絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~
第三百四十六話 蜘蛛の糸(前編)
マーズ・リッペンバーは交番に居た。理由は単純明快、現実と乖離している恰好をしていたからである。普通はコスプレの類かと思われるかもしれない。しかしそれも時と場合による。実際問題、マーズ・リッペンバーの恰好をどう思うかと言われれば、この世界の感性からしてみれば、それは間違いであると言えるだろう。少なくとも、この時間にうろつく人間が着ていい恰好では無い。
交番に居る警察官は欠伸を一つして、調書を取っていた。調書と言っても、個人情報や何をしていたかなどを記載して、それによって判断を下すものである。大抵はそのまま返すのだが、今回は違った。
あまりにもマーズの恰好が奇特だったのか、或いは警察官の勘というものが働いたのか、このまま彼女を置いておこうという結論に至ったのである。ほんとうならば、直ぐにでも署に送り届けたいところだが、もう時間も遅く、今そこに居る彼だけが交番を守っている形になる。彼がマーズを送り届けたところで、交番がすっからかんになってしまっては話にならない。だから彼女と時間を潰すしかないわけだった。
「ねえ、どうして早く出してくれないの? 私は早く元の世界に戻りたいのよ!」
「はいはい、元の世界ねえ。そんなもの、ほんとうにあるのかい? あるのなら僕だって移動したいものだよ。最近は退屈で……。もっと何か面白いことがあればいいのに、って思うよ。LTEやインターネットが発展したせいかもしれないが、世界の情報をこの手のひらにある端末で集めることが出来る。普通に考えれば素晴らしいことなのかもしれないが、平和そのものが愛しいと思う人間も居れば、平和に飽きが来ている人間だっているわけだ。君はどう思う?」
「私ですか……。私は平和が好きですね。やはり、戦うのは良くないですよ」
自分はいったい何を話しているのだろう――と思った。急いでこの世界の存在を調べなくてはならないのに、このような世間話をしていること自体時間の無駄であることは理解していた。
「あの、ですから……。出していただけないでしょうか?」
「だめだ。そもそも君は身分証を出していないだろう。それで身分を確認しないと、ダメだ」
「身分、ねえ……」
そもそもポケットが無いスーツなので、身分証なんてあるはずもなかった。
というより、どうしてこの二人は言葉が通じているのだろうか?
マーズもそれは不思議なところだと考えていたが、あまり考える必要も無いと思った。考えたところで何かが生まれ何かが解決するとは思えないからである。
「そうだ、身分だよ。それが明らかにならない限り、私は君をここから出すことは出来ない。それくらい解ってもらえないだろうか」
出す気が無いことくらい、マーズにも解っていた。
だからここからどう脱出するか――それが一先ずの課題となっていた。
「いいから! 早くここから出してください。そうじゃないと、大変なことに……」
「そう何度も言っているけれど、警察だって君の戯言を対応する暇なんて無いの。解る? いい年齢して、そんなぴちぴちの服着てさ、何がしたいのか解らないけれど、東京だって平和な街では無いのだよ? たとえば麻薬の売買、或いは売春、果てには強姦だってありうる。……まあ、さすがに最後は言い過ぎだけれど。東京という街が、治安の良さで有名とか、けっしてそういうわけでは無い。東京もほかの都市に例が漏れず、ただの街だということだよ」
「だから、そういうことではなくて……」
「失礼する」
二人の会話に割り入ったのは、大男だった。
交番の入り口程はあるかと思われる身長の男は、少し屈みながら中へと入っていた。夏の暑い時期であるというのに、白いトレンチコートを着ていた。
変な男だな、とは警官も思ったが、それ以上は何も考えず、立ち上がる。
「どうかなさいましたか?」
「彼女の保護者だ」
それを聞いて一番に驚いたのはマーズだった。当然だ、右も左も解らないこの世界で保護者なんているわけがない。だから、それは嘘であるとすぐに解った。
(敵なのか、味方なのか……?)
マーズは考え、そちらを見る。
大男はマーズの視線に気づき、ウインクする。
(一先ず、信じていい……ってことか?)
