天井裏のウロボロス

夙多史

Section2-2 追われる者と追う者たち

 息巻いて飛び出したのはいいが、ヤマタノオロチに行く宛など皆無だった。
 とはいえ奴らの下に戻る選択肢はありえない。それは人間に飼われることを認めるのと同義である。ヤマタノオロチは飼う側でなければならない。若い人間の雌限定だが。
《この体。どうにかならんものか》
 住宅街をとぼとぼと歩きながらヤマタノオロチは独りごちる。憎き金髪のせいでほとんどの力を失ってしまった今の体では、満足に魔力を補充することすらままならない。
 それを思うと、あの人間の雄と契約を結んだことだけは正解だった。幻獣契約を一度結べば距離に関係なく魔力が供給されるのだ。その量は魔術師の意思でピンからキリまで調整が利くが、ヤマタノオロチに死なれては困る人間の雄が魔力供給を断絶したりなどはしないはず。
 故に、魔力欠乏からのマナ乖離でヤマタノオロチが消滅することはない。
 問題は――きゅるるるぅ。
《……腹が減った》
 このまま餓死したのでは話にならない。せめてそうめんを食べてから飛び出すべきだったとちょっと後悔するヤマタノオロチである。
《お。丁度よいところに人間の雌がおる》
 ヤマタノオロチの前方から二人の少女が歩いてきた。十代半ばほどだろう。薄手の白い上着は半袖で、腰回りにはひらひらした輪っかのような布を履いている。『すかーと』とかいう代物らしい。現代人類の雌は露出度が高くて実によろしい。
《己ら。なにか食べ物を持っていないか?》
 物乞いの真似事のようで癪だが、今はこの愛くるしい童女の姿を存分に利用してくれよう。人間は単純だ。あの紘也とかいう人間の雄が例外に過ぎん。アレには恐らく良心という物が欠如しているに違いない。
 本人に知られるとゲンコツぐりぐりの刑は免れないだろうことを心中で吐き捨てながら、ヤマタノオロチは小さな掌を広げて少女たちに差し出した。
「やだ、なにこの子?」
「変な声、気持悪ぅ」
 少女たちはあからさまに嫌な顔をし、逃げるように去って行った。
《……》
 手を差し出した状態のまま固まるヤマタノオロチ。ヒュゥウウウ、と夏の熱気を含んだ風が嘲笑うかのように吹き抜ける。
《……気持ち悪い? ……誰が? ……吾がか?》
 少女たちの心無い言葉が突き刺さり、ヤマタノオロチは半ば放心状態に陥っていた。かつて自分と相対した人間が恐慌する様は実に痛快だった。だったが、今の反応は毛色が異なる。そういう絶対者を目の当たりにした『畏れ』ではなく、害虫を見下すような嫌悪感だった(実際はそこまでではなかったが、ヤマタノオロチの目にはそう映った)。
 ――馬鹿にしおって。
《……そうか。声か》
 あまり気にしてなかったが、確かに人間にとっては不快だろう。
 ヤマタノオロチには八つの首があるけれど、それぞれで別個に意思を持っているわけではない。全ての首が一つの意思の下で物を見、声を発しているのだ。人の殻に入っていようが、人化していようが発する声は同じように重なってしまう。首ごとに声音が違う理由はヤマタノオロチにもわからない。
 ならば他の首を休ませて声音を一つに絞った方がいいだろう。声のせいで奴らに足取りを辿られては敵わない。
 初めてなので、少し試してみる。

「あーあー」

 二十歳前後の艶かしい女性の声音が出た。本来の人化した姿ならばこれでよいが、童女の見た目からでは不自然か。次だ。

「本日は晴天なり」

 老婆のようなしわがれた声音になってしまった。普段からこんな声も重ねていたのかと思うと自分のことながらゾッとする。論外。次だ。

「〝ボエェ~〟」

 ――……ハッ!
 危うく自分の声で気絶しかけた。音声を規制されたように別の発音に聞こえたのは気のせいだろう。
「く。やはり慣れん。なぜ吾がこれほど人間に気を使う必要があるのだ。それもこれも全部あの金髪のせい――ん? おお。この声は丁度よいかもしれん」
 十歳前後の童女を思わせる可愛らしい声だった。だが慣れないことをすると疲れる。必要な場合にのみこの声を出すようにしよう。
《ふはは。これで奴らが吾を特徴で追いかけることはできまい》
 自分の容姿がなによりも目立つことは念頭に置いていないヤマタノオロチだった。

