比翼の鳥
翼の章 第三章 第1話 蜃気楼(1)
……きて。
まどろみの中、俺は、たゆたう。
フワフワとしながら、ゆらりと流れ、浮き、回り、そして、止まる。
その感覚は、激しい物では無く、優しく俺を包んでいた。
ずっとこのままで居たくなるような、そんな心地良さを伴って、俺を揺らす。
ねぇ、……きてよ!
だが、それも、長くは続かない様だった。
遠くから、誰かの声が、聞こえて来る。
また、このパターンか。もう、なんだか、色々あって疲れたんだが。
おじさん、ここらで少し休んでも良いと思うんだよね。
ルナも消えちまったし、ツバサシステムなんて、大層な物が生まれたお蔭で、世界の呪縛も解けたし。
皆も、俺より強いんだから、大丈夫だろうよ。
ヒビキはああ見えて、一番思慮深く、行動力があるから、あっという間に動いたしな。
咲耶も霊装持っていたし、そう簡単には、やられんだろ。つか、我が子ながら倒せる気がしないわ。
リリーも、こちらを気にしていたようだったが、ちゃんと飛んでいったしな。
何か、最後、叫んでいたような、気が……なんだっけ?
ああ、そうそう、此花が、俺に突っ込んで来たんだっけ。
……それで、……それで、槍が……。此花の額に、目玉が……。
「こらー! いい加減、起きてよ! お兄さん!!」
「うお!?」「うきゃぅ!?」
大声が耳元で響き、俺は飛び起きた。
汗が噴き出る。何だ? 何か俺は、大事な事を思い出していたはずだったが、急速に思考が散り散りとなり、何を思い出していたかも分からなくなった。
朝か? 息を荒げながら、俺は、視線を巡らせる。
右手に窓。そこから、日の光が燦々と降り注いでいた。窓から見える青々とした新緑が、眩しく映る。
正面の壁には、アニメのポスターが、張られていた。俺が高校の頃好きだった、地味なレースの話である。ブーストって言う設定が、その当時、最高にかっこ良かった。そのキャラのポスターである。
その脇には、勉強机が鎮座しており、板面には書籍が散乱している。
勉強机と対になっている椅子には、青いナイロン製の学生鞄が乗っているようだ。
その不格好に膨れ上がった姿を見るに、あの中には、恐らく教科書がパンパンに詰まっているはずだと、直感的に理解した。
ああ、なんだ。俺の部屋じゃないか。ここ。
何故だが、凄く懐かしく感じる。気を抜けば、涙が出そうにすらなる。何だろうな? いつもの部屋のはずなのに。
そういえば、先程、何か、変な叫び声が聞こえたっけ?
そう思いだし、何かが転げ落ちたであろう方向に視線を寄越した。
「……しましま?」
色鮮やかな水色と白のストライプが、真っ先に飛び込んで来た。
その曲線は、何だろうか、凄くありがたい物の様に思える。とりあえず、心の中で拝んでおいた。
そんな俺の呟きが聞こえたのだろう。しましまが、一瞬にして隠されてしまった。むぅ、残念。
代わりに、視線に割り込んで来たのは、可愛いセーラー服を着た女の子の、睨むような視線だ。
その子は、茹で上がるんじゃないかと思うほど、真っ赤な顔をしているが、間違いなく美少女だ。十人中十人が、そう答えるだろう。
黒い髪をツインテールに結び、大きな目に涙を浮べて……いや、まて、その手は、ちょっと何で、そんなに振りかぶってるのかな?
「お兄さんの……えっち!!!」
そうして、素晴らしく景気の良い、乾いた音が、部屋に響き渡ったのだった。
「あらあら、ツバサちゃん。今日は、お猿さんの仮装?」
「母さん。頼むから、大の大人に『ちゃん』付けは止めてくれ。」
とりあえず、仮装の件は触れられたくも無いから、スルーして、呼び名だけを指摘しておく。
「あらあら……困ったわ。お父さん、息子が反抗期ですよ?」
「……(こくり)」。
いや、こくり……じゃねぇよ。頼むから、人間らしく、声帯を使って会話しようよ。
俺は新聞バリアーの後ろに隠れるそんな父親の仕草を見て、肩が下がるも、何故かそんな光景が凄く懐かしく、嬉しく感じていた。
何だろう? 日常の光景……のはず、なんだがな?
