闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第十八節/輝く石の地図 中】

 イスラは立ち止まって、じっとカナンを見つめた。

 彼女の表情は穏やかだが、その瞳は真剣そのものだった。真っ直ぐにイスラの目を見据えている。

「私がアラルト山脈に拘ったのは、ここであなたに見せたいものがあるから。この道を降りきったら見つかるでしょうから……それまでにまずは、私自身の話をさせてください」

「……まあ、好きにしろよ」

「では」

 カナンは彼女自身の生い立ちや生涯について、イスラにも伝わるよう注釈を加えながらゆっくりと言葉を紡いだ。すでに語ったことも含めてもう一度。

 煌都エルシャの大祭司の家に生れたこと、双子の姉がいること、父親や祭司たちから様々な学問を伝授され、剣匠けんしょうと呼ばれるギデオンから直々に剣の手ほどきを受けたこと。生れながらに貴人として生きることを宿命づけられた彼女は、そのために最高の教育を施されてきた。

「けれど、そんな生活に飽き飽きしていました」

 自分の価値は生まれた時から決まっている。良き継火手となって天火アトルを強め、有力な家の子弟と結婚して後継者を産み、煌都における支配を磐石にすることだ。

 煌都の行政権はカナンら祭司階級によって独占されている。軍人階級はそれより一歩劣るものの、権力の恩恵を他のどの階級よりも享受出来る。法的・宗教的な権威と武力が組み合わさって、人々を支配する力となっているのだ。

 だが、本来祭司には政治を司る権威など与えられていない。諸々《もろもろ》の経典では、祭司はただ神と天火アトルを祀る者たちと定義している。今日のような状況があるのは、全て数百年に及ぶ慣例の積み重ねの結果なのだ。

「祭司の仕事は人々の不安を取り去ること。継火手の役目は天火アトルを護り強めること。その原理を忘れ、支配の方法論だけを追求しているのが、私の育った環境でした」

 カナンは俯く。

「私はずっと、特別な力を持った人間だと教えられてきました。でも、そう言われるたびに、違和感は大きくなっていきました。たまたま力を持って生まれてきただけで、どうしてこんなに生活に差が出るのだろう? 私の持っている力と、私の心とは釣り合っているのだろうか……と」

「あんたは自分のことを特別だと思っているのか?」

「……ええ。特別というより、特殊だと考えています。私たちは……他の人間とは異なった、特異な力を持っている。それは人々のために役立つものだけれど……かえって、私たちを孤独にもします」

 カナンは右手を開いた。傷痕は完全に消えている。抜き身の剣を、骨に届くほど握ったにも関わらず、傷を負った事実自体が消えたかのようだ。

「たとえ役に立つものでも……必要な力であっても……こんな、人間でないような力を持て余さずにはいられません。私がこの力を持って生まれたことには、確かに何らかの意味があったのかもしれない。でもそれは、皆から羨まれるようなことではないと思います」

「なら、都市から出なくて良かったんじゃないのか? あそこなら、あんたは誰からも罵られない」

「他の人は騙せても、自分の心は騙せないですよ」

 祭司として、貴人として最高級の教育を受けた彼女は、心の内側にいくつもの視点を併存させる術を身に着けていた。
 そうすることによって物事を公正に判断し、他の祭司が知らない、あるいは知ろうとしない知識でさえ貪欲に吸収した。その知識量と偏見の無さが、今のカナンを形作っている。

 だが、知識は諸刃の剣だ。知ることが常に人を幸福にするとは限らない。様々なことを吸収し判断するうちに、カナンは自分自身の心を騙せなくなっていた。


 ―――愚かでいられなくなったのだ。


「だから決めたんです。自分の心を裏切らず、この力を持て余しもしない、そんな生き方をするって」

 決意に満ちた声だった。イスラはそう断言出来るカナンが、少しだけ羨ましい。

 イスラは、自分の生まれた意味など考えたことも無かった。ただ生まれてきて、その場その場で生きている。せいぜいそれくらいのものだと、守火手になった今でもそう考えていた。

「俺からすれば、あんたの言い分はずいぶん贅沢だよ。世の中には何で生きてるのか分からないってヤツが、ごまんといるんだ」

「ええ、それは分かります。こんな世界で生き方を探す余裕はありません。だから、それの許される場所を探さなければならない」

 坂道が途切れる。二人は待機所にたどり着いた。三十ミトラ四方の広い空間で、石造りの長椅子がいくつも並んでいる。四隅を支えるように王冠を戴いた彫像が立っており、無言の視線がじっと二人を見下ろしていた。
 カナンは杖の先端に天火アトルを宿らせ、コツンと床を突いた。打ち上げ花火のように蒼い光球が飛んだかと思うと、天井近くでパッと弾けた。

 光に照らされたそこには、巨大な石の地図があった。

 世界ツァラハトの大地、山脈、海をそれぞれ異なった色の鉱石で表している。砂漠には琥珀、海には蒼玉、火山の火口には紅玉がはめ込まれ、それぞれの地名が古の文字によって記されていた。

 カナンの打ち上げた天火アトルは、光の粒子となってその地図の中に吸い込まれていった。再び闇が空間を覆うかと思われたその時、自らを光らせる力を取り戻した石の地図は、数百年前と同じように動き始めた。地名の書かれた文字は金色に輝き、色とりどりの光点が宝石で出来た大地を移動し始めた。
 光点の数は膨大で、目まぐるしく移動と明滅を繰り返している。炒り豆のように不規則に動いているように見えるが、実際には確かな規則性があることにイスラは気付いた。

 光点の群れが集中する箇所はいくつかあり、大抵は山脈や海辺だが、内陸部でも二ヶ所ほど光の集まる場所がある。その内の一つは、石の地図に描かれたどの土地にもまして光を集め、かつ吐き出していた。

「あの真ん中にある土地って……エルシャか?」

「いいえ、エルシャは地図の南西の……そう、そこです。分からないくらい小さいでしょう?」

 カナンはもう一度天火アトルを打ち上げた。今度は拡散することもなく、蒼い光はカナンに操られてゆっくりと地図上を移動し始めた。

 まずはエルシャから。カナンの言う通りほとんど光点の集まっていない小ぢんまりとした土地だった。そこから北東の方向へ、金緑石で表現された草原を渡ってアラルト山脈へとたどり着く。光点の動いた距離は微々たるもので、地図の中央で輝いている場所へはまだまだ遠い。

 カナンは光点をそこまで移動させた。

「あの場所が、エデン」

「エデン?」

「そう。かつてこの世界の中心だった場所です。全ての富と叡智が集まり、一切の不公平や差別の存在しなかった、地上の楽園……」

「アホ臭え。闇渡りの出自と矛盾してるぜ」

 イスラはぼそりと呟いた。

「そうですね。歴史書に書かれたことはきっと誇張を含んでいます。私たち祭司の間では、今はもう宗教的な意味合いしか持たない地名です」

 だが、石の地図を見上げるカナンの瞳には、エデンはただの幻想とは映っていなかった。

「でも、エデンの物語が幻想だとしても、エデンという土地があったことは紛れも無い事実です。かつてそこに大勢の人々が暮らしていたことも、その生活を支えるだけの力を持っていたことも」

「……あんた、まさか」

 カナンは地図を見上げたまま、無言でうなずいた。


「私の旅の目的は、エデンを見つけ出し、そこに辿り着くこと。そして、歴史でも幻想でもない、本当の楽園を造り上げることです」

「闇渡りのイスラと蒼炎の御子」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く