僕と狼姉様の十五夜幻想物語 ー温泉旅館から始まる少し破廉恥な非日常ー

稲荷一等兵

第7節—幻想の朝、伊代と言う姉の日常—

「う、ううん……」

 カーテンの隙間から漏れてくる朝日となんだか全方位から圧迫されるような寝苦しさに、僕は身じろぎしつつ目を覚まして。
 現状を確認できるほど覚醒していない頭と景色がぼやけて見えるまなこに逆らうことなくしばらく生暖かいお布団の中でぼんやり過ごしてた。

 ら、あれ、これおっぱいじゃないの。目に飛び込んでくる肌色と柔らかそうな丸み。
 何か苦しいと思ったら首に何か回されて……腕だ。腕が回されてる。
 少し目線を上げるとすやすやと静かな寝息を立てている銀髪お姉さんの寝顔。

 さっきから感じる暖かさと指が沈み込むこの柔らかさってまさか……。

「ほわああっ、なんで裸で寝てるのさ銀露っ」
「……くぁ……、やかましいのう。耳元で騒ぐでないわ馬鹿者……」

 驚きはしたけど、朝から大きな声を出すわけにもいかないので抑えめに声を出したんだけど、それでもさすがに耳元で言えばうるさいらしく、起こしてしまったかな。
 起きた銀露は僕の首に回していた腕を解いて大きな欠伸あくびを一つ。
 あくびに連動して、寝かされていた頭の獣耳がピンと立って、ピクピクと揺れ、布団の中の尻尾が衣擦れの音を立てて気だるげに振られてる。

「やはり衣は邪魔での……ふああ。……、脱いでしもうた」
「脱いでしもうたって……」
「せっかく体毛がないのじゃ、ぬしの体温が直に感じられる裸体の方が儂はよい……」

 そう言いつつ僕を抱きしめてご満悦の銀露に対し、抱きしめられてる僕は顔が銀露の胸に埋まって、甘い匂いで柔らかくてもうどうすればいいのかわからないような。
 頭なんてとっくに覚醒してるし視界もはっきりしてる。眠気なんてありゃしないよ。

「それに、儂を褥に誘ったのはぬしじゃぞ?」
「そ、それは確かにそうだよね……ぼんやりとだけど覚えてるもの」

 なんだか、あそこで引き止めておかないと僕が銀露を拒否してるんじゃないかって思われそうで怖かったから。
 でも銀露が布団に入ってきたのかそうでなかったのかまでは覚えてないんだよなぁ。僕すぐに寝ちゃったからさ。

「ええと、んと、僕喉乾いたからちょっと何か飲んでくるよ。銀露はどう?」
「儂はもう少し寝ておる……。よい寝床じゃ、気に入っての……」
「うん、わかった」

 銀露は僕を離してくれて、僕が布団から出てベッドから降りると掛け布団を抱き込んで再び寝息を立ててしまってた。
 銀露が今まで寝ていたところってどんなのなんだろうか。
 少なくとも、ここより寝心地は良くなかったような言動だけど。

 ようやく緊張と、興奮の嵐から解放された。銀露が寝ているということで気を遣い、カーテンの隙間から差す朝日を遮るため、閉め直してから部屋を出た。
 と、伊代姉が学校の制服を着て、部活用の紺色の大きなバッグを持ち部屋から出てきたところと鉢合ってしまった。

「うん、いいわね」
「なにがぁ……?」

 寝起きは寝起きだから、僕はまだぼやぼやしている目をこすりこすり。なんだか機嫌良さそうな伊代姉に言葉を返す。

「朝、ちゃんとあんたの元気な顔を見れるのって」
「僕が帰ってきて初めての朝だもんね。いってらしゃい伊代姉、朝練頑張ってね」
「あは、意外と私って結構単純なのね」

 伊代姉は僕の頭をポンと軽く叩きながら、すぐ隣を通り過ぎて行って……。

「こんななんでもないことで、今朝はすごい調子がいいわ。行ってきます、頑張ってくるわね。帰りに甘ぁいお菓子でも買ってきてあげる」

 右手をひらひらと僕に振り、伊代姉は忙しなく階段を降りて行った。多分時間ぎりぎりなんだろうな。朝起きるの苦手だからいっつも遅刻寸前なんだよ。

「おっ水おっ水〜」

 伊代姉のあの嬉しそうな顔を思い返す。僕も、朝こうして伊代姉とあたりまえに挨拶できる幸福を覚えながら、乾く喉を潤すために台所へ。

 冷たい水道水で喉を潤す。息をつき、静かなリビングを眺めていると、なんだかとても居心地のいい場所だなと再確認してしまう。
 朝になって落ち着いて見てみると、改めてそう思ってしまうんだろうな。

