天井裏のウロボロス

夙多史

Section5-7 福音の聖女

 時は少し遡る。
「お……んなの子……?」
 祭壇上に立った存在は、元々が太長い木の柱だったとは思えないほど華奢で可憐な少女だった。ダイヤモンドダストのようにキラキラと舞い散る輝きが神秘的で、少女を中心に空気が澄んでいくような感覚を紘也は覚えた。
「あれが、『主』……?」
 香雅里も半信半疑な様子で祭壇を見上げていた。木が人間に変化する奇跡的な登場の仕方だったが、紘也がイメージしていた『主』はもっと高齢で威厳のある男性……そう、喋らない葛木玄永みたいな存在だった。
 転生術を使ったから以前と姿が違うのかもしれない。そもそも見た目通りの少女じゃないこともありえる。見た目だけで中身を判断してはいけないことは周りの幻獣から嫌ってほど思い知らされている紘也である。
「あっ」
 宙に浮かんでいた愛沙の周りから光が消えた。石床に描かれた魔法陣からも次第に輝きが弱まり始め、それに合わせて重力が戻っていくかのように愛沙の体は緩やかに落下する。
「愛沙!」
 もう一度紘也は駆け寄る。今度は弾かれたりはしなかった。
「愛沙!」
 呼びかけながら抱き起す。顔色が悪く体温も低い。けれど、生きている。ちゃんと呼吸をしている。
 少し遅れて香雅里も駆け寄り、愛沙の様子を見てほっと胸を撫で下ろした。
「無事、みたいね」
「ああ」
 ――よかった、とりあえずは。
 生きていたことに紘也は心底安心する。酷く衰弱しているように見えたが、呼吸と表情に苦悶の色はない。どちらかと言えば穏やかで、見た目ほど弱っているわけではなさそうだ。