「兄貴。幾ら幼馴染とは言え、朝っぱらから、感心しないぞ。それに一応、これでも後輩だしな。」
「何がだよ……。っていうか、そもそも、事情を聞く前に手を出すのは止めないか?」
右隣に座る、妹の春香の言葉を聞いて俺はひっそりと涙を流す。
先程のやり取りで、右頬に、美少女のビンタが飛んだのは、百歩譲って仕方ないとしても、その後、その姿を見た春香に問答無用で、左頬をビンタされたのは、納得が行かない。
「まぁまぁ、それはもう、ナニでしょ? ツバサちゃん。ね?」
ね? じゃないってば。
何が、どう、ナニなのよ? どういう風に解釈したらそうなるんだか……。
ナニって何? あれですかね? もしそうなら、朝からあっぴろげに、食卓で性の話を持ち出すのは止めて頂きたい。
「ま、まぁ、おばさま? 私もちょっとびっくりしただけですから。お兄さんもワザとじゃなかったですし。」
左に座る美少女……もとい、元凶がそう言う。
その距離が若干、いや、かなり離れているのは、先程の事件の影響だろうか?
ちなみに、殴った事に関しては、全く謝るそぶりも見せない。まぁ、見てしまったのは俺だし、その罰は甘んじて受けよう。
と言うか、それよりも、先程から、色々と疑問が浮かんでいるのだが、それを聞き出せずにいた。
それと言うのも、先程から当たり前の様に流れている、この平和な空気がそれを拒んでいるのだ。
この日常を壊してしまいたくないと思っている俺が、どこかにいる。
誰なんだ? この子?
その言葉が、どうしても言えないまま、俺は流される様に、食事を進めるのだった。
もくもくと食事を続けていると、テレビから今日のニュースが流れて来る。
時刻は、午前7時50分。気象情報です。ほにゃららさーんと、言うお決まりの台詞が流れていた。
いや、そんな事はどうでも良いんだ。なんか、お姉さんでは無く、おっさんが出て来たのも別に良い。
それより、俺は先程からこのテレビのある事が気になって仕方ないんだ。
「なぁ、春香。」
「なんだい、兄貴。」
「このテレビってさ、おかしくない?」
俺の問いに、春香は納豆を掻き込みながら、眉を顰める。
丁度、物を口に入れたばかりで、口が開けないので、肩を上げて、何の事だ? と言うように、伝えて来た。
「いや、あのさ……どう見ても、おかしいだろ。このご時世に。」
咀嚼し終わったのか、一気に、ご飯と納豆を飲み込むと、春香は「どこがだ?」と、本当に不思議そうに聞いてきた。
あるぇ? おかしいな。いや、おかしいだろ。
「いや、だってさ、このテレビ、ブラウン管だぞ?」
そう、ブラウン管である。今は、子供の中では、知らない子ですらいると言う、あの奥行きのでっかいブラウン管テレビだ。
熱い、厚い、重いと、三拍子そろったこのテレビ。今や過去の遺物のはずなのだが、普通に映っている。
アナログ放送は終了しただろ? んで、ブラウン管でデジタル放送を映すには、コンバーターが必要なんだぜ?
