闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第二十二節/蛇百足の夜魔】
闇の向こうにカナンの蒼い光が見えた時、ずたずたに斬り裂かれた身体に再び力が宿った。全身から血が噴き出すのも構わず、イスラは一心不乱に駆け抜けた。
あそこにカナンがいる。天火が尽きていないということは、まだ生きているということだ。彼女の元にたどり着くことだけを考え、イスラは走った。
やがて押し倒されたカナンと馬乗りになった男の姿が見えてくると、イスラは痛みを忘れた。身体は依然として重く、柄を握る手にも力が入らない。だが、倒れもしなければ剣を取り落すことも無かった。身体の中心だけが異様に熱かった。流れ出ていく血液以上に肉体が血を生成している、そんな感覚だ。
胸の内から込み上げた熱は喉まで達し、言葉に変わって吐き出された。
「諦めるな、カナン!」
カナンに言われたことを、イスラはそのまま言い返した。咄嗟に頭に思い浮かんだ言葉だった。
イスラは剣を振りかぶり、レヴィンに斬り掛かった。気迫ほどの威力は無いが、それでも二人を引き剥がすことは出来た。
「イスラ……」
「悪い、遅れた」
イスラはまさに満身創痍といった有様だった。
闇渡りの特徴である黒い外套は見る影もないほどズタボロになっている。服の袖も千切れかけていて、腕から流れた血が伐剣の握りを赤く染めていた。内出血で青黒く腫れ上がった左手は開いたままになっている。
右脚の刀傷も深刻で、血を吸ったズボンがぴったりと肌に張り付いている。少し動くたびに、乾いた血糊が錆びのように零れ落ちた。
何より、顔の傷は凄絶と言っても良いほどだ。表情の判別がつかないほど傷ついている。裂傷、打撲傷、擦過傷等々、傷の見本市のような有様だ。
端から見れば死人が蘇ったのかと思うだろう。人によってはおぞましいと感じるかもしれない。
だが、カナンの目にはこれ以上無いほど頼もしく映った。
  イスラの金色の瞳は真っ直ぐ前を向いている。満月のように曇りなく、現実を見据え、敵を見据えるその眼差しは、ある種の聖性さえ感じさせた。
闇渡りは、皆こんな風なのだろうか? 眼光鋭く前を見据え、自他の流血も省みず闇を駆ける……それは人の生き方というより、獣のそれに似る。だからこそ雄々しく感じるのかもしれない、とカナンは思った。
だが、カナンの目には良いものとして映ろうとも、レヴィンがその感想を共有出来るはずが無かった。
「お前は……お前はァ!」 
「何だよ」
「いつもいつも、貴様は邪魔をする! 俺のやろうとすること、全部全部、何もかも台無しにしやがって! 何、何でお前はァ……! お、俺のじ、邪魔ばかり!」
「決まってんだろ」
イスラは伐剣を振るい、こびりついていた血糊や夜魔の体液を飛び散らせた。
「俺はカナンの守火手だ。こいつの前に立ち塞がる奴は全員潰す」
血まみれの顔で、イスラはにやりと笑って見せた。それは市井の悪戯好きの少年が見せる表情とさほど変わらないが、傷や流血のために、鬼のような凄みがある。
「な、生意気な……たかが闇渡り風情が、図に乗って……!」
「おう、俺は闇渡りだ。しぶといぜ?」
イスラは伐剣の切っ先をピタリと突き付けた。
「あんたらの先祖に街を追い出されてから、何百年も森の中で生き続けてきた。俺はその末裔だ。大長老のメトセラ曰く、闇渡りの根は神殿の柱に勝って太く、その皮は巌に似て断ち難い。邪魔されたくなかったら、あんたが手ずから殺っとくべきだったんだよ!」
レヴィンは酸欠の魚のように口を開け閉めしている。暗闇の中でも分かるほど顔が赤くなっていた。手はぶるぶると震えたままゆっくりと腰の剣に伸びていく。それに応じるようにイスラも身構える。