マーズは思った。
大男は話を続ける。
「わたくし、こういう者でして」
下手に出て、警察官の警戒を少しずつ解いていく。
警察官は男が渡した名刺を受取る。
「……やや、同業の方でしたか。ならば、問題ありません」
敬礼をして、マーズに近寄る。
「君も人が悪い。同業と知り合いならば早めに言ってくれればいいものを。おかげでこんなに時間がかかってしまった」
「……ええ、それは、申し訳ないわ」
そしてマーズは交番から解放された。
時刻は午前一時。もう夜も深いが、未だ車も人も疎らに居る。東京は眠ることのない街だ。ネオンサインが夜中ずっと点いているし、深夜でも自転車や車が往来している。
その道路を走る一台の黒塗りの車。それにマーズと大男は乗っていた。
マーズは窓から見える景色を眺め、改めてこの世界が彼女の生きてきた世界とは違うことを実感した。
「……未だ理解できていないだろうが、そろそろ自己紹介といこうか」
言葉を切り出したのは大男の方からだった。
大男はトレンチコートを脱いでいて、黒いカーディガンを着用していた。それでも暑そうに見えるが、大男は暑がる様子を見せていない。
マーズは大男の様子を観察する。
大男は茶髪で、鬣のようにぐるりと彼の輪郭を覆っていた。眼鏡をかけており、その中から蒼い目が窺える。少なくとも、見た限りでは恐ろしい人間ではなさそうだ――マーズはそう認識した。
「どうやら、私のことを味方だと認識してくれたようだね」
大男は溜息を吐く。
「何を言っているの。未だ私はあなたを信頼したつもりはない。だって、誰も味方が居ない世界に一人放り投げられて、『私は味方だ、信用しろ』と言われて信用する方がおかしな話でしょう? それはきっと、あなたの世界でも同じ価値観であると認識しているのだけれど」
「それもそうだ」
ニヒルに笑みを浮かべる大男。
車は右に曲がり、建造物の中へと入っていく。スロープを降り、地下の駐車場に車が停車した。
「降り給え。自己紹介はまた後で行うことにしよう」
「……ここは?」
マーズの質問に大男は答える。
「君を匿う場所だ。安心してくれ、ここには味方しかいないし、秘密も当然守る」
そう言って、大男は車の外に出る。
少し考えてマーズもその後を追った。
◇◇◇
警察庁神霊事象調査課第一倉庫。
それがその場所の名称だった。マーズは大男から軽い解説を受けるが、そんなこと聞いても理解できなかった。具体的には専門用語が多かった――ということだろうか。
「ここは警察庁という場所だ。ええと、君たちのいた世界ではなんと言えばいいのか……。治安維持部隊? いいや、そうじゃないな。でも、それが一番近いのかもしれないな……」
と、そんなことをぶつぶつ話しながら大男は歩いていた。マーズは俯きながら――正確には考え事をしながら歩いていた。
この世界から自分は戻ることが出来るのか。
それが彼女にとっての最重要課題だった。
そもそも戻ることが出来るのか?
戻るためにはどうすればいいのか?
思いが彼女の中で揺らいでいく。そしてその中心にはいつも――崇人が居た。
「着いた」
大男の言葉を聞いて、マーズは立ち止まる。
そこは会議室のような部屋だった。とはいえ、その広大な部屋に居る人間は一人だけ。
小柄な青年が座っていた。年齢は解りづらいが、おそらくマーズより年下。しかしながら、その纏っているオーラは完全に彼女よりも年上だ。
青年はマーズが入ってくるのを見て、笑みを浮かべる。
「はじめまして、マーズ・リッペンバーさん。僕の名前は信楽瑛仁。この神霊事象調査課……長いから僕たちは『虚数課』って呼んでいるけれど、その課長をしているよ。どうぞよろしく」
交番に居る警察官は欠伸を一つして、調書を取っていた。調書と言っても、個人情報や何をしていたかなどを記載して、それによって判断を下すものである。大抵はそのまま返すのだが、今回は違った。
あまりにもマーズの恰好が奇特だったのか、或いは警察官の勘というものが働いたのか、このまま彼女を置いておこうという結論に至ったのである。ほんとうならば、直ぐにでも署に送り届けたいところだが、もう時間も遅く、今そこに居る彼だけが交番を守っている形になる。彼がマーズを送り届けたところで、交番がすっからかんになってしまっては話にならない。だから彼女と時間を潰すしかないわけだった。
「ねえ、どうして早く出してくれないの? 私は早く元の世界に戻りたいのよ!」
「はいはい、元の世界ねえ。そんなもの、ほんとうにあるのかい? あるのなら僕だって移動したいものだよ。最近は退屈で……。もっと何か面白いことがあればいいのに、って思うよ。LTEやインターネットが発展したせいかもしれないが、世界の情報をこの手のひらにある端末で集めることが出来る。普通に考えれば素晴らしいことなのかもしれないが、平和そのものが愛しいと思う人間も居れば、平和に飽きが来ている人間だっているわけだ。君はどう思う?」
「私ですか……。私は平和が好きですね。やはり、戦うのは良くないですよ」
自分はいったい何を話しているのだろう――と思った。急いでこの世界の存在を調べなくてはならないのに、このような世間話をしていること自体時間の無駄であることは理解していた。
「あの、ですから……。出していただけないでしょうか?」
「だめだ。そもそも君は身分証を出していないだろう。それで身分を確認しないと、ダメだ」
「身分、ねえ……」
そもそもポケットが無いスーツなので、身分証なんてあるはずもなかった。
というより、どうしてこの二人は言葉が通じているのだろうか?