 さて、今日はまだお休み。もうひと眠りしようかなと部屋に戻って銀露が寝ているベッドへ。着物が床へ放り出されているのを放っておけず、拾い上げ……うわ、すごくいい匂いがするこの着物。ずっしりとしたその着物をハンガーにかけて適当なところに吊り下げておいて、銀露の隣にまた収まって横になった。

 いくら銀露がその豊かな肢体をさらけ出していると言っても、こうして布団をかぶったり抱き込んだりしていると見えないから緊張することもなく……。

「ううん……」
「あああ、銀露、見えちゃう見えちゃう、あ」

 寝相が悪い銀露は、しょっちゅう寝返りをうつからそんなことなかったよ!
 顔が熱い……多分僕顔真っ赤。真っ赤にしてプルプルしながら布団をかけ直してあげてようやく僕は二度目の眠りにつくことができたのだった。

……。

「はぁ、まだ肌寒いわね」

 日が昇り始めてまだ時間が経ってないせいか、肌にまとわりつく湿気と低い気温にさらされて、本格的に目が覚めてきた。
 私は、電線に止まる鳥のさえずりを聞き、眩しい朝日に目を細めながら、足早に学校へ向かってた。

 自分でも驚いてしまうほど、今日は随分と浮かれてしまっている。朝、あの子の笑顔を見れて、行ってらっしゃいと言われた。そして、頑張ってと応援されたのがそんなに嬉しかったのか。
 恋人でもなんでもない、家族である弟に言われた言葉がそんなに自分の心を動かしているのか。

「ああ、千草ったら可愛いんだから」

 随分と長い間異性に対して心動かされた覚えがない私だ。弟といえど男の子にここまで浮かれた気分にさせられるのは悪くない。
 中学からきて現在、私は異性に随分、女として過剰に意識されるような容姿になったみたい。はっきり言って、その気になれば色恋の類には不自由しない。
 でも、その気になればの話。
 今は自分の内面を磨くために弓道に真剣に取り組んでいきたいし、そういった浮かれたことに興味は……ない、と言っていいのかしら。
 千草が帰ってきたことで、お花畑な私の頭が認識した通学時間はとても短いらしいわ。気付けば、もう学校。
 この春から、千草も通うことになる水無月高等学校。私はその弓道部に所属している。毎朝一番早くここの弓道場に来ているから、もちろんのことながら誰もいない。比較的新しい部活棟。その弓道部の部室ロッカーに、カバンを放り込む。弓道衣……ま、伝統の紺色袴に白筒袖ね、それと足袋と革製の胸当てを着込んで弓懸ゆがけを手に、弓道場へ。

 いつもは私以外に十数人、ここで共に弓を引いている。その時は少し窮屈に感じるここも、一人ではとても広いわね……。まだ朝日を浴びる的に向かって立って、艶のある厳かな木張り射場の真ん中で正座する。
 軽く目を閉じて精神を落ち着かせ、神経を研ぎ澄ませていく。

 私はなぜ、ここまで本気で弓道をしようという気になったんだろう。
 小学校、中学校と私は陸上競技をしてきたのに、なぜだかここに来てこれ。
 千草が東京に行くことになった。そして、それを決めたお父さんを思いっきり嫌ったことがある。私は、あの子が可愛くて仕方ないのよ。

 いつだって、そばに置いておきたかった。そばにいてあげたかったし、いつか拒絶される日が来るかもしれないなんてことだって思いはしたけれど。あの子は、ずっと私に懐いてくれてたし、甘えてくれてた。
 私はそれが心地よかったわ。とても。中学校でも、あの子と一緒に通えるものだと勝手に思ってた。

