絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~
第三百八話 存在証明
ルノーは微笑みながら、怯えるマーズの話を聞いていた。はじめはマーズも突如現れたルノーという存在に疑問符を浮かべていたが、直ぐに慣れた。
「ねえ、ルノー。あなたはどうしてその姿を見せようとしないの?」
「私はあなたの闇、あなたが表であるならば、私は裏の存在と言えるでしょう。しかしながら私が外に体現させてしまうと、あなたの存在が不安定になる。だからこそ、私は体現しないのですよ」
マーズの質問には丁寧に答えるルノー。
ルノーと会話する時、はじめは見られると恥ずかしいものがあったが、三日もすればそんなことは関係ない。寧ろそれを見せつけている。
メリアが彼女の様子を見に来た時は、ちょうどルノーと話をしていたところだった。
「あら、どうしたの。メリア? 今わたし、ルノーと楽しい話をしていたのよ。それはそれは楽しい話でね……あなたも聞いてみる?」
メリアは事前にマーズの様子を聞いていた。だが、これは予想以上に……酷すぎた。僅か数日で人間はここまで壊れてしまうのか、と感心してしまう程だった。
メリアは表情にそれを見せないまま、彼女に問いかける。
「……それじゃ私もルノーの話を聞こうかしら。彼女は今、どこにいるのかしら?」
それを聞いたマーズがきょとんとした表情でメリアを見た。
「……何を言っているのよ、目の前にいるじゃない。目の前に」
「目の前? ……あ、そうだったわね。ごめんなさい」
その後、メリアはマーズとルノーの会話を聞いていたが、最初の予想通り、まったく理解することは出来ず、結局話の途中でリタイアしてしまった。
マーズは精神病を患っている――これはあくまでもその時診断したメリアによる判断だった。
「ほんとう? あはは……やっぱり。大変だよねぇ、あなたも解る?」
「そうなのよ。もう疲れているの。……そういうことばっかりやっているとね、自ずと疲れてきちゃうのよね」
その言葉、その凡てが『彼女が脳内に構成している』少女との会話から抽出したものであった。
「はっきり言って……結果だけを述べられてそこを治せと言われても難しい。人間の身体は数え切れない程の歯車が支えている。その一つが壊れているとしたら? 連鎖的反応を起こし、どこまで治せばいいのか簡単に解らなくなる。……さらに言えば、歯車が回らなくなったらもう終わりだと思えばいい。幾つかのバイパスが用意されているとは思いたいが……歯車のルートは基本的に一つだ。そう簡単に治すことなど出来ない。要するに、もし治すのであれば、人間そのものを一から、尚且つ全体的に治す必要があるのだろうな」
とどのつまり、お手上げということだ。これ以上することなど何もない。時間が過ぎ去るのを、待つしかない。――メリアの結論はそういうことだった。
そしてそれで一番甘い汁を吸うことが出来るのは――紛れも無い、フィアット・レンボルークだった。今彼は、かつてマーズが座っていた席に腰掛け、優越感に浸っている。
「……いやあ、それにしても助かりましたよ。あの状況でマーズさんがあんなことを口にしてくれて」
フィアットの隣に居るのは彼の秘書であるクライムだ。クライムは紅茶を注ぎながら、フィアットの話を聞いている。
「知っていたのですか? テロリストとマーズ・リッペンバーが繋がっていたというのは」
「そもそも彼とマーズは結ばれる寸前だったのだろう? 無論、その時は年齢という壁があったらしいが。僕にとっては愚問だよ。そんな単純な理由で、結婚しなかったなんて! 年齢という壁はほんとうに大変なものだね。少しは同情するよ、嘘だけれど」
「はは、面白いジョークですな。そのようなことを言えるのは、フィアット様だけでございますよ」
「……ところで、『騎士団』はどうした?」
トーンを変え、彼が訊ねる。
クライムはそれを聞いて同じくトーンを合わせる。
「騎士団は突然の逮捕に驚いているようですが、現在は業務を再開しております。特に問題は無いかと。また、反逆者が出る様子もございません。現時点では」
「成る程、ならばよい。ありがとう、クライム」
そう言ってクライムが注いだ紅茶を一口啜る。紅茶はちょうどいい――だいたい人肌くらい――温度に調整されていた。だから、ゆっくりと飲むことが出来る。
「相変わらずクライムの淹れる紅茶はうまいよ。流石だ」
「もったいないお言葉、有難き幸せでございます」
首を垂れるクライム。それを見てフィアットは正面のスクリーンの方を向いた。
正面のスクリーンには、ある場所が映し出されていた。
インフィニティがあった場所――倉庫である。今はがらんどうとなっているが、しかし彼はそこに着目していた。
そこにあるのはインフィニティの残存エネルギー。
僅かなエネルギーではあるが、そこから復元すれば……。
「……何か、考え事をしてなさるのですか」
クライムは呟く。それを聞いたフィアットは我に返った。
「そうだよ。急いで、工廠に居るメリア女史を呼び寄せろ。大至急頼みたいことがある、とね」
「ほう。何かあるのですね?」