しかも、めっちゃ解像度落ちるから、見れたもんじゃないんだよな。
アナログからデジタル移行の黎明期、そんな体験をしたから良く覚えている。
もう、今となっては見るに堪えない画質なのだ。実際、それは俺の実感として、今、目の前にある。
しかし、俺の言葉が全く理解されていないように、春香は首を傾げる。
「兄貴、テレビがブラウン管なのは当たり前だろ? 他に何があるんだよ。」
「え? いや、液晶……とか?」
「兄貴こそ、何言ってるんだよ。あんな白黒の画面で、テレビが見れるわけないだろう?」
お前こそ、何を言っているんだ? と言う言葉を思わず吐きそうになり、俺は、春香の眉間にしわが寄っているのを確認して、その言葉を飲み込んだ。
これ以上、突っ込むと、問答無用で、何かが飛んでくる。
「そうか。そうだよな。ごめんな、変な事言って。」
俺は、春香に少し引きつった笑顔を見せつつ、食事に戻った。
「変な兄貴だな。」と、呟く春香の声を聞きつつ、俺は背中に汗をかく。
おかしい。何か、凄くおかしい。そう思いつつも、何がおかしいのか、未だ分からなかったのだった。
「じゃあ、兄貴、先に行ってるぞ。」
「あ、先輩、待って下さいよぉ!」
食事が終わると、春香はすぐに着替えて、そんな事を言ってきた。
ん? 美少女と同じ、セーラー服か。ふむ。学校にでも行くのかな? ……しかし、何でだろ?
「あれ? 春香。そんな恰好で、何処に行くんだ?」
俺の当然の問いに対し、春香は何故か憐れむような眼をして、こちらを見つめる。
「兄貴……大丈夫か? 日頃、ぼけっとしているが、今日は特に酷いぞ? この可憐な格好を見れば、わかるだろう? 学校だよ。学校。先に行ってるから、遅刻するなよ? クラスの奴らにからかわれるからな。」
そう、溜息を吐きつつも、答えて来たものの
「全く……同じ学校に、兄妹が揃うと碌な事にならん。」
そんな事をぶつくさ言いながら、春香はさっさと出て行った。
え? いや、待って。俺と春香は三歳差だよな?
あれ? それに、俺の行っていた学校って……。
なんだ? 何か凄く変だぞ? 何が変なんだ? 先程からずっとそうだ。何だ、これは?
「お兄さん!」
だが、俺が考え込んでいると、美少女が声をかけて来て、思考が中断される。
「あ、うん? 何かな?」
俺のそんな言葉に、美少女はにっこりと微笑むと、
「早く来てくださいね……待ってますから。」
そう言うと、「せんぱぁーい! 待って下さいよぉ! 置いていかないでぇー!!」と、叫びながら走って行った。
そんな彼女の後姿を見送りつつ、俺は釈然としない気持ちを持て余していたのだった。
部屋に戻ると、俺は時間割を確認し、教科書を鞄に突っ込む。
その作業すら、何か尊い物のように感じられ、またも涙が出そうになった。
なんだろうか? ただ、高校に行く。たった、それだけの事が、酷く嬉しく、懐かしい。
壁にかかっていた、詰襟の制服……俗に言う学ランに手を伸ばした。
真っ黒で、作りのしっかりとした物だ。首元には、フックのような形状の留め具があり、首元までキッチリと閉める事が可能になっている。だから、暑い日は地獄である。衣替えまで耐えしのぐ日々が続く。
故に、汗をかきまくり、手入れをしないと、あっという間に汗臭くなる。うん、そりゃ男子校ぐらいにしか使えないのはそういう理由もあるだろう。
逆に冬は凄く暖かいんだが……太ると、首回りが強制的に締まって、いい感じに窒息できる。カラーと呼ばれるプラスチック製のカバーがあり、それが頸動脈を的確に絞めて来る、実に恐ろしい制服なのである。
久々に袖を通す。
きつくも無く、緩くも無く、ぴったりと俺にフィットした。
俺は一般の人より、肩幅が少し広めなんだが、ちゃんとオーダーメイドで合わせてある。
ああ、贅沢だな、と思わず本音が漏れた。
教科書の入ったスクールバックを持ち上げ、片手で、肩越しに流す。
ああ、何か、凄く久々な感じがする。
そう。この手のバックを持つときは、普通は、長い肩掛けを使わない。
短い持ち手の部分を持ったまま、手の平を空へと向ける様に裏手に持ち、そのまま、肩に手ごと置くようにひっかける。
