜魔は、矢を一本食らったぐらいでは怯まない。
霧の中から、翼を持った夜魔が、そのおぞましい姿を曝け出した。
十ミトラに達する長大な翼はコウモリとよく似ているが、胴体はナマズのような肥満体で、猛禽に似た脚が一本だけ生えている。ウナギのような首を持っているが、目に当たる部分には、夜魔特有の赤い粒がいくつも光っていた。全身、射干玉の実の如く黒光りしていて、見る者に、これが本当に生き物なのかと感じさせる。
だが、少年にはそんな疑問を抱いている余裕など無かった。夜魔が口を開く。釘のような歯が、わずかな月光に反射して光った。
「わあっ!」
少年の目の前で、夜魔の口が閉じられる。ガチン! と歯の打ち合う音が響いた。
本当なら頭を噛み砕かれていただろうが、彼の乗っているシムルグがすんでのところで身を躱してくれたのだ。
だが、夜魔の一本足までは避けられなかった。蹴り飛ばされ、シムルグが失速する。少年は弓を放り投げて鳥の身体にしがみついた。
夜魔がシムルグの背後を取る。シムルグは、何とか態勢を立て直していたが、地面すれすれまで追い詰められていた。岩肌がすぐ目の前にまで迫る。
「父さん……!」
少年は呟き、固く目をつぶった。死にたくはなかったが、それ以外の結末など思いつかなかった。
だから、鐘の音が響き渡った時、自分はもう天国にいるのだと思った。
「ギェー!!」
シムルグが抗議の声を上げた。思わず目を開くと、すぐそこに男の顔があった。
白い肌に無数の傷跡が刻まれた顔だった。闇の中で鮮明に見えたのは、その人間の右腕が、蒼い炎によって包まれているからだ。
そうして蒼い光に照らされていると、天使というよりもまるで悪鬼か何かのようだった。相手の人相の悪さもそれに拍車をかけている。
二人が向き合っていたのは、瞬き一回分も無い程度の時間だった。
シムルグの身体を踏み台にして男は跳んだ。
少年はその動きを目で追いかけた。男の片腕を覆う炎は、まるで翼のようにはためいて、人間が空を飛んでいることの違和感を一瞬だけ忘れさせた。
「オォッ!!」
男は逆手に持った燃える剣を、夜魔の翼の根元に突き立てた。先ほどの比ではない、耳障りな絶叫が少年の鼓膜を震わせた。
夜魔はふらつきながら邪魔者を払い落とそうとするが、男は決して剣の柄を離そうとはしなかった。それどころか、一層力を込めて刃先を埋め込んでいく。黒い体液が、男の白い顔に飛び散るのが見えた。
右の翼が根元から脱落した。夜魔は男を乗せたまま岩肌に向かって落ちていく。「危ない!」少年はシムルグを降り立たせると、落下地点に向かって走ろうとした。
「し、心配いりませんよ……っと」
「えっ?」
振り返ると、一人の少女が斜面を降りてくるところだった。「よっ、えいっ、って、あああ!!」快調に降りていたのは最初だけで、足を取られたのかほとんど落ちるように駆け下りてくる。
「きゃあああ!」
「わああっ!」
慌てて少女を抱きとめるが、勢いを殺しきれず、そのままシムルグの胴体にぶつかった。「グェー!」と再びザバーニヤが抗議の声を上げた。
「ご、ごめんなさい、歩き慣れていないもので……」
「いえ、こちらこそ……って、あの人!」
少年は鞍から短刀を抜くと、男と夜魔の落ちていった地点に向けて走った。
いつの間にか、霧が薄らいでいた。山の天候は気まぐれで、晴れと思ったら雨、吹いたと思えば吹かない、それが当たり前だ。
夜空には満月が浮かんでいる。月光は、少年の村に戴かれている天火よりも、ずっと明るく世界を照らし出していた。
その金色の光の中、男は片翼になった夜魔を仕留めに掛かっていた。
夜魔は、その巨体を一本の脚と左翼の鉤爪で支えている。右側面は、隙だらけだ。
男は夜魔の牙を躱し、巨体の下に身を潜らせると、炎に包まれた剣を突き立てた。そのまま力任せに斬り抜ける。開いた傷口から、汚泥のような物がぼとぼとと零れ落ちた。
「やった!?」
またしても早とちりだった。
夜魔が跳び上がったかと思うと、猛禽に似た一本足で男を蹴り飛ばした。かろうじて身を守ったようだが、男は地面に仰向けに倒される。
それを押し潰そうと、夜魔が跳びかかった。