だが、それは中途半端なところで途切れた。頭の頂上に何か水滴のようなものが落ちてきたからだ。普段ならその程度で集中力を切らしたりはしないが、何かただらならないものを感じた。
イスラの勘が、跳べ、と命じた。
横っ飛びにその場から跳び退く。座り込んだままのカナンを抱え込み、石の床に倒れ込む。レヴィンは彼の行動の意味を理解出来ず呆気に取られていたが、結局、それが最後に浮かべた表情になった。
天井から、汚泥のような物が大量に降り注いだ。レヴィンの身体は一瞬で泥に押し潰され見えなくなる。イスラとカナンの居た場所にも同様の汚泥が降って来たが、すんでのところで回避した。
汚泥はボトボトと音を立てて積み上がり、小さな丘のようにこんもりと盛り上がる。天井に届くほどではないが、四隅の像の膝に届く程度の高さだ。その臭いは凄まじく、この世のあらゆる生物の死臭に鉄錆の臭気を加えたような、得も言われぬ不快感を感じさせる。色は背景の闇と完全に同化していて、まるで瘴土の闇が濃縮されたかのようだ。
ただ汚れた泥が落ちてきただけなら、イスラもカナンも、身を強張らせたリはしなかっただろう。その汚泥の塊からは、生理的な嫌悪感と本能的な危機感を覚えずにはいられない。
この程度で終わりはしない。二人とも口には出さないが、そう感じていた。
そして、その感覚は的中した。
泥の塊が蠢き、形を変化させていく。盛り上がったかと思うと、細長く天井付近まで伸び上がり、蛇のような胴体と化した。そこから百足に似た無数の脚が生え、カタカタと機械的な音を響かせる。尾の先端にも百足のような鋭い針が備わっていた。
泥の塊は硬質な鱗へと変化し、鎧のように蛇体を覆う。突起が多く、見るからに凶暴そうな形をしていた。
だが何よりも異様なのは、その頭部にあたる箇所だ。蛇のような扁平な形状だが、三つの下顎が重なったような仕組みになっている。それらが一斉に開くと、黒い花が咲いたように見えた。
「何なんだよ……こいつは……」
さすがのイスラも呆気にとられた。瘴土を通ったことは何度かあったが、こんな現象に出くわしたのは初めてだ。
何もかもが不気味で、まるで人間の嫌悪感を逆撫でするためだけに存在しているかのようだ。これを現実と受け止めるのは、いくら胆力のあるイスラでもなかなかに難しかった。カナンも呆然としたまま、目の前の光景を見つめている。
その蛇百足の頭が二人に向けられた。三つの下顎が開き、ぬるりと音を立てながら、人間の上体が現れる。かつてレヴィンだったそれは、死してなお怨みのこもった眼差しで二人をねめつけた。
「人間が、夜魔に……」
カナンは声を震わせた。人間が夜魔に呑まれ、それと一体になるなど、考えるだけでもおぞましいことだ。
だが、全ては現実に起きていることで、その敵意は完全に自分たちへと向けられている。
「やるしかねぇな」
出口は蛇百足の夜魔の反対側にあり、その巨体によって覆い隠されている。よしんば突破出来たとしても、すぐに追いつかれるのは目に見えている。
「……本当に倒せると?」
「あいつを潰さないと、俺たちは前に進めない。戻ることも出来ないし、横にも逃げられない。そういう時は、やるだけやるしかないよ。結果の心配をしたってしょうがない」
「……そう、ですね」
カナンは両脚に力を込めて、杖を頼りにしながら何とか立ち上がった。
怖い。こんな状況に陥って平然としていられるほど、自分の心は強くない。
きっとイスラも怖いだろう。それでも、現実のみを直視する彼は、戦いから決して背を向けない。その姿は頼もしくもあるし、危うさも感じる。ともすれば自身の命を軽んじているのではないかと思うほどだ。
だが、何故だろう。時々、彼のそういう態度がとても美しく感じる。理屈や論理を越えた、闇渡りという生き方そのものの具現。それは煌都では決して見ることの出来ないものだ。
