闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第一節/闇渡りの少年】

 煌都エルシャは、年に一度の「継火の祭」を迎え賑わっていた。

 都の中央には巨大な大燈台ジグラートが聳え立っている。その入り口より伸びる大階段から、今しがた儀式を終えてきたばかりの継火手つぎびてたちが列をなして降りてくる。

 燈台の周りを取り囲む広大な麦畑には物見櫓や露天が立ち並んでいる。行列を観に集まってきた客に向かって売り子たちが声を張り上げていた。だが、多くの者は大通りを進む継火手たちにくぎ付けになっていた。

 少女たちは人々の視線を浴びながら悠然と戦車に乗り込み、天火アトルを宿した杖を掲げてエルシャの市内を巡る。

 彼女らが聖なる炎を燃え上がらせ光を浴びせかけるたびに、人々の間から歓声があがった。少しでも多くの加護を得るために大通りへと殺到するが、そこから先へ踏み込もうとすると容赦なく衛士に叩きのめされる。

 街道沿いに出来上がった人々の列はエルシャの城壁と接した貧民街まで伸びていた。

 治安の悪い区域であるため、堅気の者はあまり立ち寄ろうとしない。だが祭の日だけは例外だった。大っぴらに酒を飲むことが許されているせいか、地位や職業の分け隔てなく、誰もが解放的で寛容な気分に浸って酒をあおっている。



 それでも、『燃える柴亭』に一人の闇渡りが入って来た時、喧噪が嘘のように掻き消えた。



 誰もが忌み嫌う夜闇にも似た色の外套を纏い、その下に吊るした数種類の刃物の音を響かせながら、少年はカウンターまでゆっくりと歩いていく。

 フードから覗く顔立ちは精悍だが、同時に年相応の若さも感じさせる。乱れた黒い髪の下に満月のような金色の瞳が隠れていた。その眼光は夜鷹のように鋭く険しい。

 だが何よりも特徴的なのは、外套と全く対照的な肌の色と、その上に刻み込まれた無数の傷痕だった。

 煌都の外……神のもたらした夜の中で生きる闇渡りたちは、定住した人々のように光を浴びることがないためどんどん肌が白くなっていく。また、硬質化した森の枝葉や、闊歩する夜魔たちとの戦闘によって傷を負っている者がほとんどだ。都市に住む人間は簡単に見分けることが出来る。

 顔にも大小様々な傷が刻まれていた。特に目立つのは左側の頬に刻まれた三本の爪痕で、彼の顔に歳にそぐわない凄みを与えていた。異貌と言っても良いだろう。それが人を遠ざけている。

 カウンターの前に少年が立つと、それまで軽快に客と話し込んでいた中年の店主は蛇でも見つけたかのように後ずさった。

「パンと麦酒ビラー一杯。あと、煮物も欲しい」

「……うちは」

 断ろうとする店主の機先を制し、少年は懐から蒼い鉱石を取り出して机に叩きつけた。

「ベテル火山で見つけた瑠璃の原石。この大きさなら装飾品にも使える。相場通りに売れば麦酒ビラー一樽でもお釣りが来るよ。もちろん釣りはいらない」

 予期せず提示された報酬に思わず店主は手を伸ばしそうになった。その指が触れるかどうかというところで、闇渡りの少年は瑠璃を拾い上げ、手の平の上で弄んだ。ハッとした店主が店中を見渡すと、どの客も二人の取引の成り行きを見守っている。

「食い物が先だ」

「……分かった。だが、うちは真っ当な客のための店だ。闇渡りは闇渡りらしく、人目につかない所で済ませろ。あそことかな」

 そう言って店主は店の奥にある扉を指さした。
 扉には白字で「厠」と書かれていた。

 客の間から忍び笑いが漏れるが、少年は意に介さなかった。落胆も怒りも見せず、出された粗末な料理と瑠璃の原石を交換した。

 こういう仕打ちには慣れていた。闇渡りとはそういうものだ。

 かつて神が世界を闇で包んだ時、都市から追放された犯罪者たちの末裔である彼らは、生まれた時から罪人として扱われる宿命を背負っている。それは決して外すことの出来ないくびきだ。