「危ない!」
「見りゃ分かる」
男はぶっきらぼうに答えた。
両手足と腹筋の力で、後転しつつ跳ね起きる。夜魔の足が砕いたのは岩だけだった。態勢が崩れる。
その瞬間を見逃さず、男は夜魔の頭を下から刺し貫いた。わずかな体液とともに、細剣の切っ先が頭蓋の反対側に飛び出る。
今度こそ、夜魔は動かなくなり、その身を灰へと変えていった。
少年は、その光景を呆然と眺めていた。月光と灰を一身に浴びる男の姿は、どこか人ならざる凄絶な印象を伴っていた。
「ね? 言ったでしょう?」
振り返ると、先ほどの少女が片目を瞑って立っていた。
「イスラなら大丈夫だって」 
「イスラ……」
少年はぽつりとその名前を呼んだ。
イスラが二人の方を向いて、少しだけ口元を緩めた。「一丁上がりだ」とぶっきらぼうに言うその瞳は、頭上の満月と良く似た金色だった。
そこで、罪人として収監されていた人々は都市から追放され、夜の森で生活する闇渡りとなった。
だが、同じ時期に都市から追放されたのは彼らだけではない。
太陽が失われる以前も、またその後も、自然とともに生活してきた人々が存在する。漁師は海から離れられないし、鉱夫たちは洞窟以外に仕事を見つけられない。
そして山にも、独自の生活習慣のために煌都を離れざるをえない者たちがいた。
◇◇◇
「はあ……はあ……はあ……!」
深い霧の中で、少年は息を乱れさせていた。だが走っているのではない。飛んでいるのだ。
少年は一羽の鳥の上に跨っていた。翼の全長は八ミトラ(約八メートル)に達するだろうか。姿形は鷲に似ているが、体毛は所々金色の箇所がある。
シムルグと呼ばれる、猛禽達の王だ。
山岳という環境における最強の生物であり、生態系の頂点に位置している。だが、そんな生物でさえも、霧中の追走者には敵わない。
少年の後方から不快な鳴き声が響いた。鳴き声とは言うが、その音は無数の蝗の羽ばたきや、錆びた鉄の摩擦音や、あるいは人間の断末魔が混ざったような異様な響きだ。
「くっそ……!」
少年は額に張り付いたとび色の髪をかき上げ、手綱から手を離した。背負っていた長弓に矢をつがえ、上体を捻って後方に狙いを定める。馬以上に揺れる鞍上にありながら、少年はふらつくことなく弓を構えていた。
「ザバーニヤ、もっとゆっくり飛んで」
 
名前を呼ばれたシムルグが甲高い声で応えた。翼を真っ直ぐに固定し、風に乗って滑空する。「よし……」
霧の中を黒い影が蠢いた。月明かり以外の光源が無く、おまけに霧がかかっているにも関わらず、少年は敵の姿を見逃さなかった。
影は、少年とシムルグを脅すように旋回すると、再び距離をとって身を隠す。かれこれ一時間は同じことを続けている。少年の忍耐は限界に達していた。それが相手の思う壺だと、分かってはいたが。
少年は呼吸を整えながら、弓を引き絞った。
「……空に踊る者たち、風の眷属よ。契約に従い、道を拓け!」
少年の詠唱に応えるように、矢の先端に旋風が生じる。山風の中にあって、その小さな一点のみが異なった風を宿していた。
霧に影が浮かぶ。少年は矢を放った。
同時に、矢の先端に集まっていた風が、放たれたそれを加速させる。向かい風の中にも関わらず、まるで見えない手によって運ばれているかのように、矢は敵の身体を貫いた。
悲鳴が響き渡る。
「やった!」
少年は快哉を上げた。
若さ故だった。
夜魔は、矢を一本食らったぐらいでは怯まない。
霧の中から、翼を持った夜魔が、そのおぞましい姿を曝け出した。
十ミトラに達する長大な翼はコウモリとよく似ているが、胴体はナマズのような肥満体で、猛禽に似た脚が一本だけ生えている。ウナギのような首を持っているが、目に当たる部分には、夜魔特有の赤い粒がいくつも光っていた。全身、射干玉の実の如く黒光りしていて、見る者に、これが本当に生き物なのかと感じさせる。
だが、少年にはそんな疑問を抱いている余裕など無かった。夜魔が口を開く。釘のような歯が、わずかな月光に反射して光った。
「わあっ!」
少年の目の前で、夜魔の口が閉じられる。ガチン! と歯の打ち合う音が響いた。