そんなイスラの姿を見ると、自分も立たねばならないという気分になる。
「やりましょう、イスラ!」
「ああ!」
あそこにカナンがいる。天火が尽きていないということは、まだ生きているということだ。彼女の元にたどり着くことだけを考え、イスラは走った。
やがて押し倒されたカナンと馬乗りになった男の姿が見えてくると、イスラは痛みを忘れた。身体は依然として重く、柄を握る手にも力が入らない。だが、倒れもしなければ剣を取り落すことも無かった。身体の中心だけが異様に熱かった。流れ出ていく血液以上に肉体が血を生成している、そんな感覚だ。
胸の内から込み上げた熱は喉まで達し、言葉に変わって吐き出された。
「諦めるな、カナン!」
カナンに言われたことを、イスラはそのまま言い返した。咄嗟に頭に思い浮かんだ言葉だった。
イスラは剣を振りかぶり、レヴィンに斬り掛かった。気迫ほどの威力は無いが、それでも二人を引き剥がすことは出来た。
「イスラ……」
「悪い、遅れた」
イスラはまさに満身創痍といった有様だった。
闇渡りの特徴である黒い外套は見る影もないほどズタボロになっている。服の袖も千切れかけていて、腕から流れた血が伐剣の握りを赤く染めていた。内出血で青黒く腫れ上がった左手は開いたままになっている。
右脚の刀傷も深刻で、血を吸ったズボンがぴったりと肌に張り付いている。少し動くたびに、乾いた血糊が錆びのように零れ落ちた。
何より、顔の傷は凄絶と言っても良いほどだ。表情の判別がつかないほど傷ついている。裂傷、打撲傷、擦過傷等々、傷の見本市のような有様だ。
端から見れば死人が蘇ったのかと思うだろう。人によってはおぞましいと感じるかもしれない。
だが、カナンの目にはこれ以上無いほど頼もしく映った。
  イスラの金色の瞳は真っ直ぐ前を向いている。満月のように曇りなく、現実を見据え、敵を見据えるその眼差しは、ある種の聖性さえ感じさせた。
闇渡りは、皆こんな風なのだろうか? 眼光鋭く前を見据え、自他の流血も省みず闇を駆ける……それは人の生き方というより、獣のそれに似る。だからこそ雄々しく感じるのかもしれない、とカナンは思った。
だが、カナンの目には良いものとして映ろうとも、レヴィンがその感想を共有出来るはずが無かった。
「お前は……お前はァ!」 
「何だよ」
「いつもいつも、貴様は邪魔をする! 俺のやろうとすること、全部全部、何もかも台無しにしやがって! 何、何でお前はァ……! お、俺のじ、邪魔ばかり!」
「決まってんだろ」
イスラは伐剣を振るい、こびりついていた血糊や夜魔の体液を飛び散らせた。
「俺はカナンの守火手だ。こいつの前に立ち塞がる奴は全員潰す」
血まみれの顔で、イスラはにやりと笑って見せた。それは市井の悪戯好きの少年が見せる表情とさほど変わらないが、傷や流血のために、鬼のような凄みがある。
「な、生意気な……たかが闇渡り風情が、図に乗って……!」
「おう、俺は闇渡りだ。しぶといぜ?」
イスラは伐剣の切っ先をピタリと突き付けた。
「あんたらの先祖に街を追い出されてから、何百年も森の中で生き続けてきた。俺はその末裔だ。大長老のメトセラ曰く、闇渡りの根は神殿の柱に勝って太く、その皮は巌に似て断ち難い。邪魔されたくなかったら、あんたが手ずから殺っとくべきだったんだよ!」
レヴィンは酸欠の魚のように口を開け閉めしている。暗闇の中でも分かるほど顔が赤くなっていた。手はぶるぶると震えたままゆっくりと腰の剣に伸びていく。それに応じるようにイスラも身構える。
だが、それは中途半端なところで途切れた。頭の頂上に何か水滴のようなものが落ちてきたからだ。普段ならその程度で集中力を切らしたりはしないが、何かただらならないものを感じた。