        ∞

 もっとも、紘也がヤマタノオロチを捜索するにあたり、『声』や『容姿』は微塵も必要なかった。
「……こっちだな」
 人や車の往来が疎らながらある住宅街の十字路を、紘也は数秒ほど瞑目しただけであっさりと左折する。
「紘也くん紘也くん、さっきから思ってたんですけど、なんで山田の居場所がわかるんです? あいつの気配って微弱過ぎてウロボロスセンサーでも探知できないのに」
「……ウェルシュも山田の魔力の臭いは追えません」
 紘也の後ろを仕方なしといった様子で歩くウロとウェルシュは小首を傾げていた。最初はこの二人の索敵能力に頼るつもりだった紘也だが、ヤマタノオロチの力が弱まり過ぎていたためにあてにならなかったのだ。
 よって、紘也は自分だけが知ることのできる方法を試すことにした。
「魔力のリンクを追ってるんだよ」
「オゥ? そんなことできたんですか?」
「最近なんとなくできるようになったんだ。と言っても、方角くらいしかわからんけどな」
「どんどん器用になってますね」
「心配するな。自覚してる」
 魔力制御も日に日にスキルアップしているし、このまま紘也はどこの高みを目指すのだろうか。魔術師でもなければ一般人でもない。きっと灰色な未来だ。
「となれば見つかるのは時間の問題ですね。あの山田ダメ子、紘也くんの唇を奪っておきながらこのウロボロスさんから逃げ切れるとでも思ってんでしょうかね? 捕獲次第縊り殺す! もとい、縊り倒す!」
「……ウェルシュも次こそ勝ってマスターの唇の仇を取ります」
「その点については黙認するが、お前らなんで急にやる気出したんだよ?」
 ウェルシュが山田とモンバロで対戦してたのは仇を取るためだったようだ。どういう因果関係でそうなったのか紘也にはさっぱりわからない。
「山田のせいで満足にそうめん食べれなかったからですよ!」
「……食べ物の恨みは恐いことを思い知らせます」
「お前ら最近よく意見が合うな」
 山田が現れてから敵意の対象がそっちに向いたからだろう。敵の敵は味方、とはよく言ったものだ。
「まったく、山田が復活しやがったせいであたしと紘也くんの平凡ラブラブな生活がすっかり脅かされましたよ」
「そんな生活をしてた覚えは全くない」
 両腕を頭の後ろに回し、ほっぺをぷっくりと膨らますウロの仕草は普通の少女となにも変わらなかった。あまりに人間的過ぎて紘也も時々見た目で判断しそうになるから困る。
「監視の意味もありますし、無限歩譲って同居は認めましょう」
「逆にこれっぽっちも譲ってないだろ」
「ですがキスだけは許せません! あたしだってまだしたことないのに! この激情はどこに持って行けばいいんですか!」
「不燃ゴミの日に出しとけ」
 この蠢く静寂汚染は口を閉ざして追跡することができないのだろうか。
「んなんじゃあかんですよ! やっぱりここは紘也くんにぶちゅっとしてもらうのが一番の療法です! さあさあ紘也くん、一思いに一発やっちゃてください!」
「山田は公園の方に向かってるみたいだな」
「フッ、スルーされるとは思ってましたよ。ええ、思ってましたとも!」
 いつもは滂沱する場面のウロだったが、今回ばかりは良案の浮かんだ策士のような笑みを浮かべていた。
「でも残念。いつまでもそこで流されるウロボロスさんだと思ったら大間違いです! 昔の偉い人は言いました。欲しいなら、奪ってみせよう、愛とキス。――紘也くん覚悟っ!!」

 ――グサッ!

 荒れ狂った右手が紘也の制御を離れてウロボロスの両目を存分に刺突した。
「目は覚めたか?」
「たった今潰れました……」
 目を*の字に窪ませ涙の滝を落とすウロ。いや比喩ではなく、ギャグ漫画よろしく本当に*の字に窪んでいるだけで血も流れない。偽の姿だからこそできる器用な顔芸だった。
「紘也くん紘也くん、知ってますか? サミングは反則技なんですよ?」
「え? お前が一思いにぶちゅっとやれって言ったんじゃないか」
「潰れる時の効果音じゃなぁあああああいっ!?」
 今日も今日とてウロボロスは大変ウザかった。
 と――
「ん? どうしたウェルシュ?」
 途中から黙ってついてきていたウェルシュが立ち止まっていることに紘也は気づいた。彼女は頭に搭載したアホ毛をピコピコ揺らし、鼻をすんすんさせて紘也に告げる。
「……マスター、幻獣の臭いがします」
「幻獣の? 山田か?」
 ウェルシュのアホ毛の揺れが否定するように激しさを増す。
「違います。山田ではありません」
 紘也はウェルシュの無表情から真面目な深刻さを感じ取った。確かに山田なら山田の臭いと言うはずだ。
「ウロ、わかるか?」
「あー、言われてみれば……いますね。オゥ? どうやら一匹や二匹ってレベルじゃあないようですよ」
 ひい、ふう、みい、と指折り数えるウロだったが、すぐに両手じゃ足りなくなって指を折り返えしていく。
「そんなに強い幻獣じゃあないっぽいですが、この街だけで軽く三十体はいますね」
「三十体!? 冗談だろ? なんで一度にそんな数の幻獣が集結してんだよ!」
「いえマスター、集結はしていません。街のあちこちに散らばっています」
「そうですね。まるでなにかを手分けして探してるようです」
 ウロとウェルシュは周囲を警戒しつつ、紘也をボディーガードするように両脇から挟む。
「てかウロ、お前、人化した状態だと索敵範囲は半径一キロ圏内が限界じゃなかったか?」
「紘也くんってばくだらないことばかり覚えてますね。まあ間違ってないですけど、それは幻獣や魔術師が力を使っていない状態の場合です」
 ウロは口調こそ軽薄なままだったが、その青い瞳はどことなく真剣みを帯びていた。

「戦ってるんですよ。この蒼谷市の至るところで。その幻獣たちと、たぶん葛木家の陰陽師たちが」

 彼女がそう告げた直後、紘也の携帯電話が着信音を鳴らした。最近登録したばかりの和風な着メロ。
 葛木香雅里からだった。

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