俺は左肩に鞄をひっかけて背負うタイプだった。何故か、これが普通だった。皆がやるようになって、自然と俺もそうなった。不思議なものだ。
きっと、これがカッコいいって、心のどこかで思っていたんだろう。
そう考えると恥ずかしい。恥ずかしいが、こんな持ち方で学校に通えるのは、高校の時だけだった。
ならば、今くらい、良いだろう。
俺は、二階にある自分の部屋から階段を降りると、リビングの両親に、声をかけた。
「んじゃ、行ってきます。」
「はい、ツバサちゃん、いってらっしゃい。」
「(ばさ)」
いや、親父。声出せよ。何で、新聞の音なんだよ。
そう思いつつも、やはり懐かしいと思う俺は、込み上げる笑みを殺すことなく、靴を履いて玄関を出たのだった。
JR 東戸塚駅
横須賀線のみが止まるこの駅は、首都圏や近隣へのアクセスが良い事から、急激に発展し始めている。
西口には、巨大なタワービルがそびえ立ち、何故か地元のラジオ局まで入っている。
2階にある首都圏屈指の大手書店は、そのフロアの面積の広さもあって、常に人が絶えず、俺も何度かお世話になっていた。
まぁ、主にライトノベルが中心だったが。
東口に目を向ければ、大手百貨店の巨大商業施設がある。
駅から直接歩いて渡る事が出来るが、最上段は天井が無いし、高い所と言う事もあって、悪天候の時に通ると、死の道と化す。
そんな時、地元民は、雨の日には静かに駅の階段を下って、一つ下の通路から、百貨店へと入るのが、普通だった。
そんな発展しているはずだった東戸塚と言う街だったのだが……。
「いやいやいや、何で無いかな。しかも、なにその広大な空き地。」
そう。どう考えても、プチ田舎の東戸塚には不釣り合いだった、高層タワーと、巨大商業施設……その全てが、無かった。
代わりに広がるフェンスと、丘。そして、工事予定用地の看板が、寒々しく、見えたのだった。
まどろみの中、俺は、たゆたう。
フワフワとしながら、ゆらりと流れ、浮き、回り、そして、止まる。
その感覚は、激しい物では無く、優しく俺を包んでいた。
ずっとこのままで居たくなるような、そんな心地良さを伴って、俺を揺らす。
ねぇ、……きてよ!
だが、それも、長くは続かない様だった。
遠くから、誰かの声が、聞こえて来る。
また、このパターンか。もう、なんだか、色々あって疲れたんだが。
おじさん、ここらで少し休んでも良いと思うんだよね。
ルナも消えちまったし、ツバサシステムなんて、大層な物が生まれたお蔭で、世界の呪縛も解けたし。
皆も、俺より強いんだから、大丈夫だろうよ。
ヒビキはああ見えて、一番思慮深く、行動力があるから、あっという間に動いたしな。
咲耶も霊装持っていたし、そう簡単には、やられんだろ。つか、我が子ながら倒せる気がしないわ。
リリーも、こちらを気にしていたようだったが、ちゃんと飛んでいったしな。
何か、最後、叫んでいたような、気が……なんだっけ?
ああ、そうそう、此花が、俺に突っ込んで来たんだっけ。
……それで、……それで、槍が……。此花の額に、目玉が……。
「こらー! いい加減、起きてよ! お兄さん!!」
「うお!?」「うきゃぅ!?」
大声が耳元で響き、俺は飛び起きた。
汗が噴き出る。何だ? 何か俺は、大事な事を思い出していたはずだったが、急速に思考が散り散りとなり、何を思い出していたかも分からなくなった。
朝か? 息を荒げながら、俺は、視線を巡らせる。
右手に窓。そこから、日の光が燦々と降り注いでいた。窓から見える青々とした新緑が、眩しく映る。
正面の壁には、アニメのポスターが、張られていた。俺が高校の頃好きだった、地味なレースの話である。ブーストって言う設定が、その当時、最高にかっこ良かった。そのキャラのポスターである。
その脇には、勉強机が鎮座しており、板面には書籍が散乱している。
勉強机と対になっている椅子には、青いナイロン製の学生鞄が乗っているようだ。
その不格好に膨れ上がった姿を見るに、あの中には、恐らく教科書がパンパンに詰まっているはずだと、直感的に理解した。
ああ、なんだ。俺の部屋じゃないか。ここ。
何故だが、凄く懐かしく感じる。気を抜けば、涙が出そうにすらなる。何だろうな? いつもの部屋のはずなのに。
そういえば、先程、何か、変な叫び声が聞こえたっけ?