 だから、あらかじめ世界に対して絶望しておけば良い。そうすれば楽に生きていける。
 多くの闇渡りがそう考えるように、少年もまた世界に対して何も求めてはいなかった。

 だから、


「もし。闇渡りの方。よければ、私と食事を御一緒してくださいますか?」


 呼び止められた時、少年は何と言われたのか分からなかった。ドアノブに手を掛けたまま固まってしまうほど衝撃的で、あやうく麦酒ビラーの入ったコップを落としそうになってしまった。

 声の主は酒場の隅の暗がりに座っていた。一見すると乞食のようで、全身を貧乏臭いローブに包み、顔もすっぽりと覆い隠している。テーブルに置かれた料理も、少年が注文したものと同じくらい貧相だった。

「祭の日に一人だけで食事をするのは、少し寂しいので」

 美しく透き通った声だった。落ち着いた口調で、話し方にも品がある。衆目は一斉に少年とローブの人物に向けられた。
 もちろん好意的な視線ではない。場が白けてしまったと誰もが思っていた。少年ですら、わざわざ厄介ごとを背負いこもうとするこの人物が妙に思えてならない。

 だが逡巡の末、少年はローブの人物の向かい側に座った。

「ありがとうございます、わざわざ付き合ってもらって」

「構わない。あんたの言う通り、祭の日に一人きりで飯を食うのは、ちょっとやるせないからな……俺はイスラ、闇渡りの子のイスラだ」

「見ての通り、ですね」

「闇渡りを見るのは初めてか?」

「いえ。でも、数年ぶりです」

「そうだろうな。こんな大きな街には、普通は近寄らない。嫌われてるって知ってるからな」

 少年―――イスラは麦酒ビラーを一息に飲み干し(もとより大した量ではなかったが)、木屑を集めて作ったような硬いパンを煮物の中に浸した。
 パンは粉と水だけで作られたもので、酵母すら使っていないため皿のように薄く、従って見た目も味も悪い。煮物は鶏の骨付き肉を中心にニンニク、カブ、ニンジン、玉ねぎを放り込んで塩で味付けしたものだった。
 薄味のスープに浸すと、硬かったパンも少しだけ柔らかくなった。それでも口を動かすと砂を噛むような音がする。

「どうしてエルシャに?」

「特に理由は無い。たまたま立ち寄ったら祭をやっていたってだけだ……正直、継火の祭と言われてもピンと来ないな。こんなに賑やかな光景を見るのは初めてだけど」

 二人の座っている席には丸い小窓があって、そこから外の様子を窺うことが出来た。まだ継火手を乗せた戦車が通りかかっていないにも関わらず、表には人だかりが出来上がっている。

「今日の祭は、新しい継火手の祝福と、彼女たちを護る守火手もりびての任命を兼ねているんです。今年で十八歳になった継火手たちを戦車に乗せて、街を一周した後に各々が守火手を選びます」

「それなら聞いたことがある。自分の仕えたい人間に選ばれるために、武芸を競うんだってな」

「ええ。その決闘が賭けの対象になったりもしているようですよ。まあ、それを抜きにしても随分華やかですから、皆が夢中になるのも分かります」

「へえ……」

 そうこうするうちに、継火手たちを乗せた戦車が徐々に店の前へと近づいてきた。通りが賑わうにつれて酒場に居た男たちも立ち上がり、窓に張り付いて外の様子を見ようとする。イスラはちらりと相手の方に目をやったが、興味を抱いているようではなかった。

 イスラも、継火手たちより目の前の人物に興味があった。だから、一つ質問を投げかけてみた。

「どんな娘が人気なんだ?」

「もちろん家柄の良い継火手が優先的に選ばれますよ。大祭司の娘ともなると、志願者は百人近くまで膨れ上がります。そんな人に守火手に選ばれたら、栄達は思うがままですからね」