イスラの勘が、跳べ、と命じた。
横っ飛びにその場から跳び退く。座り込んだままのカナンを抱え込み、石の床に倒れ込む。レヴィンは彼の行動の意味を理解出来ず呆気に取られていたが、結局、それが最後に浮かべた表情になった。
天井から、汚泥のような物が大量に降り注いだ。レヴィンの身体は一瞬で泥に押し潰され見えなくなる。イスラとカナンの居た場所にも同様の汚泥が降って来たが、すんでのところで回避した。
汚泥はボトボトと音を立てて積み上がり、小さな丘のようにこんもりと盛り上がる。天井に届くほどではないが、四隅の像の膝に届く程度の高さだ。その臭いは凄まじく、この世のあらゆる生物の死臭に鉄錆の臭気を加えたような、得も言われぬ不快感を感じさせる。色は背景の闇と完全に同化していて、まるで瘴土の闇が濃縮されたかのようだ。
ただ汚れた泥が落ちてきただけなら、イスラもカナンも、身を強張らせたリはしなかっただろう。その汚泥の塊からは、生理的な嫌悪感と本能的な危機感を覚えずにはいられない。
この程度で終わりはしない。二人とも口には出さないが、そう感じていた。
そして、その感覚は的中した。
泥の塊が蠢き、形を変化させていく。盛り上がったかと思うと、細長く天井付近まで伸び上がり、蛇のような胴体と化した。そこから百足に似た無数の脚が生え、カタカタと機械的な音を響かせる。尾の先端にも百足のような鋭い針が備わっていた。
泥の塊は硬質な鱗へと変化し、鎧のように蛇体を覆う。突起が多く、見るからに凶暴そうな形をしていた。
だが何よりも異様なのは、その頭部にあたる箇所だ。蛇のような扁平な形状だが、三つの下顎が重なったような仕組みになっている。それらが一斉に開くと、黒い花が咲いたように見えた。
「何なんだよ……こいつは……」
さすがのイスラも呆気にとられた。瘴土を通ったことは何度かあったが、こんな現象に出くわしたのは初めてだ。
何もかもが不気味で、まるで人間の嫌悪感を逆撫でするためだけに存在しているかのようだ。これを現実と受け止めるのは、いくら胆力のあるイスラでもなかなかに難しかった。カナンも呆然としたまま、目の前の光景を見つめている。
その蛇百足の頭が二人に向けられた。三つの下顎が開き、ぬるりと音を立てながら、人間の上体が現れる。かつてレヴィンだったそれは、死してなお怨みのこもった眼差しで二人をねめつけた。
「人間が、夜魔に……」
カナンは声を震わせた。人間が夜魔に呑まれ、それと一体になるなど、考えるだけでもおぞましいことだ。
だが、全ては現実に起きていることで、その敵意は完全に自分たちへと向けられている。
「やるしかねぇな」
出口は蛇百足の夜魔の反対側にあり、その巨体によって覆い隠されている。よしんば突破出来たとしても、すぐに追いつかれるのは目に見えている。
「……本当に倒せると?」
「あいつを潰さないと、俺たちは前に進めない。戻ることも出来ないし、横にも逃げられない。そういう時は、やるだけやるしかないよ。結果の心配をしたってしょうがない」
「……そう、ですね」
カナンは両脚に力を込めて、杖を頼りにしながら何とか立ち上がった。
怖い。こんな状況に陥って平然としていられるほど、自分の心は強くない。
きっとイスラも怖いだろう。それでも、現実のみを直視する彼は、戦いから決して背を向けない。その姿は頼もしくもあるし、危うさも感じる。ともすれば自身の命を軽んじているのではないかと思うほどだ。
だが、何故だろう。時々、彼のそういう態度がとても美しく感じる。理屈や論理を越えた、闇渡りという生き方そのものの具現。それは煌都では決して見ることの出来ないものだ。
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