そう思いだし、何かが転げ落ちたであろう方向に視線を寄越した。
「……しましま?」
色鮮やかな水色と白のストライプが、真っ先に飛び込んで来た。
その曲線は、何だろうか、凄くありがたい物の様に思える。とりあえず、心の中で拝んでおいた。
そんな俺の呟きが聞こえたのだろう。しましまが、一瞬にして隠されてしまった。むぅ、残念。
代わりに、視線に割り込んで来たのは、可愛いセーラー服を着た女の子の、睨むような視線だ。
その子は、茹で上がるんじゃないかと思うほど、真っ赤な顔をしているが、間違いなく美少女だ。十人中十人が、そう答えるだろう。
黒い髪をツインテールに結び、大きな目に涙を浮べて……いや、まて、その手は、ちょっと何で、そんなに振りかぶってるのかな?
「お兄さんの……えっち!!!」
そうして、素晴らしく景気の良い、乾いた音が、部屋に響き渡ったのだった。
「あらあら、ツバサちゃん。今日は、お猿さんの仮装?」
「母さん。頼むから、大の大人に『ちゃん』付けは止めてくれ。」
とりあえず、仮装の件は触れられたくも無いから、スルーして、呼び名だけを指摘しておく。
「あらあら……困ったわ。お父さん、息子が反抗期ですよ?」
「……(こくり)」。
いや、こくり……じゃねぇよ。頼むから、人間らしく、声帯を使って会話しようよ。
俺は新聞バリアーの後ろに隠れるそんな父親の仕草を見て、肩が下がるも、何故かそんな光景が凄く懐かしく、嬉しく感じていた。
何だろう? 日常の光景……のはず、なんだがな?
「兄貴。幾ら幼馴染とは言え、朝っぱらから、感心しないぞ。それに一応、これでも後輩だしな。」
「何がだよ……。っていうか、そもそも、事情を聞く前に手を出すのは止めないか?」
右隣に座る、妹の春香の言葉を聞いて俺はひっそりと涙を流す。
先程のやり取りで、右頬に、美少女のビンタが飛んだのは、百歩譲って仕方ないとしても、その後、その姿を見た春香に問答無用で、左頬をビンタされたのは、納得が行かない。
「まぁまぁ、それはもう、ナニでしょ? ツバサちゃん。ね?」
ね? じゃないってば。
何が、どう、ナニなのよ? どういう風に解釈したらそうなるんだか……。
ナニって何? あれですかね? もしそうなら、朝からあっぴろげに、食卓で性の話を持ち出すのは止めて頂きたい。
「ま、まぁ、おばさま? 私もちょっとびっくりしただけですから。お兄さんもワザとじゃなかったですし。」
左に座る美少女……もとい、元凶がそう言う。
その距離が若干、いや、かなり離れているのは、先程の事件の影響だろうか?
ちなみに、殴った事に関しては、全く謝るそぶりも見せない。まぁ、見てしまったのは俺だし、その罰は甘んじて受けよう。
と言うか、それよりも、先程から、色々と疑問が浮かんでいるのだが、それを聞き出せずにいた。
それと言うのも、先程から当たり前の様に流れている、この平和な空気がそれを拒んでいるのだ。
この日常を壊してしまいたくないと思っている俺が、どこかにいる。
誰なんだ? この子?