「へぇ……俺には想像もつかないな。下手に偉くなったら、余計な厄介事をどんどん背負い込むことになると思うけど」

「私もそう思います……偉くなったら、それに伴う責任も一緒に負わなければならない。そのことをどの程度の人達が理解しているか……」

「なあ、あえて一番人気を挙げるとしたら、誰になる?」

 イスラは相手の言葉を遮って言った。「興味がありますか?」と返される。

「せっかくエルシャの祭に来たんだ。一番良い山車だしを観ていくのも、悪くない」

 イスラがそう言うと、相手はクスクスと笑った。表情は見えないが、どうやら苦笑しているようだった。

山車だしですか……やっぱり、大祭司エルアザルの長女、ユ」

 言葉は中断された。酒場の扉が乱暴に押し開けられ、武装した兵士達がなだれ込んできた。とても一杯ひっかけに来たという雰囲気ではない。

「全員、その場から動くな!」

 兵士の一人が怒鳴ったが、イスラが入って来た時のように静まり返ることはなかった。槍の穂先に反射した光が一瞬気勢を削いだものの、祭の邪魔をされたという怒りを抑えきれるほどではなかった。「お前らこそ何だ!」「良いとこなんだ、邪魔すんじゃねえ!」「横暴だぞ!」次々と抗議の声が上がる。酒で気分が大きくなっているせいかもしれない。

「お前ら都軍には、俺たちに武器を向ける権利があるのかよ!?」

「争いに来ているのではない」

「ならとっとと引っ込め!」

 酔漢の一人が兵士の胸倉をつかんで突き飛ばした。他の兵士たちが剣に手を掛けるが、椅子や棒切れを構えた倍以上の客に取り囲まれて抜くに抜けない。

 客はじりじりと包囲網を狭めて兵士達を入口へと押し戻していく。兵士達は完全にすくみ上っていて、今にも逃げ出しそうな有様だ。
 その時、兵士たちを押しのけて一人の若い男が店のなかへ入って来た。黒を基調とした威圧的な服装は、他の人間の着ているものと明らかに質が異なっている。

「何を手間取っている。貴様らは人探しも満足に出来んのか」

「ハッ……しかし、貧民たちは非協力的でありまして……」

「ならば協力させれば良いだろう。手本を見せてやる」

 そう言うなり、男は携えていた剣の柄で一人の客の鼻面を強かに殴りつけた。それだけにとどまらず、うずくまった客を蹴り倒し、兵士からひったくった槍の石突で散々に痛めつけた。

 誰も手を出そうとはしなかった。あまりに容赦の無い仕打ちに呆気に取られてしまったこともあるが、相手が軍人階級の人間であることに気付いたからだ。

 煌都は厳格な階級制度によって支配されている。そうしなければ、都市そのものを維持出来ないからだ。
 これを無視した者は、ただちに都市の外へと追放される。身一つで、獣や夜魔の闊歩する世界に。事実上の死刑宣告である。

 故に、誰も手を出せないでいた。兵士たちでさえ困惑している。ただ一人、男だけが喜悦の混じった表情で執拗に暴力を振るい続けていた。

「れ、レヴィン殿、これ以上はさすがに……」

「そうやって手心を加えるから侮られるのだ! 下級民には分からせてやらねばなるまい!」

「しかし!」

「権力にッ! 盾突こうとッ! するからッ……!」

 とどめの一撃とばかりに男は槍を持ち上げ、芋虫のように丸まった客の首目がけて振り下ろした。

 だが、槍が骨を砕くことはなかった。

 横合いから伸びた手が槍の柄をしっかと握り、押し止めている。

「なあ、あんた。悪酔いでもしてるのか?」

「き、貴様……!?」

 レヴィンと呼ばれた男は槍を動かそうとするが、びくともしない。少年の手は万力のように槍を押さえつけている。

「酔い覚ましに一つ、格言をやるよ」

 握られた部分から槍が軋み始める。だが武器を失うことを恐れたレヴィンは、手放すに手放せない。
 その臆病さを見抜いた少年は、口元を吊り上げ言った。



「大酔漢のダン曰く、過ぎた狼藉ろうぜきは殴って止めろ……ってな!」



 片手で槍をへし折るのと同時に、闇渡りのイスラは全力で拳を振るった。

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