闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第四節/祝福の押し売り】

 意識が戻った時、イスラは完全に包囲されていた。五十人ほどの兵士が槍を構えて彼を取り囲み、その後ろ側には騒ぎを聞きつけて出てきた城壁の住人たちがたむろしている。イスラの二振りの刃は、ともにギデオンの手中におさまっていた。

 万事休す、打つ手なしか……そう思ったが、何故か彼らは手を出してこない。ギデオンでさえ渋面を浮かべて彼を見下ろしている。

 イスラの頭は、あの少女の膝の上にあった。

 日に焼けた顔が心配そうに覗き込んでいる。優しい手つきでイスラの黒い髪の毛を掻き分け、剣の柄尻で殴られた痕に手をかざす。

 額に不思議な温かさを感じた。痛みが和らぎ、緊張がほぐれていく。傷口から流れ込んでくる不可思議な力が、脱力していた彼の身体に再び起き上がるだけの活力を与えた。

「大丈夫ですか?」

「あ、ああ……」

 イスラは上半身を起こした。まだ眩暈が残っているが、痛みはほとんど消えている。自分の身に何が起きたのか分からず、さしもの彼も呆然としてしまった。

「ごめんなさい、ギデオンと戦わせる羽目になってしまって……」

「掟に従ったまでだ。……まあ、さすがにもう、どうしようもなさそうだが」

 何とかならないかと視線を巡らせるが、ギデオンが睨みを利かせている以上、見逃してくれることはなさそうだ。
 彼女の肌の色から察するに、恐らくは祭司の息女なのだろう。屋敷や祭事が嫌で逃げ出してきた、というところか。彼女は叱られるくらいで済むかもしれないが、俺は城壁に吊るされるかもしれないな……と、他人事のようにイスラは考えていた。

「フフ、律儀なんですね。でも、あなたが私に恩義を感じることなんて無いんですよ?」

「言っただろ。あんたは俺を飯に誘ってくれた」

「そんなこと、恩義のうちに入りません。人間同士の、当然の営みですよ」

 だから、と少女は続けた。

「私はあなたに対して負債があるわけです。そして、今私があなたに与えられるものは一つしかない……」

 少女は懐に手を入れて小さな小瓶を取り出した。中には黄金色の液体が入っている。それの正体に気付いたギデオンが制止の声を上げる。

「……おやめください。悪ふざけが過ぎます」

「ふざけてなどいませんよ、ギデオン。私は本気です」

 その言葉を証明するかのように少女は蓋を開け、右手を液体に浸した。漂ってきた香りがオリーブのものであると気付いた瞬間、全ての疑問が連鎖的に弾けていった。

「申し遅れました。私は大祭司エルアザルの次女、名をカナンと言います。闇渡りの子、イスラ。どうか、私の守火手もりびてとなってください」

 その場に居合わせた全ての人間が凍り付いた。イスラとて例外ではない。

 ただ一人、カナンだけが、右手を伸ばして彼の答えを待っていた。

「……待て。あんた、俺が誰だか分かっているのか?」

「もちろんです。私は酔ってはいませんよ……絶対に、あなたでなければならない」

 ―――こいつは本気だ、とイスラは確信した。

 天火アトルを信仰の対象とする都市においては、火を強める油も同様に聖なるものとして扱われる。わけてもオリーブから作られた油は祭儀以外で使うことを禁じられている。軽々しく開けて良いものではない。

「それを塗られたら、俺はどうなるんだ?」

「私の選んだ守火手もりびてとして、責務を全うしてもらいます。ついでに、色々と豪華な特典もついてきますよ?」

「冗談じゃない! そんな面倒な地位モノはいらねえ!」

 イスラはその場から逃げようとするが、カナンの飛びかかる方が速かった。イスラを押し倒すやいなや、即座に馬乗りになって右手を頭に押し付けようとする。

「お、おい! お前ら、見てないで助けろ!」

 よく言ったぞ闇渡り、とギデオンが二人を引き離すよう命じるが、油はもうカナンの手首まで垂れてきていた。
 つるりと手が滑って、誰もが唖然とするなか、イスラの頭にカナンの右手が置かれた。

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