その言葉が、どうしても言えないまま、俺は流される様に、食事を進めるのだった。
もくもくと食事を続けていると、テレビから今日のニュースが流れて来る。
時刻は、午前7時50分。気象情報です。ほにゃららさーんと、言うお決まりの台詞が流れていた。
いや、そんな事はどうでも良いんだ。なんか、お姉さんでは無く、おっさんが出て来たのも別に良い。
それより、俺は先程からこのテレビのある事が気になって仕方ないんだ。
「なぁ、春香。」
「なんだい、兄貴。」
「このテレビってさ、おかしくない?」
俺の問いに、春香は納豆を掻き込みながら、眉を顰める。
丁度、物を口に入れたばかりで、口が開けないので、肩を上げて、何の事だ? と言うように、伝えて来た。
「いや、あのさ……どう見ても、おかしいだろ。このご時世に。」
咀嚼し終わったのか、一気に、ご飯と納豆を飲み込むと、春香は「どこがだ?」と、本当に不思議そうに聞いてきた。
あるぇ? おかしいな。いや、おかしいだろ。
「いや、だってさ、このテレビ、ブラウン管だぞ?」
そう、ブラウン管である。今は、子供の中では、知らない子ですらいると言う、あの奥行きのでっかいブラウン管テレビだ。
熱い、厚い、重いと、三拍子そろったこのテレビ。今や過去の遺物のはずなのだが、普通に映っている。
アナログ放送は終了しただろ? んで、ブラウン管でデジタル放送を映すには、コンバーターが必要なんだぜ?
しかも、めっちゃ解像度落ちるから、見れたもんじゃないんだよな。
アナログからデジタル移行の黎明期、そんな体験をしたから良く覚えている。
もう、今となっては見るに堪えない画質なのだ。実際、それは俺の実感として、今、目の前にある。
しかし、俺の言葉が全く理解されていないように、春香は首を傾げる。
「兄貴、テレビがブラウン管なのは当たり前だろ? 他に何があるんだよ。」
「え? いや、液晶……とか?」
「兄貴こそ、何言ってるんだよ。あんな白黒の画面で、テレビが見れるわけないだろう?」
お前こそ、何を言っているんだ? と言う言葉を思わず吐きそうになり、俺は、春香の眉間にしわが寄っているのを確認して、その言葉を飲み込んだ。
これ以上、突っ込むと、問答無用で、何かが飛んでくる。
「そうか。そうだよな。ごめんな、変な事言って。」
俺は、春香に少し引きつった笑顔を見せつつ、食事に戻った。
「変な兄貴だな。」と、呟く春香の声を聞きつつ、俺は背中に汗をかく。
おかしい。何か、凄くおかしい。そう思いつつも、何がおかしいのか、未だ分からなかったのだった。
「じゃあ、兄貴、先に行ってるぞ。」
「あ、先輩、待って下さいよぉ!」
食事が終わると、春香はすぐに着替えて、そんな事を言ってきた。
ん? 美少女と同じ、セーラー服か。ふむ。学校にでも行くのかな? ……しかし、何でだろ?
「あれ? 春香。そんな恰好で、何処に行くんだ?」
俺の当然の問いに対し、春香は何故か憐れむような眼をして、こちらを見つめる。
「兄貴……大丈夫か? 日頃、ぼけっとしているが、今日は特に酷いぞ? この可憐な格好を見れば、わかるだろう? 学校だよ。学校。先に行ってるから、遅刻するなよ? クラスの奴らにからかわれるからな。」
そう、溜息を吐きつつも、答えて来たものの
「全く……同じ学校に、兄妹が揃うと碌な事にならん。」
そんな事をぶつくさ言いながら、春香はさっさと出て行った。
え? いや、待って。俺と春香は三歳差だよな?
あれ? それに、俺の行っていた学校って……。
なんだ? 何か凄く変だぞ? 何が変なんだ? 先程からずっとそうだ。何だ、これは?