「ふぅ……ようやく目覚めか」

 その時、落ち着いた吐息が祭壇の方から漏れ聞こえた。
 祭壇に立った少女が瞼をゆっくりと持ち上げる。吸い込まれそうな深い緑色の大きな瞳は、確かな『生』の光を宿してまずは遠くの景色を、続いて視線を手前に下げて紘也たちを見回した。
「おお、『主』よ!」
 そこへリベカが両腕を翼のように広げ、歓喜の念を声にしながら祭壇を一歩一歩上って行く。
「『主』よ! 我らが〝福音の聖女〟よ!」
「えっ?」
 香雅里が予想外なものを見たように目を大きく見開いた。
「〝福音の聖女〟って……まさか……」
「知ってるのか?」
「え、ええ。最悪よ。私が生まれる前だから話でしか聞いたことがないけれど……」
 言いづらそうに香雅里は苦い表情を浮かべた。信じられないから口にしたくない、そういった感情が見て取れる。
「おお、『主』よ。お懐かしい。あの時のままのお姿ですわ。わたくしがわかりますか?」
 ついに少女の前まで歩み寄ったリベカが恭しく膝をついた。祈るように両手を合わせ、しかし頭は下げずに少女の顔を見上げている。
 少女は一瞬だけ迷ったように眉を曇らせたが、すぐに確信に至ったのか小さな唇を動かした。
「其方は、リベカか? ずいぶんと老けたな。一瞬わからなかったぞ」
「あれから二十年も経っておりますので」
「二十年? 存外に早かったな。我の計算では力の覚醒まであと五年はかかるはずだったが」
 ふむ、と少女は考え込む仕草をする。声は見た目の少女らしいソプラノ・レッジェーロだが、口調はとてもその年齢とは思えない。大人び過ぎている。やはり中身は計り知れないのだろうか。そういうのは幻獣だけで充分だ。
「ええ、わたくしも不思議でしたが……どうも彼のおかげのようですわ」
 すっと目を細めた微笑でリベカは紘也を見た。そこには先程までの憎悪はなく、かといって友愛もない。どこか嘲笑じみた笑みだった。
「その点だけはあなたに感謝しなければいけませんわね、秋幡辰久の息子」
「……なんの話だ?」
 紘也は警戒しつつ低い声で問う。あの少女が早く復活したことは紘也のおかげだとリベカは言った。だが紘也は『主』を復活させるような特殊ななにかをした覚えなんてない。なにかの間違いではないかと思う。あの少女の計算ミスとか。
 だが、『主』は紘也を数秒見詰めるや納得したように頷いた。
「ああ、そうか。思い出してきた・・・・・・・。奴の息子がいたな。確かに人間離れした魔力だ。そんな存在が常日頃と転生体の近くにいたのだから、ふむ、我の力が活性化するのも早まるか」
「なっ」
 ただ近くにいただけ。
 強過ぎる魔力を持つ者はそれだけで周囲に影響を及ぼしてしまう。でもそれは微々たるものだ。なんの意識もせずに発散された魔力は大気中で分解されやがて消える。だから日常生活に支障が出るほどではなかった。あの日、幻獣たちが溢れるまでは。
 愛沙と出会ったのは小学校一年――つまり彼女は十年近くも紘也の魔力を浴びていたことになる。
 ――俺のせいで?
 いや違う。紘也がいてもいなくても結局こうなっていた。誰が悪いかなんて、そんなの転生術などと馬鹿げた魔術に愛沙を巻き込んだあいつらだ。
「そう睨んでくれるな。我の力が高まっていたことでその娘が救われたこともあっただろう?」
「は?」
「たとえばヴァンパイアに攫われた時。あの状況下、普通の人間であればヴァンパイアの魔力にあてられて三日は寝込んでいただろう」
 少女は白く細い指を一本立て、次に光の十字架に捕らわれた山田を見やり、ゆっくりと二本目を立てる。
「たとえばそこにいるヤマタノオロチ。我の力の加護がなければ其方の親友――諫早孝一のように人外に変じていた。まあ、彼も完全には変異しなかったが」
 思い出す。確かにあの時、ヤマタノオロチの〝霊威〟で妖魔化したのは孝一だけで、愛沙はなんともない風だった。けれど、どうしてそれをさっき目覚めたばかりの少女が知って――
「あんた、まさか愛沙の記憶を……」
「うむ、共有している。いや、切り離された今はそうではないから『共有していた』が正解だな」
 少し話したが、あの少女がどういう人間なのか紘也にはまだ掴めない。けれど、愛沙の記憶を持っているならその部分に訴えかければもしかしたら穏便に済ませることもできるかもしれない。
「ああ、妙な期待はしないことだ。我には我の意志がある。鷺嶋愛沙の記憶はあっても、その意志の下で行動することはない。我はそういう風に・・・・・・できている」
「くっ」
 甘かった。紘也の考えなどお見通しということだろうか。
「たとえ鷺嶋愛沙の意志が望んでいなくても、我は我の意志に従いここで宣言させてもらう。――リベカ、準備はできているな?」
「はい、滞りなく」
 リベカがすっと自分の錫杖を少女に差し出す。自分の背丈よりも長いそれを少女は満足げにを受け取り、コツンと柄尻で床を小突いて一歩前に出た。
 瞑目し、すぅと息を吸う。瞬間、彼女の内から膨大な魔力が溢れてくるのを紘也は感じた。今まではほとんど感じられなかったその魔力は、彼女の体を中心とし波状となって広がっていく。今、なんらかの魔術が発動したのだ。
「聞け、各地の魔術師諸君。この世界は穢れている。全能な神などいない。故にこの世界は修正されない。放置すればやがて取り返しがつかなくなるだろう。ならば一度徹底的に滅ぶべきだ。誰かがやらねば世界に未来がないのなら、我がその役を担おう」
 少女の口上が魔力に乗って響く。この祭儀場だけじゃない。この島、いや、下手をすると世界中に聞こえている可能性もある。
「そのために我は復活した。そしてこの世の穢れを――『人間』を清浄するため我の同士もまた立ち上がる」
 少女はカッと目を見開き、錫杖を翳して高々に叫んだ。

「『朝明けの福音』は再興する!!」

「あさあけの……ふくいん……?」
 どこかで聞いた。それもつい最近だ。
「……やっぱり」
 香雅里が厳しい表情で呟いた。そして紘也もあの時教えられたことを思い出す。

 ――いい? 秋幡辰久は大魔術師と呼ばれる前から数多くの強大な魔術結社を討ってきてるの。人類を滅ぼす魔術を研究していた滅亡主義団体『朝明けの福音』、魔術師専門の暗殺集団『ラッフェン・メルダー』、世界的な魔術テロ組織『G∴R団』。特にこの三つが有名ね――