本当なら頭を噛み砕かれていただろうが、彼の乗っているシムルグがすんでのところで身を躱してくれたのだ。
だが、夜魔の一本足までは避けられなかった。蹴り飛ばされ、シムルグが失速する。少年は弓を放り投げて鳥の身体にしがみついた。
夜魔がシムルグの背後を取る。シムルグは、何とか態勢を立て直していたが、地面すれすれまで追い詰められていた。岩肌がすぐ目の前にまで迫る。
「父さん……!」
少年は呟き、固く目をつぶった。死にたくはなかったが、それ以外の結末など思いつかなかった。
だから、鐘の音が響き渡った時、自分はもう天国にいるのだと思った。
「ギェー!!」
シムルグが抗議の声を上げた。思わず目を開くと、すぐそこに男の顔があった。
白い肌に無数の傷跡が刻まれた顔だった。闇の中で鮮明に見えたのは、その人間の右腕が、蒼い炎によって包まれているからだ。
そうして蒼い光に照らされていると、天使というよりもまるで悪鬼か何かのようだった。相手の人相の悪さもそれに拍車をかけている。
二人が向き合っていたのは、瞬き一回分も無い程度の時間だった。
シムルグの身体を踏み台にして男は跳んだ。
少年はその動きを目で追いかけた。男の片腕を覆う炎は、まるで翼のようにはためいて、人間が空を飛んでいることの違和感を一瞬だけ忘れさせた。
「オォッ!!」
男は逆手に持った燃える剣を、夜魔の翼の根元に突き立てた。先ほどの比ではない、耳障りな絶叫が少年の鼓膜を震わせた。
夜魔はふらつきながら邪魔者を払い落とそうとするが、男は決して剣の柄を離そうとはしなかった。それどころか、一層力を込めて刃先を埋め込んでいく。黒い体液が、男の白い顔に飛び散るのが見えた。
右の翼が根元から脱落した。夜魔は男を乗せたまま岩肌に向かって落ちていく。「危ない!」少年はシムルグを降り立たせると、落下地点に向かって走ろうとした。
「し、心配いりませんよ……っと」
「えっ?」
振り返ると、一人の少女が斜面を降りてくるところだった。「よっ、えいっ、って、あああ!!」快調に降りていたのは最初だけで、足を取られたのかほとんど落ちるように駆け下りてくる。
「きゃあああ!」
「わああっ!」
慌てて少女を抱きとめるが、勢いを殺しきれず、そのままシムルグの胴体にぶつかった。「グェー!」と再びザバーニヤが抗議の声を上げた。
「ご、ごめんなさい、歩き慣れていないもので……」
「いえ、こちらこそ……って、あの人!」
少年は鞍から短刀を抜くと、男と夜魔の落ちていった地点に向けて走った。
いつの間にか、霧が薄らいでいた。山の天候は気まぐれで、晴れと思ったら雨、吹いたと思えば吹かない、それが当たり前だ。
夜空には満月が浮かんでいる。月光は、少年の村に戴かれている天火よりも、ずっと明るく世界を照らし出していた。
その金色の光の中、男は片翼になった夜魔を仕留めに掛かっていた。
夜魔は、その巨体を一本の脚と左翼の鉤爪で支えている。右側面は、隙だらけだ。
男は夜魔の牙を躱し、巨体の下に身を潜らせると、炎に包まれた剣を突き立てた。そのまま力任せに斬り抜ける。開いた傷口から、汚泥のような物がぼとぼとと零れ落ちた。
「やった!?」
またしても早とちりだった。
夜魔が跳び上がったかと思うと、猛禽に似た一本足で男を蹴り飛ばした。かろうじて身を守ったようだが、男は地面に仰向けに倒される。
それを押し潰そうと、夜魔が跳びかかった。
「危ない!」
「見りゃ分かる」
男はぶっきらぼうに答えた。
両手足と腹筋の力で、後転しつつ跳ね起きる。夜魔の足が砕いたのは岩だけだった。態勢が崩れる。
その瞬間を見逃さず、男は夜魔の頭を下から刺し貫いた。わずかな体液とともに、細剣の切っ先が頭蓋の反対側に飛び出る。
今度こそ、夜魔は動かなくなり、その身を灰へと変えていった。
少年は、その光景を呆然と眺めていた。月光と灰を一身に浴びる男の姿は、どこか人ならざる凄絶な印象を伴っていた。
「ね? 言ったでしょう?」
振り返ると、先ほどの少女が片目を瞑って立っていた。
「イスラなら大丈夫だって」 
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