「お兄さん!」
だが、俺が考え込んでいると、美少女が声をかけて来て、思考が中断される。
「あ、うん? 何かな?」
俺のそんな言葉に、美少女はにっこりと微笑むと、
「早く来てくださいね……待ってますから。」
そう言うと、「せんぱぁーい! 待って下さいよぉ! 置いていかないでぇー!!」と、叫びながら走って行った。
そんな彼女の後姿を見送りつつ、俺は釈然としない気持ちを持て余していたのだった。
部屋に戻ると、俺は時間割を確認し、教科書を鞄に突っ込む。
その作業すら、何か尊い物のように感じられ、またも涙が出そうになった。
なんだろうか? ただ、高校に行く。たった、それだけの事が、酷く嬉しく、懐かしい。
壁にかかっていた、詰襟の制服……俗に言う学ランに手を伸ばした。
真っ黒で、作りのしっかりとした物だ。首元には、フックのような形状の留め具があり、首元までキッチリと閉める事が可能になっている。だから、暑い日は地獄である。衣替えまで耐えしのぐ日々が続く。
故に、汗をかきまくり、手入れをしないと、あっという間に汗臭くなる。うん、そりゃ男子校ぐらいにしか使えないのはそういう理由もあるだろう。
逆に冬は凄く暖かいんだが……太ると、首回りが強制的に締まって、いい感じに窒息できる。カラーと呼ばれるプラスチック製のカバーがあり、それが頸動脈を的確に絞めて来る、実に恐ろしい制服なのである。
久々に袖を通す。
きつくも無く、緩くも無く、ぴったりと俺にフィットした。
俺は一般の人より、肩幅が少し広めなんだが、ちゃんとオーダーメイドで合わせてある。
ああ、贅沢だな、と思わず本音が漏れた。
教科書の入ったスクールバックを持ち上げ、片手で、肩越しに流す。
ああ、何か、凄く久々な感じがする。
そう。この手のバックを持つときは、普通は、長い肩掛けを使わない。
短い持ち手の部分を持ったまま、手の平を空へと向ける様に裏手に持ち、そのまま、肩に手ごと置くようにひっかける。
俺は左肩に鞄をひっかけて背負うタイプだった。何故か、これが普通だった。皆がやるようになって、自然と俺もそうなった。不思議なものだ。
きっと、これがカッコいいって、心のどこかで思っていたんだろう。
そう考えると恥ずかしい。恥ずかしいが、こんな持ち方で学校に通えるのは、高校の時だけだった。
ならば、今くらい、良いだろう。
俺は、二階にある自分の部屋から階段を降りると、リビングの両親に、声をかけた。
「んじゃ、行ってきます。」
「はい、ツバサちゃん、いってらっしゃい。」
「(ばさ)」
いや、親父。声出せよ。何で、新聞の音なんだよ。
そう思いつつも、やはり懐かしいと思う俺は、込み上げる笑みを殺すことなく、靴を履いて玄関を出たのだった。
JR 東戸塚駅
横須賀線のみが止まるこの駅は、首都圏や近隣へのアクセスが良い事から、急激に発展し始めている。
西口には、巨大なタワービルがそびえ立ち、何故か地元のラジオ局まで入っている。
2階にある首都圏屈指の大手書店は、そのフロアの面積の広さもあって、常に人が絶えず、俺も何度かお世話になっていた。
まぁ、主にライトノベルが中心だったが。
東口に目を向ければ、大手百貨店の巨大商業施設がある。
駅から直接歩いて渡る事が出来るが、最上段は天井が無いし、高い所と言う事もあって、悪天候の時に通ると、死の道と化す。
そんな時、地元民は、雨の日には静かに駅の階段を下って、一つ下の通路から、百貨店へと入るのが、普通だった。
そんな発展しているはずだった東戸塚と言う街だったのだが……。
「いやいやいや、何で無いかな。しかも、なにその広大な空き地。」
そう。どう考えても、プチ田舎の東戸塚には不釣り合いだった、高層タワーと、巨大商業施設……その全てが、無かった。
代わりに広がるフェンスと、丘。そして、工事予定用地の看板が、寒々しく、見えたのだった。
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