【千草を東京のおじいちゃん、おばあちゃんのところへ預けることになったんだ】

 その言葉を聞いた時、目の前が真っ暗になったのを覚えてる。

 で、千草がいなくなった後の私はとんでもなく荒れたような……気がするわ。
 悪い友達もいっぱいできたし、まぁ、今まだ友達として付き合ってるそういう友達はごく一部なんだけれど。

 私はこんな容姿だし、妬まれたり、羨ましがられたり。それに、意味のわからない拒絶意識さえ持たれなければ、大抵の人間とは仲良くできた。
 でも随分ささくれ立った私の心はどうも、そういった逃げ場は求めていなかったみたいで……行き着いたのがこれ。

 心の余分なものをそぎ落として的に向かう。その時の自分を、常に意識内に置くことで、私は一点の曇りもない人間になれているような錯覚を覚える。
 お父さんが亡くなる間際、“言われた言葉”。お父さんにとってみればそれは、そこそこもののわかる年齢になった娘に言ったことだったんだろうけれど。

 その“言葉”は私にとっての禁忌を表層化させて、ズタズタに引き裂くには十分すぎる言葉だったの。

「……神谷かみや先輩、来てたんですか」
「ああごめん! 邪魔しちゃ悪いと思って黙ってたんだ。おはよう柊、今日も早いな!」

 精神統一を終えて目を開け、すっくと立つと、入り口あたりに同じ弓道衣を着た、一年上の先輩がこっちを見ていた。
 少し驚いたけど、まぁいつものこと。中性的な顔立ちに短髪、爽やかな好青年といった風なのかしら。

 部内の女の子たちからも人気のある、これからのここの主将。
 本人は気付かれないようにしているみたいだけど、随分と私にご執心らしい。

「なんか機嫌良さそうだなっ。何かいいことでもあった?」
「そんなに顔に出てますか、私……」
「いや、まあ俺なんかにでもわかる程度には」

 精神統一で己の無駄な部分を削ぎにかかった意味はあったのかしら……。

「弟が帰ってきたんです。それで気分が高揚しているみたいで」
「へぇ、弟さんが! 東京に行ってたっていう?」
「ええ、行かされていたんですけどね」
 ああしまった、少し言葉に棘が入ってしまったかも……。今でも、自分の中で千草が東京に行ったことが納得いっていないのか、そういったことには過敏に反応しちゃうのよね。

「そっか、ええと、今年から弟さんは高校生だよね? もしかしてここに?」
「はい、今年から一緒に通います。それも楽しみで仕方なくて」
「へえ、君の弟か。お姉さんに似て美男子なんだろうな」

 あっけらかんとこういうことを言ってしまうところが、この人の嫌いなところね。遠回しに私のことを美人だなんて言って、機嫌をとろうっていう下心見え見えな発言。
 私の思い過ごしかもしれないけれど、私の容姿を褒めたいなら直接褒めなさいよ。

「いえ、私は……でも弟は私に似てませんよ」
「ええ? そうなのかい?」
「はい……そろそろ的に向かいます。先輩も始められたらどうです?」
「ん、ああ。邪魔してごめんね、そろそろ引こうかな」

 かなりぶつ切りにした感じだけど、こうでもしないと延々続きそうだったし。弓懸ゆがけをしっかり右手につけて、ここに置いてある自前の和弓と矢をとって、的に向かう。
 若干檜ひのきの香りがする、この空間の空気を肺に溜め込む。しばらく息を止めた後、細く長く吐き出し、射法八節をしっかりと意識する。

 射法八節っていうのはいわば、弓道の基本、基礎でありすべてであるもの。
 的に向かって、足を踏み開く動作を指す足踏み。それを基礎として、上半身を据わらせる胴造り。そして矢をつがえて弓を弾く前の準備動作、弓構え。
 弓矢を持った手を、的に向かわせるために、上に持ち上げる打起こし。
 そこから引分け、会と続いて矢を放つ離れ。