マーズもそれは不思議なところだと考えていたが、あまり考える必要も無いと思った。考えたところで何かが生まれ何かが解決するとは思えないからである。
「そうだ、身分だよ。それが明らかにならない限り、私は君をここから出すことは出来ない。それくらい解ってもらえないだろうか」
出す気が無いことくらい、マーズにも解っていた。
だからここからどう脱出するか――それが一先ずの課題となっていた。
「いいから! 早くここから出してください。そうじゃないと、大変なことに……」
「そう何度も言っているけれど、警察だって君の戯言を対応する暇なんて無いの。解る? いい年齢して、そんなぴちぴちの服着てさ、何がしたいのか解らないけれど、東京だって平和な街では無いのだよ? たとえば麻薬の売買、或いは売春、果てには強姦だってありうる。……まあ、さすがに最後は言い過ぎだけれど。東京という街が、治安の良さで有名とか、けっしてそういうわけでは無い。東京もほかの都市に例が漏れず、ただの街だということだよ」
「だから、そういうことではなくて……」
「失礼する」
二人の会話に割り入ったのは、大男だった。
交番の入り口程はあるかと思われる身長の男は、少し屈みながら中へと入っていた。夏の暑い時期であるというのに、白いトレンチコートを着ていた。
変な男だな、とは警官も思ったが、それ以上は何も考えず、立ち上がる。
「どうかなさいましたか?」
「彼女の保護者だ」
それを聞いて一番に驚いたのはマーズだった。当然だ、右も左も解らないこの世界で保護者なんているわけがない。だから、それは嘘であるとすぐに解った。
(敵なのか、味方なのか……?)
マーズは考え、そちらを見る。
大男はマーズの視線に気づき、ウインクする。
(一先ず、信じていい……ってことか?)
マーズは思った。
大男は話を続ける。
「わたくし、こういう者でして」
下手に出て、警察官の警戒を少しずつ解いていく。
警察官は男が渡した名刺を受取る。
「……やや、同業の方でしたか。ならば、問題ありません」
敬礼をして、マーズに近寄る。
「君も人が悪い。同業と知り合いならば早めに言ってくれればいいものを。おかげでこんなに時間がかかってしまった」
「……ええ、それは、申し訳ないわ」
そしてマーズは交番から解放された。
時刻は午前一時。もう夜も深いが、未だ車も人も疎らに居る。東京は眠ることのない街だ。ネオンサインが夜中ずっと点いているし、深夜でも自転車や車が往来している。
その道路を走る一台の黒塗りの車。それにマーズと大男は乗っていた。
マーズは窓から見える景色を眺め、改めてこの世界が彼女の生きてきた世界とは違うことを実感した。
「……未だ理解できていないだろうが、そろそろ自己紹介といこうか」
言葉を切り出したのは大男の方からだった。
大男はトレンチコートを脱いでいて、黒いカーディガンを着用していた。それでも暑そうに見えるが、大男は暑がる様子を見せていない。
マーズは大男の様子を観察する。
大男は茶髪で、鬣のようにぐるりと彼の輪郭を覆っていた。眼鏡をかけており、その中から蒼い目が窺える。少なくとも、見た限りでは恐ろしい人間ではなさそうだ――マーズはそう認識した。
「どうやら、私のことを味方だと認識してくれたようだね」
大男は溜息を吐く。
「何を言っているの。未だ私はあなたを信頼したつもりはない。だって、誰も味方が居ない世界に一人放り投げられて、『私は味方だ、信用しろ』と言われて信用する方がおかしな話でしょう? それはきっと、あなたの世界でも同じ価値観であると認識しているのだけれど」
「それもそうだ」
ニヒルに笑みを浮かべる大男。
車は右に曲がり、建造物の中へと入っていく。スロープを降り、地下の駐車場に車が停車した。
「降り給え。自己紹介はまた後で行うことにしよう」
「……ここは?」
マーズの質問に大男は答える。
「君を匿う場所だ。安心してくれ、ここには味方しかいないし、秘密も当然守る」
そう言って、大男は車の外に出る。
少し考えてマーズもその後を追った。
◇◇◇
警察庁神霊事象調査課第一倉庫。
それがその場所の名称だった。マーズは大男から軽い解説を受けるが、そんなこと聞いても理解できなかった。具体的には専門用語が多かった――ということだろうか。
「ここは警察庁という場所だ。ええと、君たちのいた世界ではなんと言えばいいのか……。治安維持部隊? いいや、そうじゃないな。でも、それが一番近いのかもしれないな……」
と、そんなことをぶつぶつ話しながら大男は歩いていた。マーズは俯きながら――正確には考え事をしながら歩いていた。
この世界から自分は戻ることが出来るのか。
それが彼女にとっての最重要課題だった。
そもそも戻ることが出来るのか?
戻るためにはどうすればいいのか?
思いが彼女の中で揺らいでいく。そしてその中心にはいつも――崇人が居た。
「着いた」
大男の言葉を聞いて、マーズは立ち止まる。
そこは会議室のような部屋だった。とはいえ、その広大な部屋に居る人間は一人だけ。
小柄な青年が座っていた。年齢は解りづらいが、おそらくマーズより年下。しかしながら、その纏っているオーラは完全に彼女よりも年上だ。
青年はマーズが入ってくるのを見て、笑みを浮かべる。
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