天井裏のウロボロス

夙多史

Section3-1 湯上りカードファイト!

 かぽーん。
 という擬音語がとてもよく似合う八櫛亭の露天風呂。ゆったりとした空間に小プールほどの岩風呂が広がっており、その向こうには檜風呂もある。もはや滝としか言えない大きな打たせ湯を見ると、意味もなく修行をしてみたい衝動に駆られてしまいそうだ。
 やはり温泉は広ければ広い方がいい。この露天風呂は谷に沿った崖の上にあるため、開けた空間からの眺めも昼間ならば絶景だろう(下を覗けば谷底までの距離に青ざめそうになるが)。
「温泉なんていつ以来かな? 五年は入ってない気がする」
 紘也は岩風呂に肩まで浸かり、星の瞬く夜空を見上げながら感慨に耽るように言った。
「オレもしばらくぶりだな。それにしても貸し切りってのはいいもんだ」
 のんびりと湯に浸かっている紘也の傍を孝一が背泳ぎで横切って行く。いくら谷自体に一般人の来場を御遠慮しているからと言っても、温泉で泳ぐのは遊び過ぎだ。気持ちはわからないでもないが、腰に巻いてあるタオルがぽろりとなっても誰も喜ばない。
「なあ、孝一たちも昼間幻獣に襲われたんだろ? 本当にどこも怪我してないのか?」
「まあな。危ないところだったがウロのおかげで助かった。しかし、なぜあの時彼女は上流から死体のように流れてきたんだ?」
「アホな理由だから気にすんな」
 孝一や愛沙の様子から掠り傷一つ負っていないことはわかっていた。それでも確認したことで紘也はより安心することができた。一応ウロには感謝しなくてはいけない。
 でもあの蛇の場合、つけ上がってなにを求めてくるかわかったものじゃない。
「紘也くん紘也くん、お背中流しますよ」
 風呂上りのコーヒー牛乳でも奢ってやればいいだろうか。
「紘也くん紘也くん、お背中流しますよ」
 そうなると、ウェルシュにも買ってやる必要がある。小銭どれだけ持っきただろうか?
「紘也くん紘也くん、聞いてる? お背中をジュバババガギギーンって流すとウロボロスさんは言ってるんですよ? ねえ?」
 ……明日は晴れるかなー?
「そこ絶対どうでもいいこと考えてるよね!? スルーしちゃいやん!」
 岩風呂を両断する塀の向こう側――つまり女湯にいるはずのウロっぽい嘆き声が聞こえた気がする。きっと幻聴だろう。
「おいおい紘也、貸し切りなのをいいことに男湯に女を連れ込むんじゃない。頼むからオレの目のやり場に制限をつけないでくれ」
「連れ込んでねえよ! こいつが勝手に来てるんじゃないか!」
「紘也くん! やっぱりあんた気づいてるんじゃあないですかっ!」
「チッ」
「なんか舌打ちされたっ!?」
 バレてしまったのならば仕方ない。紘也は倦怠感に似た感情のまま彼女の方に視線を向ける。
 ――小タオルを両手持ちして紘也を待ち構えていやがった。『スタンバイOKヘイカモーン!』とでも言いたげなウザい表情でこちらを見ている。孝一もいるからなのか、バスタオルで隠すところはきちんと隠していることだけは幸いだった。それでも黄金比的なしなやか且つ凹凸ある体のラインが浮き出ていて目を逸らしたくなるが……。
 湧き上がってくる男子としての感情を深呼吸で押し殺し、紘也は努めて平常心を保ったまま口を開く。
「あえて訊く。なぜお前がここにいる?」
「あや? 紘也くん、意外と落ち着いてるね。普通ならこんな美少女がお風呂に乱入してきたら顔を真っ赤にしてアワアワするもんじゃあないんですか?」
「温泉というイベント地でお前がなにかしらアクションを起こすことは想定済みだ」
「あたし単純だと思われてる!?」
 ガビーン、という文字が頭上に現れそうな表情で叫ぶウロ。温泉では静かにしてもらいたい。他の客に迷惑だ。紘也と孝一しかいないけれど。
「とにもかくにも、紘也くんには二つの選択肢を与えます!」
 そう言ってからウロは一本目の指を立てる。
「その一、あたしと一緒にくんずほずれずな背中の流しっこをする」
 二本目の指が立つ。
「その二、あたしが女湯に帰った後でノゾキをする。もしくはあたしに永遠の愛を誓う」
「選択肢おかしいだろっ!? あとさりげなく三つ目を入れてきたよな今っ!?」
「だって黙って聞いてりゃ紘也くんと孝一くんの会話にはエロさが足りないんだよ! アレですよ! すぐそこに女湯があるんですから、もっとこう『今ごろ女湯ではウロボロスたちが生まれたままの姿なんだろうなぁハァハァ』『よしレッツNOZOKIだぜ!』的な会話があってもいいじゃあないですか! あんたらホントに健全なる男子高校生かっ!」
「男子高校生舐めんなよ! そもそも女子の台詞かそれはっ!」
 微妙に声を低くして喋ったのは紘也と孝一を真似たつもりなのだろうか? 全然似ていない。
「それはそうと現在紘也くんはゲーム画面風に三つの選択肢を幻視しているはずだよ。さあ、お選びなさい。ウロボロスルートを確立させる正解の選択肢を!」
「ああ、あるな。ある。選択肢、ちゃんと見えてるぞ」