 ここで手の内をしっかり意識しないと、胸の発育が著しい私は、胸を払ってしまうのよね。
 胸が大きいと、矢を離したときに戻ってくる弦が当たる時があるのだけど、あれは相当痛いわ。
 引き始めの時にはよくやらかしてたから、胸に痣ができるなんてしょっちゅうだったわね。
 今でも胸当てにはその時の傷がいくらか残ってるわ。
 弓に力がかかってしなる音、離して弦が風を切る音、矢が的にストンと落ちる音。
 そしてその名残を頭の中で反芻しながら、太い糸がどんどん細く、やがて消えていくようなイメージを持った、残心を最後に射は終わる。

「ど真ん中……一射目でこれとは、流石だね」
「そういう先輩も、中央を射てるじゃないですか」
「そりゃあ主将だもの。後輩に負けてはいられないさ」
「……それもそうですね」

 冷静だなあ、なんて彼は呟きながら彼は矢を番える。こういった練習の時、私はそんなに弓を引くことはない。
 こういう競技に限らないことだけど、私は練習量より、練習の質を求めるから。
 一射一射、時間をかけて確実に、悪いところをイメージしながら。だから、何十回も弓を引くことはない。


 しばらくすると、他の部員たちも次々に弓道場に入ってきた。これで、次期主将との時間も終わる。九時を回ると、そこら中で弓を引く音が聞こえてきたり、指導の声が聞こえてきたり。
 そんな中、私は一旦休憩を取ることにしたのだけど。

「やはー、伊代にゃん! なんだか今日は調子がいいみたいでー!」
「美哉、五月蝿い五月蝿い。朝から元気一杯ね」

 同じ弓道部員、同じ学年の三弦さんげん美哉みや。くるくる、ぴんぴんと跳ねた癖っ毛が特徴の、猫目長身女。
 随分と愛嬌があって、お調子者ながら憎めない性格だから、部内でも随一のムードメーカー兼、トラブルメーカー。
 語尾に平気でにゃんとか付けちゃう変なやつだけど、ここに入学した当初から仲のいい子。

「逆にあんたの調子が悪いみたいじゃない。見てたわよ」
「ううう、昨日寝てなくて目がしっぱしぱするっにゃん。仕方ねーにゃん」
「何してたのよまた……」

 抱きついてこようとする猫娘を両手で押し返しながら、目を赤くした美哉の寝不足具合に辟易する。
 この子もしっかりしていればまともに弓を引けるのだけど、今日はそうはいかないわね……。

「伊代ー、ちょっと構え見てくれない?」

 もうそろそろ休憩も終わりにしようとしていたところに、同学年の部員からそんな声をかけられてしまったけれど……。私もまだまだ未熟で、人に教えられたものじゃないのだけどね。
 いつもこんな風に指導を頼まれてしまうのよ。

「いいわよ。今そっちに行くわ」

 快く引き受けてしまう私も私だけど。困ってる人を見るとどうも世話を焼きたくなっちゃうのよね……。こういう性分もほどほどにしないと鬱陶しがられたりするものだし、考えものだけど。

「いてらー、みぃはもうちょっと休憩休憩〜」
「もうちょっと気合い入れなさいよあんた……先輩方に睨まれるわよ」

 自由奔放と言うかなんというか……、どうも怖いもの知らずなところがあって危なっかしいのよねこの子。
 さて、ここからお昼まではぶっ通しで励むとしましょうか。

……。

「うおー、結構おっきい学校なんだなあ。やっぱり高校は違うや」

 中学校の校舎とは違う、圧倒されそうなほど大きな校舎を遠くに見る僕はお弁当箱が入った手提げカバン一つ持って水無月高等学校の正面道路を進んでいた。
 まだ通ってもいない学校になんで足を運んだのかというと、伊代姉がお弁当を家に忘れていったから。
 母さんは仕事だし、必然的に僕が持っていくことになってしまったんだ。
 地図もちゃんと持たされたし、道に迷わずここまで来れたのはいいんだけど……入校許可証を首から下げて校門をくぐり、くりくりと辺りを見回してみて思った。

「あれ、弓道場ってどこ?」

 校舎の向こうなのかなんなのか、弓道場らしきものは見当たらないし……。仕方ないから職員室にでも行って聞いてみるかな。春休み中だけど誰かしらいるだろう。

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