「ああ、これから始まる『戦争』に備えなくてはね」
そしてクライムとフィアットの会話は終了した。
◇◇◇
「マーズはどうして捕まっちまったんだよ……」
ヴィエンスはそう言って俯いていた。
ハルとダイモスは未だ帰還していない。なので、今は彼にとっての休息の時ともいえる。ほぼ彼らと同じ生活を送っているヴィエンスにとって、休息の時はこういうタイミングでしかあり得ないのである。
「きっと彼女にも、彼女なりの矜持ってものがあるのですよ」
言ったのはシンシアだった。
シンシアはコーヒーカップを二つ持っていた。カップからは湯気が出ており、コーヒーのいい香りが引き立つ。
それを一つヴィエンスに手渡し、彼女はその隣に腰掛ける。
「済まないね、コーヒーを淹れてもらって」
「別に。……それに、マーズさんが逮捕されて不安なのは私も同じですから」
シンシアはコーヒーカップを両手で持ちながら――ちょうど手を温めるような構図になっている――呟く。
ヴィエンスはシンシアの心境を知っている。彼女がどうしてここを志願したかも知っている。だからこそ、彼はそれ程強く言えないのである。寧ろ、ここまで強くいられる彼女のほうが違和感を覚えるのだ。
「……もしかして、私を心配しています? どうしてこのように元気でいられるのだろうか、とか。そんなことを想っていますか?」
「い、いや。そんなことは……」
――思っていない、と言いかけたところで嘘はいけないと思ったらしく、咳払いを一つ。
「いや、済まない。確かに思った。君に悪いことをした。そう思ったよ」
「正直なことはいいことだと思いますよ」
シンシアは言った。
ヴィエンスは彼女の表情を見る。彼女は笑っているでもなく、ただどこか遠くを眺めていた。
「確かに私は十年前……正確に言えば、十一年前になるのでしょうか。姉を失いました。その時の母の泣き崩れた風景は今でも忘れることが出来ません。目に焼き付いてしまった、と言ってもいいでしょう。しかしながら、母は彼を許していました。母は騎士団を許していました。ですから、私は母のいいつけを無視して恨みを晴らすことなんて出来ません。強いて言うならば……」
「言うならば……?」
「タカト・オーノは姉が死んでいくさまを目の前で見たと聞きます。そして、姉は近付くなとも言ったらしいのです。即ち、姉が救った命とも言えるでしょう。そんな彼が、あんな弱気でいてもらっては困るのです。姉が救った命なのですから……姉の分も生きてほしい、と私は思うのですよ」
そう、彼女は言った。
彼女の名前は、シンシア・パロング。
かつて崇人の目の前で死んだ女性、エスティ・パロングの妹である。
「ねえ、ルノー。あなたはどうしてその姿を見せようとしないの?」
「私はあなたの闇、あなたが表であるならば、私は裏の存在と言えるでしょう。しかしながら私が外に体現させてしまうと、あなたの存在が不安定になる。だからこそ、私は体現しないのですよ」
マーズの質問には丁寧に答えるルノー。
ルノーと会話する時、はじめは見られると恥ずかしいものがあったが、三日もすればそんなことは関係ない。寧ろそれを見せつけている。
メリアが彼女の様子を見に来た時は、ちょうどルノーと話をしていたところだった。
「あら、どうしたの。メリア? 今わたし、ルノーと楽しい話をしていたのよ。それはそれは楽しい話でね……あなたも聞いてみる?」
メリアは事前にマーズの様子を聞いていた。だが、これは予想以上に……酷すぎた。僅か数日で人間はここまで壊れてしまうのか、と感心してしまう程だった。
メリアは表情にそれを見せないまま、彼女に問いかける。
「……それじゃ私もルノーの話を聞こうかしら。彼女は今、どこにいるのかしら?」
それを聞いたマーズがきょとんとした表情でメリアを見た。
「……何を言っているのよ、目の前にいるじゃない。目の前に」
「目の前? ……あ、そうだったわね。ごめんなさい」
その後、メリアはマーズとルノーの会話を聞いていたが、最初の予想通り、まったく理解することは出来ず、結局話の途中でリタイアしてしまった。
マーズは精神病を患っている――これはあくまでもその時診断したメリアによる判断だった。
「ほんとう? あはは……やっぱり。大変だよねぇ、あなたも解る?」
「そうなのよ。もう疲れているの。……そういうことばっかりやっているとね、自ずと疲れてきちゃうのよね」
その言葉、その凡てが『彼女が脳内に構成している』少女との会話から抽出したものであった。
「はっきり言って……結果だけを述べられてそこを治せと言われても難しい。人間の身体は数え切れない程の歯車が支えている。その一つが壊れているとしたら? 連鎖的反応を起こし、どこまで治せばいいのか簡単に解らなくなる。……さらに言えば、歯車が回らなくなったらもう終わりだと思えばいい。幾つかのバイパスが用意されているとは思いたいが……歯車のルートは基本的に一つだ。そう簡単に治すことなど出来ない。要するに、もし治すのであれば、人間そのものを一から、尚且つ全体的に治す必要があるのだろうな」
とどのつまり、お手上げということだ。これ以上することなど何もない。時間が過ぎ去るのを、待つしかない。――メリアの結論はそういうことだった。
そしてそれで一番甘い汁を吸うことが出来るのは――紛れも無い、フィアット・レンボルークだった。今彼は、かつてマーズが座っていた席に腰掛け、優越感に浸っている。
「……いやあ、それにしても助かりましたよ。あの状況でマーズさんがあんなことを口にしてくれて」
フィアットの隣に居るのは彼の秘書であるクライムだ。クライムは紅茶を注ぎながら、フィアットの話を聞いている。
「知っていたのですか? テロリストとマーズ・リッペンバーが繋がっていたというのは」
「そもそも彼とマーズは結ばれる寸前だったのだろう? 無論、その時は年齢という壁があったらしいが。僕にとっては愚問だよ。そんな単純な理由で、結婚しなかったなんて! 年齢という壁はほんとうに大変なものだね。少しは同情するよ、嘘だけれど」
「はは、面白いジョークですな。そのようなことを言えるのは、フィアット様だけでございますよ」
「……ところで、『騎士団』はどうした?」
トーンを変え、彼が訊ねる。
クライムはそれを聞いて同じくトーンを合わせる。
「騎士団は突然の逮捕に驚いているようですが、現在は業務を再開しております。特に問題は無いかと。また、反逆者が出る様子もございません。現時点では」
「成る程、ならばよい。ありがとう、クライム」
そう言ってクライムが注いだ紅茶を一口啜る。紅茶はちょうどいい――だいたい人肌くらい――温度に調整されていた。だから、ゆっくりと飲むことが出来る。
「相変わらずクライムの淹れる紅茶はうまいよ。流石だ」
「もったいないお言葉、有難き幸せでございます」
首を垂れるクライム。それを見てフィアットは正面のスクリーンの方を向いた。
正面のスクリーンには、ある場所が映し出されていた。
インフィニティがあった場所――倉庫である。今はがらんどうとなっているが、しかし彼はそこに着目していた。
そこにあるのはインフィニティの残存エネルギー。
僅かなエネルギーではあるが、そこから復元すれば……。
「……何か、考え事をしてなさるのですか」
クライムは呟く。それを聞いたフィアットは我に返った。
「そうだよ。急いで、工廠に居るメリア女史を呼び寄せろ。大至急頼みたいことがある、とね」
「ほう。何かあるのですね?」
「ああ、これから始まる『戦争』に備えなくてはね」
そしてクライムとフィアットの会話は終了した。
◇◇◇
「マーズはどうして捕まっちまったんだよ……」
ヴィエンスはそう言って俯いていた。
ハルとダイモスは未だ帰還していない。なので、今は彼にとっての休息の時ともいえる。ほぼ彼らと同じ生活を送っているヴィエンスにとって、休息の時はこういうタイミングでしかあり得ないのである。
「きっと彼女にも、彼女なりの矜持ってものがあるのですよ」
言ったのはシンシアだった。
シンシアはコーヒーカップを二つ持っていた。カップからは湯気が出ており、コーヒーのいい香りが引き立つ。
それを一つヴィエンスに手渡し、彼女はその隣に腰掛ける。
「済まないね、コーヒーを淹れてもらって」
「別に。……それに、マーズさんが逮捕されて不安なのは私も同じですから」
シンシアはコーヒーカップを両手で持ちながら――ちょうど手を温めるような構図になっている――呟く。
ヴィエンスはシンシアの心境を知っている。彼女がどうしてここを志願したかも知っている。だからこそ、彼はそれ程強く言えないのである。寧ろ、ここまで強くいられる彼女のほうが違和感を覚えるのだ。
「……もしかして、私を心配しています? どうしてこのように元気でいられるのだろうか、とか。そんなことを想っていますか?」
「い、いや。そんなことは……」
――思っていない、と言いかけたところで嘘はいけないと思ったらしく、咳払いを一つ。
「いや、済まない。確かに思った。君に悪いことをした。そう思ったよ」
「正直なことはいいことだと思いますよ」
シンシアは言った。
ヴィエンスは彼女の表情を見る。彼女は笑っているでもなく、ただどこか遠くを眺めていた。
「確かに私は十年前……正確に言えば、十一年前になるのでしょうか。姉を失いました。その時の母の泣き崩れた風景は今でも忘れることが出来ません。目に焼き付いてしまった、と言ってもいいでしょう。しかしながら、母は彼を許していました。母は騎士団を許していました。ですから、私は母のいいつけを無視して恨みを晴らすことなんて出来ません。強いて言うならば……」
「言うならば……?」
「タカト・オーノは姉が死んでいくさまを目の前で見たと聞きます。そして、姉は近付くなとも言ったらしいのです。即ち、姉が救った命とも言えるでしょう。そんな彼が、あんな弱気でいてもらっては困るのです。姉が救った命なのですから……姉の分も生きてほしい、と私は思うのですよ」
そう、彼女は言った。
彼女の名前は、シンシア・パロング。
かつて崇人の目の前で死んだ女性、エスティ・パロングの妹である。
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