 紘也の父親――秋幡辰久が討伐した有名どころの組織の一つに『朝明けの福音』は挙げられていた。
 滅亡主義団体。その言葉だけでもういろいろと危ない連中だとわかる。
 放っておいたら世界が滅ぶ。いや、聞く限り彼女たちが滅ぼそうとしているのは人間だけだ。なんにしてもこの場でどうにかしないといけない。
「ヨハネ・アウレーリア・ル・イネス・ローゼンハイン」
 今もなにかしら危ない台詞を世界に向けて発信している少女を見上げながら、香雅里が無理やり淡々とさせた口調で言った。
「〝福音の聖女〟〝来世を見据えし者〟〝穢れを祓う神子〟。いろいろ呼び名はあるけれど、それは肯定的な人だけね。私たち連盟の魔術師は〝滅亡の先導者〟と呼んでいるわ」
 ヨハネ、という人名は紘也も聖書やローマ教皇の名前などでいくつか聞き覚えはある。だがあの少女が聖人や教皇だとは思えなかった。格好こそ神官に似ているが、神を否定し滅亡を謳う聖職者はもはや聖職者じゃない。
「ん……」
 と、眠っていた愛沙の口から呻きに似た声が漏れた。彼女の瞼が二度ほど痙攣し、重たそうに持ち上がる。
「ヒロ……くん……?」
「愛沙、気がついたか」
 まだぼんやりした表情の彼女は、体を起こすと自分の状況を理解するために周囲を見回し、そして視線は祭壇の少女に留まる。
「あの子……」
 なにかを言いかけたところで愛沙はフラついた。その肩を紘也がそっと支える。
「無理するな。今は動かない方がいい」
「そう、だね……」
 えへへ、と力なく笑う愛沙。紘也は彼女の肩から手を放し、祭壇で演説する少女――ヨハネを見やる。
「共感する者は我の下へ集え。そうでない者は我の言を宣戦布告と捉えて構わない。以上だ」
 丁度全ての口上を述べ終えたのか、ヨハネは一仕事終えたようにふうと息を吐いた。高まっていた膨大な魔力が急速に収まっていく。それでも彼女から感じられる『力』は紘也たちに無闇な行動を取らせない抑止力があった。
「あの、『主』よ」
 すると、リベカが恐る恐るといった様子で進言した。
「なんだ、リベカ?」
「確かに『受信具』の準備はできていましたが、この地はアトランティスですわ。世界に呼びかけるならば一度島の外へ出ていただかないと……今の宣言は恐らくこの際議場にしか届いていませんわ」
「……」
 ヨハネは二秒ほど沈黙した後、かぁあああああっ、とトマトみたいに顔を真っ赤にした。
「な、なぜそれを早く言わない! 我がマヌケみたいではないか!」
「いえ、彼らに向けて宣言されるのかと思いましたの。止めるタイミングもなく……」
「うぐ……目覚めて早々に恥をかいたぞ」
 さっきまでの超然とした態度から一転し、普通の少女のような振る舞いを見せるヨハネ。そこにできた隙を、葛木香雅里は見逃さなかった。
 彼女の強化された体はたった一跳びで祭壇上まで達し、握られた刃で慈悲もなくヨハネを斬りつける。が、その一撃は錫杖で難なく受け止められてしまった。
「奇襲か。焦っているな、葛木香雅里」
「あなたはここで討ち取らせてもらうわ、〝先導者〟ヨハネ!」
 ペキパキと香雅里の刀の周囲が氷結していく。そのまま組み合ったヨハネごと凍らせるつもりだ。
「無駄なことを」
「きゃあっ!?」
 氷がヨハネに届く前に香雅里は見えない衝撃によって祭壇から弾き飛ばされてしまった。紘也の後方に背中から落下する。
「葛木!?」
 紘也の叫びには「ううぅ……」という痛烈な呻き声だけが返ってきた。よろめきながらどうにか立ち上がった香雅里を、ヨハネは冷め切った視線で見下ろす。
「まあ、我の宣言は其方らが聞いていればおのずと世に広まるか」
「『主』よ、まさかこの者たちを生かすおつもりですの!? 葛木はともかく、秋幡辰久の息子はやがて必ずわたくしたちの脅威となりますわ!?」
「ふむ……」
 リベカに捲し立てられてヨハネはしばし考え込み、やがてなにかを決断して口を開く。
「……我の宣言を伝える役は一人で充分足りるか。秋幡紘也、悪いが其方にはここで消えてもらう」
「!?」
 錫杖の尖端が紘也に向けられる。魔力が高まり、そこに透明な輝きが収束していく。それだけでとてつもない圧力を紘也は感じた。得体の知れない力を向けられ、足が竦む。
「逃げなさい秋幡紘也!?」
 香雅里がほとんど悲鳴のように叫ぶ。続いてなにかが際議場に落下したような轟音が響く。それらの音に正気づき、紘也は足を動かそうとしたが――
「もう遅い」
 透明な光線は無情にも射出された。
 ほぼ同時に持ち主の危険を察知した六芒星のアミュレットが真紅に輝く炎で楯を作る。
 僅か一瞬。拮抗はなかった。

 ヨハネの放った透明な光線は、ウェルシュ・ドラゴンの〈守護の炎〉すら易々と突き破り、声も上げる暇もなく紘也の左胸に吸い込まれた。

「ヒロくん!?」
 最後に聞こえた愛沙の悲鳴も、紘也の耳に残ることはなかった。

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