 ▷目潰し
 ▷沈める
 ▷崖から突き落とす

 一瞬たりとも迷う必要はなかった。
「ウロ、苦しゅうない。近こう寄れ」
 寛容な殿様みたいな柔らかい表情で紘也は手招きする。するとウロはパァと宝石箱を開けたような輝かしい笑顔になり、岩風呂へ飛び込んだ。そのまま蕩けそうなニヤニヤ顔で歩み寄ってくる。
「んもう紘也くんてばいきなり大胆なんだからぁ♪ 孝一くんもいるってのにあんなことやこんなことやそんなことまでやっちゃう気だね。ハッ! そうか見せつけるんだね! 孝一くんにはあたしと紘也くんが一つになったことの証人になってもらうんですね! 紘也くんって意外と見られて興奮するタイ――」
 ――グサッ!(←ウロボロスの両目が刺突される音)
 ――ガシッ!(←ウロボロスの頭が鷲掴みされる音)
 ――ザブン!(←ウロボロスの顔面が湯船に沈む音)
 ――ブクブク(←ウロボロスの口から出る気泡の音)
 紘也はウロが完全に動かなくなったのを見計らい、彼女を岩風呂の端まで引きずると、ポイッと崖から落とす――のは流石に酷過ぎるので女湯に放り捨てた。
 ザッブーンと女湯の方から水柱が上がる。「敵襲!?」「あら? ウロちゃんいないと思ったらあっちに行ってたのね」「はわわわ、ウロちゃん大丈夫!?」という女性陣の叫びが男湯にまで聞こえてきた。
 紘也は頭を押さえる。
「まったく、あのアホ蛇の相手をしてると非常に疲れる」
「その通りですね、マスター」
 声に振り向く。当たり前のように赤髪の少女が湯に浸かっていた。
「……」
「……」
「なぜいる?」
「お背中お流しします」

 ポイッ。

 あーれー、と棒読みの悲鳴を上げつつ放物線を描いて女湯に落ちるウェルシュ。紘也は、ふう、と一呼吸つくと腕で額を拭った。
「本当にあいつらは、油断も隙もない」
「紘也、お前、段々と鬼畜になってるな……」
 若干引き気味の孝一の呟きが、随分と静かになった露天風呂に響いた。

        ∞

「ひ~ろ~や~く~ん~」
 紘也が風呂上りにコーヒー牛乳を飲んでいると、宿に置いてある浴衣に着替えてきたらしいウロが怨めしそうに歩いてきた。彼女の後ろにはウェルシュもいる。
「どうした、ウロ? そんな幽霊みたいな声出して」
「どうした、じゃないよ! 酷くない!? どこの世界にヒロインに目潰しして窒息させて放り投げる主人公がいるんですか! おかげでほら見てよここ、タンコブができたじゃあないですかっ!」
「……マスター、頭を打ちました。痛いです」
 ウロとウェルシュは涙目で痛そうに頭を擦っている。タンコブ一つで済んでしまうところが流石は強靭なドラゴン族の幻獣である。もっともウロはとっくに〝再生〟してしまっているはずなのだが。ところで誰が主人公で誰がヒロインだ。
「まったく紘也くんってばもう、いくらギャグパートだからって常人離れした腕力出しちゃいかんでしょ!」
「なにを言ってるんだお前は?」
 放り投げたことを言っているのなら、こいつらの体が中身ないんじゃないかと思えるほど軽いからできたことだ。
「あうぅ、温泉ラブラブイベント大作戦失敗……」
 涙を滂沱として流すウロ。少しやり過ぎたかもしれない。
「まあ、コーヒー牛乳買ってやるから機嫌直せよ」
「直った! やっぱ温泉とか銭湯と言えば腰に手をあててコーヒー牛乳ですよ♪」
「ウェルシュはフルーツ牛乳がいいです」
 なんとも扱いやすい奴らだ、と紘也は呆れながら自販機に小銭を入れるのだった。
 すると――
「あなたたち、他にお客さんがいないからって騒ぎ過ぎよ」
 たった今温泉から出てきたらしい香雅里が開口一番に刺々しく言ってきた。
「でもそっち楽しそうだったなぁ。私も行けばよかった」
 残念そうに肩を落とす夕亜。その横で愛沙が苦笑していた。三人とも浴衣姿で、湯上りの火照った肌や乾き切っていない髪が艶めかしさを最大限に醸し出している。普段はなかなか見られないそんな女性たちの姿に、紘也はつい見入ってしまった。
「むむむ。どうやら紘也くんは我々美少女の浴衣姿に見惚れてるみたいだね。『あの薄布の下はノーブラかなデュッヘッヘ』ってイケない妄想をしてるね。イエス! 紘也くんの期待通りウロボロスさんはノーブラですよぅ♪」
 ピラリとあざとく浴衣を着崩すウロに、紘也は彼女のために買ったコーヒー牛乳の蓋を開けて一気に飲み干した。
「なああああああああっ!? あたしのコーヒー牛乳がぁあッ!? 温泉の夢がぁあッ!?」
「ほらウェルシュ、フルーツ牛乳」
「……ありがとうございます、マスター」
「そして完全になかったことにされた!?」
 咽び泣くあまり涙の海に沈没するウロ。見ていてウザいので仕方なくもう一本買ってやったらすぐに復活した。本当にこの蛇はどこまでも調子がいい。
 と、紘也は香雅里たちが胸の前で腕をクロスさせるようにして距離を置いていることに気づいた。
「秋幡紘也、あなた、そんなことを考えてたの? ヘンタイね」
「『デュッヘッヘ』って面白い笑い方するわね、キミ。やっぱりヘンタイさんてみんなそうなの?」
「ヒロくん、ヘンタイさん?」
「待て待て。あのアホ蛇の言うことを真に受けるな。見惚れてたことはまあ、事実だけど」
 なんか後ろで「あたしドラゴンだよ! アホでも蛇でもないよ!」とか叫んでいる馬鹿がいるけど丁重に黙殺する。
「やっぱり変な目で私たちを見てたのね! 破廉恥男!」
「だから違うって! ていうか、そもそもなんでお前らは浴衣着てるんだよ。寝る場所は宿じゃなくてテントだろ」
「大丈夫。テントに戻る時はちゃんと着替えるよぅ。今はこっちの方が涼しいのです」
「気をつけて鷺嶋さん。この秋幡ヘンタイは浴衣姿で寝ている私たちを妄想しているわ」
「してねえよ!? 秋幡ヘンタイって誰だよ!?」
 この話題でスルースキルを発揮するほど紘也の精神は頑強ではない。孝一に助けをと思って見てみると、奴はソファーに座って抹茶アイスを食しながら芸人のライブでも観戦しているように紘也たちの遣り取りを眺めていた。こいつ楽しんでやがる。
 誤解を解いてもらうのに五分ほどかかってしまった。そうなってからようやく、アイスを食べ終わった孝一が立ち上がる。
「よし、じゃあなにして遊ぼうか」
 今日の彼はとにかく遊ぶことしか考えていないようだ。いや、それは普段もか。
 ウロが遊びと聞いてさらにテンションを跳ね上げる。
「なにをして? フッフッフ、愚問だね孝一くん。温泉と言えばアレしかないじゃあないですか」
「やはりな。どうやらオレとウロは同じ考えに至っているようだ。そう。温泉で遊びと言えばアレしかない!」
 心が通じ合ったかのようにウロと孝一はお互いを見やる。そして時代劇の悪役みたいにくつくつと笑う二人は、思考も息も完全にシンクロして――

「卓きゅ「世界の幻獣TCGです!」……なんだと?」

 ――いなかった。これ以上ないくらいチグハグだった。
 孝一は作戦失敗の報告を受けた司令官のような顔でウロを見ている。対するウロはそんな孝一などどこ吹く風というように、いつもの無限空間から大量の紙束をばら撒いた。
 世界の幻獣TCG。世界魔術師連盟が制作販売している一般人の間でも人気絶頂のカードゲームだ。本物の魔術師たちによって制作されているだけあって、魔術や幻獣の設定はリアリティがあり、イラストも美麗で精緻。これまでカードゲームと言えばトランプくらいだった紘也や孝一も現在進行形ではまっている代物だ。
 が、温泉だからこれという意味がさっぱり理解できない。それは孝一も同じだろう。カードが湧き水のように溢れて床を侵食していく光景に、愛沙は苦微笑し、香雅里は言葉を失い、夕亜は興味津々と瞳を輝かせている。
「フッフッフ、実は最近新弾が発売されまして。紘也くんがテスト勉強に勤しんでいる間にざっと百箱ほど大人買いしてきたんですよ」
 よくわからないが、それはもう大人買いではなくセレブ買いだ。毎回それだけ買っているのだとすると……なるほど、床が埋まるわけである。
「なに!? なぜそれを早く言わないんだ! くそっ、卓球なんてしている場合じゃない!」
 孝一の意思が持って行かれた。
「いや待て孝一、温泉まで来てカードゲームってどうなんだ?」
「なにを言っているんだ紘也。修学旅行でトランプは当たり前だろう? 皆で温泉宿、そしてカードゲーム。なにも間違っていない!」
 間違いだらけだ! なんてもう言えない雰囲気に孝一は移行してしまっている。諦めて紘也も参加することにした。実は紘也も新弾とやらが気になってウズウズしていたことは内緒だ。
「今回の新弾は『東アジアエディション』なのですよ。ほらこれ、昼に戦ったジャパニーズ風ジャイアントスパイダー『ツチグモ』。ふむ、2000/2000のバニラだけど低コストだね。あ、バニラってのは『能力なし』って意味です。テスト出ますよ」
 と楽しそうに、ウロ。紘也たちと出会うまで相手をしてくれる人が少なかったのか、表情が活き活きとしている。
「というかウロ、お前は百箱もカード買うほどの大金をどこから持って来たんだ?」
「ウロボロス印のエリクサーは億単位で売れるんですよ」
「売ったのかよ!? そんなに金持ちならコーヒー牛乳一本くらいで泣くなよ!」
「アレは紘也くんに買ってもらうからこそ価値があるんだよ!」
 ウロの金の使い道がどうであれ、エリクサーで一人でも多くの命が助かっているのならばよしとしよう。紘也はポジティブに考えることにした。
「……あの、マスター。世界の幻獣TCG。その、ウェルシュも持ってます」
 紘也たちがカードを漁り始めると、ウェルシュが決然と言ってきた。少し迷いが見えたのは、彼女が真面目キャラを通そうとしているからだ。はっきり言って、紘也が彼女を真面目と思ったのは最初だけである。
「マジで? 腐れ火竜もやってたんだ」
 コクリとウェルシュは一つ頷き、右の掌に真紅の炎を宿す。どういう理屈なのか、それが弾けるのと同時にデッキと思われるカードの束が出現した。束を両手に持ち直し、『サインください』のポーズでウェルシュは紘也に頼む。
「マスター、対戦してください」
「ああ、いいぜ。新弾とやらのカードを見た後にな」
 対戦を承諾すると、ウェルシュの唇が微かに綻んだ。その無表情の中には告白に成功した女の子みたいな感情があったような気が……しないでもない。
「ウロちゃん、可愛い幻獣さんのカードある?」
「あるよあるよ、愛沙ちゃん。『白虎』なんてどう? レアですよ」
「ネコさんだねぇ♪」
「いや虎だから。ネコ科だけれども」
 とりあえずコレクター色の強い愛沙は一枚あれば満足するようだった。
 はあ、と香雅里の方から溜息が聞こえた。
「付き合いきれないわ。ここが学校だったら全部没収してるところよ」
 勝手にやってなさい、というように香雅里は背を向ける。逆に夕亜がカードのプールへと飛び込んできた。
「わあ! なにこれ! すっごく楽しそう! 私もやる! ねえ、混ぜて混ぜて!」
「ゆ、夕亜はダメよ! これから明日の段取りの話し合いがあるんだから」
「えー、ちょっとくらいいいでしょう? かがりんのケチ」
「か、かがりんって言わないでって言ったでしょ! ダメなものはダメ!」
 彼女たちは昼にできなかった話し合いを行うことになっている。それが終わるのを待ってから、紘也たちはテントへと帰る予定だ。
「それじゃあ、私たちはしばらく外れるから」
 そう断ってから、香雅里は夕亜の首根っこを掴んで引きずるように去っていった。「い~や~だ~私もアレやるぅ!」という駄々っ子のような声がしばらく響いていたのは語るまでもない。
 その後――
「さあ紘也くん、新弾の導入により強化されたあたしの『ウロボロスデッキ』と勝負だよ!」
「ウェルシュとの対戦が先な。孝一とやってろ」
「なぬ……わかりましたよ。紘也くんラスボスは最後ってことですね。さあ孝一くん、いざ尋常に勝負!」
「ははは、簡単には負けないぜ」
「余裕ぶっこいてられるのも今のうちですよ! 立ち上がれあたしの分身!」
 ウロと孝一が対戦を始めたことを確認し、紘也はウェルシュを見る。
「じゃ、こっちもやるか」
「はい、マスター。ウェルシュは『ウェルシュ・ドラゴンデッキ』です」
「うん。聞かなくてもなんとなくわかってた」
 結局、ウロとウェルシュはひたすらに弱かった。

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