天井裏のウロボロス

夙多史

Section1-4 黒き地獄の猟犬

『よう、紘也少年。俺だよ、俺。わかる?』
「実の息子にオレオレ詐欺とはどういうつもりだよ、親父?」
 開口一番の軽薄な声に紘也は早速げんなりするところだった。父――秋幡辰久は確かロンドンにいるから、時差九時間、向こうは夕方前だろう。この人はそういうことを計算に入れないので、たまに深夜に電話がかかって迷惑しているのだった。
『そうそう実は魔道具の取引に失敗してすんごい赤字が――って違わいっ!』
 紘也は大魔術師である父を受け入れ難く思っているものの、嫌ってはいない。実の父だし、親馬鹿なほど子供のことを考えてくれているのだから嫌う理由がない。寧ろ、母が海外の病院に移送された後も、こうして日本で生活させてくれていることに感謝している。
「で、こんな時間になんの用だ」
『お父様の渾身のノリツッコミはスルーかい。……まあいいけど』
 電話の向こうの悲しげな声色も無視だ。国際電話なのだから手短にしてほしい。
『紘也は知らんだろうけど、実は父さんの実験が最悪の失敗を招いちゃってね。今ちょこっと世界がやばいことになってんのよ。だから当分の間は帰れそうにないから』
「それって幻獣が世界中に召喚されたってやつか?」
『ありゃ? なんで知ってんの? 葛木さんちのゲンちゃんにでも聞いた?』
 ウロボロスの話が本当だったことよりも、その諸悪の根源が父親だったことになんとも言えない気分になる紘也だった。
「いきなり押しかけて来たエセ幻獣から聞いたんだよ。なんか俺を守るとか言ってるめんどくさくて鬱陶しい奴」
 リビングにいる少女の腹の立つ笑みを思い出す。情報を得るならまだ葛木さんちのゲンちゃんとやら――たぶん宗主だと思う――から聞いた方が何倍もマシだった。
『あー、なんだ。もう着いちゃったのか』
「? もう着いたって、どういうことだ?」
『いやね、紘也少年が野良幻獣に襲われて難儀するかなぁ、と思って俺の懐刀を護衛として送ったのよ。連盟の方も総力挙げて幻獣狩りをやってるけどさ、それでも世界全体をカバーすることは難しいんだ。で、明日くらいに着くはずだったから電話したんだけど、必要なかったな』
 ……彼女は父親の契約幻獣だったのか。
 紘也はドアの隙間から明かりが零れている居間の方を見る。連盟指折りの大魔術師が懐刀と言うくらいだ。彼女は嘘偽りなく強い。余裕ぶった態度も頷ける。『ドラゴン』に固執しているところを見るに、それなりのプライドも持っていると思う。だから、父の親馬鹿に付き合わされているなど自分の口から言い難かったのだろう。
 魔術師連盟が関わっているが個人的な問題――その意味がよくわかった。
「まあ、実際に助けてもらったけど、あんた本当に親馬鹿だな」
『ははは、部下にもそう言われたよ。彼女がいる……なら、紘…ガ…安…ガガ…お父様……張っ……ガガガ……』
「悪い、親父、よく聞こえない」
 なにやら音声に雑音が混じって聞き取りづらくなった。移動中、それも電波状況の怪しい場所にでもいるのだろうか。
『て……幻獣狩り……彼女……と……ガ、ガガガガガガガガガガガガ――――――――』
「――ッ!?」
 おかしい。いくら電波が悪くてもここまで雑音が酷くなることはない。国際電話だからか? それとも、あまり考えたくないが、父の身になにか起こったのか……。
 ……いや違う。
 携帯の画面には『圏外』と表示されていた。それは明確な異常を示している。向こうが電波の悪い場所にいるのではない。こちらの環境が変化したのだ。
 プツリ、と通話が途切れる。直後、背後から殺気にも似た重たい気配を感じた。
 弾かれたように振り向くが、玄関へと続く廊下には誰もいない。
 ごくりと生唾を飲み、紘也は殺気の正体を確かめるために薄暗い廊下を歩いていく。
 恐る恐る玄関へと近づいた時、玄関ドアのガラスの向こうに赤い光が二つ灯った。
 刃物のように鋭い光。その正体が『眼』だと気づいた時には既に遅く、そいつは遠雷のような唸りを上げてドアを突き破ってきた。格子を取りつけた防犯ガラスは呆気なく砕け散り、四足獣の影が赤い残光を引いて紘也に襲いかかる。
「なあっ!?」
 携帯を落として硬直する紘也。赤眼の怪物が大口を開く。白く太い牙が剥き出しになり、紘也は悲鳴を上げる暇もなく首から上をもぎ取られ――る寸前、赤眼の怪物は横から突風に煽られたように弾かれた。
 家の壁を破壊し、怪物はその先の部屋を貫通して庭の方まで吹っ飛ぶ。
「紘也くん、こっち!」
 恐らく素手で怪物を殴り飛ばした少女が紘也の手首を掴んで外へと連れ出す。
 住宅街の路地にまで出たところで、彼女――ウロボロスは不満そうに呟いた。
「まったく、紘也くんを襲うんならもっと空気読んでほしいよ。もうちょっとでレベル1のCPUに勝てるとこだったのに」
「お前実はゲーム音痴だろ」
 危機感の欠片もない台詞に、紘也は先程の恐怖も忘れて思わず突っ込んでしまった。
「なにを言うか! あたしゃこれでも幻獣界にその名を轟かすスーパーでウルトラなゲーマーなんですよ!」
「どうでもいいよそんなこと! それより、さっきのあいつも幻獣――」
 ――グルルゥ。
「!?」
 低い、心の奥を抉るような唸り声に紘也の背筋が凍りついた。無音に近い足音を鳴らし、秋幡家の塀を飛び越えて彼の幻獣が姿を現す。
 仔牛より一回りほど大きく、夜闇より暗い体毛をした犬だった。どことなくハイエナに近い姿をしている。不気味に光る赤眼を見ていると、夜に襲われる草食動物の気持ちがわかりそうだ。
 まさに魔獣。ウロボロスがいなければ、紘也は確実にこいつの餌となっていただろう。
 と――
 ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
 純黒の魔獣が咆えたその瞬間、紘也は胃液が逆流してきそうな感覚に襲われた。
「な、ん」
 魔獣の声を聞き、姿を視界に入れるだけで寒気を感じる。あの魔獣は確かにおぞましい。だが、それだけでは説明できない異様なプレッシャーが紘也を押し潰そうとしている。
 わけがわからない。体が打ちつけられたように動かず、手足も震えている。
「あ……が……」
 声を出そうにも、喉がなにかに圧迫されて悲鳴も出ない。このままでは、とてもじゃないが正気を保てそうになかった。
 なんだこれ、体が、おかしい……。
 怖い。そう、あいつが怖い。

 怖い   怖い    怖い   怖い   怖い   怖い       怖い
   怖い    怖い    怖い   怖い   怖い    怖い
     怖い    怖い    怖い   怖い   怖い     怖い

「紘也くん、あいつを見ないで!」
「!」
 ウロボロスの声に紘也はハッとした。彼女の背中と、金細工のように細い金髪を見て、今の自分がどうなっていたのかを思い出す。黒い幻獣を見ているだけで、心臓を鷲掴みにされているような恐怖を覚えていた。精神崩壊の寸前だった。
 ありえない。紘也は魔術側をなにも知らない一般人ではないのだ。異形とはいえ、たかだか黒くて赤眼の犬を見ただけでここまで怯えるほど臆病ではない……はずだ。
「紘也くんはあいつの特性にやられたんだよ」
 紘也の疑問に答えるように、ウロボロスが言った。
「あいつは、自分の姿を見たり声を聞いた相手に〝恐怖〟を植えつけるんだよ。そしてその〝恐怖〟を一気に増幅させ、動けなくなったところで捕食する。心臓の弱い人間なら食われる前にポックリ逝っちゃうほどです」
 見たり聞いたりした人間に死ぬほどの恐怖を与える――そういう幻獣を、紘也は知っている。
「あいつ、ヘルハウンドか」
「イエス! 正解!」
 ヘルハウンドとは人々に死を運ぶとされる地獄の猟犬だ。『ブラックドック』や『バーゲスト』とも呼ばれ、主にイギリス辺りで様々な逸話が残されている。なぜそんなのが日本にいるのか? その答えは既に得ている。要は魔術師連盟の事故で幻獣界から吹っ飛ばされ、彷徨っていたところで紘也エサを見つけたというわけだ。
 ウロボロスを警戒しているのか、ヘルハウンドはその場で右往左往している。それをなるべく視界に入れないようにしつつ、紘也は彼女に訊ねた。
「あんたは大丈夫なのか?」
 もし彼女まで恐怖に支配されるようなことになれば、二人とも確実に命はない。
「ふふん、この天下無双のウロボロスさんが、ヘルハウンドごときに戦々恐々するわけないよ。あんなのはザコです。世界の幻獣トレーディングカードゲーム――略して世界の幻獣TCGで例えると、使えるのはせいぜい序盤だけのコモンです」
「悪い、強さの基準がさっぱりわからん」
 彼女にあいつの特性とやらが効かないことだけは充分にわかったけれど。
「ちなみにウィル・オ・ウィスプはどんなデッキにも入らないザコの代表カードです」
「そんな謎解説はいらんから早くあいつをどうにかしてくれ」
「むぅ、面白いんだけどなぁ」
 ウロボロスがぷすんと仏頂面になったその時、視界の端でオレンジ色の光が弾けた。
「危ない紘也くん!」
 ウロボロスが紘也を突き飛ばす。ヘルハウンドが大口を開き、その奥から火炎を吐き出したのだ。地獄で生まれたヘルハウンドは火を吹くと言われているが、本当だった。
 灼熱の火炎放射が紘也を庇ったウロボロスに直撃する。煌々としたオレンジ色の光が夜闇を引き裂き、熱風が吹き荒ぶ。離れた位置に転がされた紘也にまで熱が伝わってくるのだから大変な温度だ。
「お、おい」
 ウロボロスが炎に呑まれたと思い紘也はヒヤリとした。が、彼女は何事もなかったかのように屹立していた。火炎を受け止めたと思われる手をグーパーさせている。
「まあ、ヘルハウンドの炎なんてこんなもんだね」
 つまらなそうに言うと、彼女は首だけ紘也に振り返って愉快げに手を振った。
「紘也くんはそこで見ててね。一瞬で決めちゃうから」
 ――グルルゥ。
 炎は効かないと悟ったのか、ヘルハウンドは姿勢を低くした。そこから体のバネを全開にして跳躍し、鋭い牙を剥き出しにして突っ込んでくる。
「おっと」
 疾風と化して特攻してくるヘルハウンドを、ウロボロスは体を左に開いてかわした。そして続け様に放ってきた火炎の軌道を腕の一振りで捻じ曲げる。明後日の方向に曲がった火炎は、そこにあった道路標識を激しく炎上させた。
 ドロドロと溶けていく道路標識を見て、紘也はゾッとする。
 なんて熱量だ。彼女はあんなの受けても平気なのだろうか?
 火炎を弾かれたヘルハウンドは素早くターンをして再び飛びかかる。対するウロボロスは、今度は避けようとはせず、その横面に捻りを加えた裏拳を減り込ませた。
 バキッ! という頭蓋の砕ける音。砲弾のような勢いで吹っ飛んだヘルハウンドは、何十メートルも道路を転がり滑った後、断末魔さえ上げられずに動かなくなった。

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