闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第十八節/輝く石の地図 下】

 石の地図から光が消えていく。辺りは再び暗闇に包まれ、二人の顔を照らすのは各々の持った松明のみとなった。天井の圧倒的な煌めきが無くなったためか、それまで以上に荒涼とした空間に変わったようにイスラには思えた。

「本当に出来ると思ってるのか?」

 イスラの声は四方に反射して、何度もカナンの鼓膜に響いた。

 あまりに途方も無い計画だ。彼女の語る目標は、現実を完全に無視している。つまらない目的なら見限ると言ったが、この答えは逆の方向に振り切れていて、頭の中が真っ白になってしまった。

「私だけでは到底無理です。そこまでたどり着くことも出来ないでしょう。だからこそ、あなたの力が必要でした」

「そりゃどうも……で、たどり着けたとして、その後はどうなる? エデンとやらに行くのが俺たちだけじゃ意味が無いだろ。道路は確保出来るのか? 食料は、水は?」

 カナンは首を横に振った。「まだ何も考えていません」

「でも、それは後になってから考えれば良いことです。まずはエデンの実在を証明し、見つけ出す。それが人々にとっての希望になります。今の世界で人々が最も望んでいることは、安定して住むことの出来る土地が少しでも増えること。新たな煌都が出来れば、自然と人は集まってくるでしょう……でも、私はそこを、寄る辺なかった人達のための場所にしたいと考えています」

「寄る辺なかった人達?」

「既存の煌都から締め出されるか、あるいは迫害されている人々……いえ、遠回しな言い方はやめましょう。つまるところイスラ、あなたのような人達のことですよ」

 イスラは溜め息をついた。「余計なお世話だな」と呟く。

「……」

「勘違いするなよ。俺は煌都が好きじゃないんだ。俺たちは夜の中で生れて、夜の中で死んでいく。それが当たり前、それが俺たちの生き方なんだ。勝手に憐れむんじゃねえよ」

 イスラは凄む。だが、カナンは一歩も退かなかった。

「確かに傲慢かもしれません。でも初めて会った時、あなたは確かにこう言いましたよ。飯を食おうって誘ってくれた、それだけで十分な恩義だ、って」

「……ああ、確かに言ったかもな」

「あの時、私の守火手はあなたしかいないと決めました。孤独を知るあなたなら、私の目指す場所の価値も分かってくれる……同じ食卓に座ることさえ許されない世の中が、まともなわけがない」

 今の世の中には様々な不公平や差別が混然となって渦巻いている。誰もが何かしらの形で影響を受け、ある者は狭量になり、ある者は絶望する。どこかで誰かが笑うためには、それ以外の場所で誰かが泣かなければならない。

 それは夜に包まれた環境と、煌都というシステムがそうさせているのだ。全ての人間を城壁の内に住まわせることは出来ず、平等に富を分配することも出来ない。必然的に煌都の内部では経済格差が生れ、その格差を隠すために「外側」の人間が必要とされる。

 ならば、その外側に楽園を造れば良い。単に煌都の数が増えるだけでも人々は暮らしやすくなるが、そのために収容所まがいの都市を造ったのでは本末転倒だ。


 ―――エデンとは、楽園でなければならない。


「ねえ、イスラ。そこに居るだけで、生まれてきて良かったと思えるような、そんな場所があれば……夜に包まれた世界も、少しは明るくなると思いませんか?」

「分からねえよ、俺には」

 突っぱねるようにイスラは言った。だが、言葉通り彼の頭には楽園エデンの影すら浮かび上がらない。場所に縛られることなく生きてきた彼に、特別な場所を想像することは難しいことだった。

「俺には何も分からない。場所っていうのが、そんなに大切だって思えないからさ」

「……」

「でも、俺はあんたの守火手だ。あんたは行きたい所に行けば良い。俺はあんたについて行くし、絶対にあんたを守る。その点は安心してくれ」

 あんたが出来るかは知らないけどな、とイスラは付け加えた。

「共感は、してもらえませんか」

「ああ……出来ないな。今の俺には」

「それでも良い。ついて来てくれるというだけで……でも、私は諦めませんよ。そこにたどり着くまでに、あなたの心にエデンを創り上げてみせます」

「……ま、試してみろよ」

 イスラはくしゃくしゃと頭を掻いた。その眼光が不意に鋭くなる。

 耳を澄ますと、降ってきた通路の方から剣戟の音や悲鳴が聞こえてくる。煌都の騎士たちが追いかけてきたのだ。それはまだ良いが、彼らが夜魔を呼び寄せたとすれば……。

「イスラ、上!」

 考えるより早く身体が動いた。天井から三体の夜魔が飛び降りてくる。危うく踏み潰されそうになったが、イスラはすぐに体勢を立て直すと、カナンの手を引いて発着場へ続く門に飛び込んだ。
 背後からイナゴの羽ばたきのような、あるいは金属の擦れ合うような不快な音が聞こえてくる。それも一つや二つどころではない。

「糞っ、あいつら面倒ばっかり増やしやがって!」

「こんな所まで……」

 カナンは杖を強く握り締めた。もう彼らが無事に戻れる保証は無くなった。自業自得だが、それでも憐憫の情を抱かずにはいられない。元はといえば、自分の出奔が招いた結果なのだから。
 だが、他人の心配ばかりしていられない。窮地の中にあるのは二人も同じなのだ。

 走り続けると、やがて目の前に巨大な洞窟が広がった。巨大どころではない、広大と言っても良いだろう。天井も地面もまるで見えない。奥行きさえも曖昧だった。
 洞窟の壁面は所々仄かに発光していて、内部の構造を浮かび上がらせていた。二人の立っている広場からいくつもの橋が伸びていて、その途中にある小さな階段があみだくじのように橋と橋とを繋げている。
 また、橋からは小さな舞台のようなものがいくつも伸びている。そのほとんどは石の塊と成り果てているが、いくつかは不気味な光を宿らせていた。

「ここが大発着場ってやつか……」

 イスラは呟いた。これまで旧文明の遺跡を見たことは何度かあったが、これほどの規模のものは初めてだ。
 だが、立ち竦んではいられない。剣戟の音や夜魔のいななきは、すぐ後ろまで迫っていた。

「……行くか」

